メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ヤコブの手紙5:16(クリスチャンが祈らない理由)
投稿者
tbic
投稿日
2024-02-04 20:03
閲覧数
271
ヤコブの手紙5:16「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」
祈りがすべての問題の解決の鍵であり、すべての約束の答えであることを知っていながらも私たちが祈りを無視することについて、聖書は警告しています。皆さん、祈りについてどれぐらい考えていますか?毎日主と共に交わる尊い時間、祈りの時間について、深く考えたことはありますか?
私たちがクリスチャンとして、主と共に交わる時間、主の声を聞き、主を知ることを学ばなければクリスチャンの人生の意味はなくなります。つまり信仰によって祈ることを学ばなければ、神様は私たちを見て悲しまれると思います。それは信仰に鈍かったイスラエルの民のように、私たちが主と共に交わる祈りの時間が少ないからです。エレミヤ書2:32、「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数え切れない。」
今日はクリスチャンが祈らない理由について、いくつかを皆さんと分かち合いたいと思います。
皆さんもご存知のように、イエス様が死なれたことによって、私たちは神の御座に大胆に出て行くことが出来るようになりました。へブル人への手紙4:16、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
天の父なる神様と私たちの間にさえぎるものは何もありません。私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを信じれば、主の臨在の中に、すぐにも入ることができます。その方の臨在の中で喜びを味わい、祈りの課題を申し上げ、主を賛美することができます。つまり神の至聖所に入れるすべての権利を持つようになります。
これからさらに、難しい時代、苦難の時がやって来ます。主が言われます。「主の日が近づいて来た。今が、わたしの顔を求める時だ。わたしと奥まった部屋に行って交わろう。わたしを知るべき時がやって来た。」
私たちがクリスチャンとして主と共に交わる素晴らしさを知らなければ、私たちの中におられる聖霊様を悲しませ、神の尊い恵みを侮辱することになります。主は言われます。「あなたは毎日祈りの場に出て来ないことによって、わたしの十字架の死が無駄であると言っている。」テトスへの手紙1:16、「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」
私たちはただ無視しています。主の血潮と命によって支払われた贖いの働きと、神の御顔を求め、すべての問題の解決を得る祈りの働きを、あまりにも軽く取り扱っています。さらに、神の恵みを侮辱し、聖霊様を戸惑いさせます。へブル人への手紙10:29、「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」
皆さん、祈ることがなぜこんなに難しいのでしょうか。私は今、誰も咎めることではありません。これは自分に対してのメッセージです。
それでは一番目、多くのクリスチャンが祈りが出来ない理由は、イエス様に対して生ぬるい信仰、中途半端な愛を持っているからです。 彼らは小さな代価だけを支払って、小さな愛だけを持っています。そして彼らは大きな代価を支払うべき大きな愛はささげたくありません。主は言われます。「わたしはあなたのために働いているが、あなたはわたしに会えない日々が続いている。もちろんあなたはわたしについてすべての人に話し、わたしを愛すると言っている。しかしあなたはわたしに会えない日々が続いている。」
主に対して冷たい愛を持っている人々は祈りません。死んだクリスチャンが祈ることを、誰も期待できません。祈りは彼らの本性ではありませんでした。もしイエス様を愛すると言いながらイエス様と時間を過ごさない人がいるのであれば、その人はどこで、どうやってイエス様を愛することができるのでしょうか。
私たちが教会で大きな声で賛美し、街の中で、あるいは電車の中でイエス様を伝えても、奥まった部屋で主と共にいなければ、それは主を愛することではありません。教会での礼拝とか、一部の集会では主と共に親密な時間を持つことはできません。もちろん教会の集まりは素晴らしいことです。私たちは集まって主を賛美し、礼拝をささげます。しかしそれは教会のプログラムの一部になる可能性があります。
一人で主と共に交わる時間なしに、主を愛する方法はありません。もちろん私たちは、いつも主を愛しています。しかしその愛を表すためには、一人で主と共に交わる時間が必要です。「私たちはキリストと結婚した」と聖書は言われます。その方は、私たちの配偶者です。夫と妻は、二人きりの時間を持ちます。二人きりの親密さを楽しむ時間がなければ、それは結婚生活ではありません。主と共に交わる親密さが、まさにそういう時間を持つことです。
私たち一人ひとりはイエス様にとって、すべてです。イエス様には誰もいません。私たちが全部です。しかし人々が祈らない理由は、もうこれ以上イエス様と愛の関係ではないからです。黙示録2:4、「あなたは初めの愛から離れてしまった」と。つまり、「何かによって、あなたは前に持っていた愛から離れた。あなたはこの世に流されてしまった。」と主は言われます。
皆さん、私は祈りの必要性について、続けて説教することができます。私は説教を通して、皆さんに刺すようなメッセージをすることができます。大きな声で叫ぶこともできます。しかし皆さんを変えることはできません。説教が教訓を与えることはありますが、実際に皆さんを祈りの勇士に変えることはできません。つまりイエス様との親密さを説教がもたらすことはできないのです。それは皆さんが直接、従順によって、祈りでもたらすことです。
イエス様との親密さをもたらす唯一の方法はこういう風に祈ることです。「主よ!初めの愛を私に回復させてください。これは大きな代価を要求し、訓練された生き方が必要であることを私に悟らせてください。」
二番目、クリスチャンが祈らないもう一つの理由は、間違った優先順位です。
多くのクリスチャンは祈りが優先順位ではなく、家族とか仕事が優先順位です。しかし、私たちは祈りがすべての上に最優先順位でなければ、たぶん祈らないと思います。主は言われます。「あなたに会いたい。あなたの家族、仕事、すべての上に、まずわたしを優先にしてほしい。」と。
優先順位が大切です。私たちは祈りを人生の中で最優先する前には祈らないと思います。祈る時間がないと言っている人がいますが、そういう人も自分が優先順位として決めたことのためにはすべての時間を出します。友達から電話があったら、時間を出します。そして他のすべてのことをする時間はあります。しかし祈る時間は出せません。これは優先順位の問題です。
私は何年前か、韓国で一番大きい教会の中で一つの教会の牧師が「私はあまりにも忙しくて、祈る時間がない。」と言っているのを聞きました。その教会は今、死んでいる教会です。人数は多いのですが、その教会は、もう命はありません。
三番目、多くのクリスチャンが祈りなしに生きる方法を学んだので、祈りません。
彼らは祈る必要のない生き方に慣れています。ただ教会に来ることだけで満足しています。彼らは教会の生活にはまじめです。しかし私は祈りなしに生きる方法を学んだクリスチャンが怖いです。彼らは言っています。「私は道徳的に問題ないし、誰にも傷つけたことがないから、主は喜ばれる。私は最善を尽くしたし、人々を助けようとした。またあまり罪も犯してないし、これが私ができる最善である。そして私は日曜日ごとにちゃんと教会に来ている。私はもう大丈夫。」と。
彼らは「自分なりの正しい生け贄」を主にささげました。それが主から要求されたすべてだと思い込んでいます。私は今、恐れています。その日、主の大いなる日に、御座の前に出て来る人たちに、主は言われます。マタイの福音書7:22-23、『その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」』と。つまり「わたしはあなたを知らない。あなたはわたしと話したことがない。あなたはわたしの臨在の中にいなかった。」と主が言われます。
これが今、私が一番恐れていることです。まさに、今主がこう言われる気がします。詩篇69:8、「私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。」祈らないクリスチャンたち、主の道を学び、主と共に交わる時間が全然ない人々が、主が再び来られるときに、どうやって引き上げられることができるのでしょうか。いのちの書が開かれ、主と共に送った時間の記録が全くないのに、どうやって主の御前に立つことができるのでしょうか。黙示録20:12、「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」
たぶんその人は主の御前でこう言うかも知れません。「主よ。私が祈らなかったことを私も知っています。しかし私には理由がありました。あまりにも忙しかったし、やることがたくさんあって、主に会う時間がありませんでした。主よ。もちろん私は多くの時間をあなたと一緒に送らなかったことを自分も知っています。しかし私には本当に時間がありませんでした。」
ある人は、「私が祈る信者ではないことをもう知っています。しかしこれからは永遠に主と共に交わる準備が出来ています。私は生きている間には主を深く知りませんでした。しかしこれからは私たちに、お互いに深く知り合う永遠の時間があります。」
皆さん、その言い訳が通じると思いますか?私たちは長い間、祈りなしに生きることができます。しかし祈らない人が深い絶望に落ちたら、ますます自分の肉に頼ってしまいます。彼らは神の右の手ではなく、自分の肉の腕を頼りにしようとします。その結果は、言うまでもありません。
四番目、祈りにはちゃんと答えがあることを信じられないから、祈りをやめてしまいます。
「先生、私は祈りました。努力もしたし、断食もしました。やるべきことは全部やりました。そして主を信じます。しかし長い間祈って来たのに、何も起こりませんでした。」と。こういう風に、多くのクリスチャンが失望して、祈りを諦めています。
私はたまに、こういう話を聞きます。「私に信仰が足りないのか、問題があるのか、分かりませんが、祈りが私には働かないし、答えられません。」しかし皆さん、自分の欲と快楽のために祈れば、主は祈りに答えられないと聖書は明確にしています。ヤコブの手紙4:3、「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」
私たちは自分が願う何かを満足させるために祈っています。私たちの心を主に服従させ、主の時に主の方法で求めません。自分の欲を満足させるために、主に祈りで要求ばかりしています。こういう祈りは一切答えられません。当たり前のことです。しかし義人の祈りはちゃんと答えられます。箴言15:29、「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」ヤコブ5:16、今日の本文です。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」主が言われたこの御言葉を、ちゃんと握りしめてください。そしてイエス様は言われます。マルコの福音書11:24、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」実際に私たちが信じれば、祈りの答えを待つはずです。祈りの答えを期待しながら、忍耐します。祈りの答えが長引いても、それは問題ではありません。主を信じるからです。
皆さん、長い間祈って来たことが答えられないもう一つの理由は、主が私たちの信仰をテストしておられるからです。主は私たちの信仰をテストします。なぜでしょうか?私たちが純金のような信仰を持つことを願っておられるからです。それで、もっとたくさんの祈りの答えをもらえるように、そして自分だけでなく、家族や友人、教会と罪人たちのために、純金のような清い信仰の人になることを主は切に願っておられます。だから主は時々祈りの答えを保留なさいます。直ちに答えられません。「私は祈りをあきらめる。主の答えは全然ない。」と私たちがこう言う時まで、主は私たちをテストしておられます。しかし信仰を持って主を信頼し続ければ、私たちに対する準備が終わった時点で、必ず答えが来ます。その時は純金のような清いクリスチャン、強い信者となっているはずです。
皆さん、教会は祈祷会を持っているのですが、こういう祈りの集まりは本当に素晴らしいことです。この時間はとても大切です。しかし祈りの集まりがただ自慢の手段となれば、それは何の意味もありません。祈りの集まり自体が祈る教会を表すことではありません。
つまり祈りに集まった人々が、それぞれ自分の日常生活の中で主の御顔を求め、主と共に交わり、主と共に親密な時間を持って自分の心を注ぎ出さない限り、その教会は祈る教会ではありません。
しかしここにいらっしゃるすべての方が、主を最優先に置いて全身全霊で主を求め、主に従う者になれば、祈りの集まりに人が来なくても、その教会は祈る教会です。
皆さん、イエスの御名によって集められ、主から呼ばれた人々が毎日祈り、主の御顔を求めれば、私たちが集まった時に、必ず神の栄光と素晴らしい働きが起こされるはずです。私たち一人ひとりは本当に祈る教会だからです。これからぜひ、その栄光の働きを体験したいと思います。
お祈り
愛する天のお父様、私たちが今まで祈って来たことより、もっと大きな愛と誠実さをもって、祈ることができますように。主よ。TBIC教会の信者として、自らこの御言葉を受け取ります。私を変わらせてください。これからもっと、主を愛することを最優先順位に置いて、一番大事にするように助けてください。そして、主と共に親密な時間を毎日送り、主を賛美し、礼拝することを最優先にすることができますように。主よ。たくさんの人々と共にいる状況の中でも、端っこの、どこかの隅の所を探し出し、主と共に二人きりの時間を過ごせるように助けてください。主よ。私を哀れんでください。この大切な祈りの時間を無視し、主の御顔を求めませんでした。悔い改めます。赦してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!
祈りがすべての問題の解決の鍵であり、すべての約束の答えであることを知っていながらも私たちが祈りを無視することについて、聖書は警告しています。皆さん、祈りについてどれぐらい考えていますか?毎日主と共に交わる尊い時間、祈りの時間について、深く考えたことはありますか?
私たちがクリスチャンとして、主と共に交わる時間、主の声を聞き、主を知ることを学ばなければクリスチャンの人生の意味はなくなります。つまり信仰によって祈ることを学ばなければ、神様は私たちを見て悲しまれると思います。それは信仰に鈍かったイスラエルの民のように、私たちが主と共に交わる祈りの時間が少ないからです。エレミヤ書2:32、「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数え切れない。」
今日はクリスチャンが祈らない理由について、いくつかを皆さんと分かち合いたいと思います。
皆さんもご存知のように、イエス様が死なれたことによって、私たちは神の御座に大胆に出て行くことが出来るようになりました。へブル人への手紙4:16、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
天の父なる神様と私たちの間にさえぎるものは何もありません。私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを信じれば、主の臨在の中に、すぐにも入ることができます。その方の臨在の中で喜びを味わい、祈りの課題を申し上げ、主を賛美することができます。つまり神の至聖所に入れるすべての権利を持つようになります。
これからさらに、難しい時代、苦難の時がやって来ます。主が言われます。「主の日が近づいて来た。今が、わたしの顔を求める時だ。わたしと奥まった部屋に行って交わろう。わたしを知るべき時がやって来た。」
私たちがクリスチャンとして主と共に交わる素晴らしさを知らなければ、私たちの中におられる聖霊様を悲しませ、神の尊い恵みを侮辱することになります。主は言われます。「あなたは毎日祈りの場に出て来ないことによって、わたしの十字架の死が無駄であると言っている。」テトスへの手紙1:16、「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」
私たちはただ無視しています。主の血潮と命によって支払われた贖いの働きと、神の御顔を求め、すべての問題の解決を得る祈りの働きを、あまりにも軽く取り扱っています。さらに、神の恵みを侮辱し、聖霊様を戸惑いさせます。へブル人への手紙10:29、「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」
皆さん、祈ることがなぜこんなに難しいのでしょうか。私は今、誰も咎めることではありません。これは自分に対してのメッセージです。
それでは一番目、多くのクリスチャンが祈りが出来ない理由は、イエス様に対して生ぬるい信仰、中途半端な愛を持っているからです。 彼らは小さな代価だけを支払って、小さな愛だけを持っています。そして彼らは大きな代価を支払うべき大きな愛はささげたくありません。主は言われます。「わたしはあなたのために働いているが、あなたはわたしに会えない日々が続いている。もちろんあなたはわたしについてすべての人に話し、わたしを愛すると言っている。しかしあなたはわたしに会えない日々が続いている。」
主に対して冷たい愛を持っている人々は祈りません。死んだクリスチャンが祈ることを、誰も期待できません。祈りは彼らの本性ではありませんでした。もしイエス様を愛すると言いながらイエス様と時間を過ごさない人がいるのであれば、その人はどこで、どうやってイエス様を愛することができるのでしょうか。
私たちが教会で大きな声で賛美し、街の中で、あるいは電車の中でイエス様を伝えても、奥まった部屋で主と共にいなければ、それは主を愛することではありません。教会での礼拝とか、一部の集会では主と共に親密な時間を持つことはできません。もちろん教会の集まりは素晴らしいことです。私たちは集まって主を賛美し、礼拝をささげます。しかしそれは教会のプログラムの一部になる可能性があります。
一人で主と共に交わる時間なしに、主を愛する方法はありません。もちろん私たちは、いつも主を愛しています。しかしその愛を表すためには、一人で主と共に交わる時間が必要です。「私たちはキリストと結婚した」と聖書は言われます。その方は、私たちの配偶者です。夫と妻は、二人きりの時間を持ちます。二人きりの親密さを楽しむ時間がなければ、それは結婚生活ではありません。主と共に交わる親密さが、まさにそういう時間を持つことです。
私たち一人ひとりはイエス様にとって、すべてです。イエス様には誰もいません。私たちが全部です。しかし人々が祈らない理由は、もうこれ以上イエス様と愛の関係ではないからです。黙示録2:4、「あなたは初めの愛から離れてしまった」と。つまり、「何かによって、あなたは前に持っていた愛から離れた。あなたはこの世に流されてしまった。」と主は言われます。
皆さん、私は祈りの必要性について、続けて説教することができます。私は説教を通して、皆さんに刺すようなメッセージをすることができます。大きな声で叫ぶこともできます。しかし皆さんを変えることはできません。説教が教訓を与えることはありますが、実際に皆さんを祈りの勇士に変えることはできません。つまりイエス様との親密さを説教がもたらすことはできないのです。それは皆さんが直接、従順によって、祈りでもたらすことです。
イエス様との親密さをもたらす唯一の方法はこういう風に祈ることです。「主よ!初めの愛を私に回復させてください。これは大きな代価を要求し、訓練された生き方が必要であることを私に悟らせてください。」
二番目、クリスチャンが祈らないもう一つの理由は、間違った優先順位です。
多くのクリスチャンは祈りが優先順位ではなく、家族とか仕事が優先順位です。しかし、私たちは祈りがすべての上に最優先順位でなければ、たぶん祈らないと思います。主は言われます。「あなたに会いたい。あなたの家族、仕事、すべての上に、まずわたしを優先にしてほしい。」と。
優先順位が大切です。私たちは祈りを人生の中で最優先する前には祈らないと思います。祈る時間がないと言っている人がいますが、そういう人も自分が優先順位として決めたことのためにはすべての時間を出します。友達から電話があったら、時間を出します。そして他のすべてのことをする時間はあります。しかし祈る時間は出せません。これは優先順位の問題です。
私は何年前か、韓国で一番大きい教会の中で一つの教会の牧師が「私はあまりにも忙しくて、祈る時間がない。」と言っているのを聞きました。その教会は今、死んでいる教会です。人数は多いのですが、その教会は、もう命はありません。
三番目、多くのクリスチャンが祈りなしに生きる方法を学んだので、祈りません。
彼らは祈る必要のない生き方に慣れています。ただ教会に来ることだけで満足しています。彼らは教会の生活にはまじめです。しかし私は祈りなしに生きる方法を学んだクリスチャンが怖いです。彼らは言っています。「私は道徳的に問題ないし、誰にも傷つけたことがないから、主は喜ばれる。私は最善を尽くしたし、人々を助けようとした。またあまり罪も犯してないし、これが私ができる最善である。そして私は日曜日ごとにちゃんと教会に来ている。私はもう大丈夫。」と。
彼らは「自分なりの正しい生け贄」を主にささげました。それが主から要求されたすべてだと思い込んでいます。私は今、恐れています。その日、主の大いなる日に、御座の前に出て来る人たちに、主は言われます。マタイの福音書7:22-23、『その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」』と。つまり「わたしはあなたを知らない。あなたはわたしと話したことがない。あなたはわたしの臨在の中にいなかった。」と主が言われます。
これが今、私が一番恐れていることです。まさに、今主がこう言われる気がします。詩篇69:8、「私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。」祈らないクリスチャンたち、主の道を学び、主と共に交わる時間が全然ない人々が、主が再び来られるときに、どうやって引き上げられることができるのでしょうか。いのちの書が開かれ、主と共に送った時間の記録が全くないのに、どうやって主の御前に立つことができるのでしょうか。黙示録20:12、「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。」
たぶんその人は主の御前でこう言うかも知れません。「主よ。私が祈らなかったことを私も知っています。しかし私には理由がありました。あまりにも忙しかったし、やることがたくさんあって、主に会う時間がありませんでした。主よ。もちろん私は多くの時間をあなたと一緒に送らなかったことを自分も知っています。しかし私には本当に時間がありませんでした。」
ある人は、「私が祈る信者ではないことをもう知っています。しかしこれからは永遠に主と共に交わる準備が出来ています。私は生きている間には主を深く知りませんでした。しかしこれからは私たちに、お互いに深く知り合う永遠の時間があります。」
皆さん、その言い訳が通じると思いますか?私たちは長い間、祈りなしに生きることができます。しかし祈らない人が深い絶望に落ちたら、ますます自分の肉に頼ってしまいます。彼らは神の右の手ではなく、自分の肉の腕を頼りにしようとします。その結果は、言うまでもありません。
四番目、祈りにはちゃんと答えがあることを信じられないから、祈りをやめてしまいます。
「先生、私は祈りました。努力もしたし、断食もしました。やるべきことは全部やりました。そして主を信じます。しかし長い間祈って来たのに、何も起こりませんでした。」と。こういう風に、多くのクリスチャンが失望して、祈りを諦めています。
私はたまに、こういう話を聞きます。「私に信仰が足りないのか、問題があるのか、分かりませんが、祈りが私には働かないし、答えられません。」しかし皆さん、自分の欲と快楽のために祈れば、主は祈りに答えられないと聖書は明確にしています。ヤコブの手紙4:3、「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」
私たちは自分が願う何かを満足させるために祈っています。私たちの心を主に服従させ、主の時に主の方法で求めません。自分の欲を満足させるために、主に祈りで要求ばかりしています。こういう祈りは一切答えられません。当たり前のことです。しかし義人の祈りはちゃんと答えられます。箴言15:29、「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」ヤコブ5:16、今日の本文です。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」主が言われたこの御言葉を、ちゃんと握りしめてください。そしてイエス様は言われます。マルコの福音書11:24、「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」実際に私たちが信じれば、祈りの答えを待つはずです。祈りの答えを期待しながら、忍耐します。祈りの答えが長引いても、それは問題ではありません。主を信じるからです。
皆さん、長い間祈って来たことが答えられないもう一つの理由は、主が私たちの信仰をテストしておられるからです。主は私たちの信仰をテストします。なぜでしょうか?私たちが純金のような信仰を持つことを願っておられるからです。それで、もっとたくさんの祈りの答えをもらえるように、そして自分だけでなく、家族や友人、教会と罪人たちのために、純金のような清い信仰の人になることを主は切に願っておられます。だから主は時々祈りの答えを保留なさいます。直ちに答えられません。「私は祈りをあきらめる。主の答えは全然ない。」と私たちがこう言う時まで、主は私たちをテストしておられます。しかし信仰を持って主を信頼し続ければ、私たちに対する準備が終わった時点で、必ず答えが来ます。その時は純金のような清いクリスチャン、強い信者となっているはずです。
皆さん、教会は祈祷会を持っているのですが、こういう祈りの集まりは本当に素晴らしいことです。この時間はとても大切です。しかし祈りの集まりがただ自慢の手段となれば、それは何の意味もありません。祈りの集まり自体が祈る教会を表すことではありません。
つまり祈りに集まった人々が、それぞれ自分の日常生活の中で主の御顔を求め、主と共に交わり、主と共に親密な時間を持って自分の心を注ぎ出さない限り、その教会は祈る教会ではありません。
しかしここにいらっしゃるすべての方が、主を最優先に置いて全身全霊で主を求め、主に従う者になれば、祈りの集まりに人が来なくても、その教会は祈る教会です。
皆さん、イエスの御名によって集められ、主から呼ばれた人々が毎日祈り、主の御顔を求めれば、私たちが集まった時に、必ず神の栄光と素晴らしい働きが起こされるはずです。私たち一人ひとりは本当に祈る教会だからです。これからぜひ、その栄光の働きを体験したいと思います。
お祈り
愛する天のお父様、私たちが今まで祈って来たことより、もっと大きな愛と誠実さをもって、祈ることができますように。主よ。TBIC教会の信者として、自らこの御言葉を受け取ります。私を変わらせてください。これからもっと、主を愛することを最優先順位に置いて、一番大事にするように助けてください。そして、主と共に親密な時間を毎日送り、主を賛美し、礼拝することを最優先にすることができますように。主よ。たくさんの人々と共にいる状況の中でも、端っこの、どこかの隅の所を探し出し、主と共に二人きりの時間を過ごせるように助けてください。主よ。私を哀れんでください。この大切な祈りの時間を無視し、主の御顔を求めませんでした。悔い改めます。赦してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン!
合計 174
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主の御名によって 歓迎いたします。
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