メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ルカの福音書11:1( 主よ、祈りを教えてください)
投稿者
tbic
投稿日
2025-02-23 21:32
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ルカの福音書11:1『さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」』
今、世界中が生活様式を変えなければならず、新しく対応しなければならない時代ですが、こんな時、最も大切なことは、「主よ、祈りを教えてください!」の一言に尽きると思います。誰にでも祈りの気持ちはあります。現在、世界中の人たちの中に祈りの気持ちが溢れています。「これから世界はどこに向かっていくのだろうか。出口はどこなんだろう。」と悩みの中にあります。
しかしながら、私たちには「祈り」という武器があります。祈りを中心とするとき、人知を越えた領域において、神の守りを得ることができると信じます。特に、教会全体が心を合わせて祈る時、大きな主のみわざを体験できます。祈りとは、「自分の力ではどうすることもできないことを絶対者に助けてもらう」という意味があります。私たちは祈りによって神の前に出ることができるからです。これは素晴らしい特権です。更に教会全体の祈りは、大きなわざを引き起こします。
使徒の働き12章で初代教会において使徒ヤコブが殺され、次に教会の指導者だったペテロに手が伸びました。彼が捕らえられ牢の中に入れられて、まさに処刑の危機一髪の時でした。それを聞いた教会は何をしたのかというと、使徒の働き12:5、『こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。』
一般的に言えば、ヤコブと同じ道をたどるであろうと、そのただ中で、教会が心をひとつにして、真剣に祈ったのです。その時に何が起こったのでしょうか。使徒の働き12:7、『すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。』とレポートしています。
教会の祈りによって、天の軍勢が派遣されて、まさに処刑される寸前だったペテロが助け出されたのです。これはまさしく、教会の祈りの勝利でした。今このような時代のただ中で、私たちは教会と教会の兄弟姉妹の様々な問題についても、心を合わせて祈っています。それは「鎖が手から落ちる」大チャンスになるわけです。このような大ピンチに教会の祈りが加わると、大チャンスに変化するのです。教会の祈りはその鍵を持っています。
危機の中にあって必要なのは弟子たちが「私たちにも祈りを教えてください」と言ったのですが、主から祈りを教えていただくことです。それが重要であることに気づかされています。危機に遭遇した時、どんな祈りを誰にしますか?「誰に祈るのか」はもっとも大切なことです。現在世界には70数億人の人たちがいますが、みんな祈り心を持っています。
しかし誰に祈るのかについては様々です。祈る対象がはっきりしていません。私たちは誰に祈るのでしょうか。イエス様に祈ることができます。危機のただ中で、「イエス様」と助けを叫び求めることができます。いろいろな問題が起きた時に、「イエス様」と叫び声をあげて祈ることができます。しかしながら「祈りはどのようにして神の元に届くのか」という原則をしっかり押さえた上で叫んでいるのかというと、そうでもない気がします。
弟子たちが「主よ、祈りを教えてください。」とイエス様に聞くと、「主の祈り」を教えられました。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』という、この祈りを教えられました。しかし私だけか知りませんが、主の祈りの時間、途中で雑念が入ったり、途中でいろいろ考えてしまうのです。「あれ?何を祈ったっけ?あ、終わった。」みたいな感じです。皆さんはいかがでしょうか。もしかしたら本気で祈りきれないかもしれません。「祈りって、どう祈ったらいいのですか?」という問いかけに対して、イエス様が教えられた祈りですから、重要な祈りだと思います。だから今日は時間をとって主の祈りを一点の陰りなく祈り切っていただきたいと思います。
弟子たちが「イエス様、祈りを教えてください。」と言った時にどのように答えられたのでしょうか。イエス様は神が人となられたお方で、神ご自身です。しかし「わたしは神だよ。だからわたしに直接祈りなさい。」とは言われませんでした。「イエス様」と呼びかけるようにとは教えないで、「天の父なる神さまに呼びかける」ように教えられたのです。
聖書を読みますと、イエスさまに直接祈っている例もあります。しかし祈りのほとんどは、「父なる神さま」に対する呼びかけです。イエスさまに直接祈っている例は、ステパノが石打ちの刑で、まさに死ぬ直前、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と叫んだところと、黙示録でヨハネが、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と祈っているくらいです。また聖霊さまに対しての呼びかけも少ないのです。それらから、「祈りとは、父なる神さまに対して祈り、父の元に届くものだ。」ということがわかります。
聖書の中で、最も重要な真理とは何かと言うと、以前にも語りましたが「三位一体」です。キリスト教の奥義は、私たちが信じる神は「三位一体なる神である」ということです。子なるイエス様、救い主です。聖霊さまは、助け主なる神です。そして父なる神さまがおられます。しかし三つにして「一つの神さま」です。「キリスト教信仰において、その中心にある重要な教理は、三位一体の教理である。三位一体という言葉自体は聖書にはないが、聖書が明らかに伝えている信仰内容である。三位一体とは、聖書に啓示されている神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格を持つ唯一の神である。」このように、あるところで説明されていました。「位格」とは、人ならば人格のことです。人でたとえるなら、「神さまは三つの人格を持っておられる」というのです。父なる神さまとして、子なるイエスさま、聖霊さま、三人おられるかのように見えるのですが、一つとなって唯一の神を構成しているのです。聖書は「三位一体」という言葉自体は使っていませんが、至る所で、それを示唆しています。有名な箇所はマタイの福音書28:19-20です。これはイエス様ご自身が語られたのですが、宣教に出て行って、バプテスマを授ける時、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」と語られました。祝祷に引用される箇所で、コリント人への手紙第二13:13、『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』と祈ります。これはパウロが、神が三つの位格を持っておられると理解していた箇所であるとともに、三位一体を示唆しているわけです。
しかしキリスト教の歴史を見ますと、三位一体という概念が、教会全体の教理として組み込まれ、土台に据えられたのは4世紀のことです。イエス様を目前にしていた人たちはそのことを理解していたのですが、だんだんと時代が変わり、イエス様の神性を疑う人たちが多く出てきたのです。
それでAD325年、ニカイアという所に教会の指導者たちが集まって、イエスという人物はどういう人物であろうかで討論がありました。それが大激論になりました。特にアリウス派という人たちはイエス・キリストが神であることを「否定」しました。「イエスは、奇跡を行ったり、様々なことをしたけれど、あれは人間の中で最も優れた神の作品だ。」と捉えたわけです。しかしアタナシオス派は、イエス・キリストは子ではあるものの、父と同じ「神であることを肯定」しました。
しかしこの討論、結論が出るに至らず持ち越されて、AD381年コンスタンティノポリスという所にもう一度集まって、再度公会議が開かれました。そこでアタナシオス派が主張する難しい言葉ですが、「三位格同一本質」という、三位一体が教会全体が共有する教理として受け入れられ、土台に据えられました。そして現在に至っています。
それは本当に大きな戦いでした。もしもアリウス派の主張が通っていたら、キリスト教が現在あるかどうかは疑わしいのです。もしも三位一体を受け入れることができなかったら、「聖書に則したキリスト教ではありえなかった」と言われます。そもそもイエスさまは、力はあったけれど、ただの人です。聖霊はガソリンみたいな、エネルギーみたいな考え方があります。その代表格がエホバの証人です。他にも、三位一体を否定する教派が現在でもあります。ユニテリアン、モルモン教、統一教会、キリストの幕屋など、異端と呼ばれる人たちのほとんどは三位一体を認めません。そうなれば、イエスさまはただの聖人です。「確かに宇宙に主幹者なる神はいるだろう。しかし、その下には、いろいろな聖人たちがぶら下がっている。」みたいな話になるわけです。
皆さん、世界を牛耳っている宗教と言うか、イデオロギーと言ってもいいのか分かりませんが、「フリー・メイソン」という団体があります。今でも世界的な勢力を持っているのですが、結構、都市伝説(陰謀説)のように考える、この人たちは今でも大きなパワーを持っています。彼らはキリスト教を推薦し、主張します。しかし彼らの考えは、「宇宙には至高の存在がいる。その下に、様々な偉人たちがぶら下がっている。その一人がイエスだ。」と考えています。モハメッドもいれば、ほとけもいれば、ヒンズーの神々もいれば、イエス・キリストもぶら下がっていることになります。
もしも公会議において、アリウス派が勝ったら、現代のキリスト教会ってありえないのです。ということは、三位一体は、不可解に思われますが、実際は、重要な真理の底支えをしているのです。「キリスト教の神さまって、どういう神さまですか?」と聞かれたら、単純に、『イエス様です』と答えるのですが、これは正しい答えではありますが、間違いも含んでいます。父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さまから構成される、「三位一体なる唯一の神です」というのが正しい答えです。私たちがこのことを理解し、受け取る時に、偉大な神のわざが現れると信じます。
イエスさまは神でありながら、自ら「父なる神に祈られた」のです。マルコの福音書14章はイエスさまが十字架につく前にゲッセマネの園で祈られた祈りです。どんな祈りをされたのかというと、マルコの福音書14:36、『またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」』と祈られました。この祈りは弟子たちに教えた「主の祈り」を踏襲しています。
イエスさまは父なる神さまに祈られたことが分かります。イエスさまは父なる神さまをどのように理解しておられたのかと言うと、『あなたにおできにならないことはありません。』と祈られました。私たちの神さまに、「おできにならないことはない」のです。どんな大きな問題に対しても、私たちの神さまに不可能はなく、「何でもできる」のです。三位一体なる神さまは、各位それぞれの役割をお持ちです。その中で祈りを受け取り、答えてくださる役割は、「父なる神さま」にあります。
イエスさまは父なる神さまを「アバ」という言葉を使って呼ばれました。「アバ」とはどのような意味があるのかというと、古代イスラエルで子どもが父を呼ぶ時に使った親しみを込めた呼び名です。現代のイスラエルでも子どもたちは父親を「アバ」と呼びます。日本語でも父親を呼ぶ言葉って、いくつもあります。堅い言葉だったら「父上様」もあるし、「お父さま」みたいのもあるし、「親父」もあるし、「おっとー」もあります。私たちは様々なレベルで呼称を使い分けています。へブル語も同じで「アバ」とは、「おとうちゃん」というような、子どもが父親を呼ぶ親しみを込めた呼称だというのです。イエスさまと父なる神さまとの関係は「おとうちゃん」と呼ぶことができる「親密な関係」だったわけです。
しかし私くらいまでの世代は父親に対するイメージがあまり良くありません。「地震、雷、火事、親父」と言って、親父は怖いもの一つという考え方があります。戦争が終わってしばらくした時代で、戦争で生き残った荒くれ親父たちが社会に満ちていたせいか、親父との関係はあまり良い関係ではなかったわけです。そのためか「アバ、父」みたいな呼び方って、なんとなく違和感があります。悪魔は父と子との関係を壊しています。その結果、父なる神さまとの関係にも壁を作ることができるからです。
実は古代イスラエルにおいて、子どもたちが「アバ」と親しみを込めて呼びかけていたのには理由があります。それはユダヤ人の父親は子どもたちと大変良い関係を構築する文化を持っていたからです。子どもたちはアバから律法を学び、商売も学んだのです。またアバからユダヤの英雄たちのストーリーも繰り返し聞いて一緒に祈り、シナゴーグに行き、安息日やユダヤ教の祭日が来ると、アバが家族を導く姿を常に目にしていたのです。だから父親と良い関係があったと言われます。「アバ」という言葉の中にユダヤの父子関係の概念が込められているわけです。イエス様はイスラエルの文化に則した父なる神さまと「アバ、父」という良い関係の中で過ごしておられたのです。
では、聖霊さまはどのような役割でしょうか。ローマ人への手紙8:15、『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』
私たちが父なる神さまを親しく「アバ、父よ」と呼ぶ助けをされるのが、「聖霊さま」です。もしも私たちが祈る時に、父なる神さまに怖いイメージを持っていたら、聖霊さまによって、変えていただかなければなりません。ガラテヤ人への手紙の4:6、『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』私たちが「イエス様」と親しく呼びかけ、聖霊さまを知っているのであれば、次に父なる神さまのことを「アバ、父」と呼べなければいけません。その時、本当の意味で祈りが神の元に届き、答えがやってくるのです。
ある神学者がこのように語っていました。『イエスがまず教えられたことは、神を父と呼ぶことであった。我々も「父よ」とか、「天にいます父よ」と声を出して語りかけることはできる。しかし親しい関係を感じ、揺るぎない信頼関係を持って、「父よ」と呼びかけているとは限らない。しかし我々が父に対して親しみを持ち、揺るぎない信頼の土台を持てるのなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきても、ぶれることなく、堅く立つことができる。』
日本の多くの教会は「父なる神さま」と祈ります。しかしながら本心で親しみを込めて、「アバ、父よ。」と祈っているとは限らないというのです。イエス様には親しみを感じる、聖霊さまの助けは感じる。しかし父なる神さまに対しては心が狭い神さまで、ちゃんとしていないと、すぐに怒ってげんこつが飛んでくるようなイメージがあります。しかしイエスさまは、「アバ、父よ。」と、ご自分が父なる神さまと良い関係を築かれていることを教えられたのです。
私たちがイエスさまと同じように、父なる神さまに対して、「アバ」と呼びかける良い関係を築くことができるなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきたとしても、ぶれることなく、堅く立つことができ、本当の意味での勝利者になることができるのです。ただ口癖として、「父なる神さま。アバ、父よ。」と呼ぶのではなく、心から親しみをこめて「アバ、父」と呼べるようになったら、人生様々なことが起こっても、ぶれることがないのです。
今日は主から祈りがどのように機能するのかについて、教えられました。それが「父なる神さまに親しみを持って祈る」ことでした。そうしたら、ぶれることがなくなりますよと教えられました。皆さんも是非とも、父なる神さまを意識して、「アバ、父よ!」と祈り叫んでみて下さい。
「祈り」とは、英語で「prayer」と言います。「er」が付くのは人のことを意味します。祈りとは概念ではなく、「祈る人」にならなければならないということです。実際に祈らなければ、意味がありません。祈りとは「イエスさまの名前を通して、聖霊の助けにより、アバ父なる神さまに祈ること」です。祈りには三位一体なる神さまの中で、父なる神さまに届き、答えがやってくるという法則があります。三つにして一つの神、それぞれの位格において役割があるのです。それぞれが神ですが、「父なる神さまは祈りを聞き、私たちに答えを授けてくださる。」役割です。
私たちのTBIC教会は近年15年の歴史を振り返る時、三位一体という重要な真理を曖昧にしてきたところがあります。しかしこれから父なる神さまとの関係をしっかりと回復し、三位一体なる神様に心から祈りをささげることができるのであれば、祈りの結果がねじれることなく、ストレートにやってくると思います。様々な歴史の中で、悪魔は真理からそらせようと真剣に働きます。しかしその度に、主は私たちを矯正してくださり、土台を確かなものにしてくださいました。そのことを心から感謝します。イエスさまは次のように語られました。
ヨハネの福音書14:13-14、『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』
「わたしの名によって」とは、「わたしの名前を使いなさい」という意味です。
人間世界だって、名前を使い、普通では動かない領域が動いたりします。霊的世界はイエスさまの名前を使わないと、本物の神、父なる神さまの元に行き着くことはできません。ほとけの名前を使っても駄目です。マホメッドの名前を使っても駄目です。八百万の神々の名前を使っての祈りは聞かれません。しかしイエスさまの名前を通して祈るのであれば、天地宇宙を造られた神さまの元に祈りは届き、聖霊の助けによって、祈りの答えがやってくるのです。今週は、「アバ、父よ。」と呼びかけて祈っていただきたいと思います。
皆さん、祈りは誰が受け取り、答えてくださるのでしょうか。整理してみると、「み子イエスさま、聖霊さま、そして父なる神さまは私たちの祈りに積極的に関わってくださいます。しかし三位一体の神さまの各役割を整理すると、み子イエスさまの名前により、聖霊さまの助けによって、父なる神さまに祈るという流れが見えてきます。祈りとは、み子イエスの名を通して、聖霊の助けによって、父なる神に祈るということです。」
「イエスさま」とは気軽に叫ぶことができますが、「アバ父なる神さま」とは、なかなか親しくは呼ぶことができないかもしれません。しかし「その壁を越えなさい」と主は私を含めて、TBIC教会の兄弟姉妹に語っておられます。
「イエスさま、聖霊さま」と親しく呼びかけるのと同じように、「アバ父よ」と親密に語りかけ、祈ることができるようになったら、新しい扉が開かれると信じます。この真理を知り、日々、祈り続ける者になりたいと思います。この時代の大ピンチは一方では大チャンスになります。神さまがこの時を用いようとされていると信じています。
祈り、
ハレルヤ、天の父なる神さま、今イエスさまの名前を通して、あなたを「アバ、父」と呼ぶことができますことを心から感謝いたします。それを手助けしてくださる聖霊さま、ありがとうございます。今週は心の底から、「アバ、父」と呼ぶことができますように。父なる神さまと私たちの間にある壁を取り去ってください。主よ、ぜひ経済的にも守ってください。今週もTBIC兄弟姉妹の上に豊かな祝福がありますように。尊いイエスさまのみ名を通して、この祈りをアバ父におささげいたします。アーメン。
今、世界中が生活様式を変えなければならず、新しく対応しなければならない時代ですが、こんな時、最も大切なことは、「主よ、祈りを教えてください!」の一言に尽きると思います。誰にでも祈りの気持ちはあります。現在、世界中の人たちの中に祈りの気持ちが溢れています。「これから世界はどこに向かっていくのだろうか。出口はどこなんだろう。」と悩みの中にあります。
しかしながら、私たちには「祈り」という武器があります。祈りを中心とするとき、人知を越えた領域において、神の守りを得ることができると信じます。特に、教会全体が心を合わせて祈る時、大きな主のみわざを体験できます。祈りとは、「自分の力ではどうすることもできないことを絶対者に助けてもらう」という意味があります。私たちは祈りによって神の前に出ることができるからです。これは素晴らしい特権です。更に教会全体の祈りは、大きなわざを引き起こします。
使徒の働き12章で初代教会において使徒ヤコブが殺され、次に教会の指導者だったペテロに手が伸びました。彼が捕らえられ牢の中に入れられて、まさに処刑の危機一髪の時でした。それを聞いた教会は何をしたのかというと、使徒の働き12:5、『こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。』
一般的に言えば、ヤコブと同じ道をたどるであろうと、そのただ中で、教会が心をひとつにして、真剣に祈ったのです。その時に何が起こったのでしょうか。使徒の働き12:7、『すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。』とレポートしています。
教会の祈りによって、天の軍勢が派遣されて、まさに処刑される寸前だったペテロが助け出されたのです。これはまさしく、教会の祈りの勝利でした。今このような時代のただ中で、私たちは教会と教会の兄弟姉妹の様々な問題についても、心を合わせて祈っています。それは「鎖が手から落ちる」大チャンスになるわけです。このような大ピンチに教会の祈りが加わると、大チャンスに変化するのです。教会の祈りはその鍵を持っています。
危機の中にあって必要なのは弟子たちが「私たちにも祈りを教えてください」と言ったのですが、主から祈りを教えていただくことです。それが重要であることに気づかされています。危機に遭遇した時、どんな祈りを誰にしますか?「誰に祈るのか」はもっとも大切なことです。現在世界には70数億人の人たちがいますが、みんな祈り心を持っています。
しかし誰に祈るのかについては様々です。祈る対象がはっきりしていません。私たちは誰に祈るのでしょうか。イエス様に祈ることができます。危機のただ中で、「イエス様」と助けを叫び求めることができます。いろいろな問題が起きた時に、「イエス様」と叫び声をあげて祈ることができます。しかしながら「祈りはどのようにして神の元に届くのか」という原則をしっかり押さえた上で叫んでいるのかというと、そうでもない気がします。
弟子たちが「主よ、祈りを教えてください。」とイエス様に聞くと、「主の祈り」を教えられました。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』という、この祈りを教えられました。しかし私だけか知りませんが、主の祈りの時間、途中で雑念が入ったり、途中でいろいろ考えてしまうのです。「あれ?何を祈ったっけ?あ、終わった。」みたいな感じです。皆さんはいかがでしょうか。もしかしたら本気で祈りきれないかもしれません。「祈りって、どう祈ったらいいのですか?」という問いかけに対して、イエス様が教えられた祈りですから、重要な祈りだと思います。だから今日は時間をとって主の祈りを一点の陰りなく祈り切っていただきたいと思います。
弟子たちが「イエス様、祈りを教えてください。」と言った時にどのように答えられたのでしょうか。イエス様は神が人となられたお方で、神ご自身です。しかし「わたしは神だよ。だからわたしに直接祈りなさい。」とは言われませんでした。「イエス様」と呼びかけるようにとは教えないで、「天の父なる神さまに呼びかける」ように教えられたのです。
聖書を読みますと、イエスさまに直接祈っている例もあります。しかし祈りのほとんどは、「父なる神さま」に対する呼びかけです。イエスさまに直接祈っている例は、ステパノが石打ちの刑で、まさに死ぬ直前、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と叫んだところと、黙示録でヨハネが、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と祈っているくらいです。また聖霊さまに対しての呼びかけも少ないのです。それらから、「祈りとは、父なる神さまに対して祈り、父の元に届くものだ。」ということがわかります。
聖書の中で、最も重要な真理とは何かと言うと、以前にも語りましたが「三位一体」です。キリスト教の奥義は、私たちが信じる神は「三位一体なる神である」ということです。子なるイエス様、救い主です。聖霊さまは、助け主なる神です。そして父なる神さまがおられます。しかし三つにして「一つの神さま」です。「キリスト教信仰において、その中心にある重要な教理は、三位一体の教理である。三位一体という言葉自体は聖書にはないが、聖書が明らかに伝えている信仰内容である。三位一体とは、聖書に啓示されている神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格を持つ唯一の神である。」このように、あるところで説明されていました。「位格」とは、人ならば人格のことです。人でたとえるなら、「神さまは三つの人格を持っておられる」というのです。父なる神さまとして、子なるイエスさま、聖霊さま、三人おられるかのように見えるのですが、一つとなって唯一の神を構成しているのです。聖書は「三位一体」という言葉自体は使っていませんが、至る所で、それを示唆しています。有名な箇所はマタイの福音書28:19-20です。これはイエス様ご自身が語られたのですが、宣教に出て行って、バプテスマを授ける時、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい。」と語られました。祝祷に引用される箇所で、コリント人への手紙第二13:13、『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』と祈ります。これはパウロが、神が三つの位格を持っておられると理解していた箇所であるとともに、三位一体を示唆しているわけです。
しかしキリスト教の歴史を見ますと、三位一体という概念が、教会全体の教理として組み込まれ、土台に据えられたのは4世紀のことです。イエス様を目前にしていた人たちはそのことを理解していたのですが、だんだんと時代が変わり、イエス様の神性を疑う人たちが多く出てきたのです。
それでAD325年、ニカイアという所に教会の指導者たちが集まって、イエスという人物はどういう人物であろうかで討論がありました。それが大激論になりました。特にアリウス派という人たちはイエス・キリストが神であることを「否定」しました。「イエスは、奇跡を行ったり、様々なことをしたけれど、あれは人間の中で最も優れた神の作品だ。」と捉えたわけです。しかしアタナシオス派は、イエス・キリストは子ではあるものの、父と同じ「神であることを肯定」しました。
しかしこの討論、結論が出るに至らず持ち越されて、AD381年コンスタンティノポリスという所にもう一度集まって、再度公会議が開かれました。そこでアタナシオス派が主張する難しい言葉ですが、「三位格同一本質」という、三位一体が教会全体が共有する教理として受け入れられ、土台に据えられました。そして現在に至っています。
それは本当に大きな戦いでした。もしもアリウス派の主張が通っていたら、キリスト教が現在あるかどうかは疑わしいのです。もしも三位一体を受け入れることができなかったら、「聖書に則したキリスト教ではありえなかった」と言われます。そもそもイエスさまは、力はあったけれど、ただの人です。聖霊はガソリンみたいな、エネルギーみたいな考え方があります。その代表格がエホバの証人です。他にも、三位一体を否定する教派が現在でもあります。ユニテリアン、モルモン教、統一教会、キリストの幕屋など、異端と呼ばれる人たちのほとんどは三位一体を認めません。そうなれば、イエスさまはただの聖人です。「確かに宇宙に主幹者なる神はいるだろう。しかし、その下には、いろいろな聖人たちがぶら下がっている。」みたいな話になるわけです。
皆さん、世界を牛耳っている宗教と言うか、イデオロギーと言ってもいいのか分かりませんが、「フリー・メイソン」という団体があります。今でも世界的な勢力を持っているのですが、結構、都市伝説(陰謀説)のように考える、この人たちは今でも大きなパワーを持っています。彼らはキリスト教を推薦し、主張します。しかし彼らの考えは、「宇宙には至高の存在がいる。その下に、様々な偉人たちがぶら下がっている。その一人がイエスだ。」と考えています。モハメッドもいれば、ほとけもいれば、ヒンズーの神々もいれば、イエス・キリストもぶら下がっていることになります。
もしも公会議において、アリウス派が勝ったら、現代のキリスト教会ってありえないのです。ということは、三位一体は、不可解に思われますが、実際は、重要な真理の底支えをしているのです。「キリスト教の神さまって、どういう神さまですか?」と聞かれたら、単純に、『イエス様です』と答えるのですが、これは正しい答えではありますが、間違いも含んでいます。父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さまから構成される、「三位一体なる唯一の神です」というのが正しい答えです。私たちがこのことを理解し、受け取る時に、偉大な神のわざが現れると信じます。
イエスさまは神でありながら、自ら「父なる神に祈られた」のです。マルコの福音書14章はイエスさまが十字架につく前にゲッセマネの園で祈られた祈りです。どんな祈りをされたのかというと、マルコの福音書14:36、『またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」』と祈られました。この祈りは弟子たちに教えた「主の祈り」を踏襲しています。
イエスさまは父なる神さまに祈られたことが分かります。イエスさまは父なる神さまをどのように理解しておられたのかと言うと、『あなたにおできにならないことはありません。』と祈られました。私たちの神さまに、「おできにならないことはない」のです。どんな大きな問題に対しても、私たちの神さまに不可能はなく、「何でもできる」のです。三位一体なる神さまは、各位それぞれの役割をお持ちです。その中で祈りを受け取り、答えてくださる役割は、「父なる神さま」にあります。
イエスさまは父なる神さまを「アバ」という言葉を使って呼ばれました。「アバ」とはどのような意味があるのかというと、古代イスラエルで子どもが父を呼ぶ時に使った親しみを込めた呼び名です。現代のイスラエルでも子どもたちは父親を「アバ」と呼びます。日本語でも父親を呼ぶ言葉って、いくつもあります。堅い言葉だったら「父上様」もあるし、「お父さま」みたいのもあるし、「親父」もあるし、「おっとー」もあります。私たちは様々なレベルで呼称を使い分けています。へブル語も同じで「アバ」とは、「おとうちゃん」というような、子どもが父親を呼ぶ親しみを込めた呼称だというのです。イエスさまと父なる神さまとの関係は「おとうちゃん」と呼ぶことができる「親密な関係」だったわけです。
しかし私くらいまでの世代は父親に対するイメージがあまり良くありません。「地震、雷、火事、親父」と言って、親父は怖いもの一つという考え方があります。戦争が終わってしばらくした時代で、戦争で生き残った荒くれ親父たちが社会に満ちていたせいか、親父との関係はあまり良い関係ではなかったわけです。そのためか「アバ、父」みたいな呼び方って、なんとなく違和感があります。悪魔は父と子との関係を壊しています。その結果、父なる神さまとの関係にも壁を作ることができるからです。
実は古代イスラエルにおいて、子どもたちが「アバ」と親しみを込めて呼びかけていたのには理由があります。それはユダヤ人の父親は子どもたちと大変良い関係を構築する文化を持っていたからです。子どもたちはアバから律法を学び、商売も学んだのです。またアバからユダヤの英雄たちのストーリーも繰り返し聞いて一緒に祈り、シナゴーグに行き、安息日やユダヤ教の祭日が来ると、アバが家族を導く姿を常に目にしていたのです。だから父親と良い関係があったと言われます。「アバ」という言葉の中にユダヤの父子関係の概念が込められているわけです。イエス様はイスラエルの文化に則した父なる神さまと「アバ、父」という良い関係の中で過ごしておられたのです。
では、聖霊さまはどのような役割でしょうか。ローマ人への手紙8:15、『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』
私たちが父なる神さまを親しく「アバ、父よ」と呼ぶ助けをされるのが、「聖霊さま」です。もしも私たちが祈る時に、父なる神さまに怖いイメージを持っていたら、聖霊さまによって、変えていただかなければなりません。ガラテヤ人への手紙の4:6、『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』私たちが「イエス様」と親しく呼びかけ、聖霊さまを知っているのであれば、次に父なる神さまのことを「アバ、父」と呼べなければいけません。その時、本当の意味で祈りが神の元に届き、答えがやってくるのです。
ある神学者がこのように語っていました。『イエスがまず教えられたことは、神を父と呼ぶことであった。我々も「父よ」とか、「天にいます父よ」と声を出して語りかけることはできる。しかし親しい関係を感じ、揺るぎない信頼関係を持って、「父よ」と呼びかけているとは限らない。しかし我々が父に対して親しみを持ち、揺るぎない信頼の土台を持てるのなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきても、ぶれることなく、堅く立つことができる。』
日本の多くの教会は「父なる神さま」と祈ります。しかしながら本心で親しみを込めて、「アバ、父よ。」と祈っているとは限らないというのです。イエス様には親しみを感じる、聖霊さまの助けは感じる。しかし父なる神さまに対しては心が狭い神さまで、ちゃんとしていないと、すぐに怒ってげんこつが飛んでくるようなイメージがあります。しかしイエスさまは、「アバ、父よ。」と、ご自分が父なる神さまと良い関係を築かれていることを教えられたのです。
私たちがイエスさまと同じように、父なる神さまに対して、「アバ」と呼びかける良い関係を築くことができるなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきたとしても、ぶれることなく、堅く立つことができ、本当の意味での勝利者になることができるのです。ただ口癖として、「父なる神さま。アバ、父よ。」と呼ぶのではなく、心から親しみをこめて「アバ、父」と呼べるようになったら、人生様々なことが起こっても、ぶれることがないのです。
今日は主から祈りがどのように機能するのかについて、教えられました。それが「父なる神さまに親しみを持って祈る」ことでした。そうしたら、ぶれることがなくなりますよと教えられました。皆さんも是非とも、父なる神さまを意識して、「アバ、父よ!」と祈り叫んでみて下さい。
「祈り」とは、英語で「prayer」と言います。「er」が付くのは人のことを意味します。祈りとは概念ではなく、「祈る人」にならなければならないということです。実際に祈らなければ、意味がありません。祈りとは「イエスさまの名前を通して、聖霊の助けにより、アバ父なる神さまに祈ること」です。祈りには三位一体なる神さまの中で、父なる神さまに届き、答えがやってくるという法則があります。三つにして一つの神、それぞれの位格において役割があるのです。それぞれが神ですが、「父なる神さまは祈りを聞き、私たちに答えを授けてくださる。」役割です。
私たちのTBIC教会は近年15年の歴史を振り返る時、三位一体という重要な真理を曖昧にしてきたところがあります。しかしこれから父なる神さまとの関係をしっかりと回復し、三位一体なる神様に心から祈りをささげることができるのであれば、祈りの結果がねじれることなく、ストレートにやってくると思います。様々な歴史の中で、悪魔は真理からそらせようと真剣に働きます。しかしその度に、主は私たちを矯正してくださり、土台を確かなものにしてくださいました。そのことを心から感謝します。イエスさまは次のように語られました。
ヨハネの福音書14:13-14、『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』
「わたしの名によって」とは、「わたしの名前を使いなさい」という意味です。
人間世界だって、名前を使い、普通では動かない領域が動いたりします。霊的世界はイエスさまの名前を使わないと、本物の神、父なる神さまの元に行き着くことはできません。ほとけの名前を使っても駄目です。マホメッドの名前を使っても駄目です。八百万の神々の名前を使っての祈りは聞かれません。しかしイエスさまの名前を通して祈るのであれば、天地宇宙を造られた神さまの元に祈りは届き、聖霊の助けによって、祈りの答えがやってくるのです。今週は、「アバ、父よ。」と呼びかけて祈っていただきたいと思います。
皆さん、祈りは誰が受け取り、答えてくださるのでしょうか。整理してみると、「み子イエスさま、聖霊さま、そして父なる神さまは私たちの祈りに積極的に関わってくださいます。しかし三位一体の神さまの各役割を整理すると、み子イエスさまの名前により、聖霊さまの助けによって、父なる神さまに祈るという流れが見えてきます。祈りとは、み子イエスの名を通して、聖霊の助けによって、父なる神に祈るということです。」
「イエスさま」とは気軽に叫ぶことができますが、「アバ父なる神さま」とは、なかなか親しくは呼ぶことができないかもしれません。しかし「その壁を越えなさい」と主は私を含めて、TBIC教会の兄弟姉妹に語っておられます。
「イエスさま、聖霊さま」と親しく呼びかけるのと同じように、「アバ父よ」と親密に語りかけ、祈ることができるようになったら、新しい扉が開かれると信じます。この真理を知り、日々、祈り続ける者になりたいと思います。この時代の大ピンチは一方では大チャンスになります。神さまがこの時を用いようとされていると信じています。
祈り、
ハレルヤ、天の父なる神さま、今イエスさまの名前を通して、あなたを「アバ、父」と呼ぶことができますことを心から感謝いたします。それを手助けしてくださる聖霊さま、ありがとうございます。今週は心の底から、「アバ、父」と呼ぶことができますように。父なる神さまと私たちの間にある壁を取り去ってください。主よ、ぜひ経済的にも守ってください。今週もTBIC兄弟姉妹の上に豊かな祝福がありますように。尊いイエスさまのみ名を通して、この祈りをアバ父におささげいたします。アーメン。
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