メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
マタイの福音書11:28-30 (たましいに安らぎをくださるイエス)
投稿者
tbic
投稿日
2021-11-15 12:30
閲覧数
674
たましいに安らぎをくださるイエス
(マタイの福音書11:28-30 )
2021年11月14日 東京ベイ国際教会
1.インドでの新型コロナ感染爆発と外国人入国規制(旅行者ビザ申請停止)
私たちはインドビザの期限により、昨年3月19日、日本に一時帰国させていただきました。
日本で新たにインドビザを取得し、また妻が病院で医療を受けさせていただき、昨年7月中にインドに戻らせていただく予定でした。
ところが私たちが日本に帰国後、インドで新型コロナの感染爆発が起きてしまい、外国人の入国規制とビザ申請停止が続いてきました。
その後、旅行者以外のビジネスや就労関係の人々は、インド入国を許可されるようになりましたが、旅行者ビザの申請は停止状態が続いてきました。
インドの新型コロナ感染状況は、今年5月をピークに、その後、感染縮小が続いており感謝です。
しかし昨年からの旅行者ビザ申請停止により、私たちはビザ申請することが出来ずにきました。
インドにおける新型コロナ感染爆発により、私たちが現地で所属する教会でも、感染者が大勢出ました。そして教会員とその親族・関係者の中で、多くの方々がこの地上での生涯を終え、天に召されました。
私がかつて空手を教え、伝道させていただいてきた生徒とその家族・親戚の中でも、感染者が大勢出ました。ご逝去された方々もおられます。
また私たちの住居と同じ敷地内のお隣りのご主人(スブラマニヤムさん)も、コロナ感染により今年5月22日ご逝去されました。
私たちの関係者の中には、コロナ感染とは別の問題により、ご逝去された方々もおられます。
*サビタ姉の召天(2020年9月4日)
私たちが現地の教会を通して、深く関わらせていただいたサビタ姉(34歳)が、昨年9月4日、天に召されました。
サビタ姉は夫のラージュー兄と結婚後1年位の時(2010年)、夫と共にバイクで走行中、自動車に衝突され重傷を負い(脊椎損傷)、下半身不随になり、排尿排便の感覚も失ってしまいました。
サビタ姉はその後、実家で両親から介護を受けながら、ベッド上の生活を続けていました。
私たちは昨年3月11日、サビタ姉を訪問させていただいた時が、サビタ姉との最後のお交わりとなってしまい誠に申し訳なく思っております。
*エステル姉の召天(2021年7月6日)
今年7月6日には、エステルさんという38歳の姉妹が天に召されました。
YMCAで私が出会い親しくさせていただけるようになったモーセ兄の奥様です。エステル姉は腎臓に病気を抱えていました。
ご主人のモーセ兄(40歳)、長女ニッシー(18歳)、次女ジョイシー(17歳)、長男クルパナンダ(14歳)、家族全員クリスチャンであり、スラムの中のとても小さな家の一部屋(インドには畳はありませんが畳の大きさならば3~4畳位の部屋)で生活しています。
エステル姉は入院し、賛美歌を歌い続け、お祈りし、ご主人と子供たちに様々なアドバイスを与え、自分はもうすぐイエス様と一緒になれることを語り、最後にご家族に「さようなら」と挨拶し、その30分後、天に召されたそうです。
インドでコロナ感染問題と、その他の諸問題により、多くの人々が苦難の中に置かれている時に、私たちはインドに戻らせていただくことが出来ず、インドの方々に対して誠に申し訳なく思うばかりでございます。
そして日本でご支援くださる諸教会の皆様方に対しましても誠に申し訳なく思うばかりでございます。
インドの関係者、教会員との連絡を取り合い、インドで大きな苦しみと深い悲しみの中に置かれている方々への主の憐れみを求めてお祈りさせていただいております。
そして主の憐れみにすがり、この欠けばかりの未熟な私どもでございますが、妻淑子の健康に快復を与えていただくと共に、インドへのビザを与えていただき、インドに出来るだけ早く戻らせていただくことができますようお祈りさせていただき、主を待ち望ませていただいております。
ところで、インドはヒンドゥー教の勢力が非常に強く、キリスト教の宣教師としては、インドに滞在するビザを申請することが出来ません。
外国人による宣教活動は厳しく取り締まられており、州によっては、他の宗教に回心することが法的に禁止されています。
そのため私は、最初はYMCAの空手指導者としてビザを得ており、その後は学生としてビザを得ていました。
しかし数年前から私たちは、旅行者(訪問者)としてインドビザを申請すること以外には、ビザを申請することが難しくなってしまいました。
そして旅行者ビザを繰り返し申請し、ビザを得ながら、インド滞在を続けてきました。
しかし2019年9月、私はビザの期限との関係で、一時インドを出国し、お隣りのネパールに行く時、空港でのインド出国審査で、審査官から嫌疑を掛けられ、取調室に連行され取り調べを受けてしまいました。
私への嫌疑は、「何を目的にしてインドに来るのか?インドで何をしているのか?」ということでした。
私がインドで宣教活動をしていることを知られてしまえば、すぐにインドから国外追放にされてしまう、危機一髪の状況に追い込まれてしまいました。
しかし、ただ主イエス様の憐れみにより、取り調べから解放され、国外追放されずに済み、心から主に感謝いたしております。
私たちは、インドビザに関係する事で、日本国内のインド大使館、そして現地の入国管理局・警察との間で、当初から様々な問題に直面してきました。
しかし、ただ主イエス様の憐れみによってお守りいただき、インドに置かせていただいてきましたことを心から感謝いたしております。
2.貧しい人々への福音宣教への導き
さて、私は大学生の時、まだクリスチャンではありませんでしたが、海外の貧しい国々で飢餓・貧困問題の中で苦しむ人々への救済活動に関心を持つようになりました。
そして青年海外協力隊の説明会に出席し、バングラデシュから帰国した元協力隊員のお話を聴く機会がありました。
バングラデシュは人口の約90%がイスラム教徒でしたが、約10%はヒンドゥー教徒であり、そのヒンドゥー教の中にあるカースト制度の中で、物乞いをする人々のご家庭で子供が生まれた時に、親は自分の子供の将来の幸せを考えた上で、子供の腕や脚を片方切り落としてしまうというお話を聴きました。
私は非常に大きなショックを受けました。
カーストによる階級差別制度の下では職業が固定化されているため、健康な身体をしていても他の職業に就くこと難しいため、親は自分の子供が将来、物乞いとして少しでも多くお金をいただき幸せになれるようにと願い、その子供の腕や脚を片方切り落としてしまうという事でした。
健康な身体の人が物乞いをするよりも、腕や脚がない人が物乞いをする方が、人々からの憐れみを受け、余計にお金をいただくことが出来るからです。
ヒンドゥー教のカースト階級差別制度の中で、底辺に生きる人々の悲惨な実情を知り、私は非常に心を痛めました。
私は大学卒業後、少年院の教官になり、非行少年の矯正教育に携わっていましたが、カースト階級差別制度の下で、親が自分の子供の腕や脚を切り落としてしまうという悲惨な話が、いつも私の心の片隅にありました。
私は職場の同僚(猪野正道先生)を通して、キリストの導きを受け、教会に通い始めたのは28歳の時でした。
そして32歳の時に信仰告白をして洗礼を受け、海外の貧しい国での飢餓救済の働きをさせていただきたく願い、少年院の教官を辞職しました。
出来ることならば、ヒンドゥー教のカースト階級差別制度の下で苦しめられている人々に、イエス・キリストの愛と救いをお伝えさせていただきたいという思いを持たせていただいておりました。
そして聖書学院で学ばせていただき、前橋キリスト教会で伝道師として奉仕させていただき、他の神学校でも学ばせていただき、数年間が過ぎました。
しかしインドへの道がすぐに開かれず、東京の教会で伝道師をさせていただきながらホームレスの人々への宣教活動に関わらせていただいている時、その教会で妻と出会いました。
妻は私よりも前から既に、ホームレスの人々への奉仕をしており、結婚に導かれました。
そしてその頃にインドへの道が開かれてきました。
3.ヒンドゥー教の束縛
ヒンドゥー教の勢力が非常に強く、外国人の宣教師を受け入れない国インドで、YMCAの空手指導者としてビザを得ることが出来た私たち夫婦は、2001年に、南インド内陸部のハイデラバードという都市に隣接するセカンデラバードという地域(市)に派遣していただくことができました。
そしてセカンデラバードYMCAで空手の指導をさせていただきました。
私のクラスに参加する生徒の多くは、社会の底辺のスラムで生活する貧困層の人々でした。
私は妻と共に、生徒たちを家庭訪問させていただき、生徒とご家族の皆様と親しくさせていただき、またその親戚や友人たちとも親しくさせていただけるようになり、少しずつ伝道させていただきました。
しかし私たちがスラムに行くことに対して、現地の教会の指導者たちから強い反対がありました。
それは過酷な階級差別があるインド社会では、中間層の人々がスラムの中に入ることはほとんどありませんし、まして外国人がスラムの中を歩いているならば、宣教師であることをすぐに知られ、警察に逮捕されてしまうからです。
しかし私は空手を指導していたため、スラムの人々からも空手指導者として認識されており、警察に逮捕されることなく守られてきたことは本当に感謝です。
ヒンドゥー教という宗教は、人間や動物が神様にされており、それぞれの神々が偶像として形作られており、多くの偶像の神々があります。その点は、日本の宗教とよく似ています。
そしてイエス・キリストも、多くの神々の中の一つの神と考えられています。
ですからヒンドゥー教の人々に、神の人間に対する愛、そして私たち人間の罪を赦すために神のひとり子イエス・キリストが、私たちの身代りに十字架で死んでくださった話をするとすぐに受け入れてくださり、共にお祈りしてくださいます。
しかし、その人々とさらに親しい関係を持てるようになってから、私たちの真の神様は唯一の神であり、人間によって造られた偶像の神々は本当の神ではなく、偶像の神々を拝むことは、真の神様に対する罪であることを、少しずつ教えていくと、ほとんどの人々は受け入れようとしません。
そして私たちとの、それまでの親しい関係にもひびが入ってしまいます。
そこにヒンドゥー教の人々への伝道の難しさがあり、大きな壁があります。
彼らは家族・親戚が皆、ヒンドゥー教の同じ偶像の神々を信じ、その宗教の儀式を共に行うことで、強く結合し結束しています。
ですからイエス・キリストを信じることにより、ヒンドゥー教からキリスト教に回心するということは、自分の家族・親戚との関係から断ち切られるようなこととなります。
そして家族・親戚からの激しい迫害を受けます。
インド社会の底辺の人々は、ヒンドゥー教のカースト階級差別により、苛酷な差別を受け、貧困と劣悪な生活状況に置かれていながらも、ヒンドゥー教という宗教の束縛から抜け出すことができません。
4.日本の宗教の束縛
それでは日本の人々はどうでしょうか?
日本人に自分の宗教を問うならば、多くの人は仏教と答えるでしょう。神社の神道と答える人も中にはいるでしょう。
その方々の多くは、「自分の家族のお墓がお寺にある、あるいは神社にある。そして自分の家に仏壇や神棚がある」ということで、自分の宗教を仏教あるいは神道と答えるのであって、自分自身が毎日信仰生活に励んでいるわけではなく、その教理・教えについてもあまり知らない方々が多いのではないでしょう。
しかしお亡くなりになった方々の葬儀や記念会に家族・親戚が共に集い、その宗教行事を共に行うことにより、その一族として強く結合し結束しているのではないでしょうか。
ですからイエス・キリストを信じることにより、仏教・神道からキリスト教に回心するということは、自分の家族・親戚との結合関係から断ち切られるようなことになるのではないでしょうか。
そして家族・親戚から激しい迫害を受けことにもなるのではないでしょうか。
これはインドのヒンドゥー教の人々と同じです。
日本人の国民性は、集団主義であり、自分が所属する集団と同じにすることが要求されます。
その小さな集団は家族であり、学校、職場、町内会なども集団であり、最も大きな集団は国家です。
国が戦争を行えば、それが他国に対する侵略戦争であっても、国民はその侵略戦争に召集され、戦争に行き、殺し合いをしなければなりません。
それが戦時中の日本でした。
その中で、目上の人が黒い物を出して、「これは白である」と言うならば、「はい白です。」と答えて従わなければなりませんでした。
それが日本の封建的な国家主義であり、集団主義です。
日本人の国民性である、その封建的な国家主義、集団主義は、戦後、どこまで変えられたのでしょうか。
いまだにその強い束縛から抜け出せないところがあるのではないでしょうか。
*しかし聖書の中では、私たちが真理を求め、真理を知り、真理に従っていくことの大切さが繰り返し教えられています。
イエス様は、ヨハネの福音書14章6節で、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と語っておられます。
イエス・キリストこそが、私たち人間の生きる道であり、真理であり、いのちの源であると共に、いのちを司っておられます。
私たちの生きる道であり、真理であり、いのちであるキリストを信じて、キリストに従っていかなければ、私たちは天の御国(天国)の父なる神様のみもとに行くことは出来ません。
しかし世界の歴史の中で、その時代の支配者が、聖書の教えに違反することを命令した時に、クリスチャンは、その支配者の命令には従わず、イエス・キリストと聖書の教えに従おうとしたことで、クリスチャンと教会に対する苛酷な迫害が行われ、どれほど多くのクリスチャンが虐殺されたことかわかりません。
キリスト教会の歴史は、「殉教者が流した血の歴史である」と言われています。
日本が韓国を植民地とした時には、日本は韓国に、日本の神社をたくさん建て、韓国の人々に神社参拝を強要しました。
しかし神社を参拝することは、明らかに偶像礼拝の罪です。
そのため韓国のクリスチャンの中には、神社参拝を拒否した人々がたくさんおります。
しかし神社参拝を拒否した人々は、日本人の警察官に逮捕され、投獄され、残虐な拷問を受けて殺されました。
マタイの福音書10章では、イエス様が十二弟子を遣わす際に語られた事が書かれていますが、10章21-22節で、
「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と語られています。
キリストの弟子に対しては、その人の家族さえも苛酷な迫害をしてくる事、また、キリストの弟子は、すべての人から憎まれるとも語られています。
私たちが、キリストの弟子になることに対して、非常に深刻な、そして強い決断を迫られる御言葉ではないでしょうか。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と語られています。
この救いとは、天の御国(天国)の父なる神様のみもとでの、永遠のいのちと永遠の祝福です。
5.神の救いの御業・救いの福音
インドにおきましても、日本におきましても、その地に土着した宗教と社会集団の束縛の中で生活する人々が、イエス・キリストに回心する事がいかに困難であるか、その難しさを感じる事ばかりです。
しかし福音宣教とは、神様ご自身の、人間に対する一方的な愛に基づくお働きであり、決して人間による働きではありません。
罪深い人間に対する、神様の一方的な愛により、神のひとり子イエス・キリストが私たち人間のすべての罪を背負い、十字架で死んでくださいました。
テモテへの手紙第一2章4節には、
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」と書かれています。
この真理とは、続く2章5節-6節に書かれている通り、
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)
神は唯一であり、その唯一の神のひとり子イエス・キリストが、人間に罪の赦しを与え、人間を神と和解させるための仲介者として、今から約2000年前に、人としてこの世に来てくださいました。
そして神の子イエス・キリストご自身が、私たち人間のすべての罪を背負い、十字架に掛けられ、私たちの身代りに神の刑罰を受けて死んでくださいました。
これが人間に対する神の愛による救いの御業であり、神の救いの福音です。
≪疲れた人、重荷を負う人へのキリストの招き≫
人間は誰でも皆、罪人です。
インド人も、日本人も、世界中どこの国の人であっても皆、罪人です。
罪人である私たち人間が、その罪の中に留まり続けるならば、その行き着く所は永遠の滅びであることが聖書には書かれています。
また人間の生きる道であり、真理であり、いのちであるイエス・キリストを知らないために、人間の罪と関係して生み出されてきた、様々な宗教的な因習や社会的因習、しきたりや習わしに束縛され、その束縛から抜け出すことが出来なければ、その人の行き着く所は永遠の滅びです。
しかし、罪による滅びから私たち人間を救い出すために、私たちの罪の身代りに十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じ、キリストに従って行くならば、その人の行き着く所は永遠の天国での永遠のいのちと永遠の祝福です。
自分自身の罪の中で、また人間の罪に関係するこの世の様々な束縛の中で、また自分が所属する様々な集団の中で、また様々な人間関係の中で、疲れ果てている人、重荷を負わされ、どうすることも出来ず、苦しみ喘(あえ)いでいる人がおられるのではないでしょうか。
私たちの救い主イエス・キリストは、その人たちに、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、キリストのもとに招いてくださっています。
イエス様は続けてお語りになられます。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
イエス様の招きを受け入れ、イエス様のもとに行き、イエス様を信じて、イエス様の弟子となり、イエス様から学んでいくならば、たましいに安らぎを与えていただけます。
(そしてその人たちの行き着く所は、永遠の天国での永遠のいのちと永遠の祝福です。)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
イエス・キリストは、私たちを招いてくださっています。
6.貧しい人々への福音と救い
≪アンジャンマさん家族の救い≫
2004年12月下旬、私は空手指導中にアキレス腱を断裂してしまい、入院して手術を受けました。そして退院後、約3カ月間、自宅療養をさせていただきました。
その時(2004年の年末頃)、冬の早朝、妻が我が家の周辺を散歩していると、ある家の門前に小さな少女(3歳位)が身体を震わせながら座っていました。非常にみすぼらしい服装と容姿の少女でしたので妻の心に留まりました。
その少女は、その家で掃除婦として働く祖母を門前で待っているのでした。
いつも暗い表情をしており妻が話し掛けても一言も答えようとはしませんでした。
しかし妻はいつも続けてその少女に話し掛けました。そしてその少女はしだいに妻に心を開いてくれました。
その少女の名前はカヴィタちゃん、我が家の近くにあるスラムエリヤの中のとても小さな掘っ建て小屋に住んでいました。
私たちはカヴィタちゃんのお宅を訪問させていただくようになり親しくなっていきました。
カヴィタちゃんのご家族は、離れた別の場所に住んでおり、カヴィタちゃんは祖母アンジャンマさんと叔母ラクシミさん家族と共に暮らしていました。
(カヴィタちゃんのご家族も、カヴィタちゃんのもとに時々訪れていました。)
アンジャンマさん宅にて:前列右側から淑子、カヴィタ、ラーニ(ラクシミさんの次女)、ラクシミさん、モウラリさん(ラクシミさんの夫)。右側後方の二人は隣人。
スラムの後方に見えるのは中間層の人々が暮らす家々。(2009年3月15日)
後列左側から淑子、アンジャンマさん、前列2人の少女(左ラーニ、右ブーミカ)
右側3人は隣人。(アンジャンマさん宅にて、2013年5月18日)
私たちはそのご家族に福音を伝え、教会に導かせていただきたく願いましたが、そのご家族は、私たちの伝道に対して心を開いてくださいませんでした。
私たちはそのご家族との親しい関係を続け、イエス様の事を続けて伝え、お祈りすること以外には何も出来ませんでした。
するとその後、そのスラムエリヤのすぐ近くに新しく教会が始まりました。
そして、カヴィタちゃんの叔母ラクシミさんの娘(次女)ラーニちゃんがその教会に行き始め、母親ラクシミさん(アンジャンマさんの次女)は、その教会と牧師宅・伝道者宅でお掃除の仕事をするようになりました。
そしてラクシミさんは、その伝道者の導きにより、キリストを信じ洗礼を受けました。
そしてラクシミさんの2人の娘と、母親アンジャンマさんも共に教会に集い、アンジャンマさんも2014年に洗礼を受けることができ本当に感謝でした。
そしてアンジャンマ姉は、喜びに満ち溢れて、「ハレルヤ!主を賛美せよ。」と言って、妻に挨拶してくださいました。
アンジャンマ姉は、洗礼を受けて本当に喜んでいました。私たちは主の御名を崇めさせていただくばかりでした。
私たちは、そのご家族を教会に導くことが出来ませんでしたが、主は別の方法により、その人々への救いの御業を成してくださいました。
主イエス・キリスト御自身による宣教の御業に心から感謝し、主の御名を崇めさせていただくばかりでした。
その翌年2015年、アンジャンマ姉にガンが発見され、闘病生活が始まりました。
アンジャンマ姉は、その年8月に1カ月ほど入院されましたが、ガンは子宮の辺りから他の臓器に既に転移しており(第4期)、手術してガンに侵された部分を切除することも出来ない状態でした。
その後、アンジャンマ姉は、市の郊外にある長女パドゥマさん(カヴィタちゃんの母)ご家族のもと(とても小さな家)でお世話していただき、ガン専門病院に通い放射線治療を継続して受けました。
しかしアンジャンマさんは、左右の腎臓にビニール管を取り付け排尿しており、腎臓の辺りの痛みと発熱に苦しみ、入退院を繰り返していました。
【長女パドゥマさん(左端)のご家庭で静養するアンジャンマ姉(淑子の右側)】
周囲はパドゥマさんの子供たち。右端は次女スニタさん。後列左から長男ダスタギリ君、長女アニタさん・ヴィシュヌさん夫妻。(2015年11月28日)
その翌年2016年2月16日、アンジャンマ姉は天に召され、この地上での生涯を終えました。
アンジャンマ姉は、6人の孫を持つ「おばあちゃん」でしたが、実際の年齢は45歳でした。
アンジャンマ姉は早くに夫を失い、他の貧しい女性たちと同様に、中間層の家庭で掃除婦として安い賃金で働き、スラムの中の小さな掘っ建て小屋で非常に貧しい生活をしていました。トイレも水もない小さな掘っ建て小屋でした。
アンジャンマ姉の、この地上での歩みを考えるならば、どれほど多くの苦難を経験されたことでしょうか。
イエス様は、そのようなアンジャンマさんを、ラクシミさん家族と共に教会に導いてくださり救ってくださいました。
人生の中で多くの苦難を経験し、重荷を負って歩んでいたアンジャンマさんに、イエス様が御心を留めてくださり、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、アンジャンマさんを、イエス様のもとに招いてくださったのではないでしょうか。
そしてアンジャンマさんは、イエス様のその招きに応えて、イエス様を自分自身の救い主として信じ、神様の救いに与り、たましいに安らぎと真の喜びを与えていただくことが出来ました。
アンジャンマ姉が洗礼を受けた後、本当に喜びに満ち溢れて、「ハレルヤ!主を賛美せよ。」と言って、妻に挨拶してくださったことを忘れることができません。
7.天の御国(涙を拭い取ってくださり、すべてを新しくされる神)
*ヨハネの黙示録21章1-5節を読ませていただきます。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
(ヨハネの黙示録21:1-5)
アンジャンマ姉は、この地上での生涯で多くの苦難を経験しましたが、この地上での歩みを終え、永遠の天国に迎えていただきました。
そして神の民となり、神ご自身がアンジャンマ姉と共にいてくださり、彼女の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。そしてアンジャンマ姉は永遠の祝福の中を永遠に生き続けることが約束されています。
私たちクリスチャンには、だれにでも同じ約束が与えられています。
天の父なる神様は、永遠の天国において私たちのすべてを新しくしてくださり、神様のもとで永遠の祝福の中を永遠に歩ませてくださいます。
アンジャンマ姉が天に召され、この地上においてお会い出来なくなったことには深い悲しみがありますが、彼女の二人の娘さんラクシミさん・パドゥマさんご家族がキリスト教会に導かれている事は本当に感謝です。
ラクシミさん・パドゥマさんご家族全員の救いをお祈りしております。
だれでもこの地上での生命には限界があり、必ず死を迎えなければなりません。
そして死後、すべての人が神の前に立たされ、神の審判を受けなければならないことが聖書(ヨハネの黙示録20章)には書かれています。
そして罪を裁かれ永遠の苦しみの中に入れられるか、それともすべての罪を赦され永遠の天国での永遠の祝福の中に入れられるか、その二つのうちどちらかであることが聖書には書かれています。
私たちは死後どちらの場所に入れられるのでしょうか。
私たち人間をお造りになられた、天の父なる神様は、私たち人間を愛し続けてくださり、罪深い私たち人間に、罪の赦しを与え、天国に入れるために、神のひとり子イエス・キリストが、私たち人間のすべての罪の身代りに十字架で死んでくださいました。
その事を信じ、イエス・キリストを自分自身の救い主として受け入れるならば、私たちはすべての罪に赦しを与えていただき、永遠の天国での永遠のいのちと永遠の祝福が与えられることが聖書によって約束されています。
私たちクリスチャンは、この地上での生涯の歩みを終えた後、神の民として永遠の天国に迎え入れていただけます。
この地上での生涯を、今、歩み続けている人々一人ひとりに、イエス様は、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、お語りくださり、イエス様のもとにお招きくださっています。
アンジャンマさんが、イエス様のその招きに応えて、イエス様を自分自身の救い主として信じ、神様の救いに与り、たましいに安らぎと真の喜びを与えていただいたように、私たちもイエス様の招きに応えていきましょう。
天の父なる神様は、永遠の天国において私たちのすべてを新しくしてくださり、神様と共に永遠の祝福の中を永遠に歩ませてくださいます。
(マタイの福音書11:28-30 )
2021年11月14日 東京ベイ国際教会
1.インドでの新型コロナ感染爆発と外国人入国規制(旅行者ビザ申請停止)
私たちはインドビザの期限により、昨年3月19日、日本に一時帰国させていただきました。
日本で新たにインドビザを取得し、また妻が病院で医療を受けさせていただき、昨年7月中にインドに戻らせていただく予定でした。
ところが私たちが日本に帰国後、インドで新型コロナの感染爆発が起きてしまい、外国人の入国規制とビザ申請停止が続いてきました。
その後、旅行者以外のビジネスや就労関係の人々は、インド入国を許可されるようになりましたが、旅行者ビザの申請は停止状態が続いてきました。
インドの新型コロナ感染状況は、今年5月をピークに、その後、感染縮小が続いており感謝です。
しかし昨年からの旅行者ビザ申請停止により、私たちはビザ申請することが出来ずにきました。
インドにおける新型コロナ感染爆発により、私たちが現地で所属する教会でも、感染者が大勢出ました。そして教会員とその親族・関係者の中で、多くの方々がこの地上での生涯を終え、天に召されました。
私がかつて空手を教え、伝道させていただいてきた生徒とその家族・親戚の中でも、感染者が大勢出ました。ご逝去された方々もおられます。
また私たちの住居と同じ敷地内のお隣りのご主人(スブラマニヤムさん)も、コロナ感染により今年5月22日ご逝去されました。
私たちの関係者の中には、コロナ感染とは別の問題により、ご逝去された方々もおられます。
*サビタ姉の召天(2020年9月4日)
私たちが現地の教会を通して、深く関わらせていただいたサビタ姉(34歳)が、昨年9月4日、天に召されました。
サビタ姉は夫のラージュー兄と結婚後1年位の時(2010年)、夫と共にバイクで走行中、自動車に衝突され重傷を負い(脊椎損傷)、下半身不随になり、排尿排便の感覚も失ってしまいました。
サビタ姉はその後、実家で両親から介護を受けながら、ベッド上の生活を続けていました。
私たちは昨年3月11日、サビタ姉を訪問させていただいた時が、サビタ姉との最後のお交わりとなってしまい誠に申し訳なく思っております。
*エステル姉の召天(2021年7月6日)
今年7月6日には、エステルさんという38歳の姉妹が天に召されました。
YMCAで私が出会い親しくさせていただけるようになったモーセ兄の奥様です。エステル姉は腎臓に病気を抱えていました。
ご主人のモーセ兄(40歳)、長女ニッシー(18歳)、次女ジョイシー(17歳)、長男クルパナンダ(14歳)、家族全員クリスチャンであり、スラムの中のとても小さな家の一部屋(インドには畳はありませんが畳の大きさならば3~4畳位の部屋)で生活しています。
エステル姉は入院し、賛美歌を歌い続け、お祈りし、ご主人と子供たちに様々なアドバイスを与え、自分はもうすぐイエス様と一緒になれることを語り、最後にご家族に「さようなら」と挨拶し、その30分後、天に召されたそうです。
インドでコロナ感染問題と、その他の諸問題により、多くの人々が苦難の中に置かれている時に、私たちはインドに戻らせていただくことが出来ず、インドの方々に対して誠に申し訳なく思うばかりでございます。
そして日本でご支援くださる諸教会の皆様方に対しましても誠に申し訳なく思うばかりでございます。
インドの関係者、教会員との連絡を取り合い、インドで大きな苦しみと深い悲しみの中に置かれている方々への主の憐れみを求めてお祈りさせていただいております。
そして主の憐れみにすがり、この欠けばかりの未熟な私どもでございますが、妻淑子の健康に快復を与えていただくと共に、インドへのビザを与えていただき、インドに出来るだけ早く戻らせていただくことができますようお祈りさせていただき、主を待ち望ませていただいております。
ところで、インドはヒンドゥー教の勢力が非常に強く、キリスト教の宣教師としては、インドに滞在するビザを申請することが出来ません。
外国人による宣教活動は厳しく取り締まられており、州によっては、他の宗教に回心することが法的に禁止されています。
そのため私は、最初はYMCAの空手指導者としてビザを得ており、その後は学生としてビザを得ていました。
しかし数年前から私たちは、旅行者(訪問者)としてインドビザを申請すること以外には、ビザを申請することが難しくなってしまいました。
そして旅行者ビザを繰り返し申請し、ビザを得ながら、インド滞在を続けてきました。
しかし2019年9月、私はビザの期限との関係で、一時インドを出国し、お隣りのネパールに行く時、空港でのインド出国審査で、審査官から嫌疑を掛けられ、取調室に連行され取り調べを受けてしまいました。
私への嫌疑は、「何を目的にしてインドに来るのか?インドで何をしているのか?」ということでした。
私がインドで宣教活動をしていることを知られてしまえば、すぐにインドから国外追放にされてしまう、危機一髪の状況に追い込まれてしまいました。
しかし、ただ主イエス様の憐れみにより、取り調べから解放され、国外追放されずに済み、心から主に感謝いたしております。
私たちは、インドビザに関係する事で、日本国内のインド大使館、そして現地の入国管理局・警察との間で、当初から様々な問題に直面してきました。
しかし、ただ主イエス様の憐れみによってお守りいただき、インドに置かせていただいてきましたことを心から感謝いたしております。
2.貧しい人々への福音宣教への導き
さて、私は大学生の時、まだクリスチャンではありませんでしたが、海外の貧しい国々で飢餓・貧困問題の中で苦しむ人々への救済活動に関心を持つようになりました。
そして青年海外協力隊の説明会に出席し、バングラデシュから帰国した元協力隊員のお話を聴く機会がありました。
バングラデシュは人口の約90%がイスラム教徒でしたが、約10%はヒンドゥー教徒であり、そのヒンドゥー教の中にあるカースト制度の中で、物乞いをする人々のご家庭で子供が生まれた時に、親は自分の子供の将来の幸せを考えた上で、子供の腕や脚を片方切り落としてしまうというお話を聴きました。
私は非常に大きなショックを受けました。
カーストによる階級差別制度の下では職業が固定化されているため、健康な身体をしていても他の職業に就くこと難しいため、親は自分の子供が将来、物乞いとして少しでも多くお金をいただき幸せになれるようにと願い、その子供の腕や脚を片方切り落としてしまうという事でした。
健康な身体の人が物乞いをするよりも、腕や脚がない人が物乞いをする方が、人々からの憐れみを受け、余計にお金をいただくことが出来るからです。
ヒンドゥー教のカースト階級差別制度の中で、底辺に生きる人々の悲惨な実情を知り、私は非常に心を痛めました。
私は大学卒業後、少年院の教官になり、非行少年の矯正教育に携わっていましたが、カースト階級差別制度の下で、親が自分の子供の腕や脚を切り落としてしまうという悲惨な話が、いつも私の心の片隅にありました。
私は職場の同僚(猪野正道先生)を通して、キリストの導きを受け、教会に通い始めたのは28歳の時でした。
そして32歳の時に信仰告白をして洗礼を受け、海外の貧しい国での飢餓救済の働きをさせていただきたく願い、少年院の教官を辞職しました。
出来ることならば、ヒンドゥー教のカースト階級差別制度の下で苦しめられている人々に、イエス・キリストの愛と救いをお伝えさせていただきたいという思いを持たせていただいておりました。
そして聖書学院で学ばせていただき、前橋キリスト教会で伝道師として奉仕させていただき、他の神学校でも学ばせていただき、数年間が過ぎました。
しかしインドへの道がすぐに開かれず、東京の教会で伝道師をさせていただきながらホームレスの人々への宣教活動に関わらせていただいている時、その教会で妻と出会いました。
妻は私よりも前から既に、ホームレスの人々への奉仕をしており、結婚に導かれました。
そしてその頃にインドへの道が開かれてきました。
3.ヒンドゥー教の束縛
ヒンドゥー教の勢力が非常に強く、外国人の宣教師を受け入れない国インドで、YMCAの空手指導者としてビザを得ることが出来た私たち夫婦は、2001年に、南インド内陸部のハイデラバードという都市に隣接するセカンデラバードという地域(市)に派遣していただくことができました。
そしてセカンデラバードYMCAで空手の指導をさせていただきました。
私のクラスに参加する生徒の多くは、社会の底辺のスラムで生活する貧困層の人々でした。
私は妻と共に、生徒たちを家庭訪問させていただき、生徒とご家族の皆様と親しくさせていただき、またその親戚や友人たちとも親しくさせていただけるようになり、少しずつ伝道させていただきました。
しかし私たちがスラムに行くことに対して、現地の教会の指導者たちから強い反対がありました。
それは過酷な階級差別があるインド社会では、中間層の人々がスラムの中に入ることはほとんどありませんし、まして外国人がスラムの中を歩いているならば、宣教師であることをすぐに知られ、警察に逮捕されてしまうからです。
しかし私は空手を指導していたため、スラムの人々からも空手指導者として認識されており、警察に逮捕されることなく守られてきたことは本当に感謝です。
ヒンドゥー教という宗教は、人間や動物が神様にされており、それぞれの神々が偶像として形作られており、多くの偶像の神々があります。その点は、日本の宗教とよく似ています。
そしてイエス・キリストも、多くの神々の中の一つの神と考えられています。
ですからヒンドゥー教の人々に、神の人間に対する愛、そして私たち人間の罪を赦すために神のひとり子イエス・キリストが、私たちの身代りに十字架で死んでくださった話をするとすぐに受け入れてくださり、共にお祈りしてくださいます。
しかし、その人々とさらに親しい関係を持てるようになってから、私たちの真の神様は唯一の神であり、人間によって造られた偶像の神々は本当の神ではなく、偶像の神々を拝むことは、真の神様に対する罪であることを、少しずつ教えていくと、ほとんどの人々は受け入れようとしません。
そして私たちとの、それまでの親しい関係にもひびが入ってしまいます。
そこにヒンドゥー教の人々への伝道の難しさがあり、大きな壁があります。
彼らは家族・親戚が皆、ヒンドゥー教の同じ偶像の神々を信じ、その宗教の儀式を共に行うことで、強く結合し結束しています。
ですからイエス・キリストを信じることにより、ヒンドゥー教からキリスト教に回心するということは、自分の家族・親戚との関係から断ち切られるようなこととなります。
そして家族・親戚からの激しい迫害を受けます。
インド社会の底辺の人々は、ヒンドゥー教のカースト階級差別により、苛酷な差別を受け、貧困と劣悪な生活状況に置かれていながらも、ヒンドゥー教という宗教の束縛から抜け出すことができません。
4.日本の宗教の束縛
それでは日本の人々はどうでしょうか?
日本人に自分の宗教を問うならば、多くの人は仏教と答えるでしょう。神社の神道と答える人も中にはいるでしょう。
その方々の多くは、「自分の家族のお墓がお寺にある、あるいは神社にある。そして自分の家に仏壇や神棚がある」ということで、自分の宗教を仏教あるいは神道と答えるのであって、自分自身が毎日信仰生活に励んでいるわけではなく、その教理・教えについてもあまり知らない方々が多いのではないでしょう。
しかしお亡くなりになった方々の葬儀や記念会に家族・親戚が共に集い、その宗教行事を共に行うことにより、その一族として強く結合し結束しているのではないでしょうか。
ですからイエス・キリストを信じることにより、仏教・神道からキリスト教に回心するということは、自分の家族・親戚との結合関係から断ち切られるようなことになるのではないでしょうか。
そして家族・親戚から激しい迫害を受けことにもなるのではないでしょうか。
これはインドのヒンドゥー教の人々と同じです。
日本人の国民性は、集団主義であり、自分が所属する集団と同じにすることが要求されます。
その小さな集団は家族であり、学校、職場、町内会なども集団であり、最も大きな集団は国家です。
国が戦争を行えば、それが他国に対する侵略戦争であっても、国民はその侵略戦争に召集され、戦争に行き、殺し合いをしなければなりません。
それが戦時中の日本でした。
その中で、目上の人が黒い物を出して、「これは白である」と言うならば、「はい白です。」と答えて従わなければなりませんでした。
それが日本の封建的な国家主義であり、集団主義です。
日本人の国民性である、その封建的な国家主義、集団主義は、戦後、どこまで変えられたのでしょうか。
いまだにその強い束縛から抜け出せないところがあるのではないでしょうか。
*しかし聖書の中では、私たちが真理を求め、真理を知り、真理に従っていくことの大切さが繰り返し教えられています。
イエス様は、ヨハネの福音書14章6節で、
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と語っておられます。
イエス・キリストこそが、私たち人間の生きる道であり、真理であり、いのちの源であると共に、いのちを司っておられます。
私たちの生きる道であり、真理であり、いのちであるキリストを信じて、キリストに従っていかなければ、私たちは天の御国(天国)の父なる神様のみもとに行くことは出来ません。
しかし世界の歴史の中で、その時代の支配者が、聖書の教えに違反することを命令した時に、クリスチャンは、その支配者の命令には従わず、イエス・キリストと聖書の教えに従おうとしたことで、クリスチャンと教会に対する苛酷な迫害が行われ、どれほど多くのクリスチャンが虐殺されたことかわかりません。
キリスト教会の歴史は、「殉教者が流した血の歴史である」と言われています。
日本が韓国を植民地とした時には、日本は韓国に、日本の神社をたくさん建て、韓国の人々に神社参拝を強要しました。
しかし神社を参拝することは、明らかに偶像礼拝の罪です。
そのため韓国のクリスチャンの中には、神社参拝を拒否した人々がたくさんおります。
しかし神社参拝を拒否した人々は、日本人の警察官に逮捕され、投獄され、残虐な拷問を受けて殺されました。
マタイの福音書10章では、イエス様が十二弟子を遣わす際に語られた事が書かれていますが、10章21-22節で、
「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と語られています。
キリストの弟子に対しては、その人の家族さえも苛酷な迫害をしてくる事、また、キリストの弟子は、すべての人から憎まれるとも語られています。
私たちが、キリストの弟子になることに対して、非常に深刻な、そして強い決断を迫られる御言葉ではないでしょうか。
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と語られています。
この救いとは、天の御国(天国)の父なる神様のみもとでの、永遠のいのちと永遠の祝福です。
5.神の救いの御業・救いの福音
インドにおきましても、日本におきましても、その地に土着した宗教と社会集団の束縛の中で生活する人々が、イエス・キリストに回心する事がいかに困難であるか、その難しさを感じる事ばかりです。
しかし福音宣教とは、神様ご自身の、人間に対する一方的な愛に基づくお働きであり、決して人間による働きではありません。
罪深い人間に対する、神様の一方的な愛により、神のひとり子イエス・キリストが私たち人間のすべての罪を背負い、十字架で死んでくださいました。
テモテへの手紙第一2章4節には、
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」と書かれています。
この真理とは、続く2章5節-6節に書かれている通り、
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)
神は唯一であり、その唯一の神のひとり子イエス・キリストが、人間に罪の赦しを与え、人間を神と和解させるための仲介者として、今から約2000年前に、人としてこの世に来てくださいました。
そして神の子イエス・キリストご自身が、私たち人間のすべての罪を背負い、十字架に掛けられ、私たちの身代りに神の刑罰を受けて死んでくださいました。
これが人間に対する神の愛による救いの御業であり、神の救いの福音です。
≪疲れた人、重荷を負う人へのキリストの招き≫
人間は誰でも皆、罪人です。
インド人も、日本人も、世界中どこの国の人であっても皆、罪人です。
罪人である私たち人間が、その罪の中に留まり続けるならば、その行き着く所は永遠の滅びであることが聖書には書かれています。
また人間の生きる道であり、真理であり、いのちであるイエス・キリストを知らないために、人間の罪と関係して生み出されてきた、様々な宗教的な因習や社会的因習、しきたりや習わしに束縛され、その束縛から抜け出すことが出来なければ、その人の行き着く所は永遠の滅びです。
しかし、罪による滅びから私たち人間を救い出すために、私たちの罪の身代りに十字架で死んでくださったイエス・キリストを信じ、キリストに従って行くならば、その人の行き着く所は永遠の天国での永遠のいのちと永遠の祝福です。
自分自身の罪の中で、また人間の罪に関係するこの世の様々な束縛の中で、また自分が所属する様々な集団の中で、また様々な人間関係の中で、疲れ果てている人、重荷を負わされ、どうすることも出来ず、苦しみ喘(あえ)いでいる人がおられるのではないでしょうか。
私たちの救い主イエス・キリストは、その人たちに、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、キリストのもとに招いてくださっています。
イエス様は続けてお語りになられます。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
イエス様の招きを受け入れ、イエス様のもとに行き、イエス様を信じて、イエス様の弟子となり、イエス様から学んでいくならば、たましいに安らぎを与えていただけます。
(そしてその人たちの行き着く所は、永遠の天国での永遠のいのちと永遠の祝福です。)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
イエス・キリストは、私たちを招いてくださっています。
6.貧しい人々への福音と救い
≪アンジャンマさん家族の救い≫
2004年12月下旬、私は空手指導中にアキレス腱を断裂してしまい、入院して手術を受けました。そして退院後、約3カ月間、自宅療養をさせていただきました。
その時(2004年の年末頃)、冬の早朝、妻が我が家の周辺を散歩していると、ある家の門前に小さな少女(3歳位)が身体を震わせながら座っていました。非常にみすぼらしい服装と容姿の少女でしたので妻の心に留まりました。
その少女は、その家で掃除婦として働く祖母を門前で待っているのでした。
いつも暗い表情をしており妻が話し掛けても一言も答えようとはしませんでした。
しかし妻はいつも続けてその少女に話し掛けました。そしてその少女はしだいに妻に心を開いてくれました。
その少女の名前はカヴィタちゃん、我が家の近くにあるスラムエリヤの中のとても小さな掘っ建て小屋に住んでいました。
私たちはカヴィタちゃんのお宅を訪問させていただくようになり親しくなっていきました。
カヴィタちゃんのご家族は、離れた別の場所に住んでおり、カヴィタちゃんは祖母アンジャンマさんと叔母ラクシミさん家族と共に暮らしていました。
(カヴィタちゃんのご家族も、カヴィタちゃんのもとに時々訪れていました。)
アンジャンマさん宅にて:前列右側から淑子、カヴィタ、ラーニ(ラクシミさんの次女)、ラクシミさん、モウラリさん(ラクシミさんの夫)。右側後方の二人は隣人。
スラムの後方に見えるのは中間層の人々が暮らす家々。(2009年3月15日)
後列左側から淑子、アンジャンマさん、前列2人の少女(左ラーニ、右ブーミカ)
右側3人は隣人。(アンジャンマさん宅にて、2013年5月18日)
私たちはそのご家族に福音を伝え、教会に導かせていただきたく願いましたが、そのご家族は、私たちの伝道に対して心を開いてくださいませんでした。
私たちはそのご家族との親しい関係を続け、イエス様の事を続けて伝え、お祈りすること以外には何も出来ませんでした。
するとその後、そのスラムエリヤのすぐ近くに新しく教会が始まりました。
そして、カヴィタちゃんの叔母ラクシミさんの娘(次女)ラーニちゃんがその教会に行き始め、母親ラクシミさん(アンジャンマさんの次女)は、その教会と牧師宅・伝道者宅でお掃除の仕事をするようになりました。
そしてラクシミさんは、その伝道者の導きにより、キリストを信じ洗礼を受けました。
そしてラクシミさんの2人の娘と、母親アンジャンマさんも共に教会に集い、アンジャンマさんも2014年に洗礼を受けることができ本当に感謝でした。
そしてアンジャンマ姉は、喜びに満ち溢れて、「ハレルヤ!主を賛美せよ。」と言って、妻に挨拶してくださいました。
アンジャンマ姉は、洗礼を受けて本当に喜んでいました。私たちは主の御名を崇めさせていただくばかりでした。
私たちは、そのご家族を教会に導くことが出来ませんでしたが、主は別の方法により、その人々への救いの御業を成してくださいました。
主イエス・キリスト御自身による宣教の御業に心から感謝し、主の御名を崇めさせていただくばかりでした。
その翌年2015年、アンジャンマ姉にガンが発見され、闘病生活が始まりました。
アンジャンマ姉は、その年8月に1カ月ほど入院されましたが、ガンは子宮の辺りから他の臓器に既に転移しており(第4期)、手術してガンに侵された部分を切除することも出来ない状態でした。
その後、アンジャンマ姉は、市の郊外にある長女パドゥマさん(カヴィタちゃんの母)ご家族のもと(とても小さな家)でお世話していただき、ガン専門病院に通い放射線治療を継続して受けました。
しかしアンジャンマさんは、左右の腎臓にビニール管を取り付け排尿しており、腎臓の辺りの痛みと発熱に苦しみ、入退院を繰り返していました。
【長女パドゥマさん(左端)のご家庭で静養するアンジャンマ姉(淑子の右側)】
周囲はパドゥマさんの子供たち。右端は次女スニタさん。後列左から長男ダスタギリ君、長女アニタさん・ヴィシュヌさん夫妻。(2015年11月28日)
その翌年2016年2月16日、アンジャンマ姉は天に召され、この地上での生涯を終えました。
アンジャンマ姉は、6人の孫を持つ「おばあちゃん」でしたが、実際の年齢は45歳でした。
アンジャンマ姉は早くに夫を失い、他の貧しい女性たちと同様に、中間層の家庭で掃除婦として安い賃金で働き、スラムの中の小さな掘っ建て小屋で非常に貧しい生活をしていました。トイレも水もない小さな掘っ建て小屋でした。
アンジャンマ姉の、この地上での歩みを考えるならば、どれほど多くの苦難を経験されたことでしょうか。
イエス様は、そのようなアンジャンマさんを、ラクシミさん家族と共に教会に導いてくださり救ってくださいました。
人生の中で多くの苦難を経験し、重荷を負って歩んでいたアンジャンマさんに、イエス様が御心を留めてくださり、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、アンジャンマさんを、イエス様のもとに招いてくださったのではないでしょうか。
そしてアンジャンマさんは、イエス様のその招きに応えて、イエス様を自分自身の救い主として信じ、神様の救いに与り、たましいに安らぎと真の喜びを与えていただくことが出来ました。
アンジャンマ姉が洗礼を受けた後、本当に喜びに満ち溢れて、「ハレルヤ!主を賛美せよ。」と言って、妻に挨拶してくださったことを忘れることができません。
7.天の御国(涙を拭い取ってくださり、すべてを新しくされる神)
*ヨハネの黙示録21章1-5節を読ませていただきます。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
(ヨハネの黙示録21:1-5)
アンジャンマ姉は、この地上での生涯で多くの苦難を経験しましたが、この地上での歩みを終え、永遠の天国に迎えていただきました。
そして神の民となり、神ご自身がアンジャンマ姉と共にいてくださり、彼女の目から涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。そしてアンジャンマ姉は永遠の祝福の中を永遠に生き続けることが約束されています。
私たちクリスチャンには、だれにでも同じ約束が与えられています。
天の父なる神様は、永遠の天国において私たちのすべてを新しくしてくださり、神様のもとで永遠の祝福の中を永遠に歩ませてくださいます。
アンジャンマ姉が天に召され、この地上においてお会い出来なくなったことには深い悲しみがありますが、彼女の二人の娘さんラクシミさん・パドゥマさんご家族がキリスト教会に導かれている事は本当に感謝です。
ラクシミさん・パドゥマさんご家族全員の救いをお祈りしております。
だれでもこの地上での生命には限界があり、必ず死を迎えなければなりません。
そして死後、すべての人が神の前に立たされ、神の審判を受けなければならないことが聖書(ヨハネの黙示録20章)には書かれています。
そして罪を裁かれ永遠の苦しみの中に入れられるか、それともすべての罪を赦され永遠の天国での永遠の祝福の中に入れられるか、その二つのうちどちらかであることが聖書には書かれています。
私たちは死後どちらの場所に入れられるのでしょうか。
私たち人間をお造りになられた、天の父なる神様は、私たち人間を愛し続けてくださり、罪深い私たち人間に、罪の赦しを与え、天国に入れるために、神のひとり子イエス・キリストが、私たち人間のすべての罪の身代りに十字架で死んでくださいました。
その事を信じ、イエス・キリストを自分自身の救い主として受け入れるならば、私たちはすべての罪に赦しを与えていただき、永遠の天国での永遠のいのちと永遠の祝福が与えられることが聖書によって約束されています。
私たちクリスチャンは、この地上での生涯の歩みを終えた後、神の民として永遠の天国に迎え入れていただけます。
この地上での生涯を、今、歩み続けている人々一人ひとりに、イエス様は、
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、お語りくださり、イエス様のもとにお招きくださっています。
アンジャンマさんが、イエス様のその招きに応えて、イエス様を自分自身の救い主として信じ、神様の救いに与り、たましいに安らぎと真の喜びを与えていただいたように、私たちもイエス様の招きに応えていきましょう。
天の父なる神様は、永遠の天国において私たちのすべてを新しくしてくださり、神様と共に永遠の祝福の中を永遠に歩ませてくださいます。
合計 195
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
195 |
New マルコの福音書16:1-6(復活の奇跡)
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194 |
創世記28:10-22(十字架はゼロからの出発)
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2025.04.13
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193 |
マルコの福音書16:15-20(癒し主イエス・キリスト)
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2025.04.07
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192 |
申命記8:1-10(荒野の祝福)
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2025.03.30
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出エジプト記 25:1-9(幕屋の秘密)
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2025.03.24
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190 |
ヨハネの福音書16:16-22 (悲しみと喜びは長くない)
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2025.03.17
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創世記22:15-17(敵の門を勝ち取る者)
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2025.03.09
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創世記3:1-4、(サタンの噓)
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2025.03.02
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ルカの福音書11:1( 主よ、祈りを教えてください)
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2025.02.23
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ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
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2025.02.16
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