メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ピリピ人への手紙 3:13-14(すべての存在が尊い)

投稿者
tbic
投稿日
2024-08-12 11:24
閲覧数
368
ピリピ人への手紙 3:13-14「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」

2013年1月、ケニアの陸上選手であるアベル·ムタイ(Abel Mutai)にあったことです。

非常に厳しい国際クロスカントリーレースに参加した彼は首位を固め、勝利を目前にしていました。ところがゴールを10M前と勘違いしてしまったのです。レースのコースを知らせる案内板を見間違えて、自分がすでにゴールラインを越えたと思いました。観衆は興奮して「走れ、走れ。」と叫んだのですが、スペイン語が聞き取れなくて走るのをやめたのです。

その時、2番目に走っていたスペイン人選手のイワン·フェルナンデス·アナヤ(Ivan)がムタイのミスを目撃しました。彼はこの機会を利用して、彼を追い越して勝利することもできたのですが、アナヤはムタイを追いかけ、自分の手を差し出して、ムタイが金メダルを取れるように導いてくれました。

記者たちはアナヤになぜわざわざ優勝を譲ったのかと尋ねると、彼は自分ではなく、ムタイが優勝する資格があったと強調しました。「私が勝っていたら、その勝利は価値のあることだったのでしょうか。そんなメダルに名誉があるのでしょうか。私がそうしたら、お母さんが何と言ったのでしょう。

ある記者は、「アナヤ選手は勝利よりも正直さを選んだ。」と記事を書きました。

コリント人への手紙第一10:31、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

金メダルという目的より、失敗したものの一生懸命に走り、卓越したアベル·ムタイの実力を認め、彼に金メダルを譲ったアナヤ選手に拍手を送りたいです。

今日が閉幕式ですが、206カ国から10,500人が参加している第33回パリ・オリンピックで、日本と韓国の選手たちがメダルを取るたびに本当に感動し、誇らしく思います。オリンピックに参加する選手たちの目的は「金メダル」です。その目標に向かって数年間、血と汗を流しながら練習し、自分と戦いながら準備した選手たち、たとえメダルを取ることができなかったとしても正々堂々と最善を尽くしたすべての選手たちに応援と拍手を送ります。

ウェストミンスター大教理問答1番は、「人の第一になる目的は何か。」です。その答えは、「神に栄光を捧げることと、永遠に神を楽しむこと。」です。

クリスチャンは目的中心の人生を生きなければなりません。使徒バウロの表現のように、本文の3:14、「神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走り」しながら、生きなければなりません。

神様を知らない人は神様を恐れないので、死後の審判や天国と地獄に対する考えなしに、罪と快楽、淫乱に陥って生きていきます。しかしクリスチャンは神様に栄光を捧げるための目的で神様がくださった才能と賜物を十分に発揮し、目標に向かって走ります。

目的中心の人生は肯定的な面が多いのですが、神の御言葉の観点から考察する必要があります。まず目的を達成するために体と精神に過負荷がかかり、ものすごいストレスを受けることになります。そして目的を達成するためにいつも忙しくて、周りを振り返ることができません。家族と一緒にいる時間がなく、家族は常に犠牲になります。目的に没頭しているために、人生に余裕がなく、人間味もなく、感性の扉が閉じられて、野花と夕焼けの美しさが目に入りません。自己達成感に陥り、健康を失って、病気になります。

目的」が導く人生は、表面的には信仰的に見え、善良に見えるのですが、その素顔は自分の栄光であり、個人的な欲望であって、人本主義になりかねません。自分の欲望に基づいた目的指向的な人生を送ることになれば、目的達成のために手段と方法を選ばないので、神の御前で恥ずかしいことも堂々とするようになります。

しかし私たちの主は、すでに栄光の神様です。光栄に満ちたお方です。その方の栄光は私たちの努力の結果に左右されません。私たちが救われて、本当に回復して主に帰ってくることが、神様にとって最も大きな喜びであり、すべての存在は存在自体で尊いものです。

では、私たちはどのように生きるべきでしょうか。人生の目的を過度に成果中心に取らず、存在中心に生きなければなりません。そして神の御言葉を大事にしなければなりません。

ぶどう園の主人(マタイの福音書20:1-16)の比喩で、ぶどう園の主人は一時間だけ働いた人を何時間も働いた人々と同じように扱いました。だから教会は目的が導く集団ではなく、存在を大切にする集団にならなければなりません。

これは目的を立てないという意味ではありません。存在の大切さを知り、その次に目的に進まなければならないということです。一人の魂の大切さを知る必要があります。成就中心に進むと、人に対する愛が消え去ります。すべての人を同じように、尊く思わなければなりません。熱心に奉仕をして、献金をたくさんする方も尊い存在ですが、存在感のない方も、一人ひとりがみんな尊い存在です。

マタイ福音書6:27-30、「 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

 

これは野原に咲いている花について、イエス様が言われた御言葉です。華やかであって、きれいだからではなく、他人が分かってくれなくても、野原にしっかり立っていること自体が美しいからです。社会や教会の中で、存在感のない野花のような方々も本当に大切な存在です。

だからこそ、次の御言葉をしっかりと覚えましょう。ヘブル人への手紙4:16、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

悔い改めて、新しく生まれ変わった者は、神の偉大な家族の一員となります。使徒パウロは、エペソ3:14-15で、この家族について、このように言いました。「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

天と地には一員の家族がいて、私たちは今そこに属しています。この家族の一員として私たちは今や神聖な共同体の中にいます。それは共同体のメンバーにアクセスするためのパスワードが与えられる、安全なオンライン・コミュニティとも同じものです。非メンバーは登録され、アクセスコードが与えられるまで、すべてのアクセスに制限されます。私たちのコミュニティ(共同体)でも同じです。私たちは聖霊を受けて、聖霊を通して御父と、その臨在の中にあるすべての栄光にアクセスできます。エペソ人への手紙2:18、「私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

神様は常に私たちと共にいることを喜んでおられます。ゼパニヤ書3:17、「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」多くの人は本当の神を知らないので、自分の過ちについて神は怒っていると思って、神から遠ざかる傾向があります。しかし神は愛であり、私たちの誤った行動にもかかわらず、私たちを情熱的に愛しておられます。ローマ人への手紙5:8、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

エペソ人への手紙2:19では、「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」と記しています。だから物乞いしたり、異邦人や外国人のようにふるまったりするのは止めましょう。私たちは神の家族の一員であり、イエス・キリストを通して神様に無制限にアクセスできます。この真実が私たちの心に明らかになれば、私たちの経験、コミュニケーション、伝える栄光が、私たちの人生を美しくし、私たちの潜在力を最大限に生かすことができます。

私たちに豊かに与えられた無条件の父の愛と偉大さ、すばらしい家族の一員となる驚くべき特権に感謝しましょう。自分の人生にある父の栄光を意識し、その一体で得た祝福と恵みを常に感謝したいと思います。

 

 

結論、

1.神様は誰も分かってくれない野の草さえも装ってくださり、存在だけでも喜んでくださいます。

2.神様に栄光を捧げるという名目で、自分の欲望や野望を成し遂げるために、人と祈りを利用したことを悔い改めましょう。

3.個人的な欲望を満たすための目的中心の人生ではなく、存在中心、御言葉中心、いのち中心の人生を生きることを、常に心がけましょう。
合計 195
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
195
New マルコの福音書16:1-6(復活の奇跡)
tbic | 20:38 | 推薦 1 | 閲覧数 2
tbic 20:38 1 2
194
創世記28:10-22(十字架はゼロからの出発)
tbic | 2025.04.13 | 推薦 1 | 閲覧数 63
tbic 2025.04.13 1 63
193
マルコの福音書16:15-20(癒し主イエス・キリスト)
tbic | 2025.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 24
tbic 2025.04.07 1 24
192
申命記8:1-10(荒野の祝福)
tbic | 2025.03.30 | 推薦 2 | 閲覧数 28
tbic 2025.03.30 2 28
191
出エジプト記 25:1-9(幕屋の秘密)
tbic | 2025.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 38
tbic 2025.03.24 1 38
190
ヨハネの福音書16:16-22 (悲しみと喜びは長くない)
tbic | 2025.03.17 | 推薦 1 | 閲覧数 39
tbic 2025.03.17 1 39
189
創世記22:15-17(敵の門を勝ち取る者)
tbic | 2025.03.09 | 推薦 1 | 閲覧数 46
tbic 2025.03.09 1 46
188
創世記3:1-4、(サタンの噓)
tbic | 2025.03.02 | 推薦 1 | 閲覧数 50
tbic 2025.03.02 1 50
187
ルカの福音書11:1( 主よ、祈りを教えてください)
tbic | 2025.02.23 | 推薦 1 | 閲覧数 56
tbic 2025.02.23 1 56
186
ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
tbic | 2025.02.16 | 推薦 1 | 閲覧数 64
tbic 2025.02.16 1 64