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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)

投稿者
tbic
投稿日
2024-10-27 17:37
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詩篇 121:1-2「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」

世界で最も安定していると言われた日本は今、経済も政治もゆれています。またマスコミもゆれているし、学校教育も家庭もゆれています。そして最もゆれているのは日本にいる一人ひとりの個人の価値観だと思います。それらは、単にゆれているだけでなく、根底から崩壊しつつあるような気がします。

将来が見えない。今、何をやったらいいのか分からない。なにもかも悪くなっていきそうだ。今どんなことが起こっても、おかしくない。」このような日本社会全体の絶望的風潮に流されて、私たちはどんどん平安を失っています。

このような不安と混迷の中で、私たちが「ゆるがない平安」を持って、楽しく力強く建設的に生きていくためにはどうすればいいのか。今日の「みことば」から、ご一緒に学びたいと思います。

1. 目に見えるものはすべて移り変わる。

私たちは平安をどこに求めているのでしょうか。どうしたら安心して生きていけると思っているのでしょうか。

銀行にたくさん預金があれば安心だ。優良会社の株を持っていれば大丈夫だ。土地や家を所有していれば、いろいろな保険に入っていれば、健康ならば、若ければ、一流大学を出ていれば、一流会社に勤めていれば、しっかりした人間関係、特に良い家族があれば等々、安心の土台になるものがたくさんあればあるほど、平安を持つことができると考えています。

しかしそれらは本当に安心の土台なのでしょうか。最近は上がることはあっても下がることはないと信じられてきた不動産価格は下落し、不動産価格だけでなく、絶対不動と思われている日本の大地そのものが、阪神大震災を始め、東日本大震災、熊本地震、能登半島地震があったように大きくゆれています。そして各方面から、近く関東・東京にも大地震が起こると予測されています。

日本社会経済の最大の強さだった終身雇用制度はどんどん崩壊しています。離婚や少年少女の犯罪の激増から分かるように、夫婦親子の関係もどんどん壊れていっています。また学校教育者も完全に自信を失いつつあります。医療制度の発展とうらはらに、病人や精神異常者は増える一方です。そして何よりも、多くのマスコミ報道・出版の世俗化によって、私たちの考え方もどんどん汚され、俗悪化・愚劣化しつつあります。

このように社会全体が混乱しつつある時には、人々はますますゴルフや温泉に行って気晴らしをし、酒や精神安定剤を飲んで平安を得ようとします。セックスにふけて世から逃れようとします。またヨガなどの精神療法に頼ったりします。そして多くの人々がわらをも、つかむ思いで新興宗教にまで走ります。しかしそのようなもので、「ゆるがない平安」を持ち続けることはできないことを誰でも知っています。それらはみんな、ごまかしか、一時的な便法にすぎないからです。

平安や安心は自然に得られるものではありません。常にその土台となるものを必要としているのです。土台がしっかりしていれば平安で安心していられます。しかし土台がゆれ動くものであれば、その上に乗っている平安と安心は、一緒にゆれ動いてしまいます。

そうしたら、私たちが平安を失っている理由は一体どこにあるのでしょうか。それはまことに単純明快です。その理由は、私たちがゆれ動くものを土台にして平安を得ようとしているからです。

2.永遠にゆるがないものとは何か。

私たちが「ゆるがない平安」を得るためには、私たちの信頼が「永遠にゆるがない土台」の上に築かれていなくてはなりません。それでは、「永遠にゆるがない土台」とは何でしょうか。「永遠にゆるがないもの」がそもそも存在するのでしょうか。

その答えは聖書に明確に書かれています。聖書には永遠に無限なる唯一・絶対・全知・全能の天地万物の創造主なる神が存在すると書かれています。聖書全体がそのような偉大なる創造者の存在を大前提として書かれています。今日の本文の詩篇121:1-2をもう一度読んでみましょう。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。

まず「私は山に向かって目をあげる」とありますが、山を見れば同時に天を見ます。私たちは雄大な山と広大な天を見ると、何となく心に平安を持つことができます。なぜなら、私たちは目で見たものに影響されるからです。山は雄大です。山はゆらぎません。天は広大です。天もゆらぎません。しかし山は山にすぎません。天は天にすぎません。それらは気分的な平安を与えてくれますが、私たちの現実の助けにはなりません。

そこで次に、それでは「私の助けは、どこから来るのだろうか。」という思いが起きてきます。山や天のような大きく、ゆるがない助けがあったらいいな、と思うわけです。そうすると最後に、そうだ。「私の助けは、天地を造られた主から来る」ということに気がつきます。もし全宇宙・万物を造られた方がおられるなら、それ以上に偉大な存在はありません。

よく考えてみると、天も山も絶対に変わらないものではありません。天気は常に移り変わります。山も地殻変動や噴火によって一瞬のうちに変わってしまいます。

しかし天地を造られた方は天よりも山よりも偉大なるお方です。そのお方、すなわち天地万物の創造主は永遠に変わることがないと聖書に書かれています。だから天地万物の創造主なる神こそが、「永遠にゆるがないもの」だということです。

3.ゆるがない平安

もし私たちが「永遠にゆるがないもの」すなわち天地の創造主なる神から現実に助けを得ることができるなら、私たちは「どんなことがあっても絶対に大丈夫」という確信を持つことができます。まさに、「ゆるがない平安」です。

詩篇46:1-3には、次のように書かれています。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ

またイザヤ書54:10には、神様の私たちへの約束として、次のように書かれています。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かないとあなたをあわれむ主は仰せられる。

私たちが天地の創造主の存在を信じ、その神様が私たちを現実に助けてくださることを体験できるなら、このような絶対的平安を持つことができるのです。

4. 天地の創造主を信じるには?

それでは、私たちはどのようにしたら天地万物の創造主なる神を信じることができるのでしょうか。それは聖書を読み、これを理解して信じることによってです。

創世記1:1に、「初めに、神が天と地とを創造した。」と書かれています。

今の同志社大学を創設した新島襄は、この聖句を読んだだけで天地万物の創造主なる神を信じました。しかし新島のように、聖書のみことばを読んだだけで天地の創造者の存在を信じることができる人は少ないのです。特に単なる仮説にすぎない進化論があたかも絶対的な科学の真理であるかのように教育されている日本の国では、創世記に書かれている神による天地万物の創造論を信じることはとても難しいと思います。

しかし物理学でも、化学でも、生物学でも、音楽、美術、政治、経済でも、真理を深く深く追求していけば、必ず天地創造の神の存在に突き当たります。そのような偉大な神の存在を前提にしなければ、もはやそれ以上説明ができなくなってしまうのです。また私たちが素直な気持ちで天地万物を観察していくなら、これらの偉大なものはすべて、決して偶然にできあがっているものではなく、完全無欠なる全知全能の創造者によって造られていることが、直観的に分かってくるのです。

5.天地の創造主と人間との関係

もし私たちが天地の創造主なる神の存在を信じられるようになったとすれば、次の問題はこのような私たちの理解をはるかに越えて存在する偉大なる神と私たち人間との関係は一体どうなっているのかということです。神が現実に私たちを守ってくれるのだろうか、本当に「ゆるがない平安」を与えてくれるのだろうか、ということです。

神は全宇宙を創造して、これを所有しているような大いなるお方です。そのような大いなるお方と広大な宇宙の中にある一つの小さな惑星にすぎない地球上の、そのまた小さな一人ひとりの人間とは、どのような関わりがあるのでしょうか。

聖書によると、「神は人をご自身のかたちに造られた」と書かれています(創世記 1:27)。創造された天地万物の中で、人間は神に似るように造られた最高の被造物だということです。神はご自身の栄光のために人を造られ、お互いに愛し合うために人を造られたのです。

しかし私たちが罪を犯して神から離れてしまっているために、神という素晴らしいお方を知ることができなくなってしまっているのです。そこで神はご自身を誰にでも良く分かるように人となってこの世に現れてくださいました。この人こそ約2千年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになったイエス・キリストです。

私たちは新約聖書に書かれている、イエス・キリストの誕生、生い立ち、教え、奇跡のみわざ、十字架の死、復活、昇天の記事から、イエス・キリストを知ることができます。キリストご自身が、「わたしを見た者は父を見たのである」とヨハネの福音書 14:7で言われます。つまり「キリストを見た者は神を見たのである」と明確に言っておられます。

キリストは私たちの罪を赦し、私たちを神に立ち帰らせるために、自ら十字架にかかって血を流され、そのいのちを犠牲にしてくださいました。私たちには、はかり知ることのできない、そのような深い神の愛の犠牲がなければ、私たちは神に立ち帰ることができなかったからです。私たちは、もう死からよみがえったキリストの復活のいのちによって、神に永遠に結ばれたのです。

6. キリストの平安(神の平安)

聖書において、神は「平安の神」と呼ばれますが、キリストは「平和の君」と呼ばれています。人となられた神、平和の君イエス・キリストはヨハネの福音書14:27で、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と約束しておられます。

キリストを信じるということは、私たち一人ひとりがキリストを心の中にお迎えするということです。そうすると、全能の神であるキリストが霊として私たちの心の中に住んでくださるということです。これは本当にものすごいことです。ここで「わたしは平安をあなたがたに与える」ということは、「平和の君であるわたし自身をあなたがたに与える」ということです。それは神の絶対的な永遠の平安だから、この世の相対的な一時の平安とは異なります。だから私たちはもはや心を騒がせたり、恐れたりする必要はありません。

詩篇91篇には、こう書かれています。91:5-10、16、「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。、、わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

これは単なる精神論にすぎないのでしょうか。そうではありません。第二次世界大戦の頃のことです。イギリス軍にウイットゼイ大佐という人物がいました。彼の率いる連隊は全員が毎日朝晩、この詩篇91篇を朗読して神に安全を祈ったそうです。彼の連隊は5年間激戦地で戦いつづけました。他のほとんどの連隊は全滅したり、多数の死者を出していました。ところが彼の連隊だけは一人の死者も出なかったそうです。これは単なる偶然なのでしょうか。

アメリカの統計調査によると、毎週日曜日に教会へ行って礼拝している人たちは、そうでない人たちよりも10年長生きしています。このように、神のみことばは私たちに単に精神的な平安を与えるだけでなく、現実の生活の安全と安定をも与えるのです。

天地万物の創造者は、私たちのために太陽を輝かせ、自然の恵みを与え、私たちを毎日養い守ってくださっています。神様はこのように現実を支配しておられるお方です。

マルコの福音書11章で、イエス・キリストは、このように言われます。22-24節、「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

キリストを信じるなら、私たちはこのように自分の力ではなく、神の力により頼んで、現実の問題の山々を次々に征服していくこともできるのです。

イエス・キリストはまた、次のように私たちに約束しておられます。ヨハネの福音書 16:23-24、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

7. ゆるがない平安を持つ秘訣

ゆるがない平安を持つ秘訣」は私たちの人生を永遠に、絶対にゆるがない土台の上におくことです。永遠に、絶対にゆるがない土台とは、全知全能の天地万物の創造主なる神です。

聖書(イザヤ書43:4)において神様は、「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしは限りない愛をもってあなたを愛している。だから安心しなさい。どんなことも心配したり、思い煩ったり、恐れたりしてはならない。ただわたしを信頼しなさい。そしてわたしに従ってきなさい。」とくり返し、くり返し、私たちに語っておられます。

新約聖書のコロサイ人への手紙1:16には、イエス・キリストが天地万物を創造したと書かれています。だから創造主なる神を知るには、その神が人となられた平和の君イエス・キリストを信じれば良いのです。イエス・キリストは昨日も、今日も、いつまでも変わることがないお方です

キリストを信じる」ということは、「キリストが私たちの心の中に住んでくださる」ということです。それは全能の神が私たちと一緒に日々の生活を営んでくださるということです。それは特定の宗教という形式的な儀式ではなく、永遠に生きておられるキリストとの日常生活における生き生きとした現実の関係(交流)を意味します。だからイエス・キリストを信じて生きるなら、私たちは日々、「ゆるがない平安」を持って、生きていくことができるのです。

政治や経済がいかに動揺しても大丈夫です。会社が倒産しても家庭が崩壊しても大丈夫です。病気になっても、路頭に迷うようなことになっても大丈夫です。その人は「キリストの平安」、つまり「ゆるがない神の平安」を持っているからです。やがてはその人を通して政治や経済は再建され、会社や家庭が新しく建て直され、その人の健康が回復し、社会復帰ができるようになります。

アメリカのケンタッキー州にサンダースというビジネスマンがいました。サンダースは、60才までいろいろな仕事をしましたが、どれもうまくいきませんでした。しかしキリストを信じていた彼はあきらめることなく、神様に「人生最後のチャンスを与えて下さい」と熱心に祈りました。そうすると、家庭で料理していたフライドチキンを近所の建築工事現場で働いている人たちのために売ってみようと思い立ちました。これを売り出してみると、「非常にうまい」ということで毎日お店に入りきれないほどお客さんが集まってきたのです。そこでお店を増やしているうちに世界中に広がって、ケンタッキー・フライドチキンの大フランチャイズ・チェーン店になりました。神のチャンスは、いつでもどこにでもあります。問題は、ただ私たちがそれを神様に熱心に祈り求めているかどうか、ということです。

もしも私たちが生きているうちに、世界がどんどん混乱し、不法、不道徳がはびこり、大地震や大戦争などが各地に起こって人類滅亡の危機にひんしても、私たちには希望があります。その時にはイエス・キリストが再びこの世に来てくださって、キリストを信じている者たちを救ってくださると聖書において約束されているからです(マタイの福音書 24:30-31)。 だから世界が破滅するような事態になっても大丈夫です。

ヨハネの福音書 3:16には私たちが永遠に生きておられるイエス・キリストを信じることによって「永遠のいのち」が与えられると約束されています。この世の肉体のいのちが終わった後も、キリストを信じている者の霊魂は永遠に天国に生きていくことができるということです。死んでも大丈夫なのです。死んでも「永遠のいのち」があるからです。

エチオピア人から聞いた話ですが、彼はエチオピアの干ばつにより、飢餓状態で死んでいった多くのクリスチャンが最後まで神を賛美して、その顔は喜びに輝いていたのを見て、非常に驚いたと言っていました。彼らは肉体のいのちを超越した「永遠のいのち」に生きていたのです。

百年足らずのこの世の人生で、私たちはすべった、ころんだとあくせく暮らしていますが、永遠に比べれば、それは一瞬の出来事にすぎません。私たちはいかなる状況においても神を信じて、人を愛して、今日一日を喜んで精一杯生きれば良いのです。イエス・キリストが言われたように、明日のことを思いわずらう必要は全くありません(マタイの福音書 6:34)。

これこそが、「ゆるがない平安」を持って、生活する秘訣です。

イザヤ書 9:6、『ひとりのみどりごが、私たちのために生れる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる
合計 174
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
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ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
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詩篇 121:1-2(ゆるがない平安を持つ秘訣)
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ヨブ記1:6-12(試練と試みに打ち勝つ方法)
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詩篇27:1-8(主の顔を慕い求めよ)
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