メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
出エジプト記 25:1-9(幕屋の秘密)
投稿者
tbic
投稿日
2025-03-24 11:04
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出エジプト記 25:1-9『1.主はモーセに告げられた。2.「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。3.彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、4.青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、5.赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、6.ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、7.エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。8.彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。9.幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」』
荒野は人が住むことのできない所です。そこは砂漠であり、死があります。耕すこともできず、飲む水もありません。しかし神様はイスラエルの民をこのような荒野に40年間おかれました。
つまり私たちが住んでいる所が荒野です。死があり、苦しみがあり、たくさんの難しいことが周りに溢れています。生きていることがあまりにも苦しくて大変なのが、私たちの現実です。それにもかかわらず、神は私たちを荒野のようなこの世で生活するようにされました。なぜなら、荒野には秘密があるからです。信仰のある人々はこの秘密を知っています。荒野は難しくて苦しい所ですが、神を見上げ、信頼する人にとっては、この荒野は豊かな地、祝福の場所に変わります。
今まで私たちは、この世の荒野でどのように神の奇跡と祝福を受けながら生けるかについて学びました。神は苦い水を甘い水に変えてくださいました。また敵のアマレクの軍隊が攻撃して来る時、彼らから守ってくださいました。そして何よりも律法である御言葉の祝福です。
このようなことを見る時、「何を持っているのか、たくさん持っているのか」が幸せの基準ではなく、「誰と共にいるのか」が幸せの基準です。自分が好きな人と一緒にいると幸せです。そして、本当の幸せは神と共にいることです。どれほど状況が厳しくても、私たちを創造された方が私たちと共におられるなら、私たちは安心することができます。飲み水がなく食物がなくても、大丈夫です。苦難があっても大丈夫です。私を造られた神さまがおられるからです。
神さまは私たちに、ご自分の言葉を祝福として与えてくださいました。御言葉を受けることより、もっと大きな祝福はありません。なぜなら、御言葉は神ご自身だからです。イスラエルの民はモーセを通して御言葉を受け取りました。御言葉は善であり、聖く完全なものです。神の御言葉の中に奇跡があります。神の御言葉は私たちの人生の光であり、ともしびです。御言葉があれば、私たちは人生をどういう風に生きるべきかを知ることができます。
だから、この世で最も大切なものを一つ上げれば、それは聖書の御言葉です。これ一つだけ持っていれば、すべてがうまくいくはずです。イスラエルの民が荒野でさまよった時、神は彼らに御言葉を与えられました。
しかし私たちは本当に御言葉だけで生きられるのでしょうか。律法は聖く善であり、完全なものです。しかし私たちはその律法をすべて守ることはできません。私たちが今御言葉をすべて守るならば、悩む必要がありません。ただ楽しめば良いのです。この御言葉は私たちに知恵を与え、私たちを聖くし、私たちを永遠に祝福の道へ導きます。
しかし私たちの深刻な悩みは、この御言葉をすべて守ることができないということです。守られるなら、問題はありません。しかし守られないから、律法が善であり、正しいものであっても、律法では救われません。だからこそ、自分の行いでは救われません。救いは律法で得るものではなく、神の恵みで得るものです。
こういう風に、神の御言葉である律法を持っているのは良いことですが、私たちの葛藤の原因は、その律法を守ることができないことにあります。例えば、律法は「姦淫をしてはならない」とあります。そうです。その通りです。姦淫してはなりません。しかし人間は本来、淫乱な者です。また「盗んではならない」とありますが、私たちは他人のものが欲しくなります。そして「偽りの証言をしてはならない」とありますが、私たちはウソも言います。それで律法を読めば読むほど、私たちはもっとひどい罪人になります。律法がなければ、むしろ罪人ではないのに、律法(御言葉)があるからこそ、私たちはもっとひどい罪人になってしまいます。
どうすれば良いのでしょうか。御言葉だけあれば、みんな解決できるのでしょうか。いいえ、罪の問題を解決してくれる具体的な措置が必要です。だから神さまは本当に良いお方です。人間がこれほど弱いことを知って、律法を与えると同時に、もう一度モーセを山へお呼びになりました。それが出エジプト記24:18です。「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」
最初モーセを山へお呼びになった時、神は石の板に御言葉を書き記されました。しかし神は御言葉を与えることで終わるのではなく、もう一度モーセを呼び、山で40日間過ごしながらモーセに秘密を教えてくださいました。それが幕屋の秘密です。
具体的に幕屋の秘密とは何でしょうか。今日の本文、25:1-2、『主はモーセに告げられた。「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」』
神はイスラエルの民に、「わたしの家を建てるために、あなたがたはわたしに奉納物をささげなさい。」と言われました。今日の本文、3-7節まで、その奉納物の種類が書いてあります。「彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」
その次に大事な御言葉が8節にあります。「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」神はご自分の家を建てるために、このような祝福の命令を与えられました。3節から奉納物の種類がたくさん出てきますが、「これらを神にささげなさい」と言われました。ここにある奉納物の一つ一つは、神の住まいに必要なものです。
神の幕屋を作るために基本的に用いられるのが、アカシヤ材です。そしてその木を金で包みます。4節を見ると、「糸をささげるように」と言われます。聖所と至聖所の間に幕があったのですが、その幕は四色の青色、紫色、緋色、白いより糸で刺繡されていました。また「じゅごんの皮」という言葉が出ていますが、これは海(紅海)にいるアザラシのような動物の皮です。じゅごんの皮は聖所の屋根のはしに、かぶせる皮として使用されました。
その次に7節を見ると、エポデや胸当てにはめ込む宝石をささげるように命じました。これは祭司長が着るエポデという服に12部族を表す宝石12個をつけます。そのために宝石が必要でした。
これは本当に祝福です。皆さんが持っているものを神が用いられるということは、どれほど素晴らしいことでしょうか。それは奪われることではありません。これが献金であり、献身です。私たちの人生を、神が用いられるということです。
神さまはイスラエルのすべての民に、「あなたがたの持っているものの中から神の家を建てるために、必要なものはすべてささげなさい。」と言われました。しかし神さまはどんなささげものでも大丈夫とは言われませんでした。一つの条件があったのです。2節をもう一度確認して見たら、奉納物を捧げる人は、「すべて、進んで捧げる心のある人から」捧げなければなりません。神さまはむりやりに捧げることを嫌われます。進んで喜びをもって捧げる者を喜ばれます。
「神さま、私のものでも、お使いくださるのですか。」と喜びながらささげられるだけでも、私たちは感謝できると思います。これが神のなさることです。そのようにして、神の家は建てられるのです。神さまはご自分が住まわれる家を建ててくださると言われました。今日の本文、8-9に、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」
ここで見ると、幕屋は神さまが自ら住まわれる家です。なぜ、幕屋が祝福であるかを荒野のようなこの世で生きる私たちは悟らなければなりません。なぜ、幕屋は祝福でしょうか。神さまがその中におられるからです。神さまに会うことより、もっと大きな祝福はありません。
神さまは宇宙を造られたお方です。太陽と月と星と、この世のすべてを造られました。この世の中で神がおられない所はどこにもありません。だからかえって神に会うことは容易ではないのです。本当に神に会うことは難しいことです。それは神が肉体ではなく霊だからです。ヨハネの福音書4:24、「神は霊ですから、礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」私たちには霊もあり、肉体もあります。霊で神に仕えることは、礼拝すれば済むことですが、肉体で神に会い、仕えることは、それほど簡単ではありません。
それゆえ神さまは、ご自分のひとり子イエスさまを肉体を持たせて、この世に送ってくださいました。そうした時、人間が神をすぐ分かるからです。それで神が人間になりました。理解できないことですが、神はそのような方法で私たちを救おうとされました。ベツレヘムの馬小屋、一番低い所に人間として来られた方が神さまです。そのイエス・キリストが十字架に釘づけられ死にました。
神さまは、「わたしがあなたを救おう」と言葉だけで済むことですが、そのような方法を使わず、直接十字架にかかり、死ぬことによって救ってくださいました。それが神の愛です。神はイスラエルの民に、「わたしがあなたがたと会う場所を一つ造っておこう」と言われました。どれほど感謝なことでしょうか。あちこちでさまよわないように、一か所で定期的に神さまが私たちに会ってくださるということです。この幕屋に入ると、神に会えるのです。
幕屋の祝福は具体的に何でしょうか。律法のゆえに絶望し、挫折し、犯した罪を赦される場所が幕屋です。もし幕屋がなかったら、私たちは絶望したはずです。律法(御言葉)は、罪を悟らせます。しかし犯した罪を解決することはできません。御言葉自体は、私たちの罪を解決するものではありません。そうしたら、私たちが罪を犯し、過ちを犯した時、これらをどのように解決したら良いのでしょうか。
罪を解決するのは十字架です。私たちは神に会って、神から罪の赦しを受けなければなりません。つまり神に会い、罪を赦される場所が幕屋です。だから神さまは私たちに幕屋を与えてくださいました。イスラエルの民が来て罪の赦しを受けられたように、私たちにも幕屋が与えられています。
幕屋の中で何が行われたのでしょうか。イスラエルの民が年に一度、自分が死ぬことはできないので、羊やヤギや子牛が身代わりとして死にました。その血をもって聖所に入り、自分の罪の代わりに、その血を自分の身にふりかけました。そうすることによって、罪の赦しを受けるように、神が道を開いてくださったのです。まさにイエスさまの十字架のひな形です。これが幕屋の祝福です。
幕屋のもう一つの祝福は幕屋に入ると、神が行われたすべてのことを感謝する気持ちになります。そこで神の民は感謝のささげものをささげます。神を礼拝し、賛美したくなる時、神の民は幕屋に入って神を礼拝し、賛美することができます。これが幕屋のもう一つの祝福です。
こういう風に幕屋に入ると、罪が赦され回復されます。幕屋に入ると、感謝が満ち溢れます。神は私たちを洗い清めてくださり、新しく生まれ変わらせてくださいます。そこで、汚れて醜い私たちをきれいにして下さり、この世に再び送り出してくださいます。こんな祝福のゆえに、イスラエルの民は40年間、荒野で安心して生活することができました。この荒野での祝福された幕屋が今日の教会です。
私たちはイエスさまを信じて救われました。しかしもし教会がなかったら、どうなったのでしょうか。この世の中で一番かわいそうな人は、イエスさまを信じながらも教会を決められず、さまよう人です。「今日はこの教会、明日はあの教会」という人は、お葬儀をしてくれる所もありません。自分がささげる祭壇、自分が慰められる所、自分が癒され、回復される所がなければ、その人はイエスさまを信じない人と同じように、さまよう人生となります。
祝福の中の祝福は、私たちが礼拝をささげられる場所があるということです。涙を流し、祈り、神さまから赦しを受け、慰められ、世に向かってまた出て行ける、そういう場所が必要であるということです。
イスラエルの民が荒野の40年間を耐えた理由は幕屋があったからです。彼らは神の御言葉を受け、神から与えられたマナを食べました。また苦い水が甘い水に変わり、敵も打ち破りました。しかしそれよりもっと重要なことは、日々絶望し、挫折し、失敗を繰り返す彼らに、悔い改め、罪の赦しと慰めを受け、神から新しい力を得、再び荒野へ出て行けるようにしてくれる幕屋があったということです。そのお陰で、イスラエルの民は40年間、勝利の生活ができたわけです。これが、まさに教会です。こういう意味で、教会の責任がどれほど大きいかを、私は毎週実感しています。教会が騒がしくなって不幸になると、個人の霊的生活も不幸になり、教会が幸せになれば、個人も幸せになります。教会で奇跡が起こり、祝福が溢れ、賛美が流れて、真の礼拝がささげられる時、私たちはどんなことがあっても、一週間は喜び溢れ、嬉しくなります。これが教会であり、幕屋です。
それでは、教会とはどんな所でしょうか。教会は建物ではありません。教会は教派や制度でもありません。教会を建物、教派、制度として考えるから、教会で生きておられる神さまに出会うのが難しくなります。教会に来て誰に会うのでしょうか。神に会わなければなりません。教会は人に会う所ではなく、神に会う所です。また誰から慰めを受けるべきでしょうか。神さまです。神さまから慰めを受け、再び世に出て行くようにするのが教会であり、荒野にある幕屋です。神さまは私たちのために、今も幕屋の祝福を備えてくださっています。
そして重要なことは、この幕屋が私たち一人ひとり、自分自身であることを覚えてください。コリント人への手紙第一6:19、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私たちのからだが教会です。神のからだである、この教会をきれいにし、聖くする責任が私たちにあります。神の教会である、私たちのからだが聖ければ、私たちはこの世でいつも勝利することができます。コリント人への手紙第一6:20、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
教会は建物ではなく、キリストのからだです。律法のゆえに絶望した人が幕屋に入るとイエス・キリストに会います。旧約の時代にあった幕屋はイエス・キリストを意味します。私たちはイエス・キリストが地上に来られた後にイエス・キリストに会い、信じ、罪の赦しを受けましたが、旧約の時代の人々は幕屋に入って、イエス・キリストに会い、そこで罪の赦しを受け、悔い改めて回復され、変えられて慰めを受けました。
荒野のようなこの世で日々勝利し、生きていく秘訣は、イエス・キリストに毎日会うことです。十字架と復活の前に毎日出ることです。聖霊に満たされた生活を毎日する時、神さまが私たちの生活に豊かな恵みを注いでくださいます。
だから教会をよく選ばなければなりません。自分が通う教会に聖霊が臨まれ、神が臨在する教会になるように、力をあわせて祈らなければなりません。サタンの最大の策略は、教会が争うようにすることです。教会が争うと、どうなるのでしょうか。夫婦が喧嘩をして、別れることと同じです。夫婦が喧嘩をし、離婚すると、子どもたちはみんなさまよいます。
サタンはあらゆる手段を使い、私たちの教会で多くの争いが生じるようにし、教会を分裂させ、兄弟姉妹たちが信仰生活をできないように働きかけているということを忘れてはなりません。
だから教会を批判しないで、愛してください。教会の兄弟姉妹が足りないことがあれば、涙をもって祈ってください。そして、積極的に良い教会を作ってください。そうしなければならない理由は教会が幸せであれば、自分も幸せになるからです。教会が争うと、どこに行っても心の平安がありません。教会と自分は別々ではないからです。教会の祝福が自分の祝福につながっていることを、ぜひ覚えてください。
自分が通う教会が涙と祈り、感謝と慰め、祝福の溢れる教会になる時、荒野のようなこの世は祝福の町に変わると思います。イエス・キリストは幕屋の主人であり、教会の主人です。私たちの教会でイエス・キリストが高められる時、私たちの生活の中でも神の祝福は続くと思います。
祈り、
生きておられる父なる神さま、荒野でさまよっていたイスラエルの民に幕屋を与えてくださいました。この幕屋の中にはイエス・キリストがおられました。彼らはこの幕屋を通して赦され、慰められ、祝福を受けました。主よ、私たちにも同じ幕屋の祝福を与えてください。イエス・キリストに出会わせてください。イエスさまの十字架の前で悔い改めさせ、イエスさまの復活と共に勝利させてください。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン!
荒野は人が住むことのできない所です。そこは砂漠であり、死があります。耕すこともできず、飲む水もありません。しかし神様はイスラエルの民をこのような荒野に40年間おかれました。
つまり私たちが住んでいる所が荒野です。死があり、苦しみがあり、たくさんの難しいことが周りに溢れています。生きていることがあまりにも苦しくて大変なのが、私たちの現実です。それにもかかわらず、神は私たちを荒野のようなこの世で生活するようにされました。なぜなら、荒野には秘密があるからです。信仰のある人々はこの秘密を知っています。荒野は難しくて苦しい所ですが、神を見上げ、信頼する人にとっては、この荒野は豊かな地、祝福の場所に変わります。
今まで私たちは、この世の荒野でどのように神の奇跡と祝福を受けながら生けるかについて学びました。神は苦い水を甘い水に変えてくださいました。また敵のアマレクの軍隊が攻撃して来る時、彼らから守ってくださいました。そして何よりも律法である御言葉の祝福です。
このようなことを見る時、「何を持っているのか、たくさん持っているのか」が幸せの基準ではなく、「誰と共にいるのか」が幸せの基準です。自分が好きな人と一緒にいると幸せです。そして、本当の幸せは神と共にいることです。どれほど状況が厳しくても、私たちを創造された方が私たちと共におられるなら、私たちは安心することができます。飲み水がなく食物がなくても、大丈夫です。苦難があっても大丈夫です。私を造られた神さまがおられるからです。
神さまは私たちに、ご自分の言葉を祝福として与えてくださいました。御言葉を受けることより、もっと大きな祝福はありません。なぜなら、御言葉は神ご自身だからです。イスラエルの民はモーセを通して御言葉を受け取りました。御言葉は善であり、聖く完全なものです。神の御言葉の中に奇跡があります。神の御言葉は私たちの人生の光であり、ともしびです。御言葉があれば、私たちは人生をどういう風に生きるべきかを知ることができます。
だから、この世で最も大切なものを一つ上げれば、それは聖書の御言葉です。これ一つだけ持っていれば、すべてがうまくいくはずです。イスラエルの民が荒野でさまよった時、神は彼らに御言葉を与えられました。
しかし私たちは本当に御言葉だけで生きられるのでしょうか。律法は聖く善であり、完全なものです。しかし私たちはその律法をすべて守ることはできません。私たちが今御言葉をすべて守るならば、悩む必要がありません。ただ楽しめば良いのです。この御言葉は私たちに知恵を与え、私たちを聖くし、私たちを永遠に祝福の道へ導きます。
しかし私たちの深刻な悩みは、この御言葉をすべて守ることができないということです。守られるなら、問題はありません。しかし守られないから、律法が善であり、正しいものであっても、律法では救われません。だからこそ、自分の行いでは救われません。救いは律法で得るものではなく、神の恵みで得るものです。
こういう風に、神の御言葉である律法を持っているのは良いことですが、私たちの葛藤の原因は、その律法を守ることができないことにあります。例えば、律法は「姦淫をしてはならない」とあります。そうです。その通りです。姦淫してはなりません。しかし人間は本来、淫乱な者です。また「盗んではならない」とありますが、私たちは他人のものが欲しくなります。そして「偽りの証言をしてはならない」とありますが、私たちはウソも言います。それで律法を読めば読むほど、私たちはもっとひどい罪人になります。律法がなければ、むしろ罪人ではないのに、律法(御言葉)があるからこそ、私たちはもっとひどい罪人になってしまいます。
どうすれば良いのでしょうか。御言葉だけあれば、みんな解決できるのでしょうか。いいえ、罪の問題を解決してくれる具体的な措置が必要です。だから神さまは本当に良いお方です。人間がこれほど弱いことを知って、律法を与えると同時に、もう一度モーセを山へお呼びになりました。それが出エジプト記24:18です。「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。」
最初モーセを山へお呼びになった時、神は石の板に御言葉を書き記されました。しかし神は御言葉を与えることで終わるのではなく、もう一度モーセを呼び、山で40日間過ごしながらモーセに秘密を教えてくださいました。それが幕屋の秘密です。
具体的に幕屋の秘密とは何でしょうか。今日の本文、25:1-2、『主はモーセに告げられた。「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。」』
神はイスラエルの民に、「わたしの家を建てるために、あなたがたはわたしに奉納物をささげなさい。」と言われました。今日の本文、3-7節まで、その奉納物の種類が書いてあります。「彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」
その次に大事な御言葉が8節にあります。「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」神はご自分の家を建てるために、このような祝福の命令を与えられました。3節から奉納物の種類がたくさん出てきますが、「これらを神にささげなさい」と言われました。ここにある奉納物の一つ一つは、神の住まいに必要なものです。
神の幕屋を作るために基本的に用いられるのが、アカシヤ材です。そしてその木を金で包みます。4節を見ると、「糸をささげるように」と言われます。聖所と至聖所の間に幕があったのですが、その幕は四色の青色、紫色、緋色、白いより糸で刺繡されていました。また「じゅごんの皮」という言葉が出ていますが、これは海(紅海)にいるアザラシのような動物の皮です。じゅごんの皮は聖所の屋根のはしに、かぶせる皮として使用されました。
その次に7節を見ると、エポデや胸当てにはめ込む宝石をささげるように命じました。これは祭司長が着るエポデという服に12部族を表す宝石12個をつけます。そのために宝石が必要でした。
これは本当に祝福です。皆さんが持っているものを神が用いられるということは、どれほど素晴らしいことでしょうか。それは奪われることではありません。これが献金であり、献身です。私たちの人生を、神が用いられるということです。
神さまはイスラエルのすべての民に、「あなたがたの持っているものの中から神の家を建てるために、必要なものはすべてささげなさい。」と言われました。しかし神さまはどんなささげものでも大丈夫とは言われませんでした。一つの条件があったのです。2節をもう一度確認して見たら、奉納物を捧げる人は、「すべて、進んで捧げる心のある人から」捧げなければなりません。神さまはむりやりに捧げることを嫌われます。進んで喜びをもって捧げる者を喜ばれます。
「神さま、私のものでも、お使いくださるのですか。」と喜びながらささげられるだけでも、私たちは感謝できると思います。これが神のなさることです。そのようにして、神の家は建てられるのです。神さまはご自分が住まわれる家を建ててくださると言われました。今日の本文、8-9に、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」
ここで見ると、幕屋は神さまが自ら住まわれる家です。なぜ、幕屋が祝福であるかを荒野のようなこの世で生きる私たちは悟らなければなりません。なぜ、幕屋は祝福でしょうか。神さまがその中におられるからです。神さまに会うことより、もっと大きな祝福はありません。
神さまは宇宙を造られたお方です。太陽と月と星と、この世のすべてを造られました。この世の中で神がおられない所はどこにもありません。だからかえって神に会うことは容易ではないのです。本当に神に会うことは難しいことです。それは神が肉体ではなく霊だからです。ヨハネの福音書4:24、「神は霊ですから、礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」私たちには霊もあり、肉体もあります。霊で神に仕えることは、礼拝すれば済むことですが、肉体で神に会い、仕えることは、それほど簡単ではありません。
それゆえ神さまは、ご自分のひとり子イエスさまを肉体を持たせて、この世に送ってくださいました。そうした時、人間が神をすぐ分かるからです。それで神が人間になりました。理解できないことですが、神はそのような方法で私たちを救おうとされました。ベツレヘムの馬小屋、一番低い所に人間として来られた方が神さまです。そのイエス・キリストが十字架に釘づけられ死にました。
神さまは、「わたしがあなたを救おう」と言葉だけで済むことですが、そのような方法を使わず、直接十字架にかかり、死ぬことによって救ってくださいました。それが神の愛です。神はイスラエルの民に、「わたしがあなたがたと会う場所を一つ造っておこう」と言われました。どれほど感謝なことでしょうか。あちこちでさまよわないように、一か所で定期的に神さまが私たちに会ってくださるということです。この幕屋に入ると、神に会えるのです。
幕屋の祝福は具体的に何でしょうか。律法のゆえに絶望し、挫折し、犯した罪を赦される場所が幕屋です。もし幕屋がなかったら、私たちは絶望したはずです。律法(御言葉)は、罪を悟らせます。しかし犯した罪を解決することはできません。御言葉自体は、私たちの罪を解決するものではありません。そうしたら、私たちが罪を犯し、過ちを犯した時、これらをどのように解決したら良いのでしょうか。
罪を解決するのは十字架です。私たちは神に会って、神から罪の赦しを受けなければなりません。つまり神に会い、罪を赦される場所が幕屋です。だから神さまは私たちに幕屋を与えてくださいました。イスラエルの民が来て罪の赦しを受けられたように、私たちにも幕屋が与えられています。
幕屋の中で何が行われたのでしょうか。イスラエルの民が年に一度、自分が死ぬことはできないので、羊やヤギや子牛が身代わりとして死にました。その血をもって聖所に入り、自分の罪の代わりに、その血を自分の身にふりかけました。そうすることによって、罪の赦しを受けるように、神が道を開いてくださったのです。まさにイエスさまの十字架のひな形です。これが幕屋の祝福です。
幕屋のもう一つの祝福は幕屋に入ると、神が行われたすべてのことを感謝する気持ちになります。そこで神の民は感謝のささげものをささげます。神を礼拝し、賛美したくなる時、神の民は幕屋に入って神を礼拝し、賛美することができます。これが幕屋のもう一つの祝福です。
こういう風に幕屋に入ると、罪が赦され回復されます。幕屋に入ると、感謝が満ち溢れます。神は私たちを洗い清めてくださり、新しく生まれ変わらせてくださいます。そこで、汚れて醜い私たちをきれいにして下さり、この世に再び送り出してくださいます。こんな祝福のゆえに、イスラエルの民は40年間、荒野で安心して生活することができました。この荒野での祝福された幕屋が今日の教会です。
私たちはイエスさまを信じて救われました。しかしもし教会がなかったら、どうなったのでしょうか。この世の中で一番かわいそうな人は、イエスさまを信じながらも教会を決められず、さまよう人です。「今日はこの教会、明日はあの教会」という人は、お葬儀をしてくれる所もありません。自分がささげる祭壇、自分が慰められる所、自分が癒され、回復される所がなければ、その人はイエスさまを信じない人と同じように、さまよう人生となります。
祝福の中の祝福は、私たちが礼拝をささげられる場所があるということです。涙を流し、祈り、神さまから赦しを受け、慰められ、世に向かってまた出て行ける、そういう場所が必要であるということです。
イスラエルの民が荒野の40年間を耐えた理由は幕屋があったからです。彼らは神の御言葉を受け、神から与えられたマナを食べました。また苦い水が甘い水に変わり、敵も打ち破りました。しかしそれよりもっと重要なことは、日々絶望し、挫折し、失敗を繰り返す彼らに、悔い改め、罪の赦しと慰めを受け、神から新しい力を得、再び荒野へ出て行けるようにしてくれる幕屋があったということです。そのお陰で、イスラエルの民は40年間、勝利の生活ができたわけです。これが、まさに教会です。こういう意味で、教会の責任がどれほど大きいかを、私は毎週実感しています。教会が騒がしくなって不幸になると、個人の霊的生活も不幸になり、教会が幸せになれば、個人も幸せになります。教会で奇跡が起こり、祝福が溢れ、賛美が流れて、真の礼拝がささげられる時、私たちはどんなことがあっても、一週間は喜び溢れ、嬉しくなります。これが教会であり、幕屋です。
それでは、教会とはどんな所でしょうか。教会は建物ではありません。教会は教派や制度でもありません。教会を建物、教派、制度として考えるから、教会で生きておられる神さまに出会うのが難しくなります。教会に来て誰に会うのでしょうか。神に会わなければなりません。教会は人に会う所ではなく、神に会う所です。また誰から慰めを受けるべきでしょうか。神さまです。神さまから慰めを受け、再び世に出て行くようにするのが教会であり、荒野にある幕屋です。神さまは私たちのために、今も幕屋の祝福を備えてくださっています。
そして重要なことは、この幕屋が私たち一人ひとり、自分自身であることを覚えてください。コリント人への手紙第一6:19、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」
私たちのからだが教会です。神のからだである、この教会をきれいにし、聖くする責任が私たちにあります。神の教会である、私たちのからだが聖ければ、私たちはこの世でいつも勝利することができます。コリント人への手紙第一6:20、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」
教会は建物ではなく、キリストのからだです。律法のゆえに絶望した人が幕屋に入るとイエス・キリストに会います。旧約の時代にあった幕屋はイエス・キリストを意味します。私たちはイエス・キリストが地上に来られた後にイエス・キリストに会い、信じ、罪の赦しを受けましたが、旧約の時代の人々は幕屋に入って、イエス・キリストに会い、そこで罪の赦しを受け、悔い改めて回復され、変えられて慰めを受けました。
荒野のようなこの世で日々勝利し、生きていく秘訣は、イエス・キリストに毎日会うことです。十字架と復活の前に毎日出ることです。聖霊に満たされた生活を毎日する時、神さまが私たちの生活に豊かな恵みを注いでくださいます。
だから教会をよく選ばなければなりません。自分が通う教会に聖霊が臨まれ、神が臨在する教会になるように、力をあわせて祈らなければなりません。サタンの最大の策略は、教会が争うようにすることです。教会が争うと、どうなるのでしょうか。夫婦が喧嘩をして、別れることと同じです。夫婦が喧嘩をし、離婚すると、子どもたちはみんなさまよいます。
サタンはあらゆる手段を使い、私たちの教会で多くの争いが生じるようにし、教会を分裂させ、兄弟姉妹たちが信仰生活をできないように働きかけているということを忘れてはなりません。
だから教会を批判しないで、愛してください。教会の兄弟姉妹が足りないことがあれば、涙をもって祈ってください。そして、積極的に良い教会を作ってください。そうしなければならない理由は教会が幸せであれば、自分も幸せになるからです。教会が争うと、どこに行っても心の平安がありません。教会と自分は別々ではないからです。教会の祝福が自分の祝福につながっていることを、ぜひ覚えてください。
自分が通う教会が涙と祈り、感謝と慰め、祝福の溢れる教会になる時、荒野のようなこの世は祝福の町に変わると思います。イエス・キリストは幕屋の主人であり、教会の主人です。私たちの教会でイエス・キリストが高められる時、私たちの生活の中でも神の祝福は続くと思います。
祈り、
生きておられる父なる神さま、荒野でさまよっていたイスラエルの民に幕屋を与えてくださいました。この幕屋の中にはイエス・キリストがおられました。彼らはこの幕屋を通して赦され、慰められ、祝福を受けました。主よ、私たちにも同じ幕屋の祝福を与えてください。イエス・キリストに出会わせてください。イエスさまの十字架の前で悔い改めさせ、イエスさまの復活と共に勝利させてください。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン!
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New マルコの福音書16:1-6(復活の奇跡)
tbic
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20:38
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tbic | 20:38 | 1 | 1 |
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創世記28:10-22(十字架はゼロからの出発)
tbic
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2025.04.13
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閲覧数 62
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tbic | 2025.04.13 | 1 | 62 |
193 |
マルコの福音書16:15-20(癒し主イエス・キリスト)
tbic
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2025.04.07
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閲覧数 24
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192 |
申命記8:1-10(荒野の祝福)
tbic
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2025.03.30
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推薦 2
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閲覧数 28
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tbic | 2025.03.30 | 2 | 28 |
191 |
出エジプト記 25:1-9(幕屋の秘密)
tbic
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2025.03.24
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推薦 1
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閲覧数 37
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tbic | 2025.03.24 | 1 | 37 |
190 |
ヨハネの福音書16:16-22 (悲しみと喜びは長くない)
tbic
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2025.03.17
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閲覧数 39
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189 |
創世記22:15-17(敵の門を勝ち取る者)
tbic
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2025.03.09
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閲覧数 46
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tbic | 2025.03.09 | 1 | 46 |
188 |
創世記3:1-4、(サタンの噓)
tbic
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2025.03.02
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推薦 1
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閲覧数 49
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tbic | 2025.03.02 | 1 | 49 |
187 |
ルカの福音書11:1( 主よ、祈りを教えてください)
tbic
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2025.02.23
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閲覧数 55
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tbic | 2025.02.23 | 1 | 55 |
186 |
ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
tbic
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2025.02.16
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推薦 1
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閲覧数 64
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tbic | 2025.02.16 | 1 | 64 |