メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
申命記32:10-12(荒野の学校)
投稿者
tbic
投稿日
2024-09-15 21:56
閲覧数
326
申命記32:10-12「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。」
モーセは40年間エジプトの王宮で生活しました。そしてロイヤルアカデミーで、最高の学問を学んだわけです。つまり人間が楽しめる幸せの絶頂を楽しんだ人がモーセです。しかしそれで充分ではありませんでした。モーセには神様のもう一つの教育が必要でした。それが神の学校である荒野だったのです。モーセは荒野の教育を通して、始めて主のみこころにかなった者として立てられます。
神様は私たちも愛しておられます。だからモーセを立てられたように、私たちを立てられるために荒野の学校を用意しておられます。私たちはその荒野の学校で学ばなければなりません。
今日の本文、申命記32:10に、「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。」と言われます。
荒野はヘブライ語で「ミッドバル」です。ミッドバルはダバル、つまり「語る、言う」という動詞から由来しました。どういう意味かというと、荒野はただ沈黙がただよう、静かな所ではありません。荒野はむしろ神様が信者たちに大きな声で言われる所です。神様は荒野の荒地の中で私たちに語り、また会話を求めておられます。
私たちの人生には逆境があります。病気があり、愛の失敗があります。また事業の失敗があり、愛する人の死があります。こういう荒野で、主は私たちにご自分との出会いを求めておられます。
主がダビデを荒野に導いた理由は何でしょうか。荒野で主に出会わせるための目的があったからです。荒野は他の所では聞こえない主の声を聞ける特別な場所です。その荒野には苦しみがあります。同時に主との出会いがあります。だからC.S.ルイスはこう言いました。「苦しみは耳の聞こえないこの世を覚ます神様の拡声器(スピーカー)だ」と。クリスチャンには荒野の生活が神様の拡声器となります。
モーセの力の源は何だったのでしょうか。申命記34:10、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と言われた通り、モーセは主と顔と顔とを合わせて会話できたことに力がありました。モーセにとって、主との対面の経験はどこから始まったのでしょうか。荒野から始まったということです。
皆さん、人生の荒野に直面していますか?今が荒野ですか?もう始まりました。神様に出会えば、すべては解決されます。神様おひとりだけ知っていれば、残りのすべてを得ることができます。
だから一つに集中する人生にならなければなりません。上のことだけ知っていれば、残りは全部解かれます。荒野は一つに集中させる特別な場所です。神様は私たちの人生の中で、複雑なことを整理して、一つに統合するために荒野を用意してくださいます。
そして荒野は神様が保護し、満たしてくださることを経験する所です。もちろん荒野は何の助けもない所のように見えます。しかし荒野は神様が火の柱と雲の柱で導かれる所です。マナとウズラで食べさせる所です。まさに岩で水が湧き出る所が荒野です。だから信者は荒野の体験を通して、神様を体験するわけです。
聖書はこの世の悟りと供給が自分の努力によって得られるものではないと言われます。むしろ悟りと供給は上から一方的に注がれることに注目しています。だから荒野を通過した人は自分の努力によって道が開かれると言わずに、上から注がれたものだけが自分を満たしたことに気づきます。だからこそ、荒野は私たちの考え方のパラダイムを完全に変えてしまいます。昼も夜も、いつも自分の努力で生きようとバタバタする人がいます。しかし、荒野を通過すれば、すべてを満たしてくださる方が神様であることを、始めて告白するようになります。
神様は荒野の人生を通して、満たしてくださる方が神様であることを、私たちがちゃんと告白できることを願っておられます。だから主の満たしを確信し、人生の中で主の助けを忘れずに生きることが大切です。荒野で神様の助けを経験し、私たちの人生を導かれる方が神様であることを悟らなければなりません。これが真の信仰の成長です。
だから荒野は、クリスチャンに必要な教育をさせる所です。チャールス・スインドル先生は、モーセが荒野の学校で一番大切な四つの博士号をとったと言いました。
一番目、無名の博士号です。今までモーセはエジプトのすべての人々から注目されることに慣れていました。しかし荒野では、誰もモーセを知っている人がいませんでした。砂漠の獣や羊の群れが唯一の彼の友達です。モーセは荒野で40年の間、低くなって謙遜な人になりました。モーセは荒野で自分が素晴らしいのではなく、自分を通して働かれる神様が偉大であることを悟りました。
二番目、時間の博士号です。モーセは待つことの大切さを学びました。焦れば、何もできないことを悟りました。ヤコブの手紙1:12、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」モーセは待つことの素晴らしさを荒野で学びました。神様の時を待つことが知恵です。
三番目、孤独の博士号です。モーセは荒野で沈黙の静けさと孤独の深さを学びました。忙しさの中で焦るのではなく、黙想(祈り)の力を学びました。荒野はこれを学ぶのに、最高の恵みの場所です。
四番目、不便の博士号です。荒野の険しい環境は霊的に、肉体的にモーセを鍛錬させました。彼の霊と魂、肉体を鍛えたのです。もし荒野の40年間、「不便」という訓練を受けなかったのであれば、モーセはその後の40年、出エジプトした後の荒野での40年間、生きられなかったと思います。
皆さん、自分にとって荒野は、必要でないと言わないでください。また荒野で疲れ果てたとも言わないでください。荒野は絶対に必要な所です。だから自分に与えられた荒野を喜んで受け入れ、その道を大胆に歩む、信仰の人になってください。
結論、
1.荒野は神様に出会う所です。神様は私たちの失敗の場所、つまり挫折の場所と病の場所で、私たちに出会い、私たちに御言葉を与えられます。だから荒野は拡声器(スピーカー)で聞こえる神の御言葉の場所です。皆さんは荒野で聞こえてくる神の声を聞いたことがありますか?今まで一回も聞いたことがないのであれば、真のクリスチャンではありません。ぜひ、神の声を聞いてください。
2.荒野は神様の守りと満たしを体験する所です。荒野は神様が火の柱と雲の柱で導かれる所であり、マナとウズラで食べさせる所です。だから信者は、荒野の体験を通して与えられる神のわざを体験します。その荒野の体験を通して奇跡が常識になる尊い神の人になってください。
3.荒野は信者に必要な教育をさせる所です。モーセは荒野で謙遜と忍耐と黙想(祈り)を学び、不便に耐えられる訓練を受けました。だから私たちも与えられた荒野を不平と不満によって無駄にしてはなりません。荒野の学校で学んだ学習が、私たちを完璧なクリスチャンに成長させます。
最後に、イザヤ書43:19-20を一緒に読んで終わりたいと思います。私たちに与えられた約束の御言葉です。
イザヤ書43:19-20、「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
モーセは40年間エジプトの王宮で生活しました。そしてロイヤルアカデミーで、最高の学問を学んだわけです。つまり人間が楽しめる幸せの絶頂を楽しんだ人がモーセです。しかしそれで充分ではありませんでした。モーセには神様のもう一つの教育が必要でした。それが神の学校である荒野だったのです。モーセは荒野の教育を通して、始めて主のみこころにかなった者として立てられます。
神様は私たちも愛しておられます。だからモーセを立てられたように、私たちを立てられるために荒野の学校を用意しておられます。私たちはその荒野の学校で学ばなければなりません。
今日の本文、申命記32:10に、「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。」と言われます。
荒野はヘブライ語で「ミッドバル」です。ミッドバルはダバル、つまり「語る、言う」という動詞から由来しました。どういう意味かというと、荒野はただ沈黙がただよう、静かな所ではありません。荒野はむしろ神様が信者たちに大きな声で言われる所です。神様は荒野の荒地の中で私たちに語り、また会話を求めておられます。
私たちの人生には逆境があります。病気があり、愛の失敗があります。また事業の失敗があり、愛する人の死があります。こういう荒野で、主は私たちにご自分との出会いを求めておられます。
主がダビデを荒野に導いた理由は何でしょうか。荒野で主に出会わせるための目的があったからです。荒野は他の所では聞こえない主の声を聞ける特別な場所です。その荒野には苦しみがあります。同時に主との出会いがあります。だからC.S.ルイスはこう言いました。「苦しみは耳の聞こえないこの世を覚ます神様の拡声器(スピーカー)だ」と。クリスチャンには荒野の生活が神様の拡声器となります。
モーセの力の源は何だったのでしょうか。申命記34:10、「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と言われた通り、モーセは主と顔と顔とを合わせて会話できたことに力がありました。モーセにとって、主との対面の経験はどこから始まったのでしょうか。荒野から始まったということです。
皆さん、人生の荒野に直面していますか?今が荒野ですか?もう始まりました。神様に出会えば、すべては解決されます。神様おひとりだけ知っていれば、残りのすべてを得ることができます。
だから一つに集中する人生にならなければなりません。上のことだけ知っていれば、残りは全部解かれます。荒野は一つに集中させる特別な場所です。神様は私たちの人生の中で、複雑なことを整理して、一つに統合するために荒野を用意してくださいます。
そして荒野は神様が保護し、満たしてくださることを経験する所です。もちろん荒野は何の助けもない所のように見えます。しかし荒野は神様が火の柱と雲の柱で導かれる所です。マナとウズラで食べさせる所です。まさに岩で水が湧き出る所が荒野です。だから信者は荒野の体験を通して、神様を体験するわけです。
聖書はこの世の悟りと供給が自分の努力によって得られるものではないと言われます。むしろ悟りと供給は上から一方的に注がれることに注目しています。だから荒野を通過した人は自分の努力によって道が開かれると言わずに、上から注がれたものだけが自分を満たしたことに気づきます。だからこそ、荒野は私たちの考え方のパラダイムを完全に変えてしまいます。昼も夜も、いつも自分の努力で生きようとバタバタする人がいます。しかし、荒野を通過すれば、すべてを満たしてくださる方が神様であることを、始めて告白するようになります。
神様は荒野の人生を通して、満たしてくださる方が神様であることを、私たちがちゃんと告白できることを願っておられます。だから主の満たしを確信し、人生の中で主の助けを忘れずに生きることが大切です。荒野で神様の助けを経験し、私たちの人生を導かれる方が神様であることを悟らなければなりません。これが真の信仰の成長です。
だから荒野は、クリスチャンに必要な教育をさせる所です。チャールス・スインドル先生は、モーセが荒野の学校で一番大切な四つの博士号をとったと言いました。
一番目、無名の博士号です。今までモーセはエジプトのすべての人々から注目されることに慣れていました。しかし荒野では、誰もモーセを知っている人がいませんでした。砂漠の獣や羊の群れが唯一の彼の友達です。モーセは荒野で40年の間、低くなって謙遜な人になりました。モーセは荒野で自分が素晴らしいのではなく、自分を通して働かれる神様が偉大であることを悟りました。
二番目、時間の博士号です。モーセは待つことの大切さを学びました。焦れば、何もできないことを悟りました。ヤコブの手紙1:12、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」モーセは待つことの素晴らしさを荒野で学びました。神様の時を待つことが知恵です。
三番目、孤独の博士号です。モーセは荒野で沈黙の静けさと孤独の深さを学びました。忙しさの中で焦るのではなく、黙想(祈り)の力を学びました。荒野はこれを学ぶのに、最高の恵みの場所です。
四番目、不便の博士号です。荒野の険しい環境は霊的に、肉体的にモーセを鍛錬させました。彼の霊と魂、肉体を鍛えたのです。もし荒野の40年間、「不便」という訓練を受けなかったのであれば、モーセはその後の40年、出エジプトした後の荒野での40年間、生きられなかったと思います。
皆さん、自分にとって荒野は、必要でないと言わないでください。また荒野で疲れ果てたとも言わないでください。荒野は絶対に必要な所です。だから自分に与えられた荒野を喜んで受け入れ、その道を大胆に歩む、信仰の人になってください。
結論、
1.荒野は神様に出会う所です。神様は私たちの失敗の場所、つまり挫折の場所と病の場所で、私たちに出会い、私たちに御言葉を与えられます。だから荒野は拡声器(スピーカー)で聞こえる神の御言葉の場所です。皆さんは荒野で聞こえてくる神の声を聞いたことがありますか?今まで一回も聞いたことがないのであれば、真のクリスチャンではありません。ぜひ、神の声を聞いてください。
2.荒野は神様の守りと満たしを体験する所です。荒野は神様が火の柱と雲の柱で導かれる所であり、マナとウズラで食べさせる所です。だから信者は、荒野の体験を通して与えられる神のわざを体験します。その荒野の体験を通して奇跡が常識になる尊い神の人になってください。
3.荒野は信者に必要な教育をさせる所です。モーセは荒野で謙遜と忍耐と黙想(祈り)を学び、不便に耐えられる訓練を受けました。だから私たちも与えられた荒野を不平と不満によって無駄にしてはなりません。荒野の学校で学んだ学習が、私たちを完璧なクリスチャンに成長させます。
最後に、イザヤ書43:19-20を一緒に読んで終わりたいと思います。私たちに与えられた約束の御言葉です。
イザヤ書43:19-20、「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
合計 205
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
205 |
ヘブル10:37-11:7(信仰とは何か?)
tbic
|
2025.06.29
|
推薦 1
|
閲覧数 15
|
tbic | 2025.06.29 | 1 | 15 |
204 |
箴言3:5-6(自分の悟りに頼るな)
tbic
|
2025.06.22
|
推薦 1
|
閲覧数 31
|
tbic | 2025.06.22 | 1 | 31 |
203 |
エペソ人への手紙5:22-33(夫と妻に対するお勧め)
tbic
|
2025.06.15
|
推薦 1
|
閲覧数 35
|
tbic | 2025.06.15 | 1 | 35 |
202 |
ローマ人への手紙8:1-2(失敗する自由を与えなさい)
tbic
|
2025.06.08
|
推薦 1
|
閲覧数 43
|
tbic | 2025.06.08 | 1 | 43 |
201 |
ローマ人への手紙8:28(あらゆる問題は益となる)
tbic
|
2025.06.02
|
推薦 1
|
閲覧数 48
|
tbic | 2025.06.02 | 1 | 48 |
200 |
ヨハネの手紙 第一4:16(助演がロングランする)
tbic
|
2025.05.25
|
推薦 1
|
閲覧数 55
|
tbic | 2025.05.25 | 1 | 55 |
199 |
ガラテヤ人への手紙2:20(不信と疑いは私たちを疲れさせる)
tbic
|
2025.05.18
|
推薦 1
|
閲覧数 56
|
tbic | 2025.05.18 | 1 | 56 |
198 |
使徒の働き27:20-26(危機を突破する信仰)
tbic
|
2025.05.12
|
推薦 1
|
閲覧数 71
|
tbic | 2025.05.12 | 1 | 71 |
197 |
イザヤ書40:28-31(鷲のように、翼を広げて上る)
tbic
|
2025.05.04
|
推薦 1
|
閲覧数 84
|
tbic | 2025.05.04 | 1 | 84 |
196 |
創世記12:1-9 (主が示す所へ行きなさい)
tbic
|
2025.04.27
|
推薦 1
|
閲覧数 82
|
tbic | 2025.04.27 | 1 | 82 |