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詩篇 119:105

ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)

投稿者
tbic
投稿日
2024-03-10 20:38
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ヨハネの福音書 14:1-5『「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」』

唇から出てくる言葉が肯定的な信仰の言葉に変えられてこそ、品性を整えることができます。よく批判する人、いわゆる気質的に粘液質の人は批判するよりも、たくさん祈らなければなりません。ペテロが多血質だとすれば、恐らく粘液質が最もはっきりと現れている弟子の一人が今日学ぶトマスではないかと思います。

粘液質」とは、言葉通りベタベタした気質で気難しく、常に不平不満が多いのが特徴です。しかし一方で、不思議に誠実さもあります。いつも嫌だ、嫌だと言いながら、集まりには必ず参加します。粘液質の人は頭が良くて、いつも他人の弱点をよく見つけます。誰かが少し何かをしたら、その人の弱点を探し出して引きずりおろし、胸を刺すような毒舌をもっています。粘液質の人が自分の力を十分に発揮できないのは、いつも批判的だからです。

デドモと呼ばれるトマス」は、まさにそのような人でした。トマスはアラム語で、デドモはギリシャ語です。双子という意味を持っています。トマスが双子だったということについて、双子のもう一人は女で、その子は幼い時に死んだという伝説があります。とにかく、トマスは双子だったようです。

共観福音書であるマタイ、マルコ、ルカの福音書にはトマスに関する記事が一回も出ません。しかしヨハネの福音書では、ラザロの復活(11章)、最後の晩餐での説教(14章)、復活後(20章)、こういうふうに3回もトマスが登場します。どうやら、トマスはヨハネと格別な関係だったようです。この三つの記事は、粘液質の人がどのように信仰の人として変えられるかを示す貴重な糸口となります。今日はヨハネの福音書に出る三つの出来事を分析しながら、トマスがどんな人物なのか、見ていきたいと思います。

粘液質の人は、言葉から変えなければなりません。その唇から出る言葉が肯定的な言葉、信仰の言葉に変えられるのであれば、品性が整えられます。ヨハネの福音書11:6-8に、『しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

ラザロが病気になったという知らせを聞かれたイエス様はユダヤに行こうとされました。しかし弟子たちは引き止めます。実際にユダヤに行くことは大変危険なことでした。しかしすべての弟子たちが反対する中でトマスだけがこう言います。ヨハネ11:16、「そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。

一見、とても勇敢な言葉のように聞こえます。しかし原語ではニュアンスが少し違います。投げやりで、批判的な言葉です。感情を込めて翻訳すれば、こうなります。「そうだ。殺されるために行こう。どうせ、いつか俺たちは死ぬんだから。俺たちに何の権限があるのか。先生が行くと言われるから、行かなきゃダメだ!」これがトマスの本音でした。

粘液質の人は良いことについても、不平を言って恨みを持ちます。そしてとても消極的な人生を生きるのです。特に知識人たちの中には、粘液質の人が多いようです。彼らは否定的な言葉の一つひとつに説得力があり、多くの人に影響を与えます。

昔、韓国の母教会で、日本宣教の不当性を訴えていた兄弟がいました。その兄弟の論理はこうでした。「西洋の宣教師たちが数百年伝道しても実を結ばなかった日本に何をしに行くのか。多くの予算をかけて日本宣教をやっている場合ではない。むしろ発展途上国に行って、もっと多くの人々に福音を伝え、彼らを変える方が効果があるのではないか。」この兄弟の論理に圧倒された多くの人々が日本宣教をやめました。

しかしその後、日本宣教に行くメンバーの名簿を見て、私は啞然としました。その兄弟の名前が載っていたからです。粘液質の人は疑わしいことがあると、とにかく言葉でそれを吐き出します。自分の悩み事を言葉で吐き出しながら、自分の考えを整理していきます。そして結局、その兄弟も日本は宣教するべきだという結論を出したのです。しかし彼の言葉を聞いた人々はみんながっかりして、宣教チームから離れて行ったのです。これが粘液質の人の問題点です。

さんざん人を批判しておいて「おれは憎くて言っているんじゃない。みんなを愛しているからそう言うんだ。おれの気持ちをわかってくれ。」と言う人がいます。しかしその言葉を聞いていた相手は、そう受け取ることなどできません。すでに彼の毒舌によって傷を受けてしまったからです。粘液質の人は言葉に注意しなければなりません。自分の言葉がそんなに大きな傷を与えるとは思わなかったと言っても、もう手遅れです。それゆえ粘液質の人はまず口数を減らさなければなりません。

なぜ粘液質の人はたくさんの言葉を語り、また批判を楽しむのでしょうか。それは疑い深く、不安だからです。その疑いと不安を解消しようとして、たくさんの言葉を話すのです。それは、自分が誠実であろうとするためですが、その言葉を聞いた人をつまずかせてしまいます。こういう人は言葉で批判するより、たくさん祈らなければなりません。言葉に出すより、まず神様のもとに進み出て訴えることが必要です。

詩篇38:13、「しかし私は聞きません。聞こえない人のように。口を開きません。話せない人のように。」という御言葉を心に据え、むやみに口を開かないことを決心しなければなりません。神様がくださる恵みを慕い求めて祈るならば、神の御力が溢れるしもべになることができます。他人を殺す言葉ではなく、生かす言葉を言えるように、主に求めましょう。

二番目、粘液質の人は霊的なことに開かれることが必要です。イエス様は最後の晩餐のとき、こう言われました。今日の本文、ヨハネの福音書14:1-4、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。

わかるようで、わからないような御言葉です。これは、イエス様が霊的な奥義を語っておられるのです。そのとき、トマスが言った言葉に注目してみてください。続いて5節に、『トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

霊的な真理を語られたイエス様に、トマスは「これからどこに行けばいいのか」と言っています。言葉が通じていないのです。粘液質の人は霊的なことを悟れず、肉的な話、この地上の話ばかりをしてしまう傾向があります。イエス様の12弟子の名前を全部スラスラと暗唱しても、御言葉の本当の意味を理解できません。「どんな教会が、聖霊が働かれる教会なんだろう。」というより、「どれほど多くの人が集まるのか、予算はいくらなのか。」ということばかりを問題にします。こういう人には、神様との霊的な体験についての関心を呼び起こす必要があります。

マックス・ウェーバーは信仰を「カリスマと日常の間にある緊張」と定義しました。カリスマとは、ここでは上からの力、神様が注いでくださる恵みと理解すればいいです。私たちの人生は大きく二つの領域に分けることができます。神の領域と、日常生活の領域です。私たちは、この二つの領域の間にバランスを保つことが大切です。

社会に出て積極的に働いている人を見てください。そういう人は、この世での教会の使命は何かを考えます。また困っている人に手を差し伸べようとします。このように、日常の領域はお手のものですが、その反面、霊的な理解が不足しがちです。このような性質を持っている人は祈りを学ぶ必要があります。神の臨在と聖霊の力を、もっと体験することが必要です。

反対に、霊的なものばかりを求める人を見てください。そういう人は、昼も夜も「恵みと力を注いで下さい」と祈っています。しかし実際の生活は食費を稼ぐこともしなかったり、祈ってさえいれば就職できると思っていることがあります。こういう人は就職のために活動しなければなりません。私たちは霊的な領域と日常の領域の両方をとる必要があります。日常に強く、理性に優れていれば、祈りを学んでください。祈っていても行動が伴っていない人は日常生活を学んでください。どちらも必要です。

またトマスのような粘液質の人は詩人にならなければなりません。霊の世界、感情的な世界を知る必要があるからです。韓国の詩人、ド・ジョンファンの詩集に、「トウモロコシ畑の横にあなたを埋めて」という詩があります。私はこのような詩が大好きです。愛する妻を亡くし、埋葬した後に書いた詩のようです。その中で特に、このフレーズが胸に迫ってきます。

彦星と織姫もこの日だけは遭える七夕の日。私はあなたを地に埋めて、帰って来る。かすみ草を幾束一緒に埋めて、帰って来る。生きていた生涯あなたに一着の服も買ってあげられず、あなたが死んで初めて、麻の衣を一着着せた。

最後の一節が私の胸を打ちました。トマスのような人は、多分「奥さんが七夕のころに死んだのか。この詩人は再婚しなければならない。」という情報しか受け取らないかもしれません。しかし詩が伝えているのは、彼の体験と、それに伴う感情です。「妻が生きている時に服一着すら買えないほど、この詩人は貧しかった。この詩人は本当に妻を愛していた。そして葬った時に着せた衣は麻の衣しか着せられなかったことをこの詩に込めた。」このように詩人の心が伝わって、私たちの胸を打つのが詩の役割です。

この詩を読んだ人は、「愛する妻に服を買ってあげなきゃ」と思うはずです。しかしトマスに欠けていたのはこの部分です。イエス様が天国のことを詩的に表現された時、トマスは情報だけを得ようとしました。「主よ。どの道に行けばいいのですか。地図を書いてください。」というように訴えたのです。

神様から力を頂くためには、詩のような霊的世界を体験しなければなりません。日常の世界だけでなく、神の領域を体験することが必要です。それを体験するために必要なのが礼拝です。私たちは礼拝を通して、霊の世界を体験することができます。トマスのような粘液質の人に、霊的世界を受け入れる信仰の祝福が臨むことを切に願います。

三番目、粘液質の人は隣人に仕えることが必要です。イエス様が復活された後、マリヤとペテロがイエス様の復活を知らせました。また他の10名の弟子たちも、復活のイエス様に出会ったと言いました。それでもトマスは信じようとしなかったのです。自分の目で確認するまでは、決して復活を認めませんでした。トマスのようなタイプの人は賢いのですが、自己中心的なところがあります。自分が直接見て、確かめるのであれば、真理と認めます。しかしそうでなければ認めません。このようなタイプの人は力があっても多くのことはできません。自分という限界に縛られているからです。

マタイの福音書8章に、自分のしもべが病気になったとき、イエス様のもとに来て、「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」と求めた百人隊長に私は深い感動を覚えます。教会の中でも、自分だけうまく行けばいいと考える人がたくさんいます。金持ちになろうと熱心に金を稼ぐ人、出世しようと必死に勉強する人、そのような人々が、救われたばかりの人や弱っている人に心を砕くことはほとんどありません。だからこそ、自分よりも格下の部下のために心を砕いたこの百人隊長に、感動を覚えます。トマスのようなタイプの人にこのような心が伝わるのであれば、彼の傷はすべて癒されると思います。

このタイプの人は、あまり自分を幸せだと思いません。いつも不平不満に陥ってしまいます。トマスが幸せになる秘訣は何でしょうか。自分が持っている知性と力を、他の人々に仕えるために用いることです。ただもう一つ注意しなければならない点があります。それは、「自分が直接やらないと満足できない」という弱さがあります。このような考え方を変えて、他の人を通しても神様が働かれることを賛美するなら、きっと変わると思います。

たまに「この人が大統領になったら、他の国に移住する。」と言う人がいます。つまり自分の思い通りにならなければ我慢できません。これが典型的な粘液質の人です。しかし私たちは、たとえ自分の考えと違っても、受け入れることを学ぶ必要があります。たとえ神のみこころが自分の思いと180度違っていても、神様は必ず、私たちに良いことをしてくださるからです。だからこそ、私たちは固定観念を捨てなければなりません。トマスは自分の考えを捨て切れなかったために、不平不満を言い、疑い深い人になったわけです。

信仰が成長する」ということは、何も特別なことではありません。「信仰とは、友達や同僚を通して、主の御名があがめられることを願うことです。」だから他人のために祈るわけです。他人の成功を喜べるのであれば、私たちは勝利することができます。「本当の満足とは、競争に勝つ時に感じるものではありません。徹底的に仕える時にこそ、感じるものです。」他の人を助けて、その人が勝利した時に感じる喜びは自分が勝利した時よりも大きな喜びとなると思います。

皆さん、ぜひこういう真実な者になり、真実な者に出会ってください。神様は宝を高い所には置かれません。神様は宝を地に埋められます。そして地を掘る人に思いもかけない幸福が入って来るようにされるのです。これが神様の方法です。

皆さん、本当に真実な人に出会いたいのでしょうか。低い所、仕える所に真実な人がいます。高い所にはいません。「低くされる所に神の栄光と恵みがある」ということを忘れてはなりません。

私たちは低い所にある祝福を受けるため、自分の勝利ではなく、隣人の勝利のために心を砕きましょう。また批判を言わないようにしましょう。どんなに誠実な振る舞いも、その批判的な言葉によって、台無しになってしまいます。だからまず言葉から変えていきたいと思います。むしろ感謝の言葉を口にし、霊的な目を養いましょう。これによって、粘液質の限界を乗り越え、神様から用いられる者になりたいと思います。

結論、トマスを通して学んだ、神様に用いられるための原則。

1.言葉が変えられてこそ、人は変えられます。

トマスは否定的な言葉をしょっちゅう語った人でした。唇から出る言葉が、肯定的な言葉、信仰の言葉に変えられてこそ、品性を整えることができます。だから人に向かってではなく、たくさん祈り、神様に訴えましょう。

2.日常の限界から抜け出て、霊的な世界を体験しましょう。

日常の世界ばかりではなく、本当に霊的世界を体験してほしいのです。霊的な世界を知るためには、礼拝を通して神の臨在を体験することが必要です。

3.神の宝は低い所にあります。

神様は宝をこの地に埋められます。つまり真実な人は低い所にいます。隣人の勝利のために仕える人が真実な人です。
合計 144
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ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)
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ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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