メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
投稿者
tbic
投稿日
2024-03-17 23:02
閲覧数
372
ヨハネの福音書16:25-33『25.わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。26.その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。27.父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。28.わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」29.弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。30.あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」31.イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。32.見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。33.これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」』
今日の本文、33節の後半のところに、「わたしはすでに世に勝ちました。」というイエス様の宣言が出ます。これは、これから未来のことですが、過去形で表現しています。ユダヤ人の会話では一番確実で、確かなことを話す時には未来のことでも過去形で表現する時があります。
韓国の場合でも、喧嘩する時に「お前はもう死んだ。」と叫びながら飛びかかります。これも過去形ですが、「これから必ず殺すぞ」という未来に行う行動を意味します。同じ意味で、「わたしはすでに世に勝ちました。」とは、わたしの勝利は確実で、過去、現在、未来、すべてにおいて、もう勝ったという勝利の宣言です。
結局、イエス様を信じるクリスチャンの最後、私たちクリスチャンが立つ最後の場所は勝利の場所です。最終的に勝利するのは、私たちクリスチャンです。
もちろん私たちクリスチャンが必ず勝利しますが、しかしこの世の中で生きる時に受ける待遇(現実)は何ですか?33節の前半のところ、「世にあっては苦難があります。」です。つまり私たちクリスチャンを待っているのは拍手喝采と安定ではなく、十字架が待っています。クリスチャンには勝利の約束はありますが、現実は十字架です。十字架なしに、復活の勝利はないからです。
聖書の例、
イザヤ:迫害を受けながら、最後にはのこぎりで切られて死にました。
エレミヤ(涙の預言者):バカにされて、あちこち引っ張られ、エジプトで殉教しました。
モーセ、ダビデ:荒野でさすらいの人生を経験し、波乱万丈の人生を生き抜いたのです。
ペテロ:苦難の人生の最後に、十字架の上で逆さまになって死にました。
パウロ:自分が受ける苦難があまりにも苦しくて、それを要約するのに15節も必要だったのです。(コリント人への手紙第二12章)
これは何を意味するのでしょうか?「世にあっては苦難があります。」これがクリスチャンの人生です。しかしもう一つのクリスチャンの共通点は何ですか?みんな勝利した人々です。
そうしたら、私たちも苦難の中で勝利するためには、具体的にどうすれば良いのでしょうか?
今日の本文のイエス様の姿と、その状況を通して、三つの武器で武装する必要があります。
1.苦難の中で勝利するためには、赦す(愛する)ことです。
「イエス様を信じる」というのは、自己中心から神中心に変わることです。私たちの信仰の姿勢、つまり人格を変えるために、主は私たちに試練と苦難を通過させます。
今日の本文、ヨハネの福音書16章はイエス様が十字架にかけられ、死ぬ直前の状況です。もうすぐ何時間後には十字架が待っているのです。十字架刑というのは何ですか?史上最悪の死刑の方法です。
十字架刑は十字架の形の木の上に人を乗せ、両手、両足に釘を打って十字架を立てます。その状態では釘によって手足が固定されているから、体全体が前の方に傾きます。それによって、呼吸困難になり、重苦しくて耐えられない状態が続くわけです。そうしたら、十字架にかけられた人は、必死に体のバランスをとるために動きます。では、どうなるのでしょうか?
釘付けられた部分が動くたびに、痛みはさらにひどくなります。そして血は止まらず、流し続けるのです。医学的に血が止まるとき、つまり血液が凝固するときに、痛みがなくなるそうです。だから血が止まらず、流しっぱなしであれば、ものすごい痛みが共なるはずです。本当に十字架刑は恐ろしいものです。血が止まらず、流し続ければ、特に頭痛がひどくなって、耐えられない痛みに変わるそうです。
だから交通事故やいろいろな事故によって怪我したとき、特に腕とか足が切り取られる大怪我の場合に血が止まらない時があります。その時、神様は人を気絶(失神)させ、痛みを感じられないようにされるのです。しかし十字架では絶対に気絶しません。少しずつ、長い時間をかけて確実に殺す方法が十字架刑です。そして死ぬ時まで頭痛や痛みが続くわけです。本当に恐ろしい死刑の方法です。
ある医師は十字架で死んで行く姿を、こう表現しています。「生きている人を捕まえて、カッターナイフで生きたまま、体を一ミリずつ切り落とすような痛みに相当する。」と言います。
だからガラテヤ人への手紙3:13には、こう書いてあります。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」こういうふうに、イエス様が私たちの罪のために呪われたのです。
今日の本文は、イエス様がその恐ろしい十字架にかけられる直前の状況です。悩みと苦しみ、危機の瞬間です。普通の人だったら、いらいらしてストレスを爆発させたはずです。しかし、本文を見ると、イエス様は全然そういう姿が見られません。むしろ弟子たちの心の状態を点検して、これからの事を準備させてくださいます。もちろん32節を読むと、弟子たちがみんな逃げ出してしまうことを、もうご存知でした。しかしそんな寂しさの中でも、最後の瞬間まで、弟子たちを愛し、赦してくださったのです。この赦しの愛が最後の勝利の原動力となります。赦すことは、人の心を動かし、生かす力となります。
ヨセフ、ダビデ、ステパノ、、神の人はみんなその赦しの道を歩んだわけです。自分を売った兄たちに対してヨセフが言った有名な告白、創世記45:5、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」兄たちに対して憎しみではなく、すべてが神様の祝福であると告白します。だから私たちも当然赦すべきです。
2.苦難の中で勝利するためには、信頼が必要です。
本文の32-33節に、裏切る弟子たちを最後まで信頼するイエス様の姿が出ます。3度も否認したペテロも信頼します。これが弟子たちを殉教まで導いたわけです。(サーカスでのライオンショー、主人に対する信頼。)
この世の中で信頼できる人は、一人もいません。時間が経ってば経つほど、これが事実であることを実感します。しかし裏切られても、ずっと信じてあげることがクリスチャンの生き方です。
3.苦難の中で勝利するためには、祈ることです。
本文の26節の約束通り、「あなたがたはわたしの名によって求めます。」です。神の御前で、イエスの御名によって直接求めることです。私たちには神様への直通の道が開かれています。このチャンスを生かして、毎日祈ることによって勝利したいと思います。
今日の本文、33節の後半のところに、「わたしはすでに世に勝ちました。」というイエス様の宣言が出ます。これは、これから未来のことですが、過去形で表現しています。ユダヤ人の会話では一番確実で、確かなことを話す時には未来のことでも過去形で表現する時があります。
韓国の場合でも、喧嘩する時に「お前はもう死んだ。」と叫びながら飛びかかります。これも過去形ですが、「これから必ず殺すぞ」という未来に行う行動を意味します。同じ意味で、「わたしはすでに世に勝ちました。」とは、わたしの勝利は確実で、過去、現在、未来、すべてにおいて、もう勝ったという勝利の宣言です。
結局、イエス様を信じるクリスチャンの最後、私たちクリスチャンが立つ最後の場所は勝利の場所です。最終的に勝利するのは、私たちクリスチャンです。
もちろん私たちクリスチャンが必ず勝利しますが、しかしこの世の中で生きる時に受ける待遇(現実)は何ですか?33節の前半のところ、「世にあっては苦難があります。」です。つまり私たちクリスチャンを待っているのは拍手喝采と安定ではなく、十字架が待っています。クリスチャンには勝利の約束はありますが、現実は十字架です。十字架なしに、復活の勝利はないからです。
聖書の例、
イザヤ:迫害を受けながら、最後にはのこぎりで切られて死にました。
エレミヤ(涙の預言者):バカにされて、あちこち引っ張られ、エジプトで殉教しました。
モーセ、ダビデ:荒野でさすらいの人生を経験し、波乱万丈の人生を生き抜いたのです。
ペテロ:苦難の人生の最後に、十字架の上で逆さまになって死にました。
パウロ:自分が受ける苦難があまりにも苦しくて、それを要約するのに15節も必要だったのです。(コリント人への手紙第二12章)
これは何を意味するのでしょうか?「世にあっては苦難があります。」これがクリスチャンの人生です。しかしもう一つのクリスチャンの共通点は何ですか?みんな勝利した人々です。
そうしたら、私たちも苦難の中で勝利するためには、具体的にどうすれば良いのでしょうか?
今日の本文のイエス様の姿と、その状況を通して、三つの武器で武装する必要があります。
1.苦難の中で勝利するためには、赦す(愛する)ことです。
「イエス様を信じる」というのは、自己中心から神中心に変わることです。私たちの信仰の姿勢、つまり人格を変えるために、主は私たちに試練と苦難を通過させます。
今日の本文、ヨハネの福音書16章はイエス様が十字架にかけられ、死ぬ直前の状況です。もうすぐ何時間後には十字架が待っているのです。十字架刑というのは何ですか?史上最悪の死刑の方法です。
十字架刑は十字架の形の木の上に人を乗せ、両手、両足に釘を打って十字架を立てます。その状態では釘によって手足が固定されているから、体全体が前の方に傾きます。それによって、呼吸困難になり、重苦しくて耐えられない状態が続くわけです。そうしたら、十字架にかけられた人は、必死に体のバランスをとるために動きます。では、どうなるのでしょうか?
釘付けられた部分が動くたびに、痛みはさらにひどくなります。そして血は止まらず、流し続けるのです。医学的に血が止まるとき、つまり血液が凝固するときに、痛みがなくなるそうです。だから血が止まらず、流しっぱなしであれば、ものすごい痛みが共なるはずです。本当に十字架刑は恐ろしいものです。血が止まらず、流し続ければ、特に頭痛がひどくなって、耐えられない痛みに変わるそうです。
だから交通事故やいろいろな事故によって怪我したとき、特に腕とか足が切り取られる大怪我の場合に血が止まらない時があります。その時、神様は人を気絶(失神)させ、痛みを感じられないようにされるのです。しかし十字架では絶対に気絶しません。少しずつ、長い時間をかけて確実に殺す方法が十字架刑です。そして死ぬ時まで頭痛や痛みが続くわけです。本当に恐ろしい死刑の方法です。
ある医師は十字架で死んで行く姿を、こう表現しています。「生きている人を捕まえて、カッターナイフで生きたまま、体を一ミリずつ切り落とすような痛みに相当する。」と言います。
だからガラテヤ人への手紙3:13には、こう書いてあります。「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」こういうふうに、イエス様が私たちの罪のために呪われたのです。
今日の本文は、イエス様がその恐ろしい十字架にかけられる直前の状況です。悩みと苦しみ、危機の瞬間です。普通の人だったら、いらいらしてストレスを爆発させたはずです。しかし、本文を見ると、イエス様は全然そういう姿が見られません。むしろ弟子たちの心の状態を点検して、これからの事を準備させてくださいます。もちろん32節を読むと、弟子たちがみんな逃げ出してしまうことを、もうご存知でした。しかしそんな寂しさの中でも、最後の瞬間まで、弟子たちを愛し、赦してくださったのです。この赦しの愛が最後の勝利の原動力となります。赦すことは、人の心を動かし、生かす力となります。
ヨセフ、ダビデ、ステパノ、、神の人はみんなその赦しの道を歩んだわけです。自分を売った兄たちに対してヨセフが言った有名な告白、創世記45:5、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」兄たちに対して憎しみではなく、すべてが神様の祝福であると告白します。だから私たちも当然赦すべきです。
2.苦難の中で勝利するためには、信頼が必要です。
本文の32-33節に、裏切る弟子たちを最後まで信頼するイエス様の姿が出ます。3度も否認したペテロも信頼します。これが弟子たちを殉教まで導いたわけです。(サーカスでのライオンショー、主人に対する信頼。)
この世の中で信頼できる人は、一人もいません。時間が経ってば経つほど、これが事実であることを実感します。しかし裏切られても、ずっと信じてあげることがクリスチャンの生き方です。
3.苦難の中で勝利するためには、祈ることです。
本文の26節の約束通り、「あなたがたはわたしの名によって求めます。」です。神の御前で、イエスの御名によって直接求めることです。私たちには神様への直通の道が開かれています。このチャンスを生かして、毎日祈ることによって勝利したいと思います。
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