メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
創世記22:15-17(敵の門を勝ち取る者)
投稿者
tbic
投稿日
2025-03-09 22:34
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創世記22:15-17『15.主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、16.こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、17.確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。」』
今日、皆さんと学びたい箇所はアブラハムという元祖ユダヤ人というか、信仰の原点のような人物に、主が語られた御言葉です。アブラハムは信仰の原点であり、クリスチャンの代表みたいな存在です。彼の祝福が今の私たちにつながっているわけです。ここで語られているように、「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。」とあります。「あなたの子孫」とは、誰のことでしょうか。最終的にはイエス・キリストを信じる者たち、クリスチャンであり、教会を指しています。
しかしこの箇所は新約聖書に至ると、イエス・キリストにつながり、十字架につながっています。この箇所の前後を見ますと、アブラハムに何が起こったのかが記されています。創世記22:1-2、『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』
アブラハムは年老いてから、実に、百歳になった時、ひとり子、イサクをもうけることができました。一人っ子で、アブラハムはイサクをもの凄くかわいがっていたと思われます。しかし神さまはひどいことを言われたのです。「イサクを殺して、わたしに捧げろ。」と言われたのです。こんなこと言われたら、「冗談じゃない!」という感じです。しかしアブラハムは、この声を聞いた後、すぐに立ち上がって、イサクを連れてモリヤの山に登り、彼を縛って、神へのいけにえとして捧げようとしたのです。その時、神は言われました。
創世記22:12-14、『御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。』
イサクをささげる直前に、とどめられたのです。この箇所を読むと、複雑な思いになります。神が与えた一人息子イサクを、後に殺す命令をくだすなんて、信じられないと思います。実は、この箇所には様々な理解があり、ユダヤ教においては、神は「子どもを殺して捧げろ」なんて決して言う方ではない、他の聖書箇所とは矛盾すると言います。だからアブラハムは、神の声を聞いたのではなく、悪魔の声を聞いたという理解です。しかしもしも仮にアブラハムが悪魔の声を聞いたとしても、神の主権の中で悪魔さえも用いられ、すべてが益とされるということです。でも同時に、この箇所は当時のカナンの風習が関わっていると言われます。
誰でも、生まれ育った地域の文化や習慣から逃れることは出来ません。日本の方は、日本の文化や習慣に、韓国の方は、韓国の文化と習慣に、いくらクリスチャンになっても、変えられないものがあります。いろいろな影響を受けているわけです。そういう様々な文化や習慣の中で、良いものもあれば、悪いものもあるわけです。
アブラハムは神から、「あなたのひとり子、イサクを捧げなさい。」と言われたら、顔色一つ変えずに、すぐに立ち上がり、イサクを連れて、三日の道のりを進んで行きました。すぐに従っています。すごいな、すごい信仰だなと思います。
アブラハムは紀元前2000年くらいの人物ですが、当時のカナンの地には悪しき習慣がありました。それは「モレク神」という偶像の神が拝まれていて、モレク神は何を要求するかというと、子どものいのちを要求したのです。もしもモレクから、「おまえの子どもを捧げろ」という声がかかったのなら、直ちに顔色一つ変えず、喜びながらモレクに我が子を捧げる悪しき習慣があったのです。アブラハムがイサクを捧げた場所はどこかと言うと、エルサレムのヒンノムの谷と呼ばれ、ゲヘナとも呼ばれたモレク礼拝の拠点である谷の上にある岩の上でした。そこで神は、「イサクを生け贄として捧げろ」と言われたのです。
当時、多くの人たちがモレク信仰に走っていたわけですが、アブラハムの時代、異教の神々の悪しき習慣がこの地域に、はびこっていたわけです。そのような中で、アブラハムは神の声を聞いたのです。アブラハムが神の声にすぐに従ったのは、彼も異教の文化と習慣の影響を受けていたからだと思われます。
しかし神がイサクを捧げさせなかったのは、アブラハムを「悪しき習慣の世界観から解放」させるためでもあったのです。神自ら雄羊を備えて、イサクを捧げさせなかったのは、「モレクに子どもを捧げる必要はない。生け贄は、神自らが備える。」ということを教えたわけです。
この出来事は、やがて、十字架につながっていきます。イエスさまが私たちの罪の生け贄となってくださったことによって、私たちはモレクのような悪霊どもが要求する生け贄は必要ないのです。イエスさまが初めで最後の生け贄となってくださったゆえに、今や私たちは自由に神のみ前に出ることができるのです。アブラハムが体験したことは、悪しき文化と習慣からの解放でもあったわけです。神は私たちを、この地の様々な悪い習慣から解放し、自由にしてくださるお方です。
ここからイエスさまの十字架の預言をも見ることができます。ヘブル人への手紙2:14-15を見ると、こうなっています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
イサクの生け贄事件は、やがてイエスさまが十字架にかかって死んでよみがえり、死の力を滅ぼしてくださるという、十字架の勝利につながっているわけです。イエスさまが初めで最後の生け贄になってくださったゆえに私たちは死の力から解放され、自由になり、今や自由に神の前に出ることができるのです。本当に感謝なことです。このイエスさまの十字架と復活によって、私たちは本当に自由にされるのです。
そしてイエスさまの復活によって何が起きたかというと、ハデスの門が打ち破られ、敵の門が勝ち取られたのです。アブラハムに対して、「あなたの子孫は、敵の門を勝ち取ります。」と告げられたのは、マタイの福音書16:18-19、『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』とありますが、つまり「敵の門を勝ち取る」とは、「ハデスの門を勝ち取る」ことであり、そのかぎが教会に与えられたのです。
皆さんもご存知のように、古代の町は城壁に囲まれていて、所々に門がありました。戦争の時は、門が攻防の中心となりました。門が奪われたら、街が攻め取られたのと同じでした。だから戦争の時には門の周辺に精鋭部隊を配備して、敵と対峙したのです。
悪魔も同じです。周囲に城壁を張り巡らせ、人々を閉じ込めます。門に最も強い軍隊を配備して、「絶対に日本を攻め取ることはできない」と豪語しているかもしれません。しかし教会は敵の門を勝ち取る存在です。教会に与えられている使命は敵の門を勝ち取り、ハデスに落ち込んでいく人たちを救い出す働きです。救い出すためには、まずは門を固めている敵の力を打ち破らないと、ハデスの門に落ち込んでいる人たちを救出できないのです。霊的戦いと宣教は常に表裏一体であることを、ここで教えています。
謎のような御言葉があります。伝道者の書11:1-6、『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」何か分かるような、分からない言葉です。もしも水の上にパンを投げたら、どうでしょうか。溶けて、後の日に見いだすなんて絶対に不可能です。しかし考えようによっては、パンが溶けて、沈んで、魚が食べて、投げられたパンを栄養分として魚が大きくなり、やがてその魚が食卓に上がるということもありうるわけです。そういう理解でもいいのかなと思いますが、しかし伝道者の書とは、誰が書いたのかというと、ソロモンというイスラエルの王が晩年に書いたものです。ソロモンという王様の時代、イスラエルは最高に繁栄しました。ソロモンの前にも後にも、このような王はありません。この王国の時代、イスラエルは繁栄を極めたのです。特にソロモン王は国際貿易事業を行い、多くの国々と貿易をして、お父さんのダビデの時代よりも、金庫を何倍にも大きくし、財産を増やしました。「総合商社・ソロモン商事」と呼んでも良いほど、彼は海外貿易で儲けた人だったのです。
様々な領域に対してソロモンは才能があったのですが、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。」とは、いろいろな理解があるらしいのですが、これは海外貿易のことと国際投資のことを語っているのではないかと言われます。
海外と貿易するのは、当時はうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない、大きなリスクがありました。一つの国に投資して、それが駄目だったら、全て損しますから、投資する先を七つか八つに分けて、「分散投資せよ」という勧めだというのです。その投資はうまくいくかもしれないし、いかないかもしれません。しかし貿易船を出すのも、風を警戒していると出帆できません。「朝か晩か、どれがうまく行くか分からないが、チャンスがあったら、やってみたらどう?」と王が自分の経験に基づき、国際貿易を意識して語った言葉だとも言われるのです。そう考えると分かります。
ある意味、これは「教会の海外宣教」ともつながる概念ではないかと思います。海外にまで行って福音を伝える、「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を伝えなさい。」と主は言われますが、どのように展開するのか、全く未知数です。しかし私たちは風を警戒していたり、空模様ばかり見るのではなく、とにかく信仰を持って前進しなさいと。そのとき、「神さまは共に働いてくださいますよ」という、励ましの言葉としても受け取ることができます。
この「敵の門を勝ち取る」という言葉はアブラハムだけに語られている言葉ではなく、読み進めていきますと、創世記24:59-60、『そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」』
アブラハムの息子イサク、イサクが誰をめとったかと言うと、リベカという嫁さんをもらったのです。リベカが嫁としてイサクの元に嫁ぐ時、兄のラバンが自分の妹に、「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」と語っているのです。アブラハムからイサクの代にも、この言葉が受け継がれ、現代にも受け継がれているのです。
先ほど、アブラハムに「イサクを捧げろ」と言われ、最終的には、その行為をとどめられたのは、当時の悪しき習慣との関係があったと話しました。当時、モレク神に自分の子どもを捧げるような悪しき習慣がありました。しかし主はそれをとどめるため、悪しき習慣からの解放がアブラハムとイサクのストーリーに含まれていると話しました。それが十字架に結びついているとも、お話しさせていただきました。
ペルーの国には、世界最古のピラミッドがあるそうです。皆さんもご存知のように、バベルの塔から人々が散らされたのですが、バベルの塔があったのは、最古の文明があったメソポタミアです。ここから世界に散らされたのは、世界の文明と合わせて考えると、よく分かります。次に古い文明は、エジプト文明になるわけです。そしてインダス文明です。東と西に人々が散らされ、大きな川の側で文明を発達させたのです。しかし散らされた人たちは、さらに散らされ、ペルーのカラルにピラミッド群を造りました。この場所の年代は、BC2800年だと推定されています。エジプトがBC3000年くらいと言いますから、同じくらいの年代に建造された古代の宗教都市です。
人類はすごい勢いで移動しているのです。聖書の記述は本当に真実です。「世界に散らされた」とありますが、この地域に住んでいる人たちは、元々、インディオという、アメリカインディアンと同系統の人たちです。インディオの人たちは遺伝子を調べると、東洋人と同じです。子どもたちには、おしりに青いハンコが押されています。蒙古斑です。蒙古斑は、バベルの塔から散らされた人たちに、そのしるしとして押されているハンコみたいです。
ピラミッドは、古代では最上段に神殿がありました。ここでは、毎日のように子どもや青年を殺して、悪魔に生け贄として捧げていたのです。インカ、プレインカの時代、ペルーでは、人を生け贄として悪魔に捧げる悪しき儀式が連続してなされていたのです。
皆さん、ちゃんと覚えてください。今も世界のあちこちで、私たちが知らない所で、子どもたちを生け贄としてささげるモレクの儀式が行われていることを、忘れてはなりません。この日本も形は違うかもしれませんが、例外なくモレクの儀式が行われています。そんなただ中に、主が私たちを送ってくださり、霊的戦いをして、「敵の門を勝ち取りなさい」と命じておられます。時に敵の門を勝ち取ろうとする時、悪魔も真剣に引き止めるかもしれません。しかし絶対に、主は助けてくださいます。そしていろいろな協力と守りがあるはずです。
イエスさまの十字架は敵の門を勝ち取るためでした。そして世界に福音を伝える、また周りの方々に福音を伝えるのは、敵の門を勝ち取ることです。ある意味、宣教にはリスクもあるかもしれません。しかし決してリスクを恐れてはいけません。クリスチャンになる決断も日本においては、ちょっとリスクがあるかもしれません。しかしリスクを恐れてはいけないのです。伝道者の書に書かれているように、風を見ていたり、周りを見るのではなく、常に種を蒔き続ける時、挑戦し続ける時に、必ず勝利がやってくるのです。なぜなら、イエスさまは既に十字架と復活によって、完全勝利を取っておられるからです。私たちもその道を通るから、ご安心ください。主が共におられます。
最後に一言お祈りをして、メッセージを終わりたいと思います。
ハレルヤ、父なる神さま。御名をあがめて心から感謝します。あなたの十字架の勝利によって、私たちは敵に打ち勝っていることを心から感謝します。すでに敵の門は勝ち取られています。さらに敵の門を勝ち取ることができますように。今日も共に礼拝を守ることができ、真に感謝いたします。あなたの十字架の勝利を、もう一度、心にきざみ、敵の門に挑戦する者として下さい。今日のこの時を心から感謝します。イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。
今日、皆さんと学びたい箇所はアブラハムという元祖ユダヤ人というか、信仰の原点のような人物に、主が語られた御言葉です。アブラハムは信仰の原点であり、クリスチャンの代表みたいな存在です。彼の祝福が今の私たちにつながっているわけです。ここで語られているように、「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。」とあります。「あなたの子孫」とは、誰のことでしょうか。最終的にはイエス・キリストを信じる者たち、クリスチャンであり、教会を指しています。
しかしこの箇所は新約聖書に至ると、イエス・キリストにつながり、十字架につながっています。この箇所の前後を見ますと、アブラハムに何が起こったのかが記されています。創世記22:1-2、『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』
アブラハムは年老いてから、実に、百歳になった時、ひとり子、イサクをもうけることができました。一人っ子で、アブラハムはイサクをもの凄くかわいがっていたと思われます。しかし神さまはひどいことを言われたのです。「イサクを殺して、わたしに捧げろ。」と言われたのです。こんなこと言われたら、「冗談じゃない!」という感じです。しかしアブラハムは、この声を聞いた後、すぐに立ち上がって、イサクを連れてモリヤの山に登り、彼を縛って、神へのいけにえとして捧げようとしたのです。その時、神は言われました。
創世記22:12-14、『御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。』
イサクをささげる直前に、とどめられたのです。この箇所を読むと、複雑な思いになります。神が与えた一人息子イサクを、後に殺す命令をくだすなんて、信じられないと思います。実は、この箇所には様々な理解があり、ユダヤ教においては、神は「子どもを殺して捧げろ」なんて決して言う方ではない、他の聖書箇所とは矛盾すると言います。だからアブラハムは、神の声を聞いたのではなく、悪魔の声を聞いたという理解です。しかしもしも仮にアブラハムが悪魔の声を聞いたとしても、神の主権の中で悪魔さえも用いられ、すべてが益とされるということです。でも同時に、この箇所は当時のカナンの風習が関わっていると言われます。
誰でも、生まれ育った地域の文化や習慣から逃れることは出来ません。日本の方は、日本の文化や習慣に、韓国の方は、韓国の文化と習慣に、いくらクリスチャンになっても、変えられないものがあります。いろいろな影響を受けているわけです。そういう様々な文化や習慣の中で、良いものもあれば、悪いものもあるわけです。
アブラハムは神から、「あなたのひとり子、イサクを捧げなさい。」と言われたら、顔色一つ変えずに、すぐに立ち上がり、イサクを連れて、三日の道のりを進んで行きました。すぐに従っています。すごいな、すごい信仰だなと思います。
アブラハムは紀元前2000年くらいの人物ですが、当時のカナンの地には悪しき習慣がありました。それは「モレク神」という偶像の神が拝まれていて、モレク神は何を要求するかというと、子どものいのちを要求したのです。もしもモレクから、「おまえの子どもを捧げろ」という声がかかったのなら、直ちに顔色一つ変えず、喜びながらモレクに我が子を捧げる悪しき習慣があったのです。アブラハムがイサクを捧げた場所はどこかと言うと、エルサレムのヒンノムの谷と呼ばれ、ゲヘナとも呼ばれたモレク礼拝の拠点である谷の上にある岩の上でした。そこで神は、「イサクを生け贄として捧げろ」と言われたのです。
当時、多くの人たちがモレク信仰に走っていたわけですが、アブラハムの時代、異教の神々の悪しき習慣がこの地域に、はびこっていたわけです。そのような中で、アブラハムは神の声を聞いたのです。アブラハムが神の声にすぐに従ったのは、彼も異教の文化と習慣の影響を受けていたからだと思われます。
しかし神がイサクを捧げさせなかったのは、アブラハムを「悪しき習慣の世界観から解放」させるためでもあったのです。神自ら雄羊を備えて、イサクを捧げさせなかったのは、「モレクに子どもを捧げる必要はない。生け贄は、神自らが備える。」ということを教えたわけです。
この出来事は、やがて、十字架につながっていきます。イエスさまが私たちの罪の生け贄となってくださったことによって、私たちはモレクのような悪霊どもが要求する生け贄は必要ないのです。イエスさまが初めで最後の生け贄となってくださったゆえに、今や私たちは自由に神のみ前に出ることができるのです。アブラハムが体験したことは、悪しき文化と習慣からの解放でもあったわけです。神は私たちを、この地の様々な悪い習慣から解放し、自由にしてくださるお方です。
ここからイエスさまの十字架の預言をも見ることができます。ヘブル人への手紙2:14-15を見ると、こうなっています。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
イサクの生け贄事件は、やがてイエスさまが十字架にかかって死んでよみがえり、死の力を滅ぼしてくださるという、十字架の勝利につながっているわけです。イエスさまが初めで最後の生け贄になってくださったゆえに私たちは死の力から解放され、自由になり、今や自由に神の前に出ることができるのです。本当に感謝なことです。このイエスさまの十字架と復活によって、私たちは本当に自由にされるのです。
そしてイエスさまの復活によって何が起きたかというと、ハデスの門が打ち破られ、敵の門が勝ち取られたのです。アブラハムに対して、「あなたの子孫は、敵の門を勝ち取ります。」と告げられたのは、マタイの福音書16:18-19、『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」』とありますが、つまり「敵の門を勝ち取る」とは、「ハデスの門を勝ち取る」ことであり、そのかぎが教会に与えられたのです。
皆さんもご存知のように、古代の町は城壁に囲まれていて、所々に門がありました。戦争の時は、門が攻防の中心となりました。門が奪われたら、街が攻め取られたのと同じでした。だから戦争の時には門の周辺に精鋭部隊を配備して、敵と対峙したのです。
悪魔も同じです。周囲に城壁を張り巡らせ、人々を閉じ込めます。門に最も強い軍隊を配備して、「絶対に日本を攻め取ることはできない」と豪語しているかもしれません。しかし教会は敵の門を勝ち取る存在です。教会に与えられている使命は敵の門を勝ち取り、ハデスに落ち込んでいく人たちを救い出す働きです。救い出すためには、まずは門を固めている敵の力を打ち破らないと、ハデスの門に落ち込んでいる人たちを救出できないのです。霊的戦いと宣教は常に表裏一体であることを、ここで教えています。
謎のような御言葉があります。伝道者の書11:1-6、『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない。あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。』
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」何か分かるような、分からない言葉です。もしも水の上にパンを投げたら、どうでしょうか。溶けて、後の日に見いだすなんて絶対に不可能です。しかし考えようによっては、パンが溶けて、沈んで、魚が食べて、投げられたパンを栄養分として魚が大きくなり、やがてその魚が食卓に上がるということもありうるわけです。そういう理解でもいいのかなと思いますが、しかし伝道者の書とは、誰が書いたのかというと、ソロモンというイスラエルの王が晩年に書いたものです。ソロモンという王様の時代、イスラエルは最高に繁栄しました。ソロモンの前にも後にも、このような王はありません。この王国の時代、イスラエルは繁栄を極めたのです。特にソロモン王は国際貿易事業を行い、多くの国々と貿易をして、お父さんのダビデの時代よりも、金庫を何倍にも大きくし、財産を増やしました。「総合商社・ソロモン商事」と呼んでも良いほど、彼は海外貿易で儲けた人だったのです。
様々な領域に対してソロモンは才能があったのですが、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ。」とは、いろいろな理解があるらしいのですが、これは海外貿易のことと国際投資のことを語っているのではないかと言われます。
海外と貿易するのは、当時はうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない、大きなリスクがありました。一つの国に投資して、それが駄目だったら、全て損しますから、投資する先を七つか八つに分けて、「分散投資せよ」という勧めだというのです。その投資はうまくいくかもしれないし、いかないかもしれません。しかし貿易船を出すのも、風を警戒していると出帆できません。「朝か晩か、どれがうまく行くか分からないが、チャンスがあったら、やってみたらどう?」と王が自分の経験に基づき、国際貿易を意識して語った言葉だとも言われるのです。そう考えると分かります。
ある意味、これは「教会の海外宣教」ともつながる概念ではないかと思います。海外にまで行って福音を伝える、「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を伝えなさい。」と主は言われますが、どのように展開するのか、全く未知数です。しかし私たちは風を警戒していたり、空模様ばかり見るのではなく、とにかく信仰を持って前進しなさいと。そのとき、「神さまは共に働いてくださいますよ」という、励ましの言葉としても受け取ることができます。
この「敵の門を勝ち取る」という言葉はアブラハムだけに語られている言葉ではなく、読み進めていきますと、創世記24:59-60、『そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」』
アブラハムの息子イサク、イサクが誰をめとったかと言うと、リベカという嫁さんをもらったのです。リベカが嫁としてイサクの元に嫁ぐ時、兄のラバンが自分の妹に、「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」と語っているのです。アブラハムからイサクの代にも、この言葉が受け継がれ、現代にも受け継がれているのです。
先ほど、アブラハムに「イサクを捧げろ」と言われ、最終的には、その行為をとどめられたのは、当時の悪しき習慣との関係があったと話しました。当時、モレク神に自分の子どもを捧げるような悪しき習慣がありました。しかし主はそれをとどめるため、悪しき習慣からの解放がアブラハムとイサクのストーリーに含まれていると話しました。それが十字架に結びついているとも、お話しさせていただきました。
ペルーの国には、世界最古のピラミッドがあるそうです。皆さんもご存知のように、バベルの塔から人々が散らされたのですが、バベルの塔があったのは、最古の文明があったメソポタミアです。ここから世界に散らされたのは、世界の文明と合わせて考えると、よく分かります。次に古い文明は、エジプト文明になるわけです。そしてインダス文明です。東と西に人々が散らされ、大きな川の側で文明を発達させたのです。しかし散らされた人たちは、さらに散らされ、ペルーのカラルにピラミッド群を造りました。この場所の年代は、BC2800年だと推定されています。エジプトがBC3000年くらいと言いますから、同じくらいの年代に建造された古代の宗教都市です。
人類はすごい勢いで移動しているのです。聖書の記述は本当に真実です。「世界に散らされた」とありますが、この地域に住んでいる人たちは、元々、インディオという、アメリカインディアンと同系統の人たちです。インディオの人たちは遺伝子を調べると、東洋人と同じです。子どもたちには、おしりに青いハンコが押されています。蒙古斑です。蒙古斑は、バベルの塔から散らされた人たちに、そのしるしとして押されているハンコみたいです。
ピラミッドは、古代では最上段に神殿がありました。ここでは、毎日のように子どもや青年を殺して、悪魔に生け贄として捧げていたのです。インカ、プレインカの時代、ペルーでは、人を生け贄として悪魔に捧げる悪しき儀式が連続してなされていたのです。
皆さん、ちゃんと覚えてください。今も世界のあちこちで、私たちが知らない所で、子どもたちを生け贄としてささげるモレクの儀式が行われていることを、忘れてはなりません。この日本も形は違うかもしれませんが、例外なくモレクの儀式が行われています。そんなただ中に、主が私たちを送ってくださり、霊的戦いをして、「敵の門を勝ち取りなさい」と命じておられます。時に敵の門を勝ち取ろうとする時、悪魔も真剣に引き止めるかもしれません。しかし絶対に、主は助けてくださいます。そしていろいろな協力と守りがあるはずです。
イエスさまの十字架は敵の門を勝ち取るためでした。そして世界に福音を伝える、また周りの方々に福音を伝えるのは、敵の門を勝ち取ることです。ある意味、宣教にはリスクもあるかもしれません。しかし決してリスクを恐れてはいけません。クリスチャンになる決断も日本においては、ちょっとリスクがあるかもしれません。しかしリスクを恐れてはいけないのです。伝道者の書に書かれているように、風を見ていたり、周りを見るのではなく、常に種を蒔き続ける時、挑戦し続ける時に、必ず勝利がやってくるのです。なぜなら、イエスさまは既に十字架と復活によって、完全勝利を取っておられるからです。私たちもその道を通るから、ご安心ください。主が共におられます。
最後に一言お祈りをして、メッセージを終わりたいと思います。
ハレルヤ、父なる神さま。御名をあがめて心から感謝します。あなたの十字架の勝利によって、私たちは敵に打ち勝っていることを心から感謝します。すでに敵の門は勝ち取られています。さらに敵の門を勝ち取ることができますように。今日も共に礼拝を守ることができ、真に感謝いたします。あなたの十字架の勝利を、もう一度、心にきざみ、敵の門に挑戦する者として下さい。今日のこの時を心から感謝します。イエス・キリストの御名によって、この祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。
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tbic | 2025.02.23 | 1 | 39 |
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ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
tbic
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2025.02.16
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推薦 1
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tbic | 2025.02.16 | 1 | 48 |
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マタイの福音書27:26-28:6(妨害のため、よりうまくいく人生)
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2025.02.10
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推薦 1
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tbic | 2025.02.10 | 1 | 265 |
184 |
ピりピ人への手紙4: 13 (天路歴程)
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2025.02.02
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推薦 1
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tbic | 2025.02.02 | 1 | 62 |
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ピリピ人への手紙4:6 (何も思い煩うな)
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2025.01.27
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推薦 2
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tbic | 2025.01.27 | 2 | 80 |
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サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
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2025.01.20
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推薦 1
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tbic | 2025.01.20 | 1 | 81 |