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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

創世記28:10-22(十字架はゼロからの出発)

投稿者
tbic
投稿日
2025-04-13 22:58
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創世記28:10-22『10.ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。11.彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。12.すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。13.そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。14.あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。15.見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」16.ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」17.彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」18.翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。19.そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。20.ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、21.無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、22.石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」』

人生のすべての問題は神さまに深く出会った瞬間、すべてが解決されます。まだ実際に問題が解決されていなくても、神さまに深く出会ったら、心の中に信仰が生じ、平安と確信、大胆さと希望が与えられ、問題の八合目までが征服されます。そうしたら、どうやって神さまと深く会えるのでしょうか。それはまずゼロの状態、空きの状態の器にならなければなりません。その時、神さまが現れ、「わたしがあなたのすべてだ」と言われます。それが今日の本文に出るヤコブの人生でした。

神さまはいつも手ぶらから始められるお方です。今日の本文は本当に不思議な霊的現実を私たちに見せてくださいます。神さまがヤコブをリベカのお腹にいた時から既に選んだのですが、霊的ある流れの中でアブラハムとイサクの後を継ぐ神の御民としてヤコブを選びました。こういう風に選ばれた御民が、どういう風に導かれるのかが今日のメッセージのテーマです。

すべての選ばれた御民には、神さまが許される霊的遺産(所有地)があります。神さまがそれを全部成し遂げられるまで主は御民から離れませんが、まさにヤコブにもそう言われました。「わたしがあなたに計画したすべてを成し遂げるまであなたを離れない」と。しかし問題は選ばれた御民が自分の人生ではなく、他人の人生を生きるから問題です。つまり与えられた自分の遺産ではなく、他人の遺産を奪おうとしながらバタバタするということです。

神さまが選んだ御民に与えられる遺産は、大体ゼロポイントから始まります。無から、手ぶらから出発するということです。アブラハムがカルデヤのウルを離れる時、生まれ故郷、父の家を離れたのもほとんどゼロの状態、手ぶらからでした。またイサクが井戸を掘って3回も譲り、遠い荒野へ移動した時も、ほとんど手ぶらであり、今日の本文のヤコブが父イサクから祝福を受けた後、手ぶらから出発するわけです。だから私たちが信じる十字架はその上に自分をのせて、自分を殺すことです。それは「ゼロポイントから、手ぶらから出発する。」という意味です。だから私たちが何か得ようとバタバタしながら他人と喧嘩することはクリスチャンとして本当に無駄なことです。

しかし、こういう他人の人生を生きようとする御民の生き方をめちゃくちゃに壊し、ゼロポイントから出発させるために神さまがなさる驚くべき御業があります。その代表的な人物が今日の本文に出るヤコブです。ヤコブは長子の祝福をもらったとたん、むしろ完全につぶれました。リベカと組んだヤコブは兄のエサウが持っていた文化的、法的な長子の権利を奪いました。そしてその長子の権利の内容が、結局お父さんからもらう祝福ですが、お父さんをだまして、長子の権利に該当する祝福の祈りをすべて自分が受け取りました。その長子の権利の祈りを受けたとたん、起きた事件が何でしょうか。完全に家の中がめちゃくちゃになって、兄と敵となり、お父さんをだまし取った詐欺師として家を離れるようになったということです。長子の権利の祝福をもらったら、その時から祝福が注がれ、うまくいける人生ではなく、全部失ってしまったホームレスの状態になったということです。

長子の権利が一体何でしょうか。どうして家と財産、父と母、兄を全部捨てて、離れなければならないのでしょうか。長子の権利を得ようと頑張って、やっとその祝福をもらったのに、どういうことでしょうか。ヤコブは世の中で一番大事だと思ったすべての祝福を失い、完全にホームレスになって、べエル・シェバから逃げ出しました。そしてある所にたどり着いたとき、疲れて石を一つ取り、それを枕にしてその場所で眠っていました。

私たちがゼロポイントになったとき、神さまが訪れます。こういう状態の中で寝ているヤコブに神さまが現れて、言われます。それが今日の本文の創世記28:13-15です。『そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

この流れを見ますと、長子の権利を奪い取った瞬間、完全にホームレスになりました。財産も、両親も、兄弟も、家も、仕事(畑、羊)も何もかも全部失いました。そして一人ぼっちになって、杖一本持ってヨルダン川を渡りました。そこで神さまに出会うわけです。ゼロになった時、自分に残ったものが何もない時、兄弟も、両親も、子供も、恋人も、誰もいない時、完全にゼロになった時、神さまが現れます。

皆さん、ゼロの状態からはしごが降りてくるのを見てください。創世記1:2、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」どういう意味でしょうか。何もない、茫漠とやみはゼロの状態です。その上に神さまがおられます。神の霊が水の上に私たちを表します。

ヤコブもそうでした。ゼロの状態になったとき、はしごが現れました。それは天と地の間に通路ができたということです。そしてそこから神さまがヤコブに言われます。素晴らしいみことばです。本文の13-15節、『そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

こういう風にゼロになる前には神さまが私たちに許された人生を生きることはとても難しいです。もしゼロになってない状態でヤコブが自分の人生を続けたのであれば、結局ヤコブの人生は他人の人生、無駄な人生を生きるしかありませんでした。

神さまが時々、私たち信者をつぶす理由が何でしょうか。神さまが私たちに計画されたその人生、真の祝福の人生を与えるために、たまにはつぶしたり、痛めつけたり、すべての家族、偶像になるものをすべて捨てさせ、純粋なゼロへと導かれます。このゼロポイントから神さまが確認なさることがあります。今日の本文の13節のように、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブ、お前の神である。」と言われます。

アブラハムのすべてだった神、イサクのすべてだった神、その主がまさに、ヤコブお前のすべてだと言われるわけです。「今、何もないヤコブよ。父、母、兄、財産、何もないゼロの状態で、お前にあるのは神であるわたしだ。」と主は言われます。これがまさに、アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神だという意味です。

神さまを私の一番目の遺産として、私の一番目の所有として受け入れる人だけが、神さまから真の祝福が許されるということが、今日の本文を通して分かります。つまり「わたしがアブラハムのすべてだったように、イサクのすべてだったように、ヤコブよ、わたしがお前のすべてだ。わたしを持ちなさい。父も捨て、母も捨て、子どもも、財産も、何もかも全部捨てて、わたしを持ちなさい。」ということです。

真っ暗の夜空、やみの中に横たわって、「一体私の人生、どうなるのだろう。」と絶望していたそのとき、神さまがヤコブに訪れ、「主であるわたしがお前の全部だ」と教え、まさにその時から「出発しなさい」と言われたわけです。

神さまと神さまが許されたものだけが、私のものであることを絶対に忘れてはなりません。そうしたら、私のものと他人のものをどう区別するのでしょうか。死を通過する時も、なお私の所に残っているものが私のものです。私たちが死を通過する時、夫が、妻が、子供が私たちの死について来ることはできません。そうしたら、それらは私たちのものではありません。財産もそうですし、職場も同じです。そうしたら、私たちのものは何でしょうか。死を通過する時も共にいてくださる方、死の陰の谷を歩くことがあっても共におられる方、神さまだけが私たちのものです。しかしながらも神さまは、私たちがこの世に生きる間に許されるもの、与えようとされるものがあります。それが世の中で私たちのものです。

しかし子どもは私たちのものではありません。だから心の偶像を捨てなければなりません。ただ神さまが子どもとの関係の中で私たちに許してくださることがあります。「子どもを神さまのみこころのまま、ちゃんと育てなさい。子どもはわたしのものだ。」と主は言われます。それをちゃんと理解し、受け入れた人だけが子どもを通して与えられる幸せと感謝を体験することができます。

神さまは私たちの心の中に、「自分のものではないもの」を握っている時、強制撤去をなさるお方です。それが自分のものではないのに、自分のもののように心に抱いて大事にしながら生きる時、神さまはそれを引っ張り出して、大騒ぎを起こし、それによって不平不満を言わせて、幸せが不幸の種に変わる形で、ゼロの状態に導かれるお方です。

皆さん、毎日毎日生きる時、頭に来てイライラするのでしょうか。それは神さまが許されたものだけを自分のものにせず、別のものに心を奪われているからです。自分のものではないのに、他人のものがダメになったとしても、或いは他人のものがうまくいったとしても、それは私と何の関係もありません。怒る理由がないのです。しかしもしそれによって私の心が騒ぐのであれば、まだまだ他人のものが私の心に残っている証拠です。その時、神さまの強制撤去が強行され、私たちはゼロの状態になるということです。

十字架はゼロの状態です。私たちはそこから出発しなければなりません。強制撤去される前に、毎日毎日自分の十字架を背負い、主だけを自分のものにしてください。

十字架の上で主と共に死ぬ人生はゼロの状態に入った人生です。それはただ主だけが自分のものだという意味です。そのとき、ヤコブが見たはしごが自分にも現れます。そして、神さまが訪れ、「見よ。わたしはあなたと共にあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。そして必ずあなたを天国まで導こう。」と言われるはずです。こんな人格的交わりが神さまとできるのであれば、勝利の人生、成功した人生です。

人生のすべての問題は神さまに深く出会った瞬間、すべてが解決されます。まだ実際に問題が解決されていなくても、神さまに深く出会ったら、心の中に信仰が生じ、平安と確信、大胆さと希望が与えられ、問題の八合目までは征服したことになります。残りの二合目は、ただ同じ心で登ればいいのです。毎日毎日をその心で生きれば、それで充分です。

そうしたら、どういう風に神さまに深く出会うのでしょうか。繰り返しますが、それはまず私たちがゼロの状態になること、空きの状態の器にならなければなりません。その時、神さまが現れ、「わたしがあなたのすべてだ」と言われます。それを具体的に今日の本文、創世記28章に出るヤコブの人生を通して、私たちは学ぶことができました。その後、ヤコブは一生涯を神さまと共に歩む人生、神さまが自分の人生のすべてであることを告白しながら生きたということは、言うまでもありません。

私の知人の中では、すでに癌で亡くなった人がいます。彼の人生は本当に波乱万丈の人生でした。東大門市場で18年間商売をしながら、一回も海外旅行をしたことがありせん。もちろん、美味しい食べ物も口にしなかったし、ご飯は大体300円、400円の食事ですまして、夜明けまで商売をしながら、大金持ちになりました。

しかしそんなにたくさんの財産と、子供たちを名門の大学に入れとっいて、彼は「さあ、これからは、ちょっと休もう」とした矢先に、肺癌で亡くなりました。その亡くなる前日に、彼は病院に駆けつけた牧師先生にこう言ったそうです。「先生、どうして私が今、死ななければならないのですか?」と泣いていたそうです。

20年に近い年月を夜明けまで商売をしながら、集めた莫大な財産が結局、他人のものになったわけです。それが妻のものであれ、子どものものであれ、第三者のものであれ、とにかく他人のものになったということです。もちろん最初から他人のために金を設け、慈善事業をやるつもりで生きてきたのであれば、問題はありません。しかしこれが自分の人生だと思って生きてきたのに、実は他人のための人生だったということが死ぬ時に分かったら、それは完全に失敗した人生です。

私たちはそんな無駄な人生、もったいない人生を生きてはなりません。そのため、受難週を迎えながら、今週も確かに自分のものであられる神さまに、その知恵を伺いながら賢い日々を送りたいと思います。
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