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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書1:47-51(正直なら、天が開く)

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tbic
投稿日
2024-02-25 18:48
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ヨハネの福音書1:47-51『イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」』

この世の人々はあの手この手で真実な人を倒そうとします。だから一対一では真実な人の勝ち目はありません。しかし真実な人には天が開き、神の助け手が臨みます。

今日の本文に出る弟子は「ナタナエル」です。「ナタナエル」には「バルトロマイ」という、もう一つの名前があります。多分「バルトロマイ」と呼ばれていたのが、イエス様に出会って「ナタナエル」という名前に変えられたと思います。「ナタナエル」とは「神の賜物」という意味があるからです。マタイ、マルコ、ルカの福音書は観点が似ているために、共観福音書と言われますが、この共観福音書には全部「バルトロマイ」という名前で紹介されています。ヨハネの福音書だけが唯一「ナタナエル」という名前を使っています。

ヨハネの福音書21:2、「シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。」ここにイエス様の弟子たちの名前が並んでいますが、「バルトロマイ」について、「ガリラヤのカナのナタナエル」と出ます。このことから推測すれば、ナタナエルはバルトロマイと同一人物であることが分かります。

聖書はナタナエルについて、「真実で正直」だと評価しています。イエス様もやはりナタナエルについて、こう言われました。今日の本文、ヨハネの福音書1:47、『イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

これほど素晴らしい賞賛が他にあるのでしょうか。イエス様はナタナエルを絶賛されました。血筋として生粋のイスラエル人であるだけでなく、「まさにイスラエル人だ」と言われたのです。つまり「霊的にもまことのイスラエル人である」ということです。イエス様は彼の信仰を認めてくださいました。その内側に偽善や裏表がない透明な澄んだ魂だと認められたのです。それほどナタナエルは真実な人でした。では、本文の1:47に出る「まさ(正)に」という言葉にはどんな意味が込められているのでしょうか。

使徒パウロはコリントの信者たちに向かって、「聖徒」すなわち「聖なる者たち」と呼んでいます。彼らは本当に聖なる存在だったのでしょうか。パウロは続けて、彼らに嫉妬、ねたみ、争い、紛争、みだらな行為などを、なくすようにと戒めています。このことから、コリントの教会がどれほど多くの問題を抱えていたかを知ることができます。「聖なる者」と呼ばれた者たちの実体は少しも聖くありませんでした。身分上は聖なる存在だったにもかかわらず、相変わらず罪の中にいました。これが、「教会が持つ二面性」です。

神学的な表現をすれば、『「すでに」と「まだ」の間の苦しい緊張』と言うことができます。イエス・キリストを自分の救い主として迎え入れた瞬間、私たちは神の子どもとなりました。「すでに」義人となったのです。しかし「まだ」キリストの身丈にまで変わってはいません。緊張状態にあるわけです。

このことをよく知らないと、一方だけを見てしまいます。例えば、クリスチャンは救われた民であり、義人になったのだから、これから罪を犯しても大丈夫だと考える異端があります。「すでに」だけを握っているから、そうなるのです。またこれとは正反対に、教会の問題点ばかりを研究して、牧師や長老、信者たちの罪を暴くばかりしている人もいます。「まだ」だけに焦点を合わせているから、そうなるのです。これも教会の本来の姿ではありません。

聖徒とは、どのような者たちでしょうか。「すでに」キリストの十字架によって、救いを受けた神の子どもです。しかし「まだ」キリストの身丈にまで達してはいない緊張状態の中にいる存在です。私たちは、このギャップの中で生きるわけです。

だから先ほどの問題に戻って、「真実」とは、完全な人格のことを言うのではありません。この世に完全な人は一人もいません。ローマ人への手紙3:11、「義人はいない。ひとりもいない。」からです。「真実」とは、自分が主の前で変えられなければならない存在であると受け入れる心を言います。自分が主の前に罪人であることを認める心、自分が神の前で足りないことを受け入れる心です。だから今は足りないのですが、ありのままの姿で主の前に進み出て、主によって変えられる人生を、聖書は「真実な人」だと言っています。

ナタナエルは完璧な人ではなく、偏見に満ちた人でした。ピリポがイエス様に出会って、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言ったら、ナタナエルはすぐにこう言ったのです。ヨハネの福音書1:46「ナタナエルは彼に言った。ナザレから何か良いものが出るだろうか。

これこそ、大変な偏見です。しかしイエス様は彼に向かって、「 見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」と言われたのですが、なぜでしょうか。彼が完璧だからではありません。ただ彼は事実の前で、自らを変えようとする心を持っていたからです。イエス様はそれを「偽りがなく真実」だと言われただけです。私たちはみんな罪を犯した罪人であり、偏見の中に生きる存在です。私たちの中には弱さがたくさんあります。叩いてほこりが出ない人など、誰もいません。

どんな国でも様々な偏見に縛られています。例えば、イギリス人たちは、フランス人たちをとても嫌っています。英語を勉強してみると、フランスと関連した英語表現の中には、皮肉る表現、当てこすりの表現が多いことが分かります。

そのうちの一つが「フレンチ・キス」という言葉です。フレンチ・キスとは非常に熱いキスを言います。そこから、「フランス人は、ものすごくエッチなんだ」という印象を与えます。そして「フランス」と言えば、「みだらな国」という感じを与えるのです。しかしこれはフランスと犬猿の仲であるイギリス人たちが創作したイメージです。

世界的な金融街の一つはオランダのアムステルダムにあります。オランダを金融のライバルと考えるイギリス人たちは、オランダを指す「ダッチ」がつく言葉を、ほとんど否定的な意味で用います。「ダッチペイ(Dutch pay」とは、いわゆる「割り勘」のことを言います。

この言葉によって私たちは「オランダ人はけちくさい」という印象を受けます。しかしこれも偏見であって、真実ではありません。人々は知らないうちに、偏見の影響を受けています。

ナタナエルも同じでした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いましたが、実はそれは自分の考えではありませんでした。他の人々がそのように考えるから、自分もそれに従って、そのように考えただけのことでした。このように広まっている根拠のない偏見を、そのまま受け入れていたのです。しかしイエス様はナタナエルに向かって、「まさにイスラエル人だ。その心に裏表がない。」と言われました。

いったいなぜ、ナタナエルはイエス様からこのような素晴らしいほめ言葉を頂いたのでしょうか。ナタナエルは自分の考えを頑固に主張せず、もし自分が間違っているのであれば、自らの思い込みを改める姿勢を持っていたからです。

今日の本文、ヨハネの福音書1:48、『ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」』このようにイエス様が自分のすべてを知っておられることを経験したナタナエルは、イエス様にすぐさまこのように告白しました。49、『ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

正直な告白です。ナタナエルには事実を事実として受け入れる心がありました。初めはイエス様に対して偏見と誤解を持っていましたが、イエス様と出会った後ではイエス様を受け入れる姿勢を見せたのです。このような姿をご覧になったイエス様はナタナエルを真実な人だと言われたわけです。

私はすべての信者が完璧になることを期待しません。完璧な人など、この世にはいないからです。しかし神の前に真実な人になることを切に願います。「真実」とは、自分のありのままの姿をさらけ出すことです。自分に間違ったことがあれば、直していくことです。自分が罪人であることを認めて、自分を変えて頂くことを待ち望むことです。自分の限界を認め、日々みことばによって、キリストの身丈にまで成長していく姿勢です。真実さがなければ、イエス様を10年信じても何も変わらないのです。20年信じても、そのままです。

皆さん、ナタナエルのように真実な人が強い理由は何でしょうか。

一番目、真実であってこそ、癒されるからです。

ナタナエルが真実な姿で主の前に進み出た時、その偏見が癒されました。ありのままの姿でイエス様の前に進み出た時、彼は変えられたのです。イエス様はマルコの福音書2:17で、こう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス様は病んだ者として立ち、罪人として立ってこそ、癒されると言われました。真実な姿とは、病人として、罪人として立つ姿勢です。正直であってこそ、変化が起こります。ナタナエルの場合がそうでした。

礼拝に来ると、私たちは神の前に立たなければなりません。たとえ世の中では仮面をかぶって生きてきたとしても、礼拝の時は仮面を外して、神の前に自分をさらけ出さなければなりません。「主よ、弱い自分の姿をご覧ください。私を憐れんでください。救い出してください。」と告白する正直さがなければ、癒しはありません。

実際に、私たちにとって苦難が問題ではなく、真実さがないのが問題です。私たちは、みんな完全ではありません。足りない者であり、弱い者です。私たちはありのままの姿で、主の前に出なければなりません。正直であってこそ、癒されるのです。正直さが力です。

どうか皆さん、事実をねじ曲げて、事実でないと言い張らないでください。偏見を偏見と認めない限り、癒しは私たちからほど遠いものになります。自分に変わることのできない部分があれば、悔い改めて、告白して、それを問題としなければなりません。真実がなければ、未来もありません。

聖霊が私たちの中で御業を起こされる時、聖霊は私たちを事実の前に連れて行かれます。そして主の前に正直な姿で進み出れば、癒しが起こされます。だからこそ、真実な者が強いのです。真実な人は時間が経てばたつほど、益々力強い姿に変えられていきます。これが真実の力です。ナタナエルのように、真実さを通して少しずつ強められていく、恵みの御業が皆さんに起こされることを切に願います。

二番目、私たちが真実であれば、開かれた天の恵みを味わいながら生きることができます。

今日の本文、ヨハネの福音書1:48に、ナタナエルが「どうして私をご存じなのですか」と尋ねると、すぐにイエス様は「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た。」と言われました。イエス様は、すでにナタナエルのすべてを知っておられたのです。彼の悩み、彼の痛みをみんな御存じでした。同じようにイエス様は私たちの痛み、人生のすべての問題、すべての心の内を知っておられます。「神様は、私たちのことを知っておられる」というみことばの中で、私の心に一番迫ってくるみことばがあります。

詩篇139:1-10、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。

全能なる神様が私たちを知っておられ、とらえておられ、私たちを導いてくださいます。

真実な人に臨む御力とは、主が私たちを知っておられ、導いてくださるという恵みです。世の人々は、手を尽くして真実な人々を倒そうとします。一対一では到底勝ち目はありませんが、真実な人だけに与えられる祝福があります。真実な人には天が開き、神の助け手が臨みます。ナタナエルは、後にヒエラポリスに行って福音を伝えたと言われています。

そこで彼は迫害を受け、死の危機に瀕しました。そのとき、天の門が開き、神様が助ける者たちを送ってくださったのです。また強盗に襲われ、危険に陥ったという記録も残っています。そのときもやはり、助ける者たちがやって来て、彼を助けたと言います。ナタナエルの人生はいつも絶体絶命に思われるその瞬間、天が開き、助けが臨む人生でした。

イエス様はナタナエルに、こういう風に言われました。今日の本文、ヨハネの福音書1:50-51、『イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」

真実な信者には、とても解決できないような状況さえ、打ち破る御業が起こされます。他の人々がその人を見ると、「神様は真実な者に、天の恵みと祝福を注いでくださる。」と感じることができます。その人に触れる人々が神の栄光を悟るようになります。しかし真実でないのであれば、私たちにはどんなに頑張っても何も得ることができない人生が待っています。

コリント人への手紙第二4:8、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」このように告白できるのは四面楚歌の状況であっても、天が開き、神様が必ず救ってくださるからです。

アッシリヤ軍によってエルサレムが包囲されたとき、ヒゼキヤ王が神殿に入って祈ると、天が開かれました。そして18万5千人のアッシリヤ軍が、あっという間に滅びてしまうという勝利を体験しました(イザヤ書37章)。私たちも開かれた天の祝福を体験しなければなりません。

皆さん、教会はどうして真実でなければならないのでしょうか。真実な歩みによって天が開き、神の助けを味わうことができるからです。マタイの福音書3:16でイエス様が洗礼をお受けになられたとき、天が開かれました。そして聖霊が鳩のように臨んだのです。使徒の働き7:56ではステパノが殉教するとき、天が開けて、人の子が神の右の座に立っておられるのを見たと出ます。

ナタナエルもやはり、真実な者が味わう祝福を体験しました。イエス様を信じ、弟子となった人はみんなこの恵みを体験するはずです。「信じます」と告白したのに、天が閉じているとしたら、それは私たちが信じていないからです。全能なる神を信じ、私たちのために死なれ、私たちを救いに導いてくださるイエス様を信じるのであれば、真実に生きなければなりません。そうすれば、必ず天が開きます。

三番目、真実に生きるのであれば、まことの信仰の友と出会います。

共観福音書において、ナタナエルはピリポとコンビを組んで登場します。マタイの福音書10:3に、「ピリポとバルトロマイ」がコンビになっており、マルコの福音書3:18にも「アンデレ、ピリポ、バルトロマイ」となっています。更にルカの福音書6:14には、「すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ」と出ます。ピリポとナタナエルは信仰によって友情を分かち合った真の友達だったようです。

真実な人は苦難の中で本当の友人を見つけるのです。苦難の時には、その辛さばかりを見ないで、良い友人と出会うチャンスだととらえてください。ヨシュアとカレブはいつも並んで登場します。この二人は良い友達であり、信仰の同労者でした。ダビデとヨナタンも同じです。彼らの友情には特徴があります。ヨシュアとカレブはカナンを偵察しながら、苦楽を共にしました。怒った群衆たちから石を投げつけられて殺されそうになった時も、共に真理の側に立ちました。苦難と真実が彼らを友として結び付けたのです。ダビデとヨナタンもやはり苦難の中にあって、いつも共にいました。その真実な姿によって友となったわけです。

良い信仰の中で友情が育まれると、お互いが成長します。ダビデと共に、ヨナタンも向上し、ヨシュアと共にカレブも向上しました。だからこそ、友を得ることはとても大切なことです。喜びと悲しみを分かち合える良い友がいるのであれば、喜びは倍になり、悲しみは半分になります。その友のゆえに、私たちの人生が益々幅広くなります。知恵が更に深まり、更に大きな祝福を味わうようになります。

皆さん、自分が間違った時に自分を正してくれる友、嬉しい時にその喜びを分かち合える友がいるのでしょうか。そのような友と喜びを分かち合えば、喜びは二倍、三倍、四倍となります。自分のことのように喜び、悲しんでくれる人が皆さんには本当にいるのでしょうか。その人が真の友です。これこそ、真実と苦難がもたらす祝福です。

もし皆さんが、ある目的に向かって邁進しているとしたら、その目標を達成することは容易ではありません。その前に必ず障害があります。しかし自分を励ましてくれる良い友がいるのであれば、その障害をたやすく乗り越えることができます。なぜ、多くの人が倒れてしまうのでしょうか。なぜ障害が立ちはだかると、諦めてしまうのでしょうか。それは自分を励ましてくれる友がいないからです。友のいない人生は人生の喜びを半分しか味わっていないようなものです。

ぜひ皆さんの人生が、真実をもって、このような友と付き合う、聖なる人生となることを切に願います。これから更に、良い友がくれる喜びがどれほど素晴らしいものかを経験してほしいのです。真実な者に友情という祝福を与えてくださる主、信仰の友と共に勝利を与えてくださる主を期待し、今週も主と共に歩んでいきたいと思います。

結論、今日ナタナエルを通して学んだ、神様に用いられるための原則。

1.私たちにとって問題なのは、現実の苦難ではなく、真実さです。

ナタナエルがありのままの姿でイエス様の前に進み出た時、彼の偏見は癒されました。正直こそ、力です。

2.真実な人には天が開かれます。

世の人々はあの手この手で真実な人を倒そうとします。しかし真実な人には天が開き、神の助け手が臨みます。

3.真実な人に真実な友が与えられます。

真実であれば、真の信仰の友に出会います。ナタナエルの横には、いつもピリポという友人がいました。険しい人生の道に真実な友を得ることほど大きな祝福はありません。
合計 139
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
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テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
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ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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ヨハネの福音書6:1-13(頭ではなく、ハートで働く)
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133
ヨハネの福音書1:47-51(正直なら、天が開く)
tbic | 2024.02.25 | 推薦 1 | 閲覧数 42
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132
ヨハネの福音書15:15(最後の瞬間まで主を求めなさい)
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ヨハネの福音書1:43-46(美しいウソより、ありのままの真実が強い)
tbic | 2024.02.11 | 推薦 1 | 閲覧数 58
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ヤコブの手紙5:16(クリスチャンが祈らない理由)
tbic | 2024.02.04 | 推薦 2 | 閲覧数 58
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