メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ヨハネの福音書6:1-13(頭ではなく、ハートで働く)
投稿者
tbic
投稿日
2024-03-03 22:18
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ヨハネの福音書6:1-13『その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。』
頭の回転が遅くても、神様から用いられる器となることが大切です。今日はアンデレの話ですが、アンデレがしたことと言えば、ただ周囲を見回しただけでした。しかし、そうすることによって、大麦のパン五つと魚二匹を持った少年を発見しました。そして、アンデレはその子をイエス様のもとに連れて来たのです。
アンデレとはどんな人物でしょうか。アンデレはペテロの兄弟で、ペテロと同じく、ガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。しかし彼の性格は、ペテロとは正反対でした。アンデレは慎重で、まじめな人であり、ペテロがどこでも目立つ光のような人物とすれば、アンデレは陰のような人物でした。
「アンデレ」という名前は元々「男らしい」という意味を持っています。しかし実際のアンデレは小心者で、穏やかな性格であり、名前とは正反対の性格でした。アンデレの特徴を一言で表現すれば、「偉大な連結者、つなげる王様」と言うことができます。彼はそれほど卓越した人物ではありませんでしたが、重要な力を持っていました。いつも偉大なものと、他の何かを結び合わせる力があったのです。そのため、彼は尊く用いられました。
私が知っているある方(教授)は、本当に謙遜な方です。その方は、「自分には新しいものを創造する力がないことを悟った」と告白しました。そこでどのように生きることにしたかというと、良いものに出会い、良いものを読んで良いものを掴んだ後、それを他の人々に伝えていく「流通者」となることを決心したというのです。彼は良いものを聞いたり見たりする時に、ねたんだり、嫉妬したりするのではなく、喜ぶことにしたのです。「あ、こんなにいいものもあるんだ。こんなに素敵なものもあるんだ。」そのように喜んで良いものを伝えていくのであれば、香を包んだ紙に香のかおりが染みつくように、自分も知らないうちに伝えた内容の通りに変えられていくと言います。そして豊かな実を実らせるようになるのです。
今の21世紀はサービス業の時代です。アメリカの経済学者ピーター・ドラッカーは「製造業の時代である20世紀が去って、サービス業の時代である21世紀になった」と言いました。サービスとは何でしょうか。「良いものと良いもの同士をつなげる」ということです。これは、とても聖書的です。
20世紀におけるアメリカ最高の大統領として、ロナルド・レーガンを挙げる人が多くいます。彼は映画俳優出身で別に目立つ業績もないように見えますが、強いアメリカを作り上げ、世界秩序を再構築したと認める人が意外と多くいます。レーガンと会談した経験がある、イギリスの前首相マーガレット・サッチャーはこんなことを言ったそうです。「レーガンと会って話をしてみると、彼はそんなに多くのことを知っている人ではなさそうでした。それぞれの分野について、少し具体的な話をすると、かえって私の方が知っているようで、レーガンより優れた人はいくらでもいるのではないかと思われたほどでした。しかしロナルド・レーガンには明らかに卓越している点がありました。それはどんな問題に直面した場合でも、その問題を誰と相談すればいいのか、誰に尋ねればいいのかを、彼はよく知っていたのです。」
ある問題が起こったとき、「これは財務省の長官と相談する問題である」とか、「あれは国防長官と相談することだ」というふうにレーガンは誰に何を尋ねればいいのか、よく分かっている人だったと言うのです。つまり彼は優れた参謀がいれば、大統領職をちゃんと遂行できる資質を持っていたと言うことができます。大統領としてレーガンは「結びつける」達人でした。結局すべてを上手に人に任せて、偉大な大統領という評価を受けるようになったのです。
今日は情報が氾濫するインターネットの時代です。誰に対しても情報が開かれており、全世界に多くの情報が共有されています。昔は問題の解き方、つまり「ノウハウ(know-how)」を身につける勉強が主流をなしていたのですが、今それはあまり役に立たなくなりました。それよりは「ノウホエア(know-where)」、つまり自分が知ろうとする情報がどこにあるかを、早く探し出すことが最も重要になってきました。今情報はどこにでもあります。どうすれば、他の人々よりも情報を早く入手することができるのか、それが肝心な時代であり、言い換えれば「連結の時代」がやって来ました。厳密に言えば、私たちはみんな連結者です。オリジナルはイエス様以外にいません。私たちはイエス様の御言葉、及びイエス様が行なわれたすべてのことを、つなげる存在です。
使徒の働き4:20、「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」見たこと、聞いたこと、というのは、どこかにそのオリジナルがあるということです。私たちがそのオリジナルを伝えずにはいられず、連結する人となるということです。
私は今の時代に、アンデレのような連結者が必要だと思います。「連結」の最も良い例は、「隠喩」と言えるかもしれません。アリストテレスは、このように言いました。「最も偉大なことは、隠喩の名手となることだ。」隠喩とは何でしょうか。外から見ると、全く関連のないように見える事柄をつなぎ合わせて、新しい考えと多様な連想を呼び起こすことです。「あなたの瞳は湖のようだ。」この表現を見ますと、瞳と湖は何の関係もありません。しかしそれをつなげると、「あなたの瞳は本当に美しい」という意味の表現になります。上手に隠喩を使う人は相手の長所を見ることができる力があります。また良いものと良いものをつなぎ合わせる力が優れているのです。そういう人は心の余裕があります。
ある企業コンサルタントが事業家たちを対象にこのようなテストを行なったそうです。「私たちの周辺でよく見ることができるものと、現在の状況をつなぎ合わせて説明してみなさい。」企業を上手に経営している人は、20個以上のものを容易につなぎ合わせました。一方、うまく経営できていない人は、わずか2、3個さえもつなげることができませんでした。答えの中で面白いものを紹介すれば、「私たちの会社はポップコーンのようだ。」と書いた人にその理由を聞いてみたら、「お尻が熱くなる前は誰も働こうとしないからだ。」と言ったそうです。
本当に素敵な表現です。ポップコーンから会社の姿を連想する発想がやはり奇抜だと言わざるを得ません。テストの結果から、企業をうまく経営している人は周辺の物と自分の想像をつなぎ合わせる力が優れているということが分かりました。事業であれ、良い人間関係であれ、すべての分野で成功する人々のほとんどがこのような連結の名手であると言うことができます。
そうしたら、私たちがなすべきことは何でしょうか。すでに祈りの力を経験しているなら、その人は祈りの力を知らない人たちを主のもとにつなげる作業をしなければなりません。恵みを体験したのであれば、その恵みを人々に体験させる連結者となることです。良いことがあるなら、どんなものでも、人々につなげるように決意してほしいのです。
家族の中で最初に救われたアンデレは、そのつなげる者として三度、役割を果たしています。一番目、アンデレは自分の兄弟ペテロをイエス様に紹介しました。ヨハネの福音書1:35-40を見ると、アンデレはバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、弟子となりました。だからアンデレは元々、バプテスマのヨハネの弟子だったのです。そんなある日、バプテスマのヨハネから「御言葉が肉となって、この世に来られた本当のメシヤがおられる」という話を聞きました。その時、アンデレの心の中に熱い確信が生まれたようです。彼はそれからイエス様と出会い、12弟子の中で一番最初の弟子となりました。
誰でも新しい道を初めて歩む人は孤独です。その道を行く人が他に誰もいないからです。特に多くのことを学んだ知識人であれば、新しい道を開拓することはあまりしません。誰かがその道を行くのを見て、それに続こうとするのです。その意味で、神の御国において尊く用いられる人はアンデレのように誰も行かない道、つまりその道の先駆けとなる決断力のある人です。彼は神の御国の火付け役を担った人物でした。
彼はまずイエス様をお迎えして、イエス様の弟子となりました。次に、家族に伝道しました。彼の家族とは誰でしょう。彼の兄は性格がきつくて、欠点の多いペテロでした。ペテロは短気(多血質)で、他の人の言葉を最後まで聞こうとしない、とても伝道しにくい人です。しかしアンデレは彼にイエス様のことを証しし、さらにイエス様の弟子となるよう導きました。アンデレの偉大さはここにあると思います。彼は後の教会の岩となるペテロを、主のもとに導いた人です。
イエス様のことを伝えるのが最も難しいのは家族です。家族は自分の人生のすべてを共有する存在であり、言葉で語っても、心の中に福音が入っていかないのです。しかしそのように難しい家族伝道に初めて成功した人がアンデレです。ペテロは神様の驚くべき働きを担い、主から天国のカギをいただくほどの偉大な使徒となりました。しかしその裏にはアンデレという貴重な連結者がいたということです。
現在、伝道が難しいと言われるのはユダヤ人です。「イエスのためのユダヤ人宣教会」と言われる団体をつくって、ユダヤ人宣教において伝説的人物となったモイシェー・ロージェンドという人がいます。彼はユダヤ人たちに福音を伝え、彼らを力強く主のもとに導いた「伝道王」です。あるとき、彼がこのように言ったそうです。「私の妻のセーイルはそんなに伝道が上手な女性ではありません。セーイルが伝道した人は二人しかいません。私と私の娘です。」
ロージェンドを通して救われた多くのユダヤ人たちがこの話を聞いて大笑いしたと言います。モイシェー・ロージェンドは立派ですが、そのロージェンドを伝道した妻セーイルも神の御国において決して小さくない、尊い女性です。
大伝道者D・L・ムーディさえ、家族に伝道することは、本当に苦しかったと告白しています。しかし彼が徹底的に献身すると、彼の家族が主のもとに立ち返ったのです。
ペテロだけが用いられたのでしょうか。いいえ、ペテロを導いたアンデレも、やはり尊く用いられました。どんなに目立たない人生を生きても、自分が伝道した人が神の偉大なしもべとして立てられる可能性を覚えましょう。家族を主に導こうとしている方は、こういうふうに祈ってほしいのです。
「主よ、私が家族を救うアンデレとなりますように。キリストを知らない夫、妻、父母、子供が主のもとに立ち返り、キリストを知らない兄弟姉妹たちを主のもとに導く、神の火付け役を担わせてください。」失われた家族たちに対して、嘆き悲しむ燃えるような心を持たれることを願います。家族の救いのために、アンデレの力を与えてくださいと祈りましょう。
二番目、アンデレは五つのパンと二匹の魚を持った少年をイエス様のもとに導きました。今日の本文には、わずか五つの大麦のパンと二匹の魚で五千人を食べさせ、食べて余ったパン切れが12のかごにいっぱいになったという奇跡が紹介されています。
多くの群衆がイエス様から御言葉を聞こうと集まって来ました。しかし食べ物を持って来なかったので、みんなお腹がすきました。村からあまりにも遠く離れた所まで来たため、食べ物を買うこともできません。その時、イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」と尋ねられました。聖書はイエス様がピリポの信仰と行動を試すために、そう言われたと出ます。頭の回転が速いピリポはすぐに計算してみせました。少しずつ食べさせても、二百デナリのパンでは足りませんと言ったのです。彼の言葉通り、この人たちに食べさせることは不可能です。
一方アンデレはどうだったのでしょうか。頭の回転は速くありません。だからこそ、始めから頭を使って考えることをしませんでした。彼がやったことは、ただ周囲を見回して見ただけです。そしてパン五つと魚二匹を持っていた少年を発見しました。それで、どんな結果が出るか知らないまま、その子をイエス様のもとに連れて来ました。その時、驚くべき主の御業が起こったのです。
牧会をする時、牧会理論や教会組織についての本をたくさん読めば、どのようにすれば教会がしっかりとしていくかを知ることができます。しかしあまり祈らず、研究ばかりに時間を費やして失敗してしまうことが、しばしばあります。主に頼って叫ぶのではなく、頭ばかりを使うピリポの姿が私たちの姿であれば、再びアンデレの姿に立ち返らなければなりません。
頭の良い牧師たちの中には人本主義者(ヒューマニスト)たちが多くいます。人本主義者たちは賢くて、論理的です。しかし、教会をダメにするケースが多いわけです。理由は簡単です。頭を使い過ぎるからです。人本主義の弱点は、頭を使うことによって従順さを失うことです。しかし神の御言葉を握りしめて無条件に従うなら、問題は必ず解決するのです。
例えば、献金のことを考えてみて下さい。人本主義ではなく、神中心の信仰を持っていれば、神様にささげるべきもの(什一献金など)には手を出さずに、全部をささげなければなりません。そして神様に感謝すべきです。こういうふうに言うと、何か私が欲深い役人にでもなったような気がします。あの人は、あんなに大変な事情があるのに、なぜ献金しなければならないのだろうと疑問に思ってしまいます。しかし神の約束の御言葉を、ちゃんと握っている者は、人情や事情を見ないで、神様のものはちゃんと神様にささげて、感謝するのです。神様はそういうふうに従う人々に、人生のすべてを逆転させてくださいます。
これと全く同じことが旧約の時代にも起こりました。エリヤの時代(列王記第一17章)、飢饉になって全く食べ物がなくなった時、神様はエリヤをツァレファテのやもめのもとに送られました。神様がこんなことをするなんて、おかしいと思いませんか。どうせエリヤを送るなら、金持ちの家に送られるべきではないでしょうか。なぜ、負担を覚えるような貧しいやもめの所にエリヤを送ったのでしょうか。人本主義者たちはこんな状況を理解することができません。「神様はどうして、こんな貧しい家に送られたのか」と文句を言います。
神様の命令に従ってエリヤがその家に着くと、やもめはこう言いました。列王記第一17:12、「私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
しかしエリヤはこの時、「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」と言ったのです。最後に作ったパンを食べて死のうとしている貧しい家に行き、「まず私に食べさせなさい」と言うのですから、ひどい話です。しかし神様ははっきりとそう命じられました。そして、このやもめがエリヤの言った通りにすると、かめの粉、つぼの油がなくならず、飢饉を乗り越える神の恵みがそこに臨んだわけです。
これが人本主義と神中心の神本主義の違いです。私たちクリスチャンは人本主義者のメッセージに惑わされてはなりません。彼らの言葉は確かに正しいと思います。人間を最も愛しているかのように見えます。しかし神の御言葉通りに従う時、神の力ある御業が現れるのです。頭を使って問題を解決しようとする時には、問題は絶対に解決しません。「こちらが強いから、あちらに力を与える。こちらが弱いから、あちらの力を分けてやる。」あるいは「この人が私の味方になれば、あの人をやっつけることができる。」というような計算は、頭で考える政治のようなものです。私たちは神の方法に従わなければなりません。祈りをもって、奉仕をもって犠牲をもってしなければなりません。そうすれば、ダメなように見える状況でも逆転して問題が解決し、驚くべき御業が起こります。
人生の問題は、頭ばかりを使っていてはなりません。主に頼ってこそ、人生の問題は解決します。アンデレは無力のように見えても、事柄を解決することのできる人でした。自分の力によってではなく、神様の恵みによって物事をつなぎ合わせ、問題を解決したのです。
今から約190年前、スコットランドのセルコックにおいて、伝道集会がありました。その集会には人々がほとんど来なかったばかりでなく、回心する人もいない本当に恵みのない集会でした。最後の日に献金の時間になりました。その時、一人の少年が献金をせず、こういうふうに告白したのです。「私はあまりにも貧しくて献金をささげることができません。しかし献金の代わりに自分の身体をささげます。私の人生を主にささげます。」
この少年が、後にアフリカ宣教の父となる、リビングストンでした。リビングストンは後に、全ヨーロッパとアフリカ大陸を変えた偉大な神のしもべとなりました。皆さん、ぜひリビングストンのような一人の人を、主に導く者となってください。
三番目、ヨハネの福音書12章を読みますと、アンデレは当時福音伝道の対象外だったギリシャ人たちを、イエス様のもとに導きました。祭りの日にエルサレム神殿にやって来た人々の中には、何名かのギリシャ人がいました。彼らは弟子の中でギリシャ人式の名前を持っているピリポにまず近づいて行きました。ピリポはどうしたらいいのか分からず、アンデレに相談しました。そしてアンデレとピリポがギリシャ人たちをイエス様のもとに連れて来たのです。その後、このギリシャ人たちがどのようになったかは、聖書には詳しく書いてありません。でも、この時のアンデレの態度は非常に重要です。
ある問題が起こったとき、いつも一人で、それを抱えて考え込む人がいます。しかし私たちはその問題を、イエス様のもとに持っていかなければなりません。一人で問題を抱えて、誰にも語らないまま仕事を進め、最後に「できません」と投げ出す人は愚かな人です。しかしアンデレは問題をもって主のもとに進み出ました。アンデレは先入観を捨て、「ギリシャ人は救われない」という偏見を乗り越えたのです。「やってみよう」と言えば、いいのです。アンデレは「やってみる人」でした。頭を使う信仰ではなく、「やってみる信仰」でした。やってみれば、その時、驚くべき御業が起こるのです。
私たちはオリジナルではありません。だから、自分のものを現わそうとするより、アンデレのように連結させる人になることです。アンデレは連結することによって、すべての限界を乗り越えました。彼は家族伝道の限界を乗り越え、家族をイエス様のもとに連れて来ました。また五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して、人本主義の弱点を乗り越えました。そしてギリシャ人をイエス様のもとに連れて来て、人種と文化の限界を乗り越えたのです。
イエス様につながるなら、みんな変えられていきます。真の変化、本当に変えられた人生を生きたいのであれば、礼拝をささげて、イエス様とつながることです。自分の意志だけで変えられない部分も、主につながるなら、必ず変えられていきます。
結論、アンデレを通して学んだ、神様に用いられるための原則。
1.未信者の家族に優先的に伝道します。
アンデレはきつい性格の自分の兄、ペテロに最初に伝道しました。それゆえ、ペテロは教会の礎石を置く者となりました。
2.人間の計算よりも、主に頼ります。
アンデレは群衆が飢えてしまうという問題を自分で解決しようとせず、五つのパンと二匹の魚を持っている少年をイエス様のもとに連れて来ました。人生の問題は、頭を使って解けるものではなく、主に頼らなければなりません。
3.人間の固定観念を乗り越えます。
アンデレは当時福音伝道のリストから外されていたギリシャ人を、イエス様のもとに連れて来て、最初に異邦人宣教の扉を開けました。私たちも固定観念を乗り越えて、一歩踏み出して行かなければなりません。
頭の回転が遅くても、神様から用いられる器となることが大切です。今日はアンデレの話ですが、アンデレがしたことと言えば、ただ周囲を見回しただけでした。しかし、そうすることによって、大麦のパン五つと魚二匹を持った少年を発見しました。そして、アンデレはその子をイエス様のもとに連れて来たのです。
アンデレとはどんな人物でしょうか。アンデレはペテロの兄弟で、ペテロと同じく、ガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。しかし彼の性格は、ペテロとは正反対でした。アンデレは慎重で、まじめな人であり、ペテロがどこでも目立つ光のような人物とすれば、アンデレは陰のような人物でした。
「アンデレ」という名前は元々「男らしい」という意味を持っています。しかし実際のアンデレは小心者で、穏やかな性格であり、名前とは正反対の性格でした。アンデレの特徴を一言で表現すれば、「偉大な連結者、つなげる王様」と言うことができます。彼はそれほど卓越した人物ではありませんでしたが、重要な力を持っていました。いつも偉大なものと、他の何かを結び合わせる力があったのです。そのため、彼は尊く用いられました。
私が知っているある方(教授)は、本当に謙遜な方です。その方は、「自分には新しいものを創造する力がないことを悟った」と告白しました。そこでどのように生きることにしたかというと、良いものに出会い、良いものを読んで良いものを掴んだ後、それを他の人々に伝えていく「流通者」となることを決心したというのです。彼は良いものを聞いたり見たりする時に、ねたんだり、嫉妬したりするのではなく、喜ぶことにしたのです。「あ、こんなにいいものもあるんだ。こんなに素敵なものもあるんだ。」そのように喜んで良いものを伝えていくのであれば、香を包んだ紙に香のかおりが染みつくように、自分も知らないうちに伝えた内容の通りに変えられていくと言います。そして豊かな実を実らせるようになるのです。
今の21世紀はサービス業の時代です。アメリカの経済学者ピーター・ドラッカーは「製造業の時代である20世紀が去って、サービス業の時代である21世紀になった」と言いました。サービスとは何でしょうか。「良いものと良いもの同士をつなげる」ということです。これは、とても聖書的です。
20世紀におけるアメリカ最高の大統領として、ロナルド・レーガンを挙げる人が多くいます。彼は映画俳優出身で別に目立つ業績もないように見えますが、強いアメリカを作り上げ、世界秩序を再構築したと認める人が意外と多くいます。レーガンと会談した経験がある、イギリスの前首相マーガレット・サッチャーはこんなことを言ったそうです。「レーガンと会って話をしてみると、彼はそんなに多くのことを知っている人ではなさそうでした。それぞれの分野について、少し具体的な話をすると、かえって私の方が知っているようで、レーガンより優れた人はいくらでもいるのではないかと思われたほどでした。しかしロナルド・レーガンには明らかに卓越している点がありました。それはどんな問題に直面した場合でも、その問題を誰と相談すればいいのか、誰に尋ねればいいのかを、彼はよく知っていたのです。」
ある問題が起こったとき、「これは財務省の長官と相談する問題である」とか、「あれは国防長官と相談することだ」というふうにレーガンは誰に何を尋ねればいいのか、よく分かっている人だったと言うのです。つまり彼は優れた参謀がいれば、大統領職をちゃんと遂行できる資質を持っていたと言うことができます。大統領としてレーガンは「結びつける」達人でした。結局すべてを上手に人に任せて、偉大な大統領という評価を受けるようになったのです。
今日は情報が氾濫するインターネットの時代です。誰に対しても情報が開かれており、全世界に多くの情報が共有されています。昔は問題の解き方、つまり「ノウハウ(know-how)」を身につける勉強が主流をなしていたのですが、今それはあまり役に立たなくなりました。それよりは「ノウホエア(know-where)」、つまり自分が知ろうとする情報がどこにあるかを、早く探し出すことが最も重要になってきました。今情報はどこにでもあります。どうすれば、他の人々よりも情報を早く入手することができるのか、それが肝心な時代であり、言い換えれば「連結の時代」がやって来ました。厳密に言えば、私たちはみんな連結者です。オリジナルはイエス様以外にいません。私たちはイエス様の御言葉、及びイエス様が行なわれたすべてのことを、つなげる存在です。
使徒の働き4:20、「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」見たこと、聞いたこと、というのは、どこかにそのオリジナルがあるということです。私たちがそのオリジナルを伝えずにはいられず、連結する人となるということです。
私は今の時代に、アンデレのような連結者が必要だと思います。「連結」の最も良い例は、「隠喩」と言えるかもしれません。アリストテレスは、このように言いました。「最も偉大なことは、隠喩の名手となることだ。」隠喩とは何でしょうか。外から見ると、全く関連のないように見える事柄をつなぎ合わせて、新しい考えと多様な連想を呼び起こすことです。「あなたの瞳は湖のようだ。」この表現を見ますと、瞳と湖は何の関係もありません。しかしそれをつなげると、「あなたの瞳は本当に美しい」という意味の表現になります。上手に隠喩を使う人は相手の長所を見ることができる力があります。また良いものと良いものをつなぎ合わせる力が優れているのです。そういう人は心の余裕があります。
ある企業コンサルタントが事業家たちを対象にこのようなテストを行なったそうです。「私たちの周辺でよく見ることができるものと、現在の状況をつなぎ合わせて説明してみなさい。」企業を上手に経営している人は、20個以上のものを容易につなぎ合わせました。一方、うまく経営できていない人は、わずか2、3個さえもつなげることができませんでした。答えの中で面白いものを紹介すれば、「私たちの会社はポップコーンのようだ。」と書いた人にその理由を聞いてみたら、「お尻が熱くなる前は誰も働こうとしないからだ。」と言ったそうです。
本当に素敵な表現です。ポップコーンから会社の姿を連想する発想がやはり奇抜だと言わざるを得ません。テストの結果から、企業をうまく経営している人は周辺の物と自分の想像をつなぎ合わせる力が優れているということが分かりました。事業であれ、良い人間関係であれ、すべての分野で成功する人々のほとんどがこのような連結の名手であると言うことができます。
そうしたら、私たちがなすべきことは何でしょうか。すでに祈りの力を経験しているなら、その人は祈りの力を知らない人たちを主のもとにつなげる作業をしなければなりません。恵みを体験したのであれば、その恵みを人々に体験させる連結者となることです。良いことがあるなら、どんなものでも、人々につなげるように決意してほしいのです。
家族の中で最初に救われたアンデレは、そのつなげる者として三度、役割を果たしています。一番目、アンデレは自分の兄弟ペテロをイエス様に紹介しました。ヨハネの福音書1:35-40を見ると、アンデレはバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、弟子となりました。だからアンデレは元々、バプテスマのヨハネの弟子だったのです。そんなある日、バプテスマのヨハネから「御言葉が肉となって、この世に来られた本当のメシヤがおられる」という話を聞きました。その時、アンデレの心の中に熱い確信が生まれたようです。彼はそれからイエス様と出会い、12弟子の中で一番最初の弟子となりました。
誰でも新しい道を初めて歩む人は孤独です。その道を行く人が他に誰もいないからです。特に多くのことを学んだ知識人であれば、新しい道を開拓することはあまりしません。誰かがその道を行くのを見て、それに続こうとするのです。その意味で、神の御国において尊く用いられる人はアンデレのように誰も行かない道、つまりその道の先駆けとなる決断力のある人です。彼は神の御国の火付け役を担った人物でした。
彼はまずイエス様をお迎えして、イエス様の弟子となりました。次に、家族に伝道しました。彼の家族とは誰でしょう。彼の兄は性格がきつくて、欠点の多いペテロでした。ペテロは短気(多血質)で、他の人の言葉を最後まで聞こうとしない、とても伝道しにくい人です。しかしアンデレは彼にイエス様のことを証しし、さらにイエス様の弟子となるよう導きました。アンデレの偉大さはここにあると思います。彼は後の教会の岩となるペテロを、主のもとに導いた人です。
イエス様のことを伝えるのが最も難しいのは家族です。家族は自分の人生のすべてを共有する存在であり、言葉で語っても、心の中に福音が入っていかないのです。しかしそのように難しい家族伝道に初めて成功した人がアンデレです。ペテロは神様の驚くべき働きを担い、主から天国のカギをいただくほどの偉大な使徒となりました。しかしその裏にはアンデレという貴重な連結者がいたということです。
現在、伝道が難しいと言われるのはユダヤ人です。「イエスのためのユダヤ人宣教会」と言われる団体をつくって、ユダヤ人宣教において伝説的人物となったモイシェー・ロージェンドという人がいます。彼はユダヤ人たちに福音を伝え、彼らを力強く主のもとに導いた「伝道王」です。あるとき、彼がこのように言ったそうです。「私の妻のセーイルはそんなに伝道が上手な女性ではありません。セーイルが伝道した人は二人しかいません。私と私の娘です。」
ロージェンドを通して救われた多くのユダヤ人たちがこの話を聞いて大笑いしたと言います。モイシェー・ロージェンドは立派ですが、そのロージェンドを伝道した妻セーイルも神の御国において決して小さくない、尊い女性です。
大伝道者D・L・ムーディさえ、家族に伝道することは、本当に苦しかったと告白しています。しかし彼が徹底的に献身すると、彼の家族が主のもとに立ち返ったのです。
ペテロだけが用いられたのでしょうか。いいえ、ペテロを導いたアンデレも、やはり尊く用いられました。どんなに目立たない人生を生きても、自分が伝道した人が神の偉大なしもべとして立てられる可能性を覚えましょう。家族を主に導こうとしている方は、こういうふうに祈ってほしいのです。
「主よ、私が家族を救うアンデレとなりますように。キリストを知らない夫、妻、父母、子供が主のもとに立ち返り、キリストを知らない兄弟姉妹たちを主のもとに導く、神の火付け役を担わせてください。」失われた家族たちに対して、嘆き悲しむ燃えるような心を持たれることを願います。家族の救いのために、アンデレの力を与えてくださいと祈りましょう。
二番目、アンデレは五つのパンと二匹の魚を持った少年をイエス様のもとに導きました。今日の本文には、わずか五つの大麦のパンと二匹の魚で五千人を食べさせ、食べて余ったパン切れが12のかごにいっぱいになったという奇跡が紹介されています。
多くの群衆がイエス様から御言葉を聞こうと集まって来ました。しかし食べ物を持って来なかったので、みんなお腹がすきました。村からあまりにも遠く離れた所まで来たため、食べ物を買うこともできません。その時、イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」と尋ねられました。聖書はイエス様がピリポの信仰と行動を試すために、そう言われたと出ます。頭の回転が速いピリポはすぐに計算してみせました。少しずつ食べさせても、二百デナリのパンでは足りませんと言ったのです。彼の言葉通り、この人たちに食べさせることは不可能です。
一方アンデレはどうだったのでしょうか。頭の回転は速くありません。だからこそ、始めから頭を使って考えることをしませんでした。彼がやったことは、ただ周囲を見回して見ただけです。そしてパン五つと魚二匹を持っていた少年を発見しました。それで、どんな結果が出るか知らないまま、その子をイエス様のもとに連れて来ました。その時、驚くべき主の御業が起こったのです。
牧会をする時、牧会理論や教会組織についての本をたくさん読めば、どのようにすれば教会がしっかりとしていくかを知ることができます。しかしあまり祈らず、研究ばかりに時間を費やして失敗してしまうことが、しばしばあります。主に頼って叫ぶのではなく、頭ばかりを使うピリポの姿が私たちの姿であれば、再びアンデレの姿に立ち返らなければなりません。
頭の良い牧師たちの中には人本主義者(ヒューマニスト)たちが多くいます。人本主義者たちは賢くて、論理的です。しかし、教会をダメにするケースが多いわけです。理由は簡単です。頭を使い過ぎるからです。人本主義の弱点は、頭を使うことによって従順さを失うことです。しかし神の御言葉を握りしめて無条件に従うなら、問題は必ず解決するのです。
例えば、献金のことを考えてみて下さい。人本主義ではなく、神中心の信仰を持っていれば、神様にささげるべきもの(什一献金など)には手を出さずに、全部をささげなければなりません。そして神様に感謝すべきです。こういうふうに言うと、何か私が欲深い役人にでもなったような気がします。あの人は、あんなに大変な事情があるのに、なぜ献金しなければならないのだろうと疑問に思ってしまいます。しかし神の約束の御言葉を、ちゃんと握っている者は、人情や事情を見ないで、神様のものはちゃんと神様にささげて、感謝するのです。神様はそういうふうに従う人々に、人生のすべてを逆転させてくださいます。
これと全く同じことが旧約の時代にも起こりました。エリヤの時代(列王記第一17章)、飢饉になって全く食べ物がなくなった時、神様はエリヤをツァレファテのやもめのもとに送られました。神様がこんなことをするなんて、おかしいと思いませんか。どうせエリヤを送るなら、金持ちの家に送られるべきではないでしょうか。なぜ、負担を覚えるような貧しいやもめの所にエリヤを送ったのでしょうか。人本主義者たちはこんな状況を理解することができません。「神様はどうして、こんな貧しい家に送られたのか」と文句を言います。
神様の命令に従ってエリヤがその家に着くと、やもめはこう言いました。列王記第一17:12、「私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
しかしエリヤはこの時、「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」と言ったのです。最後に作ったパンを食べて死のうとしている貧しい家に行き、「まず私に食べさせなさい」と言うのですから、ひどい話です。しかし神様ははっきりとそう命じられました。そして、このやもめがエリヤの言った通りにすると、かめの粉、つぼの油がなくならず、飢饉を乗り越える神の恵みがそこに臨んだわけです。
これが人本主義と神中心の神本主義の違いです。私たちクリスチャンは人本主義者のメッセージに惑わされてはなりません。彼らの言葉は確かに正しいと思います。人間を最も愛しているかのように見えます。しかし神の御言葉通りに従う時、神の力ある御業が現れるのです。頭を使って問題を解決しようとする時には、問題は絶対に解決しません。「こちらが強いから、あちらに力を与える。こちらが弱いから、あちらの力を分けてやる。」あるいは「この人が私の味方になれば、あの人をやっつけることができる。」というような計算は、頭で考える政治のようなものです。私たちは神の方法に従わなければなりません。祈りをもって、奉仕をもって犠牲をもってしなければなりません。そうすれば、ダメなように見える状況でも逆転して問題が解決し、驚くべき御業が起こります。
人生の問題は、頭ばかりを使っていてはなりません。主に頼ってこそ、人生の問題は解決します。アンデレは無力のように見えても、事柄を解決することのできる人でした。自分の力によってではなく、神様の恵みによって物事をつなぎ合わせ、問題を解決したのです。
今から約190年前、スコットランドのセルコックにおいて、伝道集会がありました。その集会には人々がほとんど来なかったばかりでなく、回心する人もいない本当に恵みのない集会でした。最後の日に献金の時間になりました。その時、一人の少年が献金をせず、こういうふうに告白したのです。「私はあまりにも貧しくて献金をささげることができません。しかし献金の代わりに自分の身体をささげます。私の人生を主にささげます。」
この少年が、後にアフリカ宣教の父となる、リビングストンでした。リビングストンは後に、全ヨーロッパとアフリカ大陸を変えた偉大な神のしもべとなりました。皆さん、ぜひリビングストンのような一人の人を、主に導く者となってください。
三番目、ヨハネの福音書12章を読みますと、アンデレは当時福音伝道の対象外だったギリシャ人たちを、イエス様のもとに導きました。祭りの日にエルサレム神殿にやって来た人々の中には、何名かのギリシャ人がいました。彼らは弟子の中でギリシャ人式の名前を持っているピリポにまず近づいて行きました。ピリポはどうしたらいいのか分からず、アンデレに相談しました。そしてアンデレとピリポがギリシャ人たちをイエス様のもとに連れて来たのです。その後、このギリシャ人たちがどのようになったかは、聖書には詳しく書いてありません。でも、この時のアンデレの態度は非常に重要です。
ある問題が起こったとき、いつも一人で、それを抱えて考え込む人がいます。しかし私たちはその問題を、イエス様のもとに持っていかなければなりません。一人で問題を抱えて、誰にも語らないまま仕事を進め、最後に「できません」と投げ出す人は愚かな人です。しかしアンデレは問題をもって主のもとに進み出ました。アンデレは先入観を捨て、「ギリシャ人は救われない」という偏見を乗り越えたのです。「やってみよう」と言えば、いいのです。アンデレは「やってみる人」でした。頭を使う信仰ではなく、「やってみる信仰」でした。やってみれば、その時、驚くべき御業が起こるのです。
私たちはオリジナルではありません。だから、自分のものを現わそうとするより、アンデレのように連結させる人になることです。アンデレは連結することによって、すべての限界を乗り越えました。彼は家族伝道の限界を乗り越え、家族をイエス様のもとに連れて来ました。また五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して、人本主義の弱点を乗り越えました。そしてギリシャ人をイエス様のもとに連れて来て、人種と文化の限界を乗り越えたのです。
イエス様につながるなら、みんな変えられていきます。真の変化、本当に変えられた人生を生きたいのであれば、礼拝をささげて、イエス様とつながることです。自分の意志だけで変えられない部分も、主につながるなら、必ず変えられていきます。
結論、アンデレを通して学んだ、神様に用いられるための原則。
1.未信者の家族に優先的に伝道します。
アンデレはきつい性格の自分の兄、ペテロに最初に伝道しました。それゆえ、ペテロは教会の礎石を置く者となりました。
2.人間の計算よりも、主に頼ります。
アンデレは群衆が飢えてしまうという問題を自分で解決しようとせず、五つのパンと二匹の魚を持っている少年をイエス様のもとに連れて来ました。人生の問題は、頭を使って解けるものではなく、主に頼らなければなりません。
3.人間の固定観念を乗り越えます。
アンデレは当時福音伝道のリストから外されていたギリシャ人を、イエス様のもとに連れて来て、最初に異邦人宣教の扉を開けました。私たちも固定観念を乗り越えて、一歩踏み出して行かなければなりません。
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