メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

申命記8:1-10(荒野の祝福)

投稿者
tbic
投稿日
2025-03-30 19:49
閲覧数
28
申命記8:1-10「1.私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、主があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。2.あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。3.それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。4.この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。5.あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。6.あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。7.あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、8.小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。9.そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。10.あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」

この世での生活は荒野に例えることができます。あらしが絶えず、互いにだまされ、戦わなければ生きていけない厳しい生活です。イスラエルの民も出エジプトの後、このような荒野を通らなければなりませんでした。しかし主は荒野に驚くべき祝福の秘密を隠しておられました。

荒野での祝福の奇跡はイスラエルの民に飲む水がなかったとき、主が苦い水を甘い水に変えてくださった出来事です。また食物がなかったとき、マナをくださり、イスラエルを祝福されました。60万人にもなるイスラエルの民が砂漠で40年間も過ごしていたとき、主は彼らに食物を毎日豊かに与えられました。そしてイスラエルの民は荒野で敵のアマレク人に出会いました。イスラエルの民は戦いを避けられない状態でした。しかし主はアマレクとの戦いに際して、とりなしの祈りの秘密を教えてくださり、イスラエルの民を勝利へと導いてくださいました。

主が共におられる時はすべてが与えられ、勝利することができます。このように、真の祝福は精神的なもの、霊的なものです。体が縛られ、牢屋に入っていたとしても、幸せを感じることができます。イスラエルの民は継続的に主とともに歩めるように律法の祝福が与えられました。しかし律法そのものでは満足はありません。律法は完全なものですが、人はその律法をすべて守ることができないからです。そこで律法のゆえに絶望した人、罪を犯した人々のために、主は幕屋という制度を与えてくださいました。これを通して旧約の時代でもイエス・キリストに出会えるようにしてくださったのです。

出エジプトのクライマックスは雲の柱と火の柱です。イスラエルの民は行く道を知らなかった時、主が雲の柱と火の柱で彼らを導き、厳しい荒野での生活を素晴らしい祝福の場へと変えられました。

皆さん、幼い頃ピクニックに行った時、宝探しをした経験があるのでしょうか。主は荒野に、この宝物を隠して置かれました。荒野はとても苦しく辛い所ですが、宝物を見つけた人々には興奮する場所であり、祝福の場所です。ぜひ荒野に主が隠して置かれた宝物の祝福を受け取ってください。

荒野での生活は素晴らしいものになります。荒野での生活は呪いではなく、むしろ祝福です。今日の本文、申命記8:1-2をもう一度読みます。「私が今日あなたに命じるすべての命令を、あなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生きて数を増やし、主があなたがたの父祖たちに誓われた地に入って、それを所有することができる。あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

多くの人々が呪いや苦痛として感じる荒野が、どうして祝福となるのでしょうか。荒野という所は終わることのない砂漠が広がっており、人が住みにくい環境です。しかし、本文の2節を読むと、その理由がわかります。荒野の道を歩ませておられる方は神さまです。この一言の御言葉のゆえに荒野は祝福に変わります。神は失敗のない方です。神は慈しみ深く、私たちに祝福と限りない愛を注がれます。神の関心は裁きや滅びではなく、永遠のいのちです。

ヨハネの福音書3:16、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

慈しみ深く失敗されることのない神が私たちを荒野に置かれました。神がそうされたので、私たちには苦しく理解しがたいものであっても、荒野は祝福の場所です。しかしイスラエルの民は神の深い愛と慈しみをよく理解することができませんでした。恵みを理解することのできない人々がすることは何でしょうか。憎しみと不平不満です。イスラエルの民は恵みを多く受けたにも関わらず、彼らの生活は憎しみと不平だらけでした。ごく小さい問題でも不平不満をもらし、ささいなことでも怒りました。

神がイスラエルの民を荒野に置かれたのは彼らを謙遜にし、不平不満を言わない聖い民にするためでしたが、民は40年間絶えず不平と怒りで明け暮れました。モーセがどれほど大変だったのかが、よくわかります。イスラエルの民は神がエジプトに下された10の災いを目撃した人々です。血、カエル、初子の死まで目撃しました。彼らは子羊の血を門柱に塗った家にいたので、死をまぬがれたのです。そして彼らは紅海が真っ二つに分かれるのを目撃し、その中に造られた道を歩いて渡り、後に続くエジプトの兵士たちが水の中に溺れ、死んでいくのを見たのです。また彼らは火の柱と雲の柱も見ました。しかし憎しみと不平不満で明け暮れたわけです。

皆さん、ぜひこのようなイスラエルの民の姿から学び、憎しみと不平不満を言うのは、今日でやめましょう。イスラエルの民は、これらをやめなかったので、荒野で真の神の代わりに偶像を造り、拝むようになりました。その結果、彼らは乳と蜜の流れるカナンの地に入ることができませんでした。出エジプトを経験したイスラエルの民の中で、ヨシュアとカレブを除いた一世代はすべて滅びました。乳と蜜の流れるカナンの地を踏んだ人々は次の世代でした。

イエスさまを信じていながら、不平不満を言う人になってはいけません。神はそのような人を喜ばれません。神はすべてに感謝し、感激し、喜ぶ人々に、更に祝福を与えられます。

自己中心になると、自分の失敗が見えなくなり、人の失敗だけが見えます。しかし神が中心になると、自分の失敗がよく見えます。学校に行くことが好きな学生は、あまりいません。学生は休みを最も喜びます。休日は彼らにとって最も嬉しい日です。しかし親たちは学校に行きたがらない子どもを学校に行かせようと努力します。それは一人で、この世を生きていけるように準備させるためです。学校という教育機関を通して、親は子どもを教育させ、訓練させるわけです。

このように神も私たちを「荒野」という学校に入れて、苦しくて大変であることを知っておられても、私たちを訓練されます。今までの考え方、習慣、哲学、文化をきれいに整理させ、その人を通して神の栄光を現わすようにされるのです。乳と蜜の流れる約束の地の民になるようにさせられるのです。そのプロセスは私だけが苦しいのではなく、神も苦しんでおられます。神は私たちを小さなものとは思っておられません。私たちが神にとって、いかに大切な存在であるかは、神がそのひとり子イエス・キリストを十字架につけるほど、私たちを愛されたことでわかります。

神は私たちを現在のままのレベルに置かれません。父親が愛のゆえに子どもを、むち打つように、私たちを励まし、刺激を与え、挑戦させ、訓練させ、神の願われる品性と人格と生き方を作り上げるまで養育されるのです。これが、まさに荒野の学校です。荒野の道を歩ませるのは神です。神がそうさせるならば、それは素晴らしいものです。私たちは、荒野が祝福であることを認めなければなりません。そうすれば、毎日が大変素晴らしいものとなります。

なぜ荒野の道が祝福であり、荒野での生活が素晴らしいのでしょうか。神の偉大な目標があるからです。本文の2節をもう一度読んでみると、「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

神はイスラエルの民を荒野に置き、二つのことを望まれました。一つ目は謙遜です。人生の最も大きな祝福は低くなることです。人間の最も大きな問題は傲慢です。傲慢な人はどうすることもできません。教えることもできないし、まさに自分が神です。だからすべての人を裁き、批判するのです。神は傲慢なイスラエルの民が憎しみ合い、不平不満を言うので、40年間訓練されました。なぜならば、天の御国の民は謙遜にならなければならないからです。神は、私たちが謙遜になることを願っておられます。

低くさせるということは謙遜にさせるという意味です。しかし、サタンの代名詞は傲慢です。神に向かって反抗するのです。本当の神の人は柔和で、謙遜であり、自分を低くする人です。傲慢な人は低くならなければなりません。謙遜に自分を知って生きるようにしなければなりません。それが祝福であり、荒野での訓練の目的です。

もう一つの目的は「試みる」ことです。神はイスラエルの民が神の御言葉に従順に従うかどうかを試みられたのです。学校はすべての人に卒業証書を与えません。試験をパスしなければなりません。神はイスラエルの民を荒野という学校に入学させ、彼らが従順であるかどうか、御言葉通りに生活しているかどうかを試みられたのです。人はどうすれば謙遜になれるのでしょうか。

苦難に出会うと、謙遜になります。食べたいときに食べられず、飲みたいときに飲めなければ、人は限界にぶつかります。

人を楽にさせ、よくしてあげれば、人は神を見上げるのでしょうか。そうではありません。紅海が分かれ、10の災いが下り、足の不自由な人が起き上がったから、信仰が生まれたのでしょうか。生まれません。主イエスを信じると、信仰が生まれます。奇跡を見ることで、信仰が生まれるのではなく、主イエスを見上げると、信仰が生まれるのです。

モーセは王の特権をもった傲慢な人でした。エジプトの数学、地理学、哲学、文学の教育のすべてを受けた人でした。彼は自分の民を愛する愛国心がありました。その愛国心のゆえに人を殺しました。そんな人が40年間、荒野で暮らしました。草も育たない、希望のない、そんな所で動物と共に暮らしながら、モーセが学んだことは謙遜と柔和でした。

従順よりも完璧な信仰はありません。従順は信仰の頂点です。話せないから言わないのではなく、知らないから言わないのでもありません。沈黙のまま、従順に徹するだけです。これより偉大な言葉、偉大な信仰はありません。イエスさまは十字架の上で不平不満を言わず、人類のすべての罪を背負われました。クリスチャンの真の姿は、ここにあります。

以前宣教師たちの集まりの中で、一人ずつ証しをする時間があって、とても有意義な時間をもったのですが、その中で70歳を過ぎた一人の宣教師の番になりました。その方はたくさんの働きをしているので、面白い話をたくさん聞けると期待し、耳を傾けました。ところが、その方はこう言いました。「先生たち、私は今年70歳を過ぎました。宣教師として神の働きをしようと、ここまで来たのに、この歳になるまで私の悪い性格を直すことができません。怒ることが度々あります。

その方はそう言いながら、泣き崩れました。「最初は働きが大事だと思いました。しかし、自分の性格を制御することもできず、この歳になるまで、よく怒り、大声で怒鳴る私が、どうして宣教師と言えるのでしょうか。

私たちはみんな黙ってしまいました。みんな恥ずかしくなりました。大きなショックを受けたのです。その年齢でそんな告白をすることは、大変難しいことです。しかしその方はそう告白し、その場にいる宣教師たちに、こうお願いをしたのです。「これが私の実際的な問題です。悪い性格が直るように祈ってください。

大切なことは今日、自分が変わったかどうかということです。どんな働きをするかよりも大事なのは内面の生活です。人格がクリスチャンらしく変化したかということです。これより、もっと大切なことはありません。

正義を訴える人々に気をつけてください。彼らが言う正義とは、士師記に出る有名な言葉、「それぞれが自分の思う通りに行っている」という自分勝手な正義です。正義を訴えていると、自分が義人だと錯覚します。しかしイエスさまは愛をもって、私たちの所に来られました。もし正義の剣をもって、この世に来られたのであれば、生き残れる人は一人もいません。ただ赦し、愛し、慈しみを施してくださったので、私たちが賛美をし、主の前に出て来て救われ、恵みを受けることができたわけです。

また荒野の生活が祝福である理由は、そこでは主だけに頼り、生きていくしかないからです。イスラエルの民には食物や飲み物がありませんでした。昼には熱い太陽が照り続き、夜は厳しい寒さの中で過ごしました。そんな中で彼らができることは、主だけに頼ることでした。

私たちはあまりにも多くのことに関心を持っています。神さまもその中の一つであるかのように思われます。しかし荒野では主だけに頼るしかありません。だから足りないこと、病にかかっていること、苦難があることが、むしろ良いことです。人に頼らず、主のみに頼るようになるからです。今日の本文の3節に、「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

パンだけで生きていく」とは、自分の方法と意志で生きていくことを意味します。しかし人はパンだけで生きていくことはできません。神とともに生きていかなければなりません。誰が神の人になれるのでしょうか。とても簡単です。世の食物を食べる人は世の人であり、神の食物を食べる人は神の人です。世の方法で生きる人は世の人であり、神の方法で生きる人は神の人です。

最後に、荒野が祝福である理由は黙示録12:6と関連があります。「女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。

荒野は養育のために備えられた場所です。そこには困難があり、物が足りなくて制限されることが多く、待たされることがあり、痛みがあります。これらすべてを今説明することはできませんが、この荒野は確かに私たちが変えられていく場所です。新たにされる場所です。

お金を持っている人が良い家、良い食物を食べている姿を想像してみてください。その次に、困難と難しさの中で神に出会い、喜び、興奮している人の姿を想像してみてください。この二人の姿の中には、どんな違いがあるのでしょうか。どちらの顔が本当の幸せな顔でしょうか。言うまでもありません。後者の顔を持つようになることを、切に願います。荒野にいながら、そこで宝物を見つけ、喜び、感謝し、賛美する素晴らしい姿、これが人生の本当の祝福です。

荒野は私たちを養育する場所です。40年間という時間を考えてみてください。この時間は人生の黄金期です。普通、親が子どもを産み、育て、学校を卒業させると、彼らは仕事を持ちます。そして男性は30歳前後で結婚します。そこに40を足すと、70歳になります。すなわち荒野で過ごす40年とは、これのことです。私たちは今すぐ、乳と蜜の流れる地に入ることはできません。荒野で私たちは研ぎ澄まされる訓練を受けるのです。イエスさまを信じていても、矛盾もあり、葛藤もあり、裏切られることもあります。しかしこれらを通して、神は私たちを完全な者として造りかえられ、私たちは生まれ変わる経験をするわけです。

今日の本文4節、「この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」これは信じられないことです。40年間荒野の道を歩きながらも、「衣服はすり切れず、足ははれなかった。」というのです。どうして、そんなことがあり得るのでしょうか。それは苦難が来ると、私たちの重要でない部分は消え、重要な部分だけが残るからです。なぜ、私たちの人生は複雑で、忙しいのでしょうか。

それは不必要なもの、必要でないものを、たくさん持っているからです。ある人に「聖書の学びをしましょう」と誘ったら、「忙しい」と断られたことがあります。彼は本当に忙しいのでしょうか。何のために忙しいのか、考えてみてください。本当に重要なことのために忙しいのではなく、しなくてもいいことのために忙しく生きるのです。

必要でないことを全部置いて、重要なことをしっかりとつかんでください。天の御国まで、永遠に持っていけるものをつかんでください。そうすれば、悔いのない人生となります。神さまは困難を通して、イスラエルを栄光の民に変えられ、祝福された者としてくださると約束なさいました。

今日の本文の7-10、「あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

苦難と訓練の時が終わると、神は私たちのために備えてくださった驚くべき祝福の場所へと導いてくださいます。神を恐れる者は決して食物に不足することはありません。

申命記8:15-17、「燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。

ここで神の関心は苦難そのものではなく、苦難を通り抜けた後にあります。人生を神と共に誠実に生きていく人には神が天の御国の冠をかぶらせてくださいます。聖書の御言葉を受け入れれば、経済的な難しさなどの現実を見ても、むしろ喜ぶことができます。私たちは今、聖くなるための大手術を受けているのです。死ぬために手術を受ける人はいません。私たちは手術を受けなければなりません。腫瘍は取り除かなければならないのです。荒野でこの秘密を見い出すと、誰でも興奮し、荒野が好きになります。

神が私たちと共におられることを体験すれば、荒野はとても意味深い場所となります。荒野を通して、私たちは謙遜になり、神の手術を受けます。私たちは再び生まれ変わらなければなりません。神は必ずそうされるのです。これが荒野での祝福です。だから現実の苦難のゆえに、あまり苦しむ必要はありません。それが変わり、必ず祝福になることを信じてください。

祈り、

愛する天のお父様、今日も私たちは主と共に歩んでいます。主よ、これから私たちは本格的な荒野を通りますが、私たちの弱さ、足りなさをはっきり手術し、包んで下さって、ちゃんと荒野を通り抜けられるように助けてください。そして、主が私たちのために用意された祝福を全部受け取り、更に用いられるTBICとなりますように。イエスさまの御名によってお祈りします。アーメン。
合計 195
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
195
New マルコの福音書16:1-6(復活の奇跡)
tbic | 20:38 | 推薦 1 | 閲覧数 1
tbic 20:38 1 1
194
創世記28:10-22(十字架はゼロからの出発)
tbic | 2025.04.13 | 推薦 1 | 閲覧数 61
tbic 2025.04.13 1 61
193
マルコの福音書16:15-20(癒し主イエス・キリスト)
tbic | 2025.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 24
tbic 2025.04.07 1 24
192
申命記8:1-10(荒野の祝福)
tbic | 2025.03.30 | 推薦 2 | 閲覧数 28
tbic 2025.03.30 2 28
191
出エジプト記 25:1-9(幕屋の秘密)
tbic | 2025.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 36
tbic 2025.03.24 1 36
190
ヨハネの福音書16:16-22 (悲しみと喜びは長くない)
tbic | 2025.03.17 | 推薦 1 | 閲覧数 37
tbic 2025.03.17 1 37
189
創世記22:15-17(敵の門を勝ち取る者)
tbic | 2025.03.09 | 推薦 1 | 閲覧数 44
tbic 2025.03.09 1 44
188
創世記3:1-4、(サタンの噓)
tbic | 2025.03.02 | 推薦 1 | 閲覧数 48
tbic 2025.03.02 1 48
187
ルカの福音書11:1( 主よ、祈りを教えてください)
tbic | 2025.02.23 | 推薦 1 | 閲覧数 55
tbic 2025.02.23 1 55
186
ルカの福音書12:16-21(今年の期待)
tbic | 2025.02.16 | 推薦 1 | 閲覧数 63
tbic 2025.02.16 1 63