メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ヨハネの福音書16:16-22 (悲しみと喜びは長くない)
投稿者
tbic
投稿日
2025-03-17 21:00
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38
ヨハネの福音書16:16-22 『16.しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」17.そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」18.こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。19.イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。20.まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21.女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。22.あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。』
今日の本文で特に多く出てくる言葉が「しばらくすると」です。7回も出ます。この本文は葬式の時にしばしば説教する本文でもあります。悲しんでいる遺族たちに、「しばらくすると、また会えるでしょう。」と話します。「今は故人に会えなくて大変ですが、もうしばらくしたら天国でまた会えるでしょう。」と慰めます。
悲しみは長くありません。悲しみは永遠に続くような感じですが、もうしばらくすると終わります。苦しみも長くありません。神さまがすべての悲しみと苦しみを忘れられるようになさったからです。私たちはこの恵みを「マナセ」の恵みだと呼びます。マナセの意味は、「神がすべて忘れさせた」という意味です。神さまは私たちの悲しみと苦しみをすべて忘れさせるお方です。もうしばらくすると、全部忘れさせます。だから悲しみと苦しみによって絶望してはなりません。
それで「これもまた過ぎ去るだろう」という言葉もあります。昔ペルシアの国に、あるお王様が僕たちに命令を出しました。「悲しい時に喜び、喜ぶ時に悲しくなるものを探して、持って来なさい。」と。僕たちは集まって悩み、夜通し話し合って、次の日に王様に指輪一つを作って差し上げました。王様は指輪を見て、刻まれた文字を読んで笑いながら大喜びました。「これもまた過ぎ去るだろう(This, too, shall pass away)」。指輪に刻まれた文字は、王様の気にいったピッタリの内容でした。
時間が経てば、すべては過ぎ去ります。時間が経てば、忘れるようになります。本当に時間が薬です。時間に勝る薬はありません。
もし今、苦しみと悲しみと悔しさの中にいるなら、今日の御言葉を必ず覚えてください。その苦しみは長くありません。もうしばらくすると、全部終わると思います。これもまた過ぎ去ることになります。出産の時は大変ですが、その出産の大変さは永遠ではありません。もうしばらくすると、出産の喜びを味わうことになります。
私は10代の半ばのとき、イエスさまに出会ったのですが、私がこの場に立つまで私の人生は順調ではありませんでした。本当につらくて、死にたい時も多かったと思います。「私を天に連れて行ってください」と神さまに、泣きながら要請した夜もありました。その苦しみは永遠に終わらないと思いました。ところが、全部通り過ぎたのです。しばらくすると、その苦しみもすべて終わりました。
20節の後半に、「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」という御言葉は正しいのです。悲しみましたが、その悲しみが喜びになったのです。その悲しみがあったからこそ、今の私たちがいるのです。すべてのことがともに働いて益となることをなさる神さまが、その悲しみをすべて喜びに変えてくださいました。イエスさまの十字架の死が復活に変わったわけです。
イザヤ書61:3 、「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。 」私たちの神は、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみを喜びに、憂いを賛美に変えるお方です。私たちはこの事実を信じさえすれば、良いのです。
そして喜びと楽しさも、しばらくすると、終わるということも覚えなければなりません。人間のすべての富みと栄華も永遠に続かないのです。しばらくすると、全部消え去ります。だから傲慢ではいけません。あまり調子に乗る必要もないのです。すぐ終わりますから。
皆さん、すべての富みと栄華を楽しんだソロモンの言葉を覚えてください。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」結局、すべてが無駄になるのです。いくらお金があっても死ぬ時に一銭も持っていけません。もうしばらくすると、全部なくなってしまうのです。美貌がどれほど優れていても老けます。時間が経てばシワができ、シミができます。シワをなくすために手術をしてシワを伸ばすのですが、もっと不自然な顔だけが残ります。ありのままの顔を受け入れたほうがいいと思います。どんなに健康でも、健康を失う時があります。歳月の前ではすべてが無駄です。健康な人はせいぜい他の人より10-20年程度、不便を感じないだけです。
健康に執着する方がいました。一日も欠かさず毎日運動し、体に悪いものは絶対に食べなかったのです。その方は100歳まで楽に生きると思っていました。ところが交通事故でつい亡くなってしまったのです。人生というのは、こういうものです。
しばらくすると、すべて消えてしまうものです。だから悲しみにあまり絶望せず、喜びに過度に幸せになってはなりません。悲しみと喜びも結局すべて過ぎ去ります。しばらくすると、消えるものに執着しすぎてはいけません。今、この瞬間のすべてを楽しみながら生きなければなりません。
永遠なのは神さまとイエスさましかありません。神の御言葉に従い、イエスさまのように愛しながら生きることだけが永遠です。私たちは、このような永遠を慕い求めながら生きなければなりません。それが人生を正しく生きる知恵です。
ヨハネの福音書20:11-15、『「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」』
二人の弟子(ペテロとヨハネ)は空いた墓を見て、そのまま帰ってしまいましたが、マリアはその場を離れられず、泣いていました。まだイエスさまの遺体に対する未練を捨てられなかったのです。それだけマリアがイエスさまを愛していたからです。それでイエスさまがマリアに御使いたちと一緒に現れました。マリアのために現れたのです。
しかしマリアはイエスさまの復活を全く考えていませんでした。マリアは、誰かが遺体を盗んだと固く信じていました。それで遺体がなくなって、悔しくて泣いたのです。イエスさまの遺体に香油を塗らなければならないのに、香油を塗ることができなくて、悲しくて泣いていたのです。
そうしたら、マリアが考えたことは何でしょうか。イエスさまの遺体がそのまま横になっていて、自分がその遺体に香油を塗りたいのです。とんでもないことに、今マグダラのマリアは無駄に泣いていて、訳もなく悲しんでいました。復活が信じられないから、こうしていたのです。そこで御使いが尋ねました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」イエスさまも尋ねました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」すると、マリアは誰かがイエスさまの遺体を盗んだから泣いていると言いました。
私たちもマリアのように無駄に泣く時があります。泣かなくてもいいのに、訳もなく泣く時があります。自分の思い通りにならないと悔しくて泣き、自分の計画通りにならないと怒って泣きます。しかし、この涙は信仰がないから流す涙です。神さまを信じられなくて流す涙です。こんな涙は流さなくても良いのです。
もしマリアに信仰があったのであれば、泣かずに「ハレルヤ」を叫んだと思います。「イエスさまが復活された」と感謝の賛美をしたはずです。ところが、その信仰がないから悔しくて泣いていたのです。
自分の思い通りにならない時、泣かないでください。自分の意志よりもっと大きな神のみこころがあります。自分が祈って、多くの努力をしたにもかかわらず、自分の計画通りにならない時、泣かないでください。自分の計画通りになれば、むしろ自分にもっと害になる可能性があります。だから神さまがそれを事前に防いだのです。だからこそ、むしろ感謝しなければなりません。
私たちはヨセフのことを考えなければなりません。ヨセフは献酌官長を通して監獄から出ることを望んだのですが、献酌官長がヨセフを忘れてしまい、ずっと監獄に閉じ込められていました。ヨセフは監獄の中で、悔しくてたくさん泣いたはずです。しかし解放されなかったことが、かえって感謝なことになりました。そこでエジプトの王の前に立つことができるようになったからです。
ヤコブはラケルと結婚することを望んでいました。ところが思いがけず、レアと結婚することになり、さらに二人のめかけを得ることになりました。それによって家庭に苦難の波風が立ちました。しかしすべてのことが共に働いて益となると、これによってイスラエルの12部族の基盤が築かれたのです。神の摂理は本当に驚くべきことです。
このように私たちも自分の思い通りにならなくて、とても悲しむ時があります。私の思い通りにならなくて、がっかりする時があります。ところが信仰を持っていれば、これも解決されます。なぜなら、神さまはすべてのことが共に働いて益となるように導かれるからです。
だから信仰を持たなければなりません。神さまは最悪のことを最善に変えられる全能なる方です。神さまは私に対する最も良い計画を持っておられます。神さまは私の思いより、大きなみこころを持っておられます。神さまは共に働いて、結局益となるように導かれます。私たちは、この事実を信じさえすれば、良いのです。そうすれば、マリアのように泣かなくてもいいのです。
皆さん、もう泣かないで、信仰を持ってください。気落ちせず、ただ信仰を持たなければなりません。その時、結局はすべてのことが共に働いて益となります。私の考えと計画より、もっとうまくいくと思います。
祈り、
愛する天のお父様!過ぎ去るものに執着しないように助けてください。消えるものに心が奪われ、動揺しないようにし、永遠の神さまだけを見上げながら生きるようにしてください。私の思い通りにならない時、いくら努力してもできない時、神さまのより大きな計画と摂理があることを信じさせてください。結局すべてのことが共に働いて益となることを確信しながら生きるように導いてください。イエスさまの御名によってお祈りします。 アーメン。
今日の本文で特に多く出てくる言葉が「しばらくすると」です。7回も出ます。この本文は葬式の時にしばしば説教する本文でもあります。悲しんでいる遺族たちに、「しばらくすると、また会えるでしょう。」と話します。「今は故人に会えなくて大変ですが、もうしばらくしたら天国でまた会えるでしょう。」と慰めます。
悲しみは長くありません。悲しみは永遠に続くような感じですが、もうしばらくすると終わります。苦しみも長くありません。神さまがすべての悲しみと苦しみを忘れられるようになさったからです。私たちはこの恵みを「マナセ」の恵みだと呼びます。マナセの意味は、「神がすべて忘れさせた」という意味です。神さまは私たちの悲しみと苦しみをすべて忘れさせるお方です。もうしばらくすると、全部忘れさせます。だから悲しみと苦しみによって絶望してはなりません。
それで「これもまた過ぎ去るだろう」という言葉もあります。昔ペルシアの国に、あるお王様が僕たちに命令を出しました。「悲しい時に喜び、喜ぶ時に悲しくなるものを探して、持って来なさい。」と。僕たちは集まって悩み、夜通し話し合って、次の日に王様に指輪一つを作って差し上げました。王様は指輪を見て、刻まれた文字を読んで笑いながら大喜びました。「これもまた過ぎ去るだろう(This, too, shall pass away)」。指輪に刻まれた文字は、王様の気にいったピッタリの内容でした。
時間が経てば、すべては過ぎ去ります。時間が経てば、忘れるようになります。本当に時間が薬です。時間に勝る薬はありません。
もし今、苦しみと悲しみと悔しさの中にいるなら、今日の御言葉を必ず覚えてください。その苦しみは長くありません。もうしばらくすると、全部終わると思います。これもまた過ぎ去ることになります。出産の時は大変ですが、その出産の大変さは永遠ではありません。もうしばらくすると、出産の喜びを味わうことになります。
私は10代の半ばのとき、イエスさまに出会ったのですが、私がこの場に立つまで私の人生は順調ではありませんでした。本当につらくて、死にたい時も多かったと思います。「私を天に連れて行ってください」と神さまに、泣きながら要請した夜もありました。その苦しみは永遠に終わらないと思いました。ところが、全部通り過ぎたのです。しばらくすると、その苦しみもすべて終わりました。
20節の後半に、「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」という御言葉は正しいのです。悲しみましたが、その悲しみが喜びになったのです。その悲しみがあったからこそ、今の私たちがいるのです。すべてのことがともに働いて益となることをなさる神さまが、その悲しみをすべて喜びに変えてくださいました。イエスさまの十字架の死が復活に変わったわけです。
イザヤ書61:3 、「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。 」私たちの神は、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみを喜びに、憂いを賛美に変えるお方です。私たちはこの事実を信じさえすれば、良いのです。
そして喜びと楽しさも、しばらくすると、終わるということも覚えなければなりません。人間のすべての富みと栄華も永遠に続かないのです。しばらくすると、全部消え去ります。だから傲慢ではいけません。あまり調子に乗る必要もないのです。すぐ終わりますから。
皆さん、すべての富みと栄華を楽しんだソロモンの言葉を覚えてください。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」結局、すべてが無駄になるのです。いくらお金があっても死ぬ時に一銭も持っていけません。もうしばらくすると、全部なくなってしまうのです。美貌がどれほど優れていても老けます。時間が経てばシワができ、シミができます。シワをなくすために手術をしてシワを伸ばすのですが、もっと不自然な顔だけが残ります。ありのままの顔を受け入れたほうがいいと思います。どんなに健康でも、健康を失う時があります。歳月の前ではすべてが無駄です。健康な人はせいぜい他の人より10-20年程度、不便を感じないだけです。
健康に執着する方がいました。一日も欠かさず毎日運動し、体に悪いものは絶対に食べなかったのです。その方は100歳まで楽に生きると思っていました。ところが交通事故でつい亡くなってしまったのです。人生というのは、こういうものです。
しばらくすると、すべて消えてしまうものです。だから悲しみにあまり絶望せず、喜びに過度に幸せになってはなりません。悲しみと喜びも結局すべて過ぎ去ります。しばらくすると、消えるものに執着しすぎてはいけません。今、この瞬間のすべてを楽しみながら生きなければなりません。
永遠なのは神さまとイエスさましかありません。神の御言葉に従い、イエスさまのように愛しながら生きることだけが永遠です。私たちは、このような永遠を慕い求めながら生きなければなりません。それが人生を正しく生きる知恵です。
ヨハネの福音書20:11-15、『「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」』
二人の弟子(ペテロとヨハネ)は空いた墓を見て、そのまま帰ってしまいましたが、マリアはその場を離れられず、泣いていました。まだイエスさまの遺体に対する未練を捨てられなかったのです。それだけマリアがイエスさまを愛していたからです。それでイエスさまがマリアに御使いたちと一緒に現れました。マリアのために現れたのです。
しかしマリアはイエスさまの復活を全く考えていませんでした。マリアは、誰かが遺体を盗んだと固く信じていました。それで遺体がなくなって、悔しくて泣いたのです。イエスさまの遺体に香油を塗らなければならないのに、香油を塗ることができなくて、悲しくて泣いていたのです。
そうしたら、マリアが考えたことは何でしょうか。イエスさまの遺体がそのまま横になっていて、自分がその遺体に香油を塗りたいのです。とんでもないことに、今マグダラのマリアは無駄に泣いていて、訳もなく悲しんでいました。復活が信じられないから、こうしていたのです。そこで御使いが尋ねました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」イエスさまも尋ねました。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」すると、マリアは誰かがイエスさまの遺体を盗んだから泣いていると言いました。
私たちもマリアのように無駄に泣く時があります。泣かなくてもいいのに、訳もなく泣く時があります。自分の思い通りにならないと悔しくて泣き、自分の計画通りにならないと怒って泣きます。しかし、この涙は信仰がないから流す涙です。神さまを信じられなくて流す涙です。こんな涙は流さなくても良いのです。
もしマリアに信仰があったのであれば、泣かずに「ハレルヤ」を叫んだと思います。「イエスさまが復活された」と感謝の賛美をしたはずです。ところが、その信仰がないから悔しくて泣いていたのです。
自分の思い通りにならない時、泣かないでください。自分の意志よりもっと大きな神のみこころがあります。自分が祈って、多くの努力をしたにもかかわらず、自分の計画通りにならない時、泣かないでください。自分の計画通りになれば、むしろ自分にもっと害になる可能性があります。だから神さまがそれを事前に防いだのです。だからこそ、むしろ感謝しなければなりません。
私たちはヨセフのことを考えなければなりません。ヨセフは献酌官長を通して監獄から出ることを望んだのですが、献酌官長がヨセフを忘れてしまい、ずっと監獄に閉じ込められていました。ヨセフは監獄の中で、悔しくてたくさん泣いたはずです。しかし解放されなかったことが、かえって感謝なことになりました。そこでエジプトの王の前に立つことができるようになったからです。
ヤコブはラケルと結婚することを望んでいました。ところが思いがけず、レアと結婚することになり、さらに二人のめかけを得ることになりました。それによって家庭に苦難の波風が立ちました。しかしすべてのことが共に働いて益となると、これによってイスラエルの12部族の基盤が築かれたのです。神の摂理は本当に驚くべきことです。
このように私たちも自分の思い通りにならなくて、とても悲しむ時があります。私の思い通りにならなくて、がっかりする時があります。ところが信仰を持っていれば、これも解決されます。なぜなら、神さまはすべてのことが共に働いて益となるように導かれるからです。
だから信仰を持たなければなりません。神さまは最悪のことを最善に変えられる全能なる方です。神さまは私に対する最も良い計画を持っておられます。神さまは私の思いより、大きなみこころを持っておられます。神さまは共に働いて、結局益となるように導かれます。私たちは、この事実を信じさえすれば、良いのです。そうすれば、マリアのように泣かなくてもいいのです。
皆さん、もう泣かないで、信仰を持ってください。気落ちせず、ただ信仰を持たなければなりません。その時、結局はすべてのことが共に働いて益となります。私の考えと計画より、もっとうまくいくと思います。
祈り、
愛する天のお父様!過ぎ去るものに執着しないように助けてください。消えるものに心が奪われ、動揺しないようにし、永遠の神さまだけを見上げながら生きるようにしてください。私の思い通りにならない時、いくら努力してもできない時、神さまのより大きな計画と摂理があることを信じさせてください。結局すべてのことが共に働いて益となることを確信しながら生きるように導いてください。イエスさまの御名によってお祈りします。 アーメン。
合計 195
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