メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
コリント第ニ4:17 (永遠の命は、今現在から始まる)
投稿者
tbic
投稿日
2021-10-17 22:12
閲覧数
714
コリント第ニ4:17、「今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」
今日の本文のようなみことばを読むとき、私たちはいつも「遠い未来の天国」を考えこみます。しかし、「永遠の命」は今現在から始まります。だから、「測り知れない、重い永遠の栄光」も、今現在から私たちに成し遂げられることです。
愛する皆さん、現在は永遠の命の延長線上にあることを、ちゃんと覚えてください。イエス様のすべての教えも、いつも「永遠の命」に関するものでした。それは現在から始まることで、死んだ後、始まることではありません。
今現在の人生が永遠の命の始まりであり、今日が永遠の命につながっています。つまり、今現在から天国を味わいながら生きる存在が、私たちクリスチャンの人生だということです。それは貧しくても体験できるものだし、金持ちでも体験できるものです。
皆さん、永遠の命はイエスの中にある神の国の中で生きることです。私たちが家庭生活をしても、職場で働いても、学校で勉強をしても、クリスチャンは永遠の命を生きるわけです。弟子たちが、イエス様から教わったことが、まさに、それでした。だから、3年間のdiscipleship(弟子道)、弟子訓練が必要だったのです。
罪が赦され、死んだ後、天国に行くことが、すべてであれば、3年間の弟子道は要らなかったと思います。ただ、最後の一週間、イエス様が十字架だけ負えば良かったのに、イエス様は3年間の弟子道を教えられました。その意味は何ですか?真の天国、現在の日常生活の中で、永遠の命を生きる方法を教えてくださったということです。だから、私たちが真のクリスチャンであれば、どこで何をしても、私たちはいつも神の国の中で生きなければなりません。
そうしたら、それは具体的に何を意味するのか、皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
1. 今現在、永遠の命を生きるとは、今現在、神を知ることです。
それをイエス様が直接おっしゃったのが、ヨハネ17:3に、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」つまり、永遠の命は神様とイエス様を知ることです。
ここで「知ること」は単なる知識ではありません。それはお互いに親密な関係を通して、「知ること」を意味します。つまり、乙女マリヤが御使いから受胎告知を聞いた時、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えました。その時の「知る」という意味は、男女の夫婦関係、セックスのような親密な関係として知るという意味です。神が私たちを知るときも、このように、個人的に人格的に、ご存知です。神は私たちの髪の毛一本一本を数えるほど、私たちに詳しいのです。詩篇139:2に、「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」詩篇139:16に、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」
神は私の心配、苦しみ、悲しみを全部ご存知で、もちろん、喜びもご存知です。だから、私たちは主を愛し、従順に従って親密な交わりができるわけです。これが主を「知ること」です。
こういう風に、神をちゃんと知るとき、私たちは真の永遠の命を生きるわけです。それは自分の力と努力、頑張ることによって、生きるのではなく、神から注がれる永遠の命によって、生きることです。その中には真の平安、喜び、満足、幸せ、試みに打ち勝つ力などがあります。
その永遠の命は、もちろん、天国で永遠に広がるものですが、その広がりは、既に、この地上でも始まっています。神との親密な関係から、永遠の命はもっと深くなり、もっと豊かになります。それを皆さん、是非、体験して見てください。人生、変わります。
2. 永遠の命は無条件に長生きするのではなく、支配しながら生きることです。
ローマ書5:17に、クリスチャンが、「イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」と言われます。
皆さん、もし動物と植物が天国で永遠に生きるのであれば、それも永遠の命でしょうか?いいえ、違います。もちろん、天国には動物も植物もあります。いのちの川が流れて、魚もいっぱいいるはずです。それらがみんな死なずに、永遠に生きるのであれば、それらも永遠の命でしょうか?いいえ、それは聖書が語る永遠の命の意味ではありません。彼らは霊もなく、支配することもできないからです。
聖書が語る永遠の命は、その中に内容があります。つまり、神の形と神の霊を持った人間だけが、神との交わりの中で、愛によって支配し仕えながら、永遠に生きることができます。それを、永遠の命だと言います。
人間は地獄でも、永遠に生きます。それを永遠の命だとは言いません。その理由は神との交わりが、神との関係が切られているからです。だから、今イエス様と関係がない人は、肉体は生きていても、それは永遠の命ではありません。そういう人を聖書は、エペソ2:5で、「罪過の中に死んだ」と言っています。過去には私たちみんなが「罪過の中に死んだ者」でした。そこから出る結果は、憎しみ、怒り、不平不満、暴力、敵対心などです。一言でいうと「永遠の命がなかった」ということです。
愛する皆さん、どんな言葉どんな行動でも、支配すること、縛られて奴隷生活をするのではなく、仕えながら治めることが、永遠の命を生きることです。コロサイ3:17に、「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」永遠の命は無条件に長く生きることではありません。もちろん、永遠に生きることですが、それは神の形をもって、神様のように自由に治めながら生きることです。
ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの御名によって、神様の代理者として治め、愛によって仕えながら生きること、それが永遠の命を生きることです。一言でいうと、永遠の命は量ではなく、質的なものです。だから、イエス様を知らない人々、イエス様と関係のない人々は、今現在、永遠の命を生きることができません。
3. 永遠の命は、「弟子道discipleshipイエス様の弟子」として生きることです。
今日、教会に通っている人々を区分すれば、弟子と、単なる信者、この二つに分けることができます。今まで、永遠の命を生きることが、どういうことなのか、説明したのですが、結局、これを説明するためでした。
弟子として主と共に親密な交わりの中で生きるのではなく、単なる信者として、ただ、教会に通っているだけの人生であれば、その人に永遠の命があるとは言えません。
ある人はキリスト教の教理とか、ある聖書個所について、「知的同意」をしたから、自分は永遠の命を持っていると考えるのですが、しかし永遠の命は、そういうものではありません。
皆さん、普段の自分の生き方を冷静に考えてみて下さい。「私は今永遠の命を生きているのか?」それは神様との関係の中で、万物を治めること、つまり、愛で仕えながら生きることです。その中から愛、喜び、平安、寛容、親切、善意などが湧いてくるわけです。
ただ、聖書個所に自分が知的同意をしたからといて、永遠の命を得ることじゃないんだということです。永遠の命を持っている人は、必ず、「イエス様の弟子の人生」を生きるはずです。そういう人は真の「福音の道」を、自分の人生の中で追求し、それを実践しながら生きるわけです。
今日、多くのクリスチャンと教会が勘違いをしています。全然弟子の人生を生きられないのに、ただ自分の欲を満たす人生を生きながら教会に通い、聖書個所いくつかを覚えながら(特に永遠の命を与えるという聖書個所をいくつか覚えながら)、永遠の命を得たかのように、考え込みます。
しかし、永遠の命はそんな知的同意とか、自分の信念という仕組みで得られるものではなく、もちろん、死んだ後、未来に天国に行って得られるものでもなく、永遠の命は今現在から生きているイエス様の弟子たちに、既に始まっています。
それは、無条件死なずに天国の動物、植物のように、長く生き続けることではなく、神様との親密な交わりの中で、この世と万物を治めながら、もちろん、その内容の質は愛でなければなりません。その支配(その統治)の生き方が永遠に生きることですが、それは今現在から、既に始まったということです。これを言い換えれば「弟子の人生(生き方)」、あるいは「復活の人生(生き方)」と言います。
この生き方は、私たちがイエス様を信じて、神の御国に入ることによって始まります。私たちの新しい命(復活の命)が、神の国の中で新しく誕生することによって始まります。この新しい命(復活の命)を得た人は、必ずイエス様の「弟子の人生」を追求しながら、生きるはずです。
4. 結論。
愛する皆さん、私たちの「救い」と「永遠の命」は知識とか、勉強で得られるものではありません。クリスチャンの信仰は、「関係」の面で、アプローチしなければなりません。つまり、以前は神様との関係がまったくなかった人が、イエス様によって新しい命を得、新しい関係の中に入ったのが「救い」、つまり「永遠の命」なのです。
その関係の中に、本当に入った人は、その関係が簡単に中断することはありません。そして、その証拠として、彼らは必ず、「弟子の人生」を生きるようになります。
だから、今日弟子の人生を生きるのではなく、ただ教会に行ったり来たりするクリスチャンは、自分の「永遠の命」の問題を深刻に考えなければなりません。永遠の命は頭で得るものではないからです。
だからこそ、永遠の命は、今の自分を見たら、すぐ分かります。本当に、私たちは、将来天国に行けるのでしょうか?今現在、私たちがイエス様の弟子として、天国を生きるのであれば、将来死んだ後も、必ず天国に行き、その反対も同じです。今現在、天国を生きられないのであれば、将来死んだ後も天国に行けません。
残念ながら今日、多くのクリスチャンが、今現在、天国と永遠の命を、生きられないかも知れません。この世に対する欲と、お金に対する欲、暮らし向きの自慢などに、目がくらんで、今現在、天国を知らずに生きながら、自分は死んだ後、必ず天国に行けると、錯覚しています。ただ、イエス様を口先だけで、受け入れたということです。
しかし、永遠の命はそういうものではありません。今現在、自分の弟子としての生き方、それを見れば、将来天国での自分の姿も見ることができます。
皆さん、皆さんは、今現在(今日)永遠の命(天国)を生きていますか?そうじゃなければ、地獄のような日々を、過ごしていますか?
今、私たちは自分の信仰を、冷たい頭から熱いイエス様との関係へと立ち返り、永遠の命を、遠い未来から、今の現在に移さなければなりません。
今日の本文のようなみことばを読むとき、私たちはいつも「遠い未来の天国」を考えこみます。しかし、「永遠の命」は今現在から始まります。だから、「測り知れない、重い永遠の栄光」も、今現在から私たちに成し遂げられることです。
愛する皆さん、現在は永遠の命の延長線上にあることを、ちゃんと覚えてください。イエス様のすべての教えも、いつも「永遠の命」に関するものでした。それは現在から始まることで、死んだ後、始まることではありません。
今現在の人生が永遠の命の始まりであり、今日が永遠の命につながっています。つまり、今現在から天国を味わいながら生きる存在が、私たちクリスチャンの人生だということです。それは貧しくても体験できるものだし、金持ちでも体験できるものです。
皆さん、永遠の命はイエスの中にある神の国の中で生きることです。私たちが家庭生活をしても、職場で働いても、学校で勉強をしても、クリスチャンは永遠の命を生きるわけです。弟子たちが、イエス様から教わったことが、まさに、それでした。だから、3年間のdiscipleship(弟子道)、弟子訓練が必要だったのです。
罪が赦され、死んだ後、天国に行くことが、すべてであれば、3年間の弟子道は要らなかったと思います。ただ、最後の一週間、イエス様が十字架だけ負えば良かったのに、イエス様は3年間の弟子道を教えられました。その意味は何ですか?真の天国、現在の日常生活の中で、永遠の命を生きる方法を教えてくださったということです。だから、私たちが真のクリスチャンであれば、どこで何をしても、私たちはいつも神の国の中で生きなければなりません。
そうしたら、それは具体的に何を意味するのか、皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
1. 今現在、永遠の命を生きるとは、今現在、神を知ることです。
それをイエス様が直接おっしゃったのが、ヨハネ17:3に、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」つまり、永遠の命は神様とイエス様を知ることです。
ここで「知ること」は単なる知識ではありません。それはお互いに親密な関係を通して、「知ること」を意味します。つまり、乙女マリヤが御使いから受胎告知を聞いた時、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えました。その時の「知る」という意味は、男女の夫婦関係、セックスのような親密な関係として知るという意味です。神が私たちを知るときも、このように、個人的に人格的に、ご存知です。神は私たちの髪の毛一本一本を数えるほど、私たちに詳しいのです。詩篇139:2に、「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」詩篇139:16に、「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」
神は私の心配、苦しみ、悲しみを全部ご存知で、もちろん、喜びもご存知です。だから、私たちは主を愛し、従順に従って親密な交わりができるわけです。これが主を「知ること」です。
こういう風に、神をちゃんと知るとき、私たちは真の永遠の命を生きるわけです。それは自分の力と努力、頑張ることによって、生きるのではなく、神から注がれる永遠の命によって、生きることです。その中には真の平安、喜び、満足、幸せ、試みに打ち勝つ力などがあります。
その永遠の命は、もちろん、天国で永遠に広がるものですが、その広がりは、既に、この地上でも始まっています。神との親密な関係から、永遠の命はもっと深くなり、もっと豊かになります。それを皆さん、是非、体験して見てください。人生、変わります。
2. 永遠の命は無条件に長生きするのではなく、支配しながら生きることです。
ローマ書5:17に、クリスチャンが、「イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」と言われます。
皆さん、もし動物と植物が天国で永遠に生きるのであれば、それも永遠の命でしょうか?いいえ、違います。もちろん、天国には動物も植物もあります。いのちの川が流れて、魚もいっぱいいるはずです。それらがみんな死なずに、永遠に生きるのであれば、それらも永遠の命でしょうか?いいえ、それは聖書が語る永遠の命の意味ではありません。彼らは霊もなく、支配することもできないからです。
聖書が語る永遠の命は、その中に内容があります。つまり、神の形と神の霊を持った人間だけが、神との交わりの中で、愛によって支配し仕えながら、永遠に生きることができます。それを、永遠の命だと言います。
人間は地獄でも、永遠に生きます。それを永遠の命だとは言いません。その理由は神との交わりが、神との関係が切られているからです。だから、今イエス様と関係がない人は、肉体は生きていても、それは永遠の命ではありません。そういう人を聖書は、エペソ2:5で、「罪過の中に死んだ」と言っています。過去には私たちみんなが「罪過の中に死んだ者」でした。そこから出る結果は、憎しみ、怒り、不平不満、暴力、敵対心などです。一言でいうと「永遠の命がなかった」ということです。
愛する皆さん、どんな言葉どんな行動でも、支配すること、縛られて奴隷生活をするのではなく、仕えながら治めることが、永遠の命を生きることです。コロサイ3:17に、「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」永遠の命は無条件に長く生きることではありません。もちろん、永遠に生きることですが、それは神の形をもって、神様のように自由に治めながら生きることです。
ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの御名によって、神様の代理者として治め、愛によって仕えながら生きること、それが永遠の命を生きることです。一言でいうと、永遠の命は量ではなく、質的なものです。だから、イエス様を知らない人々、イエス様と関係のない人々は、今現在、永遠の命を生きることができません。
3. 永遠の命は、「弟子道discipleshipイエス様の弟子」として生きることです。
今日、教会に通っている人々を区分すれば、弟子と、単なる信者、この二つに分けることができます。今まで、永遠の命を生きることが、どういうことなのか、説明したのですが、結局、これを説明するためでした。
弟子として主と共に親密な交わりの中で生きるのではなく、単なる信者として、ただ、教会に通っているだけの人生であれば、その人に永遠の命があるとは言えません。
ある人はキリスト教の教理とか、ある聖書個所について、「知的同意」をしたから、自分は永遠の命を持っていると考えるのですが、しかし永遠の命は、そういうものではありません。
皆さん、普段の自分の生き方を冷静に考えてみて下さい。「私は今永遠の命を生きているのか?」それは神様との関係の中で、万物を治めること、つまり、愛で仕えながら生きることです。その中から愛、喜び、平安、寛容、親切、善意などが湧いてくるわけです。
ただ、聖書個所に自分が知的同意をしたからといて、永遠の命を得ることじゃないんだということです。永遠の命を持っている人は、必ず、「イエス様の弟子の人生」を生きるはずです。そういう人は真の「福音の道」を、自分の人生の中で追求し、それを実践しながら生きるわけです。
今日、多くのクリスチャンと教会が勘違いをしています。全然弟子の人生を生きられないのに、ただ自分の欲を満たす人生を生きながら教会に通い、聖書個所いくつかを覚えながら(特に永遠の命を与えるという聖書個所をいくつか覚えながら)、永遠の命を得たかのように、考え込みます。
しかし、永遠の命はそんな知的同意とか、自分の信念という仕組みで得られるものではなく、もちろん、死んだ後、未来に天国に行って得られるものでもなく、永遠の命は今現在から生きているイエス様の弟子たちに、既に始まっています。
それは、無条件死なずに天国の動物、植物のように、長く生き続けることではなく、神様との親密な交わりの中で、この世と万物を治めながら、もちろん、その内容の質は愛でなければなりません。その支配(その統治)の生き方が永遠に生きることですが、それは今現在から、既に始まったということです。これを言い換えれば「弟子の人生(生き方)」、あるいは「復活の人生(生き方)」と言います。
この生き方は、私たちがイエス様を信じて、神の御国に入ることによって始まります。私たちの新しい命(復活の命)が、神の国の中で新しく誕生することによって始まります。この新しい命(復活の命)を得た人は、必ずイエス様の「弟子の人生」を追求しながら、生きるはずです。
4. 結論。
愛する皆さん、私たちの「救い」と「永遠の命」は知識とか、勉強で得られるものではありません。クリスチャンの信仰は、「関係」の面で、アプローチしなければなりません。つまり、以前は神様との関係がまったくなかった人が、イエス様によって新しい命を得、新しい関係の中に入ったのが「救い」、つまり「永遠の命」なのです。
その関係の中に、本当に入った人は、その関係が簡単に中断することはありません。そして、その証拠として、彼らは必ず、「弟子の人生」を生きるようになります。
だから、今日弟子の人生を生きるのではなく、ただ教会に行ったり来たりするクリスチャンは、自分の「永遠の命」の問題を深刻に考えなければなりません。永遠の命は頭で得るものではないからです。
だからこそ、永遠の命は、今の自分を見たら、すぐ分かります。本当に、私たちは、将来天国に行けるのでしょうか?今現在、私たちがイエス様の弟子として、天国を生きるのであれば、将来死んだ後も、必ず天国に行き、その反対も同じです。今現在、天国を生きられないのであれば、将来死んだ後も天国に行けません。
残念ながら今日、多くのクリスチャンが、今現在、天国と永遠の命を、生きられないかも知れません。この世に対する欲と、お金に対する欲、暮らし向きの自慢などに、目がくらんで、今現在、天国を知らずに生きながら、自分は死んだ後、必ず天国に行けると、錯覚しています。ただ、イエス様を口先だけで、受け入れたということです。
しかし、永遠の命はそういうものではありません。今現在、自分の弟子としての生き方、それを見れば、将来天国での自分の姿も見ることができます。
皆さん、皆さんは、今現在(今日)永遠の命(天国)を生きていますか?そうじゃなければ、地獄のような日々を、過ごしていますか?
今、私たちは自分の信仰を、冷たい頭から熱いイエス様との関係へと立ち返り、永遠の命を、遠い未来から、今の現在に移さなければなりません。
合計 195
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