メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
投稿者
tbic
投稿日
2025-02-16 18:13
閲覧数
49
ルカの福音書12:16-21
16.それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。17.そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』18.そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。19.そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』20.しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』21.自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
いつも一年があっという間に過ぎたとみんなが言います。そして一年間、何をしたのかよく分からないとも言います。新年が始まって、もう二か月が過ぎようとしています。だから今年をどのように過ごすか、この時間、具体的に考えたいと思います。まずは「地上に蓄えたもの」と「天に蓄えたもの」で考えて見ましょう。
今日の本文でも神さまは二つのもので金持ちの財産を決算しました。この金持ちは地上での決算はものすごい黒字だったのです。豊作だったので、すごく祝福されました。地上に蓄えたものは、その人の汗と努力の結果で得たものだから、それも素晴らしい祝福です。それは私たちの生活を豊かにするために、神さまが与えられた祝福です。
天に蓄えることは、私たちが神のみこころに従って、私たちがささげるすべてのものです。これは地上での生活を恵み豊かなものにします。そして、それは神さまが喜ばれることであり、天に宝を積むことです。
ルカの福音書12:33-34、「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」
困った人、貧しい人、助けが必要な人々に施しをしても返してもらうことはありませんが、それは天に宝を積むことになります。神ご自身がその人を祝福してくださいます。それは主の約束です。
マタイの福音書25:40、「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」ここの王はイエスさまです。その人々に与えられる神の祝福は素晴らしいものです。
マタイの福音書25:34、『そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」』
私たちはどれほど主のためにささげ、主のために働き、また多くの人々に善行を行ったのでしょうか。預金通帳にお金が増え続けることが喜びでしょうか。それとも、天に宝を積み上げることが喜びでしょうか。
ある人々は「金持ちになってからにします」と言います。主は、それが言い訳であることを知っておられるので、「持ち物を売って、施しをしなさい」と言われます。コリント人への手紙第二8章には模範になる人々が出ます。彼らは地上には何も蓄えていないのですが、天にはたくさんのものを蓄えました。
コリント人への手紙第二8:1-5、「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみのゆえに激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」
私たちはどれほど多くの愛と励ましと理解のことばを人生の中で残したのでしょうか。ある人々は他人への非難と誹謗中傷をたくさん残したかも知れません。それは必ず自分自身に返ってきます。すでに悲惨な結果を見た人もいるかもしれません。今受けていなくても、いつかはそれが自分に返ってくることを覚えてください。人間関係を壊し、信用を落として、そして恥を受けます。だから今からでも悪口や非難したことに対して悔い改めなければいけません。しかしもしそれを実行に移さず、そのままにほっておくなら、自分の心とたましいを、どんどん病気にしていくと思います。だから主に悔い改め、罪を犯した相手に直接謝ってほしいのです。そしてその後、愛と励ましと、理解のことばで自分を満たすことです。
ルカの福音書15章には、放蕩息子の話が出ます。そこにはもう一人の放蕩息子が出ます。放蕩息子の兄です。兄は15:29で、自分はお父さんの戒めを破ったことがないと自信満々と言っています。
ルカの福音書15:29、「しかし兄は父にこう言った。ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子やぎ一匹下さったことがありません。」
しかし実際に兄は、二つの命令(戒め)を破りました。これが今日のメッセージです。
1.「弟を探しに行きなさい」という命令です。(伝道の命令)
兄は一生懸命に働いて、誠実に生きました。しかし弟が家出をした家に、その誠実さは大したことではありません。お父さんの心はいつも心配でたまりません。何を食べても美味しくないし、何をしても嬉しくありません。お父さんの最高の喜びは家出をした弟を探しに行くことです。「失った弟を探しなさい。」これを無視すれば、他のどんな働きも誠実ではないことです。
この御言葉はルカの福音書15:1-2を読みますと、「パリサイ人、律法学者」に対する御言葉です。イエスさまが取税人と罪人たちにお話をし、彼らと一緒に食事をするのを見て、不平不満と誹謗中傷に満ち溢れたパリサイ人、律法学者たちに、イエスさまが言われた御言葉です。
自己中心はすべての罪の根です。兄は自分しか考えません。お父さんのこと、弟のことを一切考えませんでした。だから悪いのです。「弟を探しに行きなさい。」これが命令(戒め)です。これをキリスト教では、「地上命令(great commission)」と言います。最大の命令だという意味です。だから伝道と宣教は、教会の選択事項ではなく、教会の出発点であり、目的です。教会の当然の姿です。テモテへの手紙第二4:2、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
2.「弟を愛しなさい」という命令です。(愛の命令)
私たちはとても簡単に「愛する」と言っています。だから自分が愛のない存在だとは、あまり考えていません。皆さん、愛が何ですか?「共に喜ぶことが愛」です。
どれほど素晴らしい才能をもってパフォーマンスを披露しても、心の中に愛がなければ、短所しか見えないし、全然嬉しくありません。しかし反対に幼稚園児の下手なパフォーマンスを見ても興奮し、喜ぶことができる人々がいます。その子どもたちの親たちです。なぜでしょうか。愛するからです。レベルの高いパフォーマンスには関心がなくても、自分の子どもの下手な姿は映像を撮ったり、写真を撮って喜びます。これが愛です。最近、何かを見て嬉しくないし、続けて腹が立つのであれば、愛を失ったことです。
家出をした弟が戻りました。しかし兄は宴会の音を聞いて腹が立ちました。兄は全然嬉しくありません。むしろ反発をしています。
ルカの福音書15:29-30、「しかし兄は父にこう言った。ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子やぎ一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」
実は、弟は遊女におぼれたことがありません。しかし兄は事実をふくらませて、悪意をもって言っているのです。更に弟を自分とは何の関係もない他人のように、「あなたの息子」と言います。心を痛んだお父さんは、こう言います。ルカの福音書15:32、「だがおまえの弟(your brother)は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
喜ぶことが出来なければ、愛ではありません。また悲しいことを見て痛まなければ、それも愛ではありません。「愛の命令」を英語で、「great commandment」と言います。そして、十戒を英語で「10 commandment」と言います。それらは、だいたい「心の動機と姿勢」を強調します。
「伝道の命令が行動であれば、愛の命令は動機と姿勢です。」この二つの命令(戒め)は私たちが正しく信仰生活をするかどうか判断する「ものさし」となります。「弟を探しに行きなさい」そうでなかったら、深刻な問題です。「弟を愛しなさい」そうでなかったら、偽善者、偽りの者です。今年こそ弟を探し出し、弟を愛する年です。そうすれば、いのちあふれる素晴らしい2025年となると私は確信しています。
16.それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。17.そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』18.そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。19.そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』20.しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』21.自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
いつも一年があっという間に過ぎたとみんなが言います。そして一年間、何をしたのかよく分からないとも言います。新年が始まって、もう二か月が過ぎようとしています。だから今年をどのように過ごすか、この時間、具体的に考えたいと思います。まずは「地上に蓄えたもの」と「天に蓄えたもの」で考えて見ましょう。
今日の本文でも神さまは二つのもので金持ちの財産を決算しました。この金持ちは地上での決算はものすごい黒字だったのです。豊作だったので、すごく祝福されました。地上に蓄えたものは、その人の汗と努力の結果で得たものだから、それも素晴らしい祝福です。それは私たちの生活を豊かにするために、神さまが与えられた祝福です。
天に蓄えることは、私たちが神のみこころに従って、私たちがささげるすべてのものです。これは地上での生活を恵み豊かなものにします。そして、それは神さまが喜ばれることであり、天に宝を積むことです。
ルカの福音書12:33-34、「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」
困った人、貧しい人、助けが必要な人々に施しをしても返してもらうことはありませんが、それは天に宝を積むことになります。神ご自身がその人を祝福してくださいます。それは主の約束です。
マタイの福音書25:40、「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」ここの王はイエスさまです。その人々に与えられる神の祝福は素晴らしいものです。
マタイの福音書25:34、『そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」』
私たちはどれほど主のためにささげ、主のために働き、また多くの人々に善行を行ったのでしょうか。預金通帳にお金が増え続けることが喜びでしょうか。それとも、天に宝を積み上げることが喜びでしょうか。
ある人々は「金持ちになってからにします」と言います。主は、それが言い訳であることを知っておられるので、「持ち物を売って、施しをしなさい」と言われます。コリント人への手紙第二8章には模範になる人々が出ます。彼らは地上には何も蓄えていないのですが、天にはたくさんのものを蓄えました。
コリント人への手紙第二8:1-5、「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみのゆえに激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」
私たちはどれほど多くの愛と励ましと理解のことばを人生の中で残したのでしょうか。ある人々は他人への非難と誹謗中傷をたくさん残したかも知れません。それは必ず自分自身に返ってきます。すでに悲惨な結果を見た人もいるかもしれません。今受けていなくても、いつかはそれが自分に返ってくることを覚えてください。人間関係を壊し、信用を落として、そして恥を受けます。だから今からでも悪口や非難したことに対して悔い改めなければいけません。しかしもしそれを実行に移さず、そのままにほっておくなら、自分の心とたましいを、どんどん病気にしていくと思います。だから主に悔い改め、罪を犯した相手に直接謝ってほしいのです。そしてその後、愛と励ましと、理解のことばで自分を満たすことです。
ルカの福音書15章には、放蕩息子の話が出ます。そこにはもう一人の放蕩息子が出ます。放蕩息子の兄です。兄は15:29で、自分はお父さんの戒めを破ったことがないと自信満々と言っています。
ルカの福音書15:29、「しかし兄は父にこう言った。ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子やぎ一匹下さったことがありません。」
しかし実際に兄は、二つの命令(戒め)を破りました。これが今日のメッセージです。
1.「弟を探しに行きなさい」という命令です。(伝道の命令)
兄は一生懸命に働いて、誠実に生きました。しかし弟が家出をした家に、その誠実さは大したことではありません。お父さんの心はいつも心配でたまりません。何を食べても美味しくないし、何をしても嬉しくありません。お父さんの最高の喜びは家出をした弟を探しに行くことです。「失った弟を探しなさい。」これを無視すれば、他のどんな働きも誠実ではないことです。
この御言葉はルカの福音書15:1-2を読みますと、「パリサイ人、律法学者」に対する御言葉です。イエスさまが取税人と罪人たちにお話をし、彼らと一緒に食事をするのを見て、不平不満と誹謗中傷に満ち溢れたパリサイ人、律法学者たちに、イエスさまが言われた御言葉です。
自己中心はすべての罪の根です。兄は自分しか考えません。お父さんのこと、弟のことを一切考えませんでした。だから悪いのです。「弟を探しに行きなさい。」これが命令(戒め)です。これをキリスト教では、「地上命令(great commission)」と言います。最大の命令だという意味です。だから伝道と宣教は、教会の選択事項ではなく、教会の出発点であり、目的です。教会の当然の姿です。テモテへの手紙第二4:2、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
2.「弟を愛しなさい」という命令です。(愛の命令)
私たちはとても簡単に「愛する」と言っています。だから自分が愛のない存在だとは、あまり考えていません。皆さん、愛が何ですか?「共に喜ぶことが愛」です。
どれほど素晴らしい才能をもってパフォーマンスを披露しても、心の中に愛がなければ、短所しか見えないし、全然嬉しくありません。しかし反対に幼稚園児の下手なパフォーマンスを見ても興奮し、喜ぶことができる人々がいます。その子どもたちの親たちです。なぜでしょうか。愛するからです。レベルの高いパフォーマンスには関心がなくても、自分の子どもの下手な姿は映像を撮ったり、写真を撮って喜びます。これが愛です。最近、何かを見て嬉しくないし、続けて腹が立つのであれば、愛を失ったことです。
家出をした弟が戻りました。しかし兄は宴会の音を聞いて腹が立ちました。兄は全然嬉しくありません。むしろ反発をしています。
ルカの福音書15:29-30、「しかし兄は父にこう言った。ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子やぎ一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」
実は、弟は遊女におぼれたことがありません。しかし兄は事実をふくらませて、悪意をもって言っているのです。更に弟を自分とは何の関係もない他人のように、「あなたの息子」と言います。心を痛んだお父さんは、こう言います。ルカの福音書15:32、「だがおまえの弟(your brother)は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」
喜ぶことが出来なければ、愛ではありません。また悲しいことを見て痛まなければ、それも愛ではありません。「愛の命令」を英語で、「great commandment」と言います。そして、十戒を英語で「10 commandment」と言います。それらは、だいたい「心の動機と姿勢」を強調します。
「伝道の命令が行動であれば、愛の命令は動機と姿勢です。」この二つの命令(戒め)は私たちが正しく信仰生活をするかどうか判断する「ものさし」となります。「弟を探しに行きなさい」そうでなかったら、深刻な問題です。「弟を愛しなさい」そうでなかったら、偽善者、偽りの者です。今年こそ弟を探し出し、弟を愛する年です。そうすれば、いのちあふれる素晴らしい2025年となると私は確信しています。
合計 191
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
191 |
New 出エジプト記 25:1-9(幕屋の秘密)
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190 |
ヨハネの福音書16:16-22 (悲しみと喜びは長くない)
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2025.03.17
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閲覧数 18
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tbic | 2025.03.17 | 1 | 18 |
189 |
創世記22:15-17(敵の門を勝ち取る者)
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2025.03.09
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閲覧数 21
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tbic | 2025.03.09 | 1 | 21 |
188 |
創世記3:1-4、(サタンの噓)
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2025.03.02
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閲覧数 32
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tbic | 2025.03.02 | 1 | 32 |
187 |
ルカの福音書11:1( 主よ、祈りを教えてください)
tbic
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2025.02.23
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閲覧数 39
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tbic | 2025.02.23 | 1 | 39 |
186 |
ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
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2025.02.16
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閲覧数 49
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tbic | 2025.02.16 | 1 | 49 |
185 |
マタイの福音書27:26-28:6(妨害のため、よりうまくいく人生)
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2025.02.10
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推薦 1
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閲覧数 265
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tbic | 2025.02.10 | 1 | 265 |
184 |
ピりピ人への手紙4: 13 (天路歴程)
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2025.02.02
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推薦 1
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閲覧数 62
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183 |
ピリピ人への手紙4:6 (何も思い煩うな)
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2025.01.27
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推薦 2
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閲覧数 80
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tbic | 2025.01.27 | 2 | 80 |
182 |
サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
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|
2025.01.20
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推薦 1
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閲覧数 81
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tbic | 2025.01.20 | 1 | 81 |