メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)

投稿者
tbic
投稿日
2024-05-12 21:39
閲覧数
134
ヨハネの黙示録14:14-20『また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。すると、別の御使いが神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に大声で叫んだ。「あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。地の穀物は実っています。」雲の上に座っておられる方が地上に鎌を投げると、地は刈り取られた。それから、もう一人の御使いが天の神殿から出て来たが、彼もまた、鋭い鎌を持っていた。すると、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ御使いに大声で呼びかけた。「あなたの鋭い鎌を送って、地のぶどうの房を刈り集めよ。ぶどうはすでに熟している。」御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。』

今日の本文は、神の裁きの結論の部分です。本文の14節、「また私は見た。すると見よ。白い雲が起こり、その雲の上に人の子のような方が座っておられた。その頭には金の冠、手には鋭い鎌があった。」この箇所はイエス・キリストを象徴しています。なぜその方は雲の上に座って来られるのでしょうか。このように預言しています。

ダニエル書7:13「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。

ヨハネの黙示録1:7「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。

きっと、そうなるのです。その方はなぜ、再び来られなければならないのでしょうか。その方が来られると、どんなことが起きるのでしょうか。裁きが行われます。裁きのためにイエス様は来られるのです。初臨の時は赦しと愛、救いのために、再臨の時は裁きのために来られます。だから人の子のような方の手には鋭い鎌があったと表現しています。イエス様は裁きのためにすぐ来られると思います。聖書で鎌は収穫と関係があります。そして収穫は救いを表わし、また裁きを表わしています。今日の本文は裁きの収穫を意味します。旧約聖書に出る裁きの鎌は何箇所かあるのですが、代表的な箇所がヨエル書3:13-14、「鎌を入れよ。刈り入れの機は熟した。来て、踏め。踏み場は満ちた。石がめはあふれている。彼らの悪がひどいから。判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。」こういう風に、鎌は裁きと呪いを象徴します。

今日の本文に戻って15節、ある別の御使いが現れて雲とともに来られる、鋭い鎌を持っておられるイエス様に大声で叫ぶわけです。「あなたの鎌を送って、刈り取ってください。刈り入れの時が来ましたから。地の穀物は実っています。

皆さん、イエス様に命令できる方は誰でしょうか。唯一の方、神様だけです。そうすると、この御使いは誰の命令を伝えているのでしょうか。神様の命令です。だから15節に、その御使いは神様がおられる神殿から出て来たと表現するわけです。しかしなぜ、イエス様がその命令を受けてから、鋭い鎌を投げるのでしょうか。イエス様は自らこう言われました。最後の裁きの日は天の父だけが知っておられ、自分も知らないし、神様の命令が下される時までは鎌を投げてはならないと。マルコの福音書13:31-33「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。

皆さん、イエス様は明日、来られるかもしれません。明日は絶対に来られないと思いがちですが、今の時代は明日イエス様が来られる可能性もあります。ただイエス様も知らないと。使徒の働き1:7「イエスは言われた。いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」こういう風にいつ最後の審判が臨むかはイエス様も知らない(言わない)と言われます。

しかしイエス様がこういう風に明確に言われたにもかかわらず、異端とか偽者たちは「イエス様が来られる日はいつだ。終わりの日、終末はいつだ。」と日にちを言ってしまって、ものすごくバカにされたわけです。

本文に戻って面白い表現が15節に出ます。審判を受けるべき罪人の姿を「地の穀物は実っています。」と表現しています。罪人たちが実っているということは、最後の審判はこの世の罪がノアの時代のように最高の頂点に達して世界に満ちあふれるときに起きるということです。この世がますます悪く実っていくというのは、この世はますます悪くなっていくということです。後千年説を支持する人々が主張するように、この世はますます良くなっていく、ピンク色の夢はウソです。それを信じる人はバカだと思います。

皆さん、しっかり覚えてください。この世はますます暴虐になって、残酷になり、猟奇的になっていくと思います。そして結局、その最悪の頂点で滅びます。だから今日の本文で「全部実っている。殺せ。」と言われるわけです。神様は今、悪が実るときまで待っておられるだけです。創世記15章でも神様がアブラハムにカナンの地を与えると約束なさってから、すぐに与えてくださらないのです。400年間エジプトで苦しめられ、出エジプトしたときに与えると。カナンの地を与えるのであれば、直ちにその地のすべての人々を殺してイスラエルの民にその新天新地を与えるべきなのに、待ちなさいと言われるわけです。

その理由を創世記15:16でこう言われます。「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」そこのエモリ人の罪がまだ満ちていないから待ちなさいと。神様は待っておられるということです。この地上にいる罪人たちが神の御前で到底言い訳できないほど、悪くなるときまで神様は待っておられます。まさに私たちがその世の真ん中で過ごしています。この世のすべての者がみんな手を組んで神様の反対の方向へ一生懸命に走っているこの世の中で、私たちは流されるのではなく、さかのぼり、立ち向かうから大変です。この世は悪くなる一方です。インターネットやテレビ、新聞を見てください。想像を絶する犯罪が頻繁に起きています。これからも、ますますひどくなっていくと思います。もっと汚くなり、もっともっと悪くなっていくはずです。

そして本文の18-19節を見ますと、穀物ではなく、ぶどうの収穫について描かれています。やはり恐ろしい審判の姿を見せるわけです。18-19節をもう一度読んでみましょう。『すると、火をつかさどる権威を持つ別の御使いが祭壇から出て来て、鋭い鎌を持つ御使いに大声で呼びかけた。「あなたの鋭い鎌を送って、地のぶどうの房を刈り集めよ。ぶどうはすでに熟している。」御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。』ヨハネの黙示録8:3-5の裁きの御使いが再び祭壇から出て来て、地のぶどうを刈り集め、踏み場に投げ入れる恐ろしい審判を命令しています。神様が終わりのときに、憤りの大きな踏み場に投げ入れると思います。ここで「神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた」という表現はヨハネの黙示録19:15とイザヤ書63:3とつながっています。イザヤ書63:3、「わたしはひとりでぶどう踏みをした。諸国の民のうちで、事をともにする者はだれもいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。彼らの血の滴りはわたしの衣にはねかかり、わたしの装いをすっかり汚してしまった。

イスラエルには二回の収穫があったのです。春と秋の二回ですが、春は小麦の収穫、それを五旬節(ペンテコステ)だと言い、秋にはぶどうの収穫の季節で初実節と言います。水が少ない中東の人々はぶどう酒を飲料水として飲んでいたので、秋にぶどうを収穫したら、そのぶどうを大きな階段式の二重踏み場に入れて踏んだのです。つまり人々がその上に上がって踏んだら、ぶどうの汁が下の石のほうに流れて落ちてくる仕組みになっていました。だからその集められたぶどうの汁を汲んでぶどう酒を作ったのですが、その過程の中で、踏み場でぶどう酒を汲む人々の服だけでなく、太ももまで赤く染まる、血のように真っ赤にぶどう酒は染み込むわけです。

皆さんもご存知のように、ぶどうの汁に染まるとなかなか消されないのです。ところが、それを一日中踏むから何日間も真っ赤に染まった服を着て過ごしたということです。だからユダヤ人たちは毎年ぶどう酒を作ったので、すべての人々が踏み場にぶどうを入れて踏むと言ったら、ぱーと浮かび上がる場面がありました。それが神様の裁きと呪いの恐ろしい姿を当時ユダヤ人たちが見慣れで浮かび上がる光景の踏み場を踏むことで表現したものです。ちらっと見たら、全部血のように見えたはずです。

今日の本文の20節を読みますと、踏み場を踏んだら血が流れ出たと表現しています。「都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

皆さん、流れ出るその血が馬のくつわまで届いたということです。どういう意味でしょうか。馬を見たことがありますか?馬は以外に大きいのです。それぐらい高いところまで血が飛んだということです。これは悪者たちが受ける激しい苦しみを表わすときに使っていたユダヤ人の慣用句です。そしてその血が千六百スタディオンに広がったというのは、その審判の範囲が全宇宙的で、全世界にわたって徹底的に行われることを表しています。そしてその裁きはこの世の権力を握っている世の王たちと関係があります。なぜかというと、1600=4×4×10×10ですが、ヨハネの黙示録では、4は「全世界、四つの風、四つの角」で表現しています。そして10は黙示録17:12、「あなたが見た十本の角は十人の王たちです。彼らはまだ王権を受けていませんが、獣とともに、一時だけ王としての権威を受けます。」ここで「十本の角は十人の王たち」のように、数字の10と4は二回繰り返して強調するときに使われます。

またこれは黙示録16章に出るハルマゲドンの戦争を意味します。この世の王たちと彼らに敵対する者たちがメギドの谷に集まっていた時、神様によって全滅される有名な戦争です。だからこの最後の戦争を、今日の本文の14章の後半のところに結論として書き記したわけです。

神様がこういう風にこの世の王たちと悪魔、サタン、その群れたちを集めて、今日の本文の御言葉で表現すれば、鋭い鎌で収穫して全部踏みにじり、滅ぼすと思います。これが世の終わりですが、このハルマゲドンの戦争は黙示録20章に出る大きな白い御座の審判と同じ出来事です。

ヨハネの黙示録20:11-15を読んでみましょう。「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

恐ろしい最後の審判の御言葉です。私たちはみんなこの裁きの座に立つわけです。しかしイエス・キリストの中にいる神の御民はそこから救い出されます。これが真の救いです。

今日の本文に戻って、20節に「実ったぶどうのふさは都の外で踏まれた」と出ます。その都はどんな都でしょうか。私たちがそこで永遠に生きる聖なる都、新しいエルサレムです。その14万4千人(144000=12×12×1000)がイエス様と共に立っていたシオン山、エルサレムがシオン山です。そしてその外にいる者たちはみんな神の御怒りの踏み場で踏まれることになっています。そうしたら、私たちはどうやって都の外の裁きを逃れることができたのでしょうか。私たちはどうやってこのシオン山の中に入っているのでしょうか。世の人々より立派なところが、私たちにあるのでしょうか。私たちは彼らと同じ人生を生きるのですが、しかしどうやって私たちはその都の外の裁きを逃れることができたのでしょうか。私たちの救い主、イエス・キリストが私たちを懐に抱いて、私たちの身代わりとなって、その都の外の踏み場でご自分が踏まれたから、それが可能になったわけです。だから私たちはその裁きの踏み場と全然関係のない者になりました。

私たちが世の人々と違うところは何でしょうか。むしろ衰えているのに、私たちは神様が選び取って、イエス様の中に入れてくださり、イエス様を踏みにじったわけです。だから私たちはこういう風に自由を得たのです。ヘブル人への手紙13:12、「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」と正確に出ます。

私たちの血が飛ぶその門の外、その場所でイエス・キリストの血が飛びました。私たちの肉が裂かれる門の外でイエス・キリストの肉が裂かれたのです。だから私たちは呪いの踏み場で自由になったわけです。そうしたら、もうこれから勝手に生きてもいいのでしょうか。いいえ、続くヘブル人への手紙13:13、「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

皆さん、これから私たちはどういう風に生きるべきでしょうか。私たちもその十字架を負いイエス様がおられる所へ行きなさいということです。引き続き、ヘブル人への手紙13:14-16「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

勝手に生きなさいではなく、その「救われた者、恵みを受けた者としてイエス様の苦しみを分け合い、私たちの欲と野望に従わず、自分を否定し、十字架を負って、イエス様に進みなさい。」ということです。今は見えないのですが、「将来与えられる永遠の都を見つめながら、新しい天と地を期待し、絶えず神を賛美し、善を行って持ち物を分け与え、これからやって来る都を見つめながら待ちなさい。」ということです。これが信仰であるとヘブル書は語っているわけです。

ヨハネの黙示録の御言葉通り、この世の終末は必ずやって来ます。神様の恐ろしい裁きは盗人のように私たちに、急に襲いかかると思います。誰一人、その裁きの踏み場から逃れることはできません。この世のすべての人が死を通過するように、この世に生まれたすべての人間がその裁きの座に立つわけです。私たちはその時を準備しなければなりません。永遠の始まりである、その時を準備しなければなりません。この地上で生きる目的が私たちのお腹のためではなく、その日を準備することであれば幸いです。

なぜ人々はイエスを信じながらも、全然とんでもないことを追い求めながら生きるのでしょうか。ほとんどの人々が自分と死が何の関係もないと思うからです。しかし私たちはみんな死にます。今日もたくさんの人々が病院の救急室と病室で亡くなりました。たまに病院に行って見てください。どれほど多くの人々が死んでいくのか、自殺する人の10倍以上が癌で亡くなり、車の事故や火事などで亡くなります。その死が私たちだけ避けて行く保証はありません。今日もたくさんの人々がわけも分からないまま何の準備もなく、神の裁きの座に引っ張られて行ったわけです。その踏み場に自ら上って行ったということです。彼らが私たちより学歴がないから、死ぬわけではありません。彼らが私たちより力がないから、貧しいから死ぬわけではありません。ただすべての人間は死にます。しかしほとんどの人々がその死と自分は何の関係もないと硬く信じているから、勝手に生きるわけです。

私たちクリスチャンは死と裁きを正確に認識して、死後の永遠の生涯を準備する存在です。人間の生と死は大したことではありません。私たちがフーと息を出して、その息が再び鼻や口を通して入らなければ死にます。死はこんなに私たちの近くに来ています。だから2600年前のイザヤも何と言いますか?イザヤ書2:22、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。

人間は鼻から息ができなければ、それで終わりです。死は私たちの近くにあります。今晩、眠りに落ちて、明日の朝、地獄で目覚める可能性があります。私たちがこの地上で、この鼻から息が止まった瞬間、人々は私たちを別の呼び方で呼ぶわけです。寝たきりの植物人間の状態であれ、鼻に息があれば私たちは人間です。しかしこの鼻から息が止まった瞬間、私たちは死体として呼ばれるわけです。その後、すぐ生きているものと隔離されます。病院で死んだ者はすぐ冷凍室(霊安室)に移されます。家で死んだら、壁(屏風)を立て、その裏に移され、その前には線香をたくわけです。そうしたら、死体はすぐ腐っていきます。その臭い匂いは想像を絶するものだそうです。私たちも長くありません。すぐそういう風に腐る運命です。だから霊安室や死体が横たわっている所に線香をたく理由は、腐る匂いを隠すためでもあるそうです。死んでしまった人間の体がどれほど汚く、価値のないものか、死んだ体からはその体の中で寄生していた寄生虫が、人間の息が止まった瞬間、すべての穴から出るそうです。だから人が死んだら、すべての穴を防ぐわけです。人間はみんなそうです。息が止まったら、肉にすぎません。ここにいるすべての人がその霊安室に安置されるわけです。50年後に行くか、10年後に行くか、3ヵ月後に行くか、私たちはみんな隔離されたそこに入らなければならない運命です。10年、20年、命が延ばされたって、そんなに大したことではありません。私たちはそこへ必ず行く運命だということが大切です。

皆さん、私たちが死体と違うところは何でしょうか。この鼻を通して息ができること、それしかありません。私たちはそれぐらいの人生です。しばらくすると、棺おけに入り、千度近くの炎の中に入って燃やされ、一畳にもならない地の中に埋められる運命です。そしてすぐ腐ってしまう存在が私たちです。そういう風に腐ってしまえば、終わりでしょうか。いいえ、その後、私たちの人生の最後の姿、その悲惨な姿とは到底比較できない、ものすごく大きな踏み場が待っています。神様はその恐ろしい審判の踏み場をこの世の中で少しずつ見せてくださいます。だから「あなたがたはその死後の、永遠の命を準備しながら生きなさい。」と主は言われます。しかし腐っていく、この肉のために生きる人は愚かです。ガラテヤ人への手紙6:8「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」これが私たちの信仰であり、キリスト教です。

私たちがどれほどたくさんの財産を、この地上に積み上げたとしても、私たちはみんな隔離された線香の裏側に行かなければなりません。だから何を準備すべきでしょうか。もちろん誤解しないでください。この地上のことをおろそかにしなさいということではありません。神様が皆さんに任された家庭、職場、地域で、誰よりも誠実に生きていってほしいのです。ビジネスをする方はお金をたくさん儲けてください。ただ合法的に、誠実にたくさん儲けてください。名誉と権力が与えられれば受け取ってください。しかし私たちクリスチャンにとってお金と名誉はこの世の人々が言っているお金と名誉とは全然違う意味があります。世の人々はそれだけのために時間を費やしながら一日一日を生きるのですが、「私たちは誠実に神の子どもとして神様が願っておられることをするプロセスの中で、お金と名誉がしばらく自分に任された。」ということを認めなければなりません。

しかし世の人々はそのためにだけ生きるから、それが自分のもので、自分が持っているから高慢になってしまいます。私たちは神様が私たちにおまけとしてそれをくださったので、それを持って神様と隣人に仕えるようになります。だからまだその実力がない人にお金と名誉が与えられれば、それは100%その人を破壊してしまいます。だからこそ私たちはお金を始め、この世の力を見る目が完全に変わらなければなりません。もしその前に私たちがこの世の力を持っていれば、きっと滅びの道へ進むしかありません。

皆さん、自分の子どもたちに遺産を相続しないでください。遺産を相続することは子供たちの中に「私は誠実に、熱心に働かなくても、いくらでもお金を得ることができる。」という泥棒を生み出すことです。相続する遺産があれば、別のところに寄付してください。それでも、もし死ぬときまでお金を使い切れないのであれば、だれも知らない土の中に埋めたほうがいいのです。その遺産を受け取って正しく生きる人間を見たことがありません。財閥の子供たちを見てください。そのたくさんのお金を持っていながらも、もう少し自分のものにしようと訴訟を起こしたり、その遺産を受け取って酒、麻薬、賭博、女などにおぼれて、人間らしさを全部失った人がどれほど多いのでしょうか!

皆さん、子供たちに正しい信仰を相続してください。苦労しながらも自分が熱心に努力して、神の助けを求めながら生きる、その信仰を受け継がせてください。お金というのは、それを取り扱う実力がなければ致命的な毒になります。だから神様はこの世を象徴するお金をあらゆる悪の根だと言われるわけです。さらにそのお金をこの世の神、メモンの神、お金の神だと言われます。だから私たちはイエス様を信じながらも本物の神様に仕えるか、イエス様を利用してメモン、お金の神に仕えるかを、明確に見極めなければなりません。

しかし残念ながら今日のキリスト教はイエス様を利用してお金をたくさん儲け、病気が治り、子供が良い学校に入るような占い宗教に変わってしまいました。キリスト教は神様と隣人のために自分を殺し、イエス様の品性を練習するのが本物のキリスト教です。その品性を、神様がすでに私たちにくださっているので、それが本物かどうか、人生を通して少しずつ悟っていくことが私たちクリスチャンの人生です。

私たちはこの世に手ぶらで来て、またこの世を手ぶらで去る運命です。この世にあるものを持って去ることは何もありません。だから神の御前に持って行けるもののために生きていってください。それは何でしょうか。信仰と神の品性、それだけです。皆さんの中に神の品性を積み重ねっていって、その後のこと、死んだ後の世界を見てください。死んだ後、御怒りの踏み場にいるか、新しい天と地、新しいエルサレムで目覚めるか、それを考えてほしいのです。その時始めて、私たちは神の子供らしく生きられるということです。死は以外に私たちの近くにあります。

創世記4:26、「セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」エノシュが生まれてから、人々は主の御名によって祈ることを始めたそうです。エノシュの名前の意味は何ですか?「死ぬしかない存在」です。その時まで人々は永遠に生きると思っていました。お祖父さんアダムが900歳まで生きていたから、死が分からなかったのです。しかし「あー、僕らも死ぬ。死ぬしかない存在だ。」とセツが知って、息子の名前をエノシュと名づけたわけです。「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」何ですか?「自分は死ぬ。必ず線香の裏側に入る。」それを毎日考えながら、生きていってほしいのです。私たちの目の前に神の憤りの大きな踏み場が待っているかもしれない、その恐ろしい現実を毎日考えながら、生きていってください。その時、私たちはエノシュであることを知り、その時始めて、真剣に祈れるようになります。

皆さん、私たちはみんな死にます。そして必ず裁きの座に立ちます。その時を準備してください。今から準備してください。いつか、盗人のように死が私たちを襲った時、「あー、私は無駄に時間を費やして、愚かな人生を生きて来た。」と。こういう風に後悔しないように、悔いのない人生を生きるために、今から準備しなければなりません。だから今日を信仰によって、熱心に生きるのみです。

最後に、テモテへの手紙第一6:7-14を読んで終わりたいと思います。

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。私は、すべてのものにいのちを与えてくださる神の御前で、また、ポンティオ・ピラトに対してすばらしい告白をもって証しをされたキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは汚れなく、非難されるところなく、命令を守りなさい。
合計 155
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
155
居昌高校の職業選択の10戒
tbic | 2024.07.22 | 推薦 1 | 閲覧数 26
tbic 2024.07.22 1 26
154
ヨハネの福音書12:24( 死ぬなら、生きる)
tbic | 2024.07.22 | 推薦 1 | 閲覧数 26
tbic 2024.07.22 1 26
153
ヨハネの福音書14:27(不安からの解放)
tbic | 2024.07.15 | 推薦 1 | 閲覧数 47
tbic 2024.07.15 1 47
152
マタイの福音書11:28-30、イザヤ書61:1-3(疲れた人、重荷を負っている人への招き)
tbic | 2024.07.08 | 推薦 1 | 閲覧数 42
tbic 2024.07.08 1 42
151
サムエル記第二15:12-23(苦難の問題)
tbic | 2024.07.06 | 推薦 1 | 閲覧数 46
tbic 2024.07.06 1 46
150
サムエル記第一30:1-6(苦難が与える有益)
tbic | 2024.07.03 | 推薦 2 | 閲覧数 68
tbic 2024.07.03 2 68
149
マタイの福音書18:18-20(祈ることを決心しなさい)  
tbic | 2024.07.03 | 推薦 1 | 閲覧数 78
tbic 2024.07.03 1 78
148
使徒の働き20:23-24(使命に命をかけなさい)
tbic | 2024.06.09 | 推薦 0 | 閲覧数 84
tbic 2024.06.09 0 84
147
ルカの福音書6:12-16(変えられない人は誰もいない)
tbic | 2024.06.02 | 推薦 1 | 閲覧数 92
tbic 2024.06.02 1 92
146
ヨハネの黙示録3:1-13(ダビデの鍵を持っている方)
tbic | 2024.05.26 | 推薦 1 | 閲覧数 116
tbic 2024.05.26 1 116

主の御名によって 歓迎いたします。

TOP

東京ベイ国際教会

〒279-0042 浦安市東野1-6-18

Tel :090 – 8116 – 9372 / jeenbd9994@yahoo.co.jp

Copyright (C) 2019 www.tokyobaychurch.com All Rights Reserved.