メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
マタイの福音書27:62-28:6(妨害のために、もっとうまく行ける人生)
投稿者
tbic
投稿日
2023-05-07 22:13
閲覧数
362
マタイの福音書27:62-28:6「明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」ピラトは彼らに言った。「番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。」そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」
1)キリスト教のキーポイントの真理:十字架と復活。
ヨハネの福音書11:25「イエスは言われた。わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(He dies, will lives.) 」
死んでも生きるという希望あふれるメッセージが福音そのものである。キリスト教のキーポイントのメッセージが、まさに「死んでも終わりではない。」ということです。
2)いのちと光の反対は死と闇ではなく、不在の概念。
つまり命と光の反対は死と暗闇ではなく、それ(死と闇)は単なる不在の概念。死はいのちがない状態で、闇は光がない状態である。だから暗闇は私たちが光として戦うのではなく、光の不在の状態だから、ただ光が差し込んだら、暗闇は消え去る。そして死も命があれば、消え去るものである。結局、私たちが命と光となれば、死と闇は消え去り、必ず勝利する。(Shine light and life.)
3)死の勢力というのは、私たちが失敗することを願うすべてのものが死の勢力。
私たちの周りには死と暗闇の勢力で溢れている。その勢力を定義すれば、私たちがだめになって失敗することを願う者たちが、みんな死と暗闇の勢力である。そうしたら、その死と暗闇の勢力に打ち勝ち、それを乗り越えられる方法は何か?彼らを必ず打ち破ることができるという信仰と、それを乗り越えれば、むしろそれは益となり、祝福に変わるという肯定的な考え方、それを持つことである。
それでは、具体的に死と暗闇の勢力を乗り越えられる方法を分かち合いたい。
1.私たちが失敗することを願う勢力が確かに存在するが、主はそれらを必ず打ち破られるお方であることを信じること。
当時もイエス様の復活を止めようとする勢力があった。本文の27:62-64、明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」
弟子たちはイエス様の復活の約束をすっかり忘れたが、敵たちは全部覚えていた。これは不思議な現象である。信者より不信者のほうがもっと約束をしっかり覚えている。
例1)長崎にある放虎原殉教地(キリスト教の聖地): 徳川幕府の政策により、キリスト教の禁教が厳しくなって、大村藩の潜伏キリシタンの捜索で発覚された603人が逮捕され、406人が打ち首となり、そのうち131人が放虎原で処刑された。信者の首は、見せしめとして街道に一か月間さらされたのである。処刑した者たちは処刑された信者たちが復活することを恐れ、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられている。信じない敵たちも復活を恐れた。
例2)一つの雑居ビルに教会と酒屋があったそうだ。教会は礼拝の時に邪魔になる酒屋がつぶれるように祈った。それで実際に酒屋がつぶれて、酒屋のオーナーは警察に訴えたそうだ。「教会の祈りによってつぶれた」と。しかしその教会の牧師はそれを否定しながら「祈ったからといって酒屋がつぶれるのか?とんでもない話だ」とつぶやいた。酒屋のオーナーと牧師、誰に信仰があるのか、さっぱり分からない。たまには私たちより世の人々のほうがもっと信仰が良いときがある。
本文を読むと、イエス様の復活を止めようとする内容が幼稚すぎる。今日の本文の27:66、「そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。」
石、皇帝の封印、番兵が、主の復活を止めることができるのか?ありえない。私たちは悪魔を過大評価してはならない。悪魔サタンは幼稚な存在。攻撃のパタンがいつも同じである。
だから私たちは悪魔と戦うのではなく、本質を握れば必ず勝利する。本質は何か?つまり礼拝、祈り、みことば中心の生き方をすれば、いのち溢れる人生となって、いのちそのものには力があるから、それを石で止めることは絶対に不可能である。
適用)私たちにとってすべての妨害要素はイエス・キリストの御名で打ち破ることができる。復活の力はどれほど大きな問題であっても、イエスの御名によって、すべてを打ち破ることができる。しかし信仰はいつも試される。だから信仰には恐れが伴う。本文の28:5-6、『御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」』こういうふうに、真理は必ず勝利するから、恐れてはいけない。
しかし残念ながら、多くのクリスチャンが不信者と同じ形の人生を生きる。人間の弱さと罪によって人間であるクリスチャンが倒れ、教会が萎縮される。その結果、神様の栄光と力が疑われる。しかし神様は人間の罪と弱さと何の関係もない。ヨブ記35:6-7、「あなたが罪を犯したとしても、あなたは神に対して何ができるのか。あなたの背きが多くあるとしても、神に対して何をなし得るのか。あなたが正しかったとしても、神に何を与えられるのか。神は、あなたの手から何を受けられるのか。」その通りである。
人間の状態が神様に影響を与えると考えること自体が不信仰である。人間の選択と関係なく、神様はご自身自ら歴史を導かれるお方であることを覚えなければならない。
2.妨害する勢力を益に変えられる神様を信じ切ること。(神の逆説的な摂理)
悪魔はいつも神様に負ける。悪魔は十字架によって自分たちが勝ったと思ったが、それが人類の救いの方法になった。致命的な傷を受けた悪魔サタンは頭が切られた蛇である。
石、封印、番兵はむしろ復活の証拠として活用された。実は復活の最初の証人は番兵だった(ローマ兵士)。つまり神様は妨害するすべてのものが、むしろ証拠資料となるように導かれる逆説的なユーモア溢れる神様。妨害するものによって、もっとうまく行ける人生が私たちクリスチャンである。だから妨害する者が現れたら、むしろ感謝しよう。軍隊の証(刑務所)。
イギリスのWinston Churchill首相が有名になった一話がある。イギリスでは議会政治が発達して、大体みんな紳士的である。しかしある日、一人の女性議員が怒ってWinston Churchillに、無礼に毒説を吐き出した。「もし私があなたの妻だったら、あなたのコーヒーコップに毒を入れたい」と。その時、Winston Churchillはこう答えたそうだ。「もしあなたが私の妻だったら、私は喜んでその毒を飲むよ」と。つまり「もしあなたが私の妻だったら、私は死んだほうがましだ」という意味である。Churchillは、ピンチをユーモアに変える余裕があった。それによって、もっと有名になった。
創世記に出るヨセフも同じである。兄たちは悪魔のようにヨセフを殺そうとしたが、むしろ彼らはヨセフがエジプトの総理大臣になるために一番大きく用いられた。
創世記50:20、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」
だから私たちはすべてを働かせて益としてくださる神様の力を信じなければならない。
だからこそ、クリスチャンは決して恐れてはならないし、落ち込んではならない。私たちが信じる神様は死んだ者も生き返らせる復活の力をもっておられるお方である。だから勝利は必ず、私たちのものであることを忘れてはならない。
コリント第一15:58、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」
3.だからこそ、まず自分の奥まった部屋で霊的戦い(祈りとみことば)の勝利が必要。
モハメド・アリと共に、当時アメリカで最高のボクサーとして知られていたジョー・フレイジャー選手、彼は当時無敗の無敵だったモハメド・アリに最初の一敗を、敗北の苦さを味わわせたヘビー級チャンピオンだったが、有名な名言を残した。「チャンピオンはリングの中で作られるのではなく、ただリングの中で認められるだけだ。」と。つまりリングの中に入って試合する前に、一生懸命に訓練をし鍛えて、チャンピオンになれる実力をもっていれば、リングの中に入って、その実力が確認されるだけだという意味である。
同じメッセージが私たちにも適用できる。私たちの人生の中では様々な戦いがある。そして、その中での勝利は、実際の生活の現場で勝負するのではない。激しい戦いの現場に出る前に、自分の奥まった部屋で神様との個人的な交わりを通して、もう勝負は決まっている。つまり、クリスチャンとして一番本質的なもの、祈りとみことばと礼拝を通して力を得た者が、実際の生活の現場で勝利する者となる。
皆さん、この世を決して甘く見てはならない。毎日私たちを攻撃し、倒そうとしているのが堕落したこの世である。しかし毎日祈りとみことばで武装し主に礼拝する者は、この世の攻撃と誘惑に負けることなく、むしろ大きな勝利をもたらす霊的英雄、素晴らしい人生となる。
だからクリスチャンの人生、イエスを信じるということは他にない。終末論的な目線で、終わりを見ることである。最終的ゴールが何か、常に考え、今は大変だけど、終わりが栄光であることを覚え、いつもみことばの招待に、「アーメン!」と答えながら、歩み続ける者が私たちクリスチャンの人生である。
最後にローマ人への手紙8:31-39、を読んで終わりたい!
『では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』
・妨害によって、むしろうまくいった逆説的な経験があれば、分かち合いましょう。
1)キリスト教のキーポイントの真理:十字架と復活。
ヨハネの福音書11:25「イエスは言われた。わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(He dies, will lives.) 」
死んでも生きるという希望あふれるメッセージが福音そのものである。キリスト教のキーポイントのメッセージが、まさに「死んでも終わりではない。」ということです。
2)いのちと光の反対は死と闇ではなく、不在の概念。
つまり命と光の反対は死と暗闇ではなく、それ(死と闇)は単なる不在の概念。死はいのちがない状態で、闇は光がない状態である。だから暗闇は私たちが光として戦うのではなく、光の不在の状態だから、ただ光が差し込んだら、暗闇は消え去る。そして死も命があれば、消え去るものである。結局、私たちが命と光となれば、死と闇は消え去り、必ず勝利する。(Shine light and life.)
3)死の勢力というのは、私たちが失敗することを願うすべてのものが死の勢力。
私たちの周りには死と暗闇の勢力で溢れている。その勢力を定義すれば、私たちがだめになって失敗することを願う者たちが、みんな死と暗闇の勢力である。そうしたら、その死と暗闇の勢力に打ち勝ち、それを乗り越えられる方法は何か?彼らを必ず打ち破ることができるという信仰と、それを乗り越えれば、むしろそれは益となり、祝福に変わるという肯定的な考え方、それを持つことである。
それでは、具体的に死と暗闇の勢力を乗り越えられる方法を分かち合いたい。
1.私たちが失敗することを願う勢力が確かに存在するが、主はそれらを必ず打ち破られるお方であることを信じること。
当時もイエス様の復活を止めようとする勢力があった。本文の27:62-64、明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。」
弟子たちはイエス様の復活の約束をすっかり忘れたが、敵たちは全部覚えていた。これは不思議な現象である。信者より不信者のほうがもっと約束をしっかり覚えている。
例1)長崎にある放虎原殉教地(キリスト教の聖地): 徳川幕府の政策により、キリスト教の禁教が厳しくなって、大村藩の潜伏キリシタンの捜索で発覚された603人が逮捕され、406人が打ち首となり、そのうち131人が放虎原で処刑された。信者の首は、見せしめとして街道に一か月間さらされたのである。処刑した者たちは処刑された信者たちが復活することを恐れ、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられている。信じない敵たちも復活を恐れた。
例2)一つの雑居ビルに教会と酒屋があったそうだ。教会は礼拝の時に邪魔になる酒屋がつぶれるように祈った。それで実際に酒屋がつぶれて、酒屋のオーナーは警察に訴えたそうだ。「教会の祈りによってつぶれた」と。しかしその教会の牧師はそれを否定しながら「祈ったからといって酒屋がつぶれるのか?とんでもない話だ」とつぶやいた。酒屋のオーナーと牧師、誰に信仰があるのか、さっぱり分からない。たまには私たちより世の人々のほうがもっと信仰が良いときがある。
本文を読むと、イエス様の復活を止めようとする内容が幼稚すぎる。今日の本文の27:66、「そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。」
石、皇帝の封印、番兵が、主の復活を止めることができるのか?ありえない。私たちは悪魔を過大評価してはならない。悪魔サタンは幼稚な存在。攻撃のパタンがいつも同じである。
だから私たちは悪魔と戦うのではなく、本質を握れば必ず勝利する。本質は何か?つまり礼拝、祈り、みことば中心の生き方をすれば、いのち溢れる人生となって、いのちそのものには力があるから、それを石で止めることは絶対に不可能である。
適用)私たちにとってすべての妨害要素はイエス・キリストの御名で打ち破ることができる。復活の力はどれほど大きな問題であっても、イエスの御名によって、すべてを打ち破ることができる。しかし信仰はいつも試される。だから信仰には恐れが伴う。本文の28:5-6、『御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」』こういうふうに、真理は必ず勝利するから、恐れてはいけない。
しかし残念ながら、多くのクリスチャンが不信者と同じ形の人生を生きる。人間の弱さと罪によって人間であるクリスチャンが倒れ、教会が萎縮される。その結果、神様の栄光と力が疑われる。しかし神様は人間の罪と弱さと何の関係もない。ヨブ記35:6-7、「あなたが罪を犯したとしても、あなたは神に対して何ができるのか。あなたの背きが多くあるとしても、神に対して何をなし得るのか。あなたが正しかったとしても、神に何を与えられるのか。神は、あなたの手から何を受けられるのか。」その通りである。
人間の状態が神様に影響を与えると考えること自体が不信仰である。人間の選択と関係なく、神様はご自身自ら歴史を導かれるお方であることを覚えなければならない。
2.妨害する勢力を益に変えられる神様を信じ切ること。(神の逆説的な摂理)
悪魔はいつも神様に負ける。悪魔は十字架によって自分たちが勝ったと思ったが、それが人類の救いの方法になった。致命的な傷を受けた悪魔サタンは頭が切られた蛇である。
石、封印、番兵はむしろ復活の証拠として活用された。実は復活の最初の証人は番兵だった(ローマ兵士)。つまり神様は妨害するすべてのものが、むしろ証拠資料となるように導かれる逆説的なユーモア溢れる神様。妨害するものによって、もっとうまく行ける人生が私たちクリスチャンである。だから妨害する者が現れたら、むしろ感謝しよう。軍隊の証(刑務所)。
イギリスのWinston Churchill首相が有名になった一話がある。イギリスでは議会政治が発達して、大体みんな紳士的である。しかしある日、一人の女性議員が怒ってWinston Churchillに、無礼に毒説を吐き出した。「もし私があなたの妻だったら、あなたのコーヒーコップに毒を入れたい」と。その時、Winston Churchillはこう答えたそうだ。「もしあなたが私の妻だったら、私は喜んでその毒を飲むよ」と。つまり「もしあなたが私の妻だったら、私は死んだほうがましだ」という意味である。Churchillは、ピンチをユーモアに変える余裕があった。それによって、もっと有名になった。
創世記に出るヨセフも同じである。兄たちは悪魔のようにヨセフを殺そうとしたが、むしろ彼らはヨセフがエジプトの総理大臣になるために一番大きく用いられた。
創世記50:20、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」
だから私たちはすべてを働かせて益としてくださる神様の力を信じなければならない。
だからこそ、クリスチャンは決して恐れてはならないし、落ち込んではならない。私たちが信じる神様は死んだ者も生き返らせる復活の力をもっておられるお方である。だから勝利は必ず、私たちのものであることを忘れてはならない。
コリント第一15:58、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」
3.だからこそ、まず自分の奥まった部屋で霊的戦い(祈りとみことば)の勝利が必要。
モハメド・アリと共に、当時アメリカで最高のボクサーとして知られていたジョー・フレイジャー選手、彼は当時無敗の無敵だったモハメド・アリに最初の一敗を、敗北の苦さを味わわせたヘビー級チャンピオンだったが、有名な名言を残した。「チャンピオンはリングの中で作られるのではなく、ただリングの中で認められるだけだ。」と。つまりリングの中に入って試合する前に、一生懸命に訓練をし鍛えて、チャンピオンになれる実力をもっていれば、リングの中に入って、その実力が確認されるだけだという意味である。
同じメッセージが私たちにも適用できる。私たちの人生の中では様々な戦いがある。そして、その中での勝利は、実際の生活の現場で勝負するのではない。激しい戦いの現場に出る前に、自分の奥まった部屋で神様との個人的な交わりを通して、もう勝負は決まっている。つまり、クリスチャンとして一番本質的なもの、祈りとみことばと礼拝を通して力を得た者が、実際の生活の現場で勝利する者となる。
皆さん、この世を決して甘く見てはならない。毎日私たちを攻撃し、倒そうとしているのが堕落したこの世である。しかし毎日祈りとみことばで武装し主に礼拝する者は、この世の攻撃と誘惑に負けることなく、むしろ大きな勝利をもたらす霊的英雄、素晴らしい人生となる。
だからクリスチャンの人生、イエスを信じるということは他にない。終末論的な目線で、終わりを見ることである。最終的ゴールが何か、常に考え、今は大変だけど、終わりが栄光であることを覚え、いつもみことばの招待に、「アーメン!」と答えながら、歩み続ける者が私たちクリスチャンの人生である。
最後にローマ人への手紙8:31-39、を読んで終わりたい!
『では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』
・妨害によって、むしろうまくいった逆説的な経験があれば、分かち合いましょう。
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