メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ルカの福音書3:1-6(神様は荒野に注目される)
投稿者
tbic
投稿日
2023-10-08 21:45
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ルカの福音書3:1-6、皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めの
バプテスマを宣べ伝えた。これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。こうして、すべての者が神の救いを見る。』」
私たちは自分の道ではなく、主の道を歩まなければなりません。ヨーロッパ王室の馬は、その訓練方法があります。ヨーロッパのスウェーデン、オランダ、イギリスなどの国では、日本のようにまだ王室が存続しているので、その王たちは儀式を行うとき、馬が引っ張る馬車に乗ります。
皆さんは王様が乗る馬はどういう風に訓練させるのか、ご存じですか?それは馬が何をしてもホイッスルを一回吹くと、その場でぴたっと止まること、それが王様が乗る駿馬、優れた馬の一番大切な訓練であり、資格要件だそうです。その王室では一番りっぱな駿馬たちを選んで、色々な訓練をさせるのですが、その中でも「王様が乗る駿馬の中の駿馬」を選び取るために、その馬たちを砂漠に連れて行きます。
砂漠の中で三日間、馬たちに一滴の水も飲ませません。そうしたら、馬たちは喉が渇いて大騒ぎになります。その馬たちを水のある所、つまりオアシスに連れて行って水が見え始めたら、馬たちは気が狂ったように水の所へ走り出します。しかし馬たちがオアシスに着く前に後ろでホイッスルをさっと吹きます。そうしたら、ホイッスルを吹いても、ほとんどの馬たちはそのまま口を水の中に突っ込んで水をゴクッゴクッと飲みます。しかしその中でも水を飲むのを止める馬がいます。その馬がまさに、王様が乗る「王の馬」となります。
皆さん、私たちは王であられるイエス・キリストから呼ばれ、今その方を乗せる馬として訓練されています。神の人は、ただその方の御言葉通り従わなければなりません。自我はなくなって、主が命じる尊い働きだけをしなければなりません。ここにいらっしゃるすべての方は主が「行きなさい」と言われたら行って、主が「止まりなさい」と言われたら止まる、王を乗せた駿馬たちになってください。自分の主張、自分の頑固さは捨てて、ただ御言葉通り動き、その御言葉を宣べ伝える人になること、これが駿馬(王の馬)として選ばれた、私たちの生き方です。自分の道ではなく、王(主)の道に進むということです。
今日の本文、ルカの福音書3:4、「これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
今日私たちが注意しなければならないことは、多くの人々が主の働きをすると言いながらも、実は自分の仕事をする人が以外に多いのです。しかし自分の名前を出したり、自分の収入が多くなったり、自分の有益になる働きは主の働きではない可能性が高いです。なぜかというと、主ではなく、自分が高くなることだからです。
主の働きは自分が低くなって、自分にあまり有益になることは、ほとんどありません。むしろ自分には損害になることがたくさんあります。もちろん結局のところ、自分にとって有益になるのですが、実は自分が害を受け、低くなることが主の働きの可能性が高いです。それを聖書はずっと証言しています。
だから自分が主人になったら、だめです。主が主人にならなければなりません。しかし自分を高くし、自分が現れたら、絶対にだめです。主が願っておられることは、自分の国ではなく、神の国のために用いられること、これを主は願っておられます。そのためなら、私たちは主演ではなく助演でも、エキストラでも大丈夫です。必ず、自分が主演になる必要はありません。私たちはみんな主人であられる主を高くし、御国を高くする人々だからです。神の国ではそのように仕える人が主に注目される「主演」です。
私たちは自分のメッセージではなく、主のメッセージを伝える人々です。今日の本文、ルカの福音書3:3、「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」と出ます。 バプテスマのヨハネは荒野で神様の声を聞きましたが、聞くことで終わったのではなく、聞いた御言葉通り、人々に伝え始めました。人々が好きであれ、嫌であれ、関係なく、聴衆たちの顔を伺わず、また自分をアピールして、自分を自慢するのではなく、彼は聞いた通り、自分のメッセージではなく、主のメッセージをそのまま伝えました。コリント第二4:5、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」
皆さん、荒野の人はバプテスマのヨハネだけではありません。たくさんの人々が、特に多くのクリスチャンが荒野を通っています。約 2世紀の前、イギリスに一人の牧師がいました。牧会がうまく行かず、教会に訪ねて来る人も、ほとんどいませんでした。彼は失望と絶望が重なって、結局牧会をやめることにしたのです。 しかし日曜学校に一人の学生がいたので、牧師はその子に言いました。「テイラー、 私はもうこの教会の牧会をやめることにした。」その子はビックリして、「先生、どうしたんですか。」「うん、伝道もなかなかできないし、訪ねて来る人もいないの。来週から私はこの教会に来ないんだ。」「牧師先生、そんなこと言わないでください。私がいるんじゃないですか。私を育ててください。」
突然その子の声が、牧師には神の声のように聞こえました。だからその子一人を大切に育て、一生懸命に御言葉を教えました。歳月が流れ、その子は中国のたくさんのたましいを主に立ち返らせた神の人、ハードスン・テイラーだったのです。彼は荒野で育てられた偉大な神の働き人でした。またハードスン・テイラーを育てたその牧師も「荒野の人」だったのです。荒野は神様が育てる最高の場所です。
ユ・アンジンという韓国の詩人が 作った、「野花の丘で」という詩があるのですが、皆さんにご紹介したいと思います。「野花の丘で悟った。高価な花は人が育て、値打ちのない野花は神が育てる。だから野花の香りはそらの香り。そらの目盛りと地の目盛りはいつも違っている。それも野花の丘で悟った。」
皆さん、野花がいっぱい咲いている丘とか、野原を行ってみてください。本当に野花がほれぼれするほど見事に咲いています。あんなにたくさん咲いているから全然価値のないものに見えますが、詩人は歌います。値打ちのない野花こそ、神が育てる花だと。
神様が育てるから、野花はそらの香りです。だからこそ、野花の香りは天の香りです。それは神の目盛り(基準)と、世の目盛り(基準)が全然違うように、世の中ではお金と権力、名誉を高く評価しますが、神様はそれとは関係なく、私たちのような無名の野花をもっと尊く見られるわけです。
私もたまに、「私が野原(荒野)に咲いた野花のようだ」と思うときがあります。温室で育つ高価な花と比べて、捨てられた野花のように感じられるときがあります。私は、宣教師として日本に来たばかりの時は、「自分は富士山に咲いている無名の野花だ」と思いました。今も、あまり変わらない無名の野花ですが、しかしそのとき悟りました。野花が美しい理由は神様が直接育てるからだと。
私が日本宣教のために日本に初めて来たのは、1997年12月10日でした。独身の時です。日本に来たその次の日、一応日本語学校に登録してから日本の生活が始まりました。しかしその日の夜、夢の中で主は私にこう言われました。「日本はお金が偶像の国だ。あなたは絶対にお金が偶像になってはならない。」テモテ第一6:10、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」この御言葉が与えられ、早速日曜日に近所の教会(志村栄光教会)に行って、自分がもっていたお金を全部献金しました。それはお金ではなく、神様にだけ頼るという信仰の決断でした。
その時、日曜日の朝、教会に出席して礼拝をささげましたが、言葉が通じなかったのでちょっと困りました。しかし教会の週報のお知らせを見たら、トルコに大きな地震が起きて大変だから、そのため教会が義援金を集めているとの報告が書かれていたのです。漢字はある程度理解していたので、その内容が分かりました。それも私が献金しようとした金額の、ちょうどその金額が募金目標で足りないとの報告でした。私はそれが神様のしるしだと思って、教会に持ってきた私の全財産(初期の留学費用)を、その場で全部献金したわけです。もちろん神様は、私にお金を要求されたわけではありません。ただそれは、神様にだけ頼るという私の信仰の決断でした。
しかしその後の、次の日からが問題でした。言葉も通じなかったし、生活自体が困り果てて、アルバイト先を探し回り、家の近くにある新聞(読売新聞)の店で、新聞配達を始めました。そこではあまり会話も要らなかったので、本当に助かりました。でも一番の問題は給料の日まで一カ月の間、どう生きるべきかということでした。一カ月の生活費は残した方が良かったのかと少し後悔はしましたが、最後の最後まで信仰をもって突破しようと決心しました。
そして次の日から新聞配達が始まったのですが、不思議なことが毎日起きました。ほぼ毎日新聞配達をする中、地面に落ちているパンとおにぎりが目に入りました。それを拾って食べました。賞味期限が切れていたかどうかは当時確認していなかったので分かりませんが、とにかく私にとってはエリヤにパンと肉を運んだカラスの存在を、そのように体験しました。その時から未だに拾うくせがあって、今もたまには拾って使うのです。
またある日は地面に100円も500円も落ちていたり、あるおばあさんは夜明けの4時頃に自分の家の玄関ドアの前で私を待っていて、3000円も入った封筒を渡してくださいました。そんな恵みを体験しながら、あっという間に一カ月が過ぎました。その一カ月の間、一日も飢えていなかったのです。本当にハレルヤ!感謝でした。しかし給料をもらった後は、そんな奇跡がほとんどありませんでした。不思議でたまりませんでした。
皆さん、この世の華やかな花と比べて、自分がみすぼらしく思う時があれば、「私は神様が育てる、天国の香りを放つ野花だ。」と言ってください。こういう信仰と確信を持って歩み続けること、これを神様が願っておられます。
私たちはこれから、荒野に出て行くノウハウを学ばなければなりません。アブラハム・リンカーンは一人でいる時間を大切にし、その静かな時間を主と交わる時間(祈りの時間)として用いたそうです。彼は一人でいる時間(荒野の時間)をたくさん持つことによって、アメリカでは例のない偉大な大統領となりました。ただ一人でいることだけでも有益ですが、神の御前で一人で神の声を聞き、御前にいる自分を発見した時、その荒野での時間は、どれほど素晴らしい時間でしょうか。
皆さん、皆さんは今、荒野のような状況にいるのでしょうか?「私は何もない。誰も私を助けない。」と落ち込んでいないでしょうか?そうしないで、ただ神の声に耳を傾ける、「荒野の人」になってください。荒野は神の声を聞くのに、一番良い場所、良い時間です。神様が私たちに、特別に与えてくださった時間と場所がまさに、荒野であることを、ちゃんと覚えてください。神様は、「荒野の人」に注目なさるお方です。今日の本文を見ますと、神様はバプテスマのヨハネに注目なさいました。
皆さん、ある大きな集まりの集会場に行けば、ちょっと退屈な時間があります。それはそこに参加した貴賓席に座っている貴賓たちの名前を、順番に呼んで上げる時間です。「忙しい中でも、この場に足を運んでくださった何々団体の長、誰々様」とか、「何々地域の議員様」とか、「有名な芸能人の誰々様」など。そして一番最後に、「その他、皆さん一同」という順番で「皆さん一同」が出てきます。私はどの集まりに行っても、一番最後のところの「皆さん一同」に属しているから、たくさんの有名人を呼ぶその時間が、私にとっては、そんなに愉快な時間ではありません。ところが、私は聖書を読みながら、聖書にも同じく、「有名人の名前を呼ぶシーン」が出てくるのを見て驚きました。しかしそこを詳しく読んで見ると、やっぱりこの世の方式とはまったく異なることでした。
それは今日の本文、ルカの福音書3:1-2です。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」
ここには 5名の政治権力者が出てきて、続いてアンナスとカヤパ、二人の宗教権力者が出てきます。 しかし彼らはみんなエキストラで、一番最後に出てくる主人公、バプテスマのヨハネを紹介するための、わき役たちにすぎませんでした。
神様は、異邦の皇帝にも関心がなかったし、ユダヤの大祭司にも特別な関心がありませんでした。ただ、「荒野にいたバプテスマのヨハネ」に注目なさったわけです。
皆さん、ローマ皇帝も大祭司カヤパもアンナスも、主の目には注目の対象ではありませんでした。主はただ荒野の人、バプテスマのヨハネだけに注目なさったのです。彼は荒野でみすぼらしい服と質素な食べ物を食べていましたが、神の御言葉を聞いて、その御言葉をそのまま伝えました。だからその当時はバプテスマのヨハネが神様にとって一番必要な人だったということです。
だからこそ、今私たちがいる荒野は嘆きの場所ではなく、感謝すべき場所です。その荒野で、自分の使命を全うする神の人、神様から注目されるバプテスマのヨハネのような人になってください。神の御言葉は荒野に下ってきます。荒野に住んでいたバプテスマのヨハネは、当時誰も聞いていない神の声を聞きました。神の御言葉が彼に臨んだのです。今日の本文、ルカの福音書3:2、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」
しかしこの御言葉は宮殿にいた官僚たちや宗教行事に忙しかった大祭司アンナスとカヤパには聞こえませんでした。ただ荒野にいたヨハネだけに聞こえたのです。まさに荒野は、神の声が聞こえてくる場所なのです。
使徒ヨハネがパトモス島(荒野)へ捕まって行ったとき、彼もそこで神の声を聞きました。また大きな魚のお腹の中(荒野)で苦しんでいたヨナも、そこで神様に出会ったのです。彼の一番大切な教育は魚のお腹の中で受けられたということです。
皆さん、神の声(御言葉)が聞こえてきたら、そこが都会であれ、田舎であれ、そこは荒野です。しかし神の声が聞こえてこないのであれば、そこが田舎の荒野であっても、そこは荒野ではありません。今、皆さんがいる所はどこでしょうか?神の声が聞こえてくる荒野が真の祝福の場所です。
バプテスマを宣べ伝えた。これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。こうして、すべての者が神の救いを見る。』」
私たちは自分の道ではなく、主の道を歩まなければなりません。ヨーロッパ王室の馬は、その訓練方法があります。ヨーロッパのスウェーデン、オランダ、イギリスなどの国では、日本のようにまだ王室が存続しているので、その王たちは儀式を行うとき、馬が引っ張る馬車に乗ります。
皆さんは王様が乗る馬はどういう風に訓練させるのか、ご存じですか?それは馬が何をしてもホイッスルを一回吹くと、その場でぴたっと止まること、それが王様が乗る駿馬、優れた馬の一番大切な訓練であり、資格要件だそうです。その王室では一番りっぱな駿馬たちを選んで、色々な訓練をさせるのですが、その中でも「王様が乗る駿馬の中の駿馬」を選び取るために、その馬たちを砂漠に連れて行きます。
砂漠の中で三日間、馬たちに一滴の水も飲ませません。そうしたら、馬たちは喉が渇いて大騒ぎになります。その馬たちを水のある所、つまりオアシスに連れて行って水が見え始めたら、馬たちは気が狂ったように水の所へ走り出します。しかし馬たちがオアシスに着く前に後ろでホイッスルをさっと吹きます。そうしたら、ホイッスルを吹いても、ほとんどの馬たちはそのまま口を水の中に突っ込んで水をゴクッゴクッと飲みます。しかしその中でも水を飲むのを止める馬がいます。その馬がまさに、王様が乗る「王の馬」となります。
皆さん、私たちは王であられるイエス・キリストから呼ばれ、今その方を乗せる馬として訓練されています。神の人は、ただその方の御言葉通り従わなければなりません。自我はなくなって、主が命じる尊い働きだけをしなければなりません。ここにいらっしゃるすべての方は主が「行きなさい」と言われたら行って、主が「止まりなさい」と言われたら止まる、王を乗せた駿馬たちになってください。自分の主張、自分の頑固さは捨てて、ただ御言葉通り動き、その御言葉を宣べ伝える人になること、これが駿馬(王の馬)として選ばれた、私たちの生き方です。自分の道ではなく、王(主)の道に進むということです。
今日の本文、ルカの福音書3:4、「これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
今日私たちが注意しなければならないことは、多くの人々が主の働きをすると言いながらも、実は自分の仕事をする人が以外に多いのです。しかし自分の名前を出したり、自分の収入が多くなったり、自分の有益になる働きは主の働きではない可能性が高いです。なぜかというと、主ではなく、自分が高くなることだからです。
主の働きは自分が低くなって、自分にあまり有益になることは、ほとんどありません。むしろ自分には損害になることがたくさんあります。もちろん結局のところ、自分にとって有益になるのですが、実は自分が害を受け、低くなることが主の働きの可能性が高いです。それを聖書はずっと証言しています。
だから自分が主人になったら、だめです。主が主人にならなければなりません。しかし自分を高くし、自分が現れたら、絶対にだめです。主が願っておられることは、自分の国ではなく、神の国のために用いられること、これを主は願っておられます。そのためなら、私たちは主演ではなく助演でも、エキストラでも大丈夫です。必ず、自分が主演になる必要はありません。私たちはみんな主人であられる主を高くし、御国を高くする人々だからです。神の国ではそのように仕える人が主に注目される「主演」です。
私たちは自分のメッセージではなく、主のメッセージを伝える人々です。今日の本文、ルカの福音書3:3、「ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」と出ます。 バプテスマのヨハネは荒野で神様の声を聞きましたが、聞くことで終わったのではなく、聞いた御言葉通り、人々に伝え始めました。人々が好きであれ、嫌であれ、関係なく、聴衆たちの顔を伺わず、また自分をアピールして、自分を自慢するのではなく、彼は聞いた通り、自分のメッセージではなく、主のメッセージをそのまま伝えました。コリント第二4:5、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」
皆さん、荒野の人はバプテスマのヨハネだけではありません。たくさんの人々が、特に多くのクリスチャンが荒野を通っています。約 2世紀の前、イギリスに一人の牧師がいました。牧会がうまく行かず、教会に訪ねて来る人も、ほとんどいませんでした。彼は失望と絶望が重なって、結局牧会をやめることにしたのです。 しかし日曜学校に一人の学生がいたので、牧師はその子に言いました。「テイラー、 私はもうこの教会の牧会をやめることにした。」その子はビックリして、「先生、どうしたんですか。」「うん、伝道もなかなかできないし、訪ねて来る人もいないの。来週から私はこの教会に来ないんだ。」「牧師先生、そんなこと言わないでください。私がいるんじゃないですか。私を育ててください。」
突然その子の声が、牧師には神の声のように聞こえました。だからその子一人を大切に育て、一生懸命に御言葉を教えました。歳月が流れ、その子は中国のたくさんのたましいを主に立ち返らせた神の人、ハードスン・テイラーだったのです。彼は荒野で育てられた偉大な神の働き人でした。またハードスン・テイラーを育てたその牧師も「荒野の人」だったのです。荒野は神様が育てる最高の場所です。
ユ・アンジンという韓国の詩人が 作った、「野花の丘で」という詩があるのですが、皆さんにご紹介したいと思います。「野花の丘で悟った。高価な花は人が育て、値打ちのない野花は神が育てる。だから野花の香りはそらの香り。そらの目盛りと地の目盛りはいつも違っている。それも野花の丘で悟った。」
皆さん、野花がいっぱい咲いている丘とか、野原を行ってみてください。本当に野花がほれぼれするほど見事に咲いています。あんなにたくさん咲いているから全然価値のないものに見えますが、詩人は歌います。値打ちのない野花こそ、神が育てる花だと。
神様が育てるから、野花はそらの香りです。だからこそ、野花の香りは天の香りです。それは神の目盛り(基準)と、世の目盛り(基準)が全然違うように、世の中ではお金と権力、名誉を高く評価しますが、神様はそれとは関係なく、私たちのような無名の野花をもっと尊く見られるわけです。
私もたまに、「私が野原(荒野)に咲いた野花のようだ」と思うときがあります。温室で育つ高価な花と比べて、捨てられた野花のように感じられるときがあります。私は、宣教師として日本に来たばかりの時は、「自分は富士山に咲いている無名の野花だ」と思いました。今も、あまり変わらない無名の野花ですが、しかしそのとき悟りました。野花が美しい理由は神様が直接育てるからだと。
私が日本宣教のために日本に初めて来たのは、1997年12月10日でした。独身の時です。日本に来たその次の日、一応日本語学校に登録してから日本の生活が始まりました。しかしその日の夜、夢の中で主は私にこう言われました。「日本はお金が偶像の国だ。あなたは絶対にお金が偶像になってはならない。」テモテ第一6:10、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」この御言葉が与えられ、早速日曜日に近所の教会(志村栄光教会)に行って、自分がもっていたお金を全部献金しました。それはお金ではなく、神様にだけ頼るという信仰の決断でした。
その時、日曜日の朝、教会に出席して礼拝をささげましたが、言葉が通じなかったのでちょっと困りました。しかし教会の週報のお知らせを見たら、トルコに大きな地震が起きて大変だから、そのため教会が義援金を集めているとの報告が書かれていたのです。漢字はある程度理解していたので、その内容が分かりました。それも私が献金しようとした金額の、ちょうどその金額が募金目標で足りないとの報告でした。私はそれが神様のしるしだと思って、教会に持ってきた私の全財産(初期の留学費用)を、その場で全部献金したわけです。もちろん神様は、私にお金を要求されたわけではありません。ただそれは、神様にだけ頼るという私の信仰の決断でした。
しかしその後の、次の日からが問題でした。言葉も通じなかったし、生活自体が困り果てて、アルバイト先を探し回り、家の近くにある新聞(読売新聞)の店で、新聞配達を始めました。そこではあまり会話も要らなかったので、本当に助かりました。でも一番の問題は給料の日まで一カ月の間、どう生きるべきかということでした。一カ月の生活費は残した方が良かったのかと少し後悔はしましたが、最後の最後まで信仰をもって突破しようと決心しました。
そして次の日から新聞配達が始まったのですが、不思議なことが毎日起きました。ほぼ毎日新聞配達をする中、地面に落ちているパンとおにぎりが目に入りました。それを拾って食べました。賞味期限が切れていたかどうかは当時確認していなかったので分かりませんが、とにかく私にとってはエリヤにパンと肉を運んだカラスの存在を、そのように体験しました。その時から未だに拾うくせがあって、今もたまには拾って使うのです。
またある日は地面に100円も500円も落ちていたり、あるおばあさんは夜明けの4時頃に自分の家の玄関ドアの前で私を待っていて、3000円も入った封筒を渡してくださいました。そんな恵みを体験しながら、あっという間に一カ月が過ぎました。その一カ月の間、一日も飢えていなかったのです。本当にハレルヤ!感謝でした。しかし給料をもらった後は、そんな奇跡がほとんどありませんでした。不思議でたまりませんでした。
皆さん、この世の華やかな花と比べて、自分がみすぼらしく思う時があれば、「私は神様が育てる、天国の香りを放つ野花だ。」と言ってください。こういう信仰と確信を持って歩み続けること、これを神様が願っておられます。
私たちはこれから、荒野に出て行くノウハウを学ばなければなりません。アブラハム・リンカーンは一人でいる時間を大切にし、その静かな時間を主と交わる時間(祈りの時間)として用いたそうです。彼は一人でいる時間(荒野の時間)をたくさん持つことによって、アメリカでは例のない偉大な大統領となりました。ただ一人でいることだけでも有益ですが、神の御前で一人で神の声を聞き、御前にいる自分を発見した時、その荒野での時間は、どれほど素晴らしい時間でしょうか。
皆さん、皆さんは今、荒野のような状況にいるのでしょうか?「私は何もない。誰も私を助けない。」と落ち込んでいないでしょうか?そうしないで、ただ神の声に耳を傾ける、「荒野の人」になってください。荒野は神の声を聞くのに、一番良い場所、良い時間です。神様が私たちに、特別に与えてくださった時間と場所がまさに、荒野であることを、ちゃんと覚えてください。神様は、「荒野の人」に注目なさるお方です。今日の本文を見ますと、神様はバプテスマのヨハネに注目なさいました。
皆さん、ある大きな集まりの集会場に行けば、ちょっと退屈な時間があります。それはそこに参加した貴賓席に座っている貴賓たちの名前を、順番に呼んで上げる時間です。「忙しい中でも、この場に足を運んでくださった何々団体の長、誰々様」とか、「何々地域の議員様」とか、「有名な芸能人の誰々様」など。そして一番最後に、「その他、皆さん一同」という順番で「皆さん一同」が出てきます。私はどの集まりに行っても、一番最後のところの「皆さん一同」に属しているから、たくさんの有名人を呼ぶその時間が、私にとっては、そんなに愉快な時間ではありません。ところが、私は聖書を読みながら、聖書にも同じく、「有名人の名前を呼ぶシーン」が出てくるのを見て驚きました。しかしそこを詳しく読んで見ると、やっぱりこの世の方式とはまったく異なることでした。
それは今日の本文、ルカの福音書3:1-2です。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」
ここには 5名の政治権力者が出てきて、続いてアンナスとカヤパ、二人の宗教権力者が出てきます。 しかし彼らはみんなエキストラで、一番最後に出てくる主人公、バプテスマのヨハネを紹介するための、わき役たちにすぎませんでした。
神様は、異邦の皇帝にも関心がなかったし、ユダヤの大祭司にも特別な関心がありませんでした。ただ、「荒野にいたバプテスマのヨハネ」に注目なさったわけです。
皆さん、ローマ皇帝も大祭司カヤパもアンナスも、主の目には注目の対象ではありませんでした。主はただ荒野の人、バプテスマのヨハネだけに注目なさったのです。彼は荒野でみすぼらしい服と質素な食べ物を食べていましたが、神の御言葉を聞いて、その御言葉をそのまま伝えました。だからその当時はバプテスマのヨハネが神様にとって一番必要な人だったということです。
だからこそ、今私たちがいる荒野は嘆きの場所ではなく、感謝すべき場所です。その荒野で、自分の使命を全うする神の人、神様から注目されるバプテスマのヨハネのような人になってください。神の御言葉は荒野に下ってきます。荒野に住んでいたバプテスマのヨハネは、当時誰も聞いていない神の声を聞きました。神の御言葉が彼に臨んだのです。今日の本文、ルカの福音書3:2、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」
しかしこの御言葉は宮殿にいた官僚たちや宗教行事に忙しかった大祭司アンナスとカヤパには聞こえませんでした。ただ荒野にいたヨハネだけに聞こえたのです。まさに荒野は、神の声が聞こえてくる場所なのです。
使徒ヨハネがパトモス島(荒野)へ捕まって行ったとき、彼もそこで神の声を聞きました。また大きな魚のお腹の中(荒野)で苦しんでいたヨナも、そこで神様に出会ったのです。彼の一番大切な教育は魚のお腹の中で受けられたということです。
皆さん、神の声(御言葉)が聞こえてきたら、そこが都会であれ、田舎であれ、そこは荒野です。しかし神の声が聞こえてこないのであれば、そこが田舎の荒野であっても、そこは荒野ではありません。今、皆さんがいる所はどこでしょうか?神の声が聞こえてくる荒野が真の祝福の場所です。
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列王記第一18:44-45(日本宣教)
tbic
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2024.07.29
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