メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
コリント人への手紙第二3:6-18(文字は殺し、御霊は生かす)
投稿者
tbic
投稿日
2024-05-19 23:48
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627
コリント人への手紙第二3:6-18「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
それはヨハネの福音書6:63、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」というみことばを少しづつ体験し始めてからです。
それまで聖書のみことばは私にとって、生活の指針であり、倫理、道徳の規準でした。苦しい時の励ましであり、悲しい時の慰めでした。また嬉しい時の感謝と力でした。キリストを信じることによって、全く新しい世界に導き入れられ、その新鮮な思いをもって生活することができました。
初めのうちはいろいろな困難にあいましたが、祈りがどんどん叶えられて、夢のような日々がつづきました。祈りと聖書のみことばによって、生活のあらゆる面において、目覚ましい前進がつづきました。
ところが、年数がたつに従って、だんだんと「何かが足りない」ということを感じ始めたのです。良く聖書を学び、良く祈り、良くみことばを実行して、それなりの成果があがればあがるほど、次々に新しい大きな難問が与えられてきます。課題が大きくなり、難しくなればなるほど、必ずしもそれまでのようにトントン拍子では進みません。多くのアップダウンがあり、長期の努力と忍耐が必要となります。
そうすると、結果や成果を早く得ようとして、ついつい人間的な思いで頑張ってしまいます。それに伴って、魂の飢え渇きが大きくなってきたのです。またおそらく過労からくると思われる慢性的疲労感からなかなか脱出できないでいました。
日本という非キリスト教社会にいるきわめて少数のクリスチャンにとって、このような飢え渇きと慢性疲労感は当然のことではないか、と思っていました。また牧師という霊的戦いの激しい職業からも、やむを得ないことと思っていました。そしてこのような状態にあっても、長く忍耐して努力していけば、徐々に力がついてきて、いつかは溢れるいのちと力を体験できるようになるだろうと期待していました。
また本文の3:15-18、「確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
私はこの聖句から重大なことに気づかされました。聖書のみことばを読んだり、聞いたりしても、その人の心に覆いがかかっているので、みことばの真の意味が分からない、ということです。心に覆いがかかったままでは、みことばの文字を知的に理解して頭に入れても、心には入らないということです。それでは神のみことばに対する全幅の信頼は湧き起こってこないのは当然です。
キリストが十字架にかかる前に、ペテロは、「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ 26:35)と言いました。しかしペテロはこれを肉の思いで言ったので、実行できませんでした。
ペテロはキリストに出会って、すぐに弟子になって、3年間もの間キリストと寝食を共にしました。その間、毎日キリストのみことばを聞き、数々のキリストの愛の奇蹟のみ業を見てきました。そしてキリストが神の御子であり、救い主であることを知っていたのです。それにもかかわらず、いざキリストが十字架につけられ、自分に危害が及びそうになったら、3度もイエスを知らないと言って、逃げてしまいました。
ペテロはキリストのことばを頭では知っていたのですが、しかし心の奥底(本心)では受け入れていなかったのです。その状態は、ペテロが復活のキリストに出会っても、つづいていました。ペテロがキリストのことばを本当に(本心で)悟ったのはペンテコステの日に激しい聖霊のバプテスマを受けた、その日でした。
私もペテロと同じように、毎日聖書のみことばを読んでは祈り、数々のキリストの愛のみ業を見てきました。しかしそれは多くの場合、知性と感情の領域でのことにすぎませんでした。
キリストのところへ行けば、良い話が聞ける、病気をいやしてもらえる、悪霊を追い出してもらえる、食物をもらえる、問題を解決してもらえる、と思って集まってきた群衆の一人にすぎなかったのです。キリストの恵みを受けるためにキリストのところへ行くのですが、恵みを受けるだけで、あらゆる恵みの与え主であるキリストご自身と、直接心から親しく交わることが少なかったのです。
その結果、多くの恵みを受けていながら、「何かが足りない」という状態に陥たのです。その不足感を満たそうとして、「もっと恵みを、もっと恵みを」とせがむようになりました。しかし恵みは恵みにすぎません。一時的、相対的なものにすぎませんでした。このようにして、単に恵みを受けるために聖書のみことばを学べば学ぶほど、霊的飢え渇きはもっとひどくなっていきます。
もちろん、神様に恵みを求めることは良いことです。神様はいつも私たちに、「求めなさい」(マタイ6:7、ヨハネ16:24、ヤコブ4:2) と言われます。神に願い求めて与えられるなら、私たちは喜びます。天の父はそのようにして、ご自分の子供たちが喜ぶのを見たいのです。しかし問題は私たちが恵みだけを求めて、主ご自身との親しい交わりを求めるのを忘れてしまうということです。そうすると、いくら恵みを得ても、霊的にはどんどん弱まって、死んでいくようになるのです。
ある恵まれたクリスチャンホームに育った青年が若くしてキリストを信じ、友人たちに福音を伝え、教会では青年会の会長として熱心に奉仕をし、聖書のみことばを一生懸命に学びましたが、社会人になって会社の人間関係のことで悩んでいました。
そしてある時から、「聖書をいくら読んでも、砂をかんでいるような気がします。」と言い始めて、ついには自殺してしまったのです。
教会を離れて去っていく、多くのかつて熱心だったクリスチャンが、同じような問題を抱えているのです。私たちの思いが、「恵み」や「奉仕」という外側の事柄にのみ熱中していくと、かえって「主ご自身」から離れてしまうということが、実際にあるのです。
言いかえれば、もし私がキリストのことば、すなわち聖書のみことばを、その文字から知的に理解して、これを肉の力でがんばって実現しようとしても無益だということです。キリストのことばを頭で理解して、これを記憶することは思いの領域、つまりマインドの領域、肉の領域の事柄です。だからがんばって自分の力(思いの力)でこれを実現しようとするのです。その結果は、うまくいけば高慢になり、うまくいかなければ失望して、卑屈になってしまいます。このようにして、肉性がどんどん前面に出てきて、霊性がどんどん後退し、死んでいくことを体験するのです。
しかし「みことばは霊」なのだ、「神のいのち」そのものなのだということを心の底から悟るなら、これは本当に素晴らしいことです。私たちは「みことば」を私たちの心の奥底に、すなわち霊の領域に受け入れなければなりません。そうすれば、「みことば」である「霊」は自由に行動されます。「神のいのち」が私たちの心の奥底から(霊の世界から)、自然にわき起こって、あふれ出るのです。だからイエス様は次のように言われます。
ヨハネの福音書 7:37-38、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
そうすると、もはや私たちが自分の思い、自分の力で、頑張る必要は全くなくなってしまいます。御霊ご自身が働いてくださり、神のいのちが私たちの心の奥底から、自然に川のように溢れ出てくるからです。「神の御言葉ご自身が御言葉を実現していく。」(イザヤ書 55:11)という世界に入るのです。私たちはただ、御言葉を信じて(心に受け入れて)、御言葉のなさるままに生かされていく世界にいるのだ、ということが分かってきます。それがまさに、「御霊は生かす」ということです。
今日の本文のコリント人への手紙第二3:16、「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。」と書かれています。私たちのすべての思いと熱情をキリストに集中していくなら、人の知性や感情という肉によってかけられていた「心の覆い」が取り除かれて、みことばの内なる霊性、つまり神のいのち、神の光が、すなわちキリストご自身が私たちの心の内に現れてくるのです。
引き続き、3:17-18、「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 」神のみことばが、覆いが取り除かれた心の内にどんどん入ってきて、そのいのちと光を自由に現してくるのです。そうすると、キリストご自身と自由に生き生きと交わることができるようになります。「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」すなわち御霊なる主の働きにゆだねていくときに、そうなるのです。決して私たちの肉の働きによるのではありません。肉の働きはかえって、御霊の働きを妨げてしまいます。
「みことば」を知的理解の領域(マインドの領域)から、神のいのち、霊の領域(スピリットの領域)においていただくためには、ただ「主に立ち返る」ことです。「常に主に立ち返りつづける」ことです。「一瞬一瞬を主に立ち返っていく」ことです。祈りをとおして、みことばをとおして、讃美をとおして、愛の実践をとおして、日々の生活のすべてをとおして、「キリストに立ち返っていく」ということです。そうすれば、御霊なる主の働きによって、みことばの文字という外側の形、皮、殻によって表現され、覆われているものが内側の内容、実、中味であるキリストご自身とお会いし、親しく交わることができるのです。
罪とは「的はずれ」という意味です。私たちのめざす方向が、神(イエス・キリスト)という的から少しでもはずれているなら、それは罪になります。だから私たちがただ一つだけなすべきことは全身全霊をもって、キリストに向かいつづけることです。そうすれば、いつもキリストご自身にお会いして、その無限の愛と恵みを受けていくことができるのです。
「ぶどうの木と枝のことを考えるとき、祝福の聖霊はなんとすばらしい光を、私のたましいに注ぎ込まれたことでしょう。主から活力や満たしを取り出そうと願ったことが、どれほど大きな間違いであったかをよく考えさせられました。私は、イエスが決して私を見捨てられないということだけでなく、私が主のからだの一部分であり、主の骨の一部分であることを知ったのです。ぶどうは根だけではありません。それは、根も、幹も、枝も、小枝も、葉も、花も、実も、すべてなのです。そして、イエスはそれだけではありません。主は、土であり、日光であり、空気であり、雨であり、さらに私たちが夢に見たこともなく、願ったこともなく、必要とも感じないようなさまざまのものでもあるのです。この真理を知ったことは、本当に喜ばしいことでした。あなたもまた、このような理解ができるように、光をいただき、キリストのうちに自由を与えられている富を知り、楽しむことができるようにと祈ります。」
皆さん、イエス・キリストを心の底から信じることによって、私たちはすでにキリストのものとされ、キリストのからだの一部とされているのです。この霊的真理を一時も忘れずに、絶えずキリストに向かいつづけていくなら、みことばの文字の内におられる霊なるキリストご自身との親しい交わりに入ることができます。そのようにして、キリストのことばに絶する素晴らしさを、もっともっと体験しつづけていくことができます。
ヨハネの福音書15:5、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
使徒の働き17:28、「私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。」
ローマ人への手紙11:36、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。」
- キリストを信じてから
それはヨハネの福音書6:63、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」というみことばを少しづつ体験し始めてからです。
それまで聖書のみことばは私にとって、生活の指針であり、倫理、道徳の規準でした。苦しい時の励ましであり、悲しい時の慰めでした。また嬉しい時の感謝と力でした。キリストを信じることによって、全く新しい世界に導き入れられ、その新鮮な思いをもって生活することができました。
初めのうちはいろいろな困難にあいましたが、祈りがどんどん叶えられて、夢のような日々がつづきました。祈りと聖書のみことばによって、生活のあらゆる面において、目覚ましい前進がつづきました。
ところが、年数がたつに従って、だんだんと「何かが足りない」ということを感じ始めたのです。良く聖書を学び、良く祈り、良くみことばを実行して、それなりの成果があがればあがるほど、次々に新しい大きな難問が与えられてきます。課題が大きくなり、難しくなればなるほど、必ずしもそれまでのようにトントン拍子では進みません。多くのアップダウンがあり、長期の努力と忍耐が必要となります。
そうすると、結果や成果を早く得ようとして、ついつい人間的な思いで頑張ってしまいます。それに伴って、魂の飢え渇きが大きくなってきたのです。またおそらく過労からくると思われる慢性的疲労感からなかなか脱出できないでいました。
日本という非キリスト教社会にいるきわめて少数のクリスチャンにとって、このような飢え渇きと慢性疲労感は当然のことではないか、と思っていました。また牧師という霊的戦いの激しい職業からも、やむを得ないことと思っていました。そしてこのような状態にあっても、長く忍耐して努力していけば、徐々に力がついてきて、いつかは溢れるいのちと力を体験できるようになるだろうと期待していました。
- 文字は人を殺す
また本文の3:15-18、「確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
私はこの聖句から重大なことに気づかされました。聖書のみことばを読んだり、聞いたりしても、その人の心に覆いがかかっているので、みことばの真の意味が分からない、ということです。心に覆いがかかったままでは、みことばの文字を知的に理解して頭に入れても、心には入らないということです。それでは神のみことばに対する全幅の信頼は湧き起こってこないのは当然です。
キリストが十字架にかかる前に、ペテロは、「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ 26:35)と言いました。しかしペテロはこれを肉の思いで言ったので、実行できませんでした。
ペテロはキリストに出会って、すぐに弟子になって、3年間もの間キリストと寝食を共にしました。その間、毎日キリストのみことばを聞き、数々のキリストの愛の奇蹟のみ業を見てきました。そしてキリストが神の御子であり、救い主であることを知っていたのです。それにもかかわらず、いざキリストが十字架につけられ、自分に危害が及びそうになったら、3度もイエスを知らないと言って、逃げてしまいました。
ペテロはキリストのことばを頭では知っていたのですが、しかし心の奥底(本心)では受け入れていなかったのです。その状態は、ペテロが復活のキリストに出会っても、つづいていました。ペテロがキリストのことばを本当に(本心で)悟ったのはペンテコステの日に激しい聖霊のバプテスマを受けた、その日でした。
私もペテロと同じように、毎日聖書のみことばを読んでは祈り、数々のキリストの愛のみ業を見てきました。しかしそれは多くの場合、知性と感情の領域でのことにすぎませんでした。
キリストのところへ行けば、良い話が聞ける、病気をいやしてもらえる、悪霊を追い出してもらえる、食物をもらえる、問題を解決してもらえる、と思って集まってきた群衆の一人にすぎなかったのです。キリストの恵みを受けるためにキリストのところへ行くのですが、恵みを受けるだけで、あらゆる恵みの与え主であるキリストご自身と、直接心から親しく交わることが少なかったのです。
その結果、多くの恵みを受けていながら、「何かが足りない」という状態に陥たのです。その不足感を満たそうとして、「もっと恵みを、もっと恵みを」とせがむようになりました。しかし恵みは恵みにすぎません。一時的、相対的なものにすぎませんでした。このようにして、単に恵みを受けるために聖書のみことばを学べば学ぶほど、霊的飢え渇きはもっとひどくなっていきます。
もちろん、神様に恵みを求めることは良いことです。神様はいつも私たちに、「求めなさい」(マタイ6:7、ヨハネ16:24、ヤコブ4:2) と言われます。神に願い求めて与えられるなら、私たちは喜びます。天の父はそのようにして、ご自分の子供たちが喜ぶのを見たいのです。しかし問題は私たちが恵みだけを求めて、主ご自身との親しい交わりを求めるのを忘れてしまうということです。そうすると、いくら恵みを得ても、霊的にはどんどん弱まって、死んでいくようになるのです。
ある恵まれたクリスチャンホームに育った青年が若くしてキリストを信じ、友人たちに福音を伝え、教会では青年会の会長として熱心に奉仕をし、聖書のみことばを一生懸命に学びましたが、社会人になって会社の人間関係のことで悩んでいました。
そしてある時から、「聖書をいくら読んでも、砂をかんでいるような気がします。」と言い始めて、ついには自殺してしまったのです。
教会を離れて去っていく、多くのかつて熱心だったクリスチャンが、同じような問題を抱えているのです。私たちの思いが、「恵み」や「奉仕」という外側の事柄にのみ熱中していくと、かえって「主ご自身」から離れてしまうということが、実際にあるのです。
- 御霊は生かす
言いかえれば、もし私がキリストのことば、すなわち聖書のみことばを、その文字から知的に理解して、これを肉の力でがんばって実現しようとしても無益だということです。キリストのことばを頭で理解して、これを記憶することは思いの領域、つまりマインドの領域、肉の領域の事柄です。だからがんばって自分の力(思いの力)でこれを実現しようとするのです。その結果は、うまくいけば高慢になり、うまくいかなければ失望して、卑屈になってしまいます。このようにして、肉性がどんどん前面に出てきて、霊性がどんどん後退し、死んでいくことを体験するのです。
しかし「みことばは霊」なのだ、「神のいのち」そのものなのだということを心の底から悟るなら、これは本当に素晴らしいことです。私たちは「みことば」を私たちの心の奥底に、すなわち霊の領域に受け入れなければなりません。そうすれば、「みことば」である「霊」は自由に行動されます。「神のいのち」が私たちの心の奥底から(霊の世界から)、自然にわき起こって、あふれ出るのです。だからイエス様は次のように言われます。
ヨハネの福音書 7:37-38、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
そうすると、もはや私たちが自分の思い、自分の力で、頑張る必要は全くなくなってしまいます。御霊ご自身が働いてくださり、神のいのちが私たちの心の奥底から、自然に川のように溢れ出てくるからです。「神の御言葉ご自身が御言葉を実現していく。」(イザヤ書 55:11)という世界に入るのです。私たちはただ、御言葉を信じて(心に受け入れて)、御言葉のなさるままに生かされていく世界にいるのだ、ということが分かってきます。それがまさに、「御霊は生かす」ということです。
- 主に立ち返る
今日の本文のコリント人への手紙第二3:16、「しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。」と書かれています。私たちのすべての思いと熱情をキリストに集中していくなら、人の知性や感情という肉によってかけられていた「心の覆い」が取り除かれて、みことばの内なる霊性、つまり神のいのち、神の光が、すなわちキリストご自身が私たちの心の内に現れてくるのです。
引き続き、3:17-18、「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 」神のみことばが、覆いが取り除かれた心の内にどんどん入ってきて、そのいのちと光を自由に現してくるのです。そうすると、キリストご自身と自由に生き生きと交わることができるようになります。「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」すなわち御霊なる主の働きにゆだねていくときに、そうなるのです。決して私たちの肉の働きによるのではありません。肉の働きはかえって、御霊の働きを妨げてしまいます。
「みことば」を知的理解の領域(マインドの領域)から、神のいのち、霊の領域(スピリットの領域)においていただくためには、ただ「主に立ち返る」ことです。「常に主に立ち返りつづける」ことです。「一瞬一瞬を主に立ち返っていく」ことです。祈りをとおして、みことばをとおして、讃美をとおして、愛の実践をとおして、日々の生活のすべてをとおして、「キリストに立ち返っていく」ということです。そうすれば、御霊なる主の働きによって、みことばの文字という外側の形、皮、殻によって表現され、覆われているものが内側の内容、実、中味であるキリストご自身とお会いし、親しく交わることができるのです。
- キリストに根ざして生きる
罪とは「的はずれ」という意味です。私たちのめざす方向が、神(イエス・キリスト)という的から少しでもはずれているなら、それは罪になります。だから私たちがただ一つだけなすべきことは全身全霊をもって、キリストに向かいつづけることです。そうすれば、いつもキリストご自身にお会いして、その無限の愛と恵みを受けていくことができるのです。
- キリストのからだの一部である
「ぶどうの木と枝のことを考えるとき、祝福の聖霊はなんとすばらしい光を、私のたましいに注ぎ込まれたことでしょう。主から活力や満たしを取り出そうと願ったことが、どれほど大きな間違いであったかをよく考えさせられました。私は、イエスが決して私を見捨てられないということだけでなく、私が主のからだの一部分であり、主の骨の一部分であることを知ったのです。ぶどうは根だけではありません。それは、根も、幹も、枝も、小枝も、葉も、花も、実も、すべてなのです。そして、イエスはそれだけではありません。主は、土であり、日光であり、空気であり、雨であり、さらに私たちが夢に見たこともなく、願ったこともなく、必要とも感じないようなさまざまのものでもあるのです。この真理を知ったことは、本当に喜ばしいことでした。あなたもまた、このような理解ができるように、光をいただき、キリストのうちに自由を与えられている富を知り、楽しむことができるようにと祈ります。」
皆さん、イエス・キリストを心の底から信じることによって、私たちはすでにキリストのものとされ、キリストのからだの一部とされているのです。この霊的真理を一時も忘れずに、絶えずキリストに向かいつづけていくなら、みことばの文字の内におられる霊なるキリストご自身との親しい交わりに入ることができます。そのようにして、キリストのことばに絶する素晴らしさを、もっともっと体験しつづけていくことができます。
ヨハネの福音書15:5、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
使徒の働き17:28、「私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。」
ローマ人への手紙11:36、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。」
合計 204
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
204 |
New 箴言3:5-6(自分の悟りに頼るな)
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2025.06.22
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203 |
エペソ人への手紙5:22-33(夫と妻に対するお勧め)
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2025.06.15
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tbic | 2025.06.15 | 1 | 17 |
202 |
ローマ人への手紙8:1-2(失敗する自由を与えなさい)
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2025.06.08
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201 |
ローマ人への手紙8:28(あらゆる問題は益となる)
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2025.06.02
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200 |
ヨハネの手紙 第一4:16(助演がロングランする)
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2025.05.25
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199 |
ガラテヤ人への手紙2:20(不信と疑いは私たちを疲れさせる)
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2025.05.18
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198 |
使徒の働き27:20-26(危機を突破する信仰)
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2025.05.12
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197 |
イザヤ書40:28-31(鷲のように、翼を広げて上る)
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2025.05.04
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196 |
創世記12:1-9 (主が示す所へ行きなさい)
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2025.04.27
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195 |
マルコの福音書16:1-6(復活の奇跡)
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2025.04.20
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