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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マルコの福音書5:34(安心して帰りなさい)

投稿者
tbic
投稿日
2025-09-14 22:03
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マルコの福音書5:34『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

安心してりなさい』この言葉をイエスさまからかけて頂いた女性は、どんなに嬉しかった事でしょう。マルコの福音書5:12から見ますと、なぜこの女性がこのような言葉をイエスさまからかけてもらえたのかが分かります。

この女性は12年間長血をわずらっておりました。多くの医者からひどい目にあわされ、自分の持ち物をみな使い果たし、かえって悪くなる一方でした。「先が見えず、出口が無い。」それこそ、最も希望がない状態です。多少苦労しても、出口があるならば、希望を持って人生を歩む事ができます。しかしいくらお金を使っても、時間を使っても、悪くなる一方となると、どんなにか辛かったのではないかと思います。

しかしある時、彼女はイエスさまの噂を聞いたのです。「この頃、イエスさまという方が現れ、多くの病をいやしているそうだ。彼の所に行って祈ってもらったら、いやされるよ。」という噂です。彼女はそれまでイエスさまを知りませんでした。彼女は体調も悪く、なかなかイエスさまの所に行って、祈ってもらう勇気はありませんでした。特にそれは婦人科の病で、あまり女性にとって公にしたくはない病気でした。

そこで彼女は考えました。「イエスさまに直接祈って頂く事が出なくても、イエスさまの衣にちょっとでもさわったら、治るんじゃないか。」と勝手に考えたのです。それは聖書を開いて神学的に研究した結論ではありませんでした。「イエスさまの衣にはどのような果があるのか。み言葉は何と語っているか。」など、そんな事は全く知らなかったのです。ただ単に自分で「イエスさまの衣にったら、治るのではないか」と。ちょっとだけの期待を持ったのです。それで群衆に紛れ込み、イエスさまの衣に、それも後ろからちょっと触ったのです。すると期待通り、瞬間的に病が治ったのです。「すぐに血の源が枯れて、ひどい痛みが治った事を身体に感じた。」と記されています。彼女は常に痛みを持ちながら生活していたのですが、瞬間的にいやされたのです。

しかしイエスさまは自分から力が流れたのを感じたのです。すぐにふり返って、「誰ですか、わたしにったのは」と周りを見回したのです。すると恥ずかしながら、この女性が「ったのは私です」と申し出たわけです。その時、彼女はイエスさまに怒られると思った事でしょう。しかし怒られるどころか、素晴らしい希望の言葉をいただきました。その言葉は、「娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。安心して行きなさい。病にかからず、健やかでいなさい。

この言葉を受けた時、どんなにか嬉しかった事でしょう。今までの12年間の苦労は、瞬間的に消え去ったはずです。そればかりか、『これからも病気にかからず、健やかでいなさい』と。いやしの源であるイエスさまから声をかけて頂いたわけです。彼女は身体も心もいやされ、その上、未来も祝福されたのです。

聖書には色々な訳があり、私たちは新改訳ですが、マルコの福音書5:34を口語訳で見ますと、『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい。」

すっかり治って達者でいなさい」今日このみ言葉を自分に直接、イエスさまから語って頂いた言葉として、受け取ってください。今日皆さんにイエスさまは語って下さるのです。『安心してりなさい。病にかからず、すこやかでいなさい。達者でいて下さい。

この箇所から、聖書の神様がどのようなご性格か、良くわかります。私たちの神、イエスさまは徹底的に良いお方です。賛美の中でも「あなたは良いお方です」とありますが、私たちが信じ仕えている神様は、とことん良いお方です。

しかし東洋人が持っている神概念は「神が愛して下さる」などとは、ほとんど考えていません。背後に火がめらめらと燃え、剣を持つ不動明王に「愛してもらいたい」と思う人はあまりいません。「やめてくれ、持ちがい。」という人がほとんどだと思います。

こういう仏教の背景がある東洋の神々は愛してもらいたいような存在ではないのです。「よくめば神になるけど、放っておけば鬼になる。」という神々ですから、神にもなるし鬼にもなると言う事は、もともと鬼だという事です。そんな神々に愛してほしくはないのです。だから神の愛など、わからないわけです。

しかし教会に来ると、徐々にわかります。「本物の神は、とことん良い方なんだ」と。天地万物を造られた神がおられますが、その方は人類の歴史の中に人間として現れて下さいました。それがイエスさまです。神様は人間に対して、よくメインテナンスして下さっていると思います。人間を作りっぱなしではなく、自ら人となり、人間の世界に潜り込んで、人がどう機能しているかをチェックして下さいました。自ら人を体験して下さったわけです。なおかつ私たちを助け、救って下さるのですから、素晴らしいではないでしょうか。私たちが信じ仕えている神様は決して怖い方ではなく、良い神様なのです。

しかし特に日本の神々は、「言う事を聞いたら、取引してもいいぞ」という「取引の神」みたいです。神社などに行くと、必ず向こうからの要求があります。それがどういうものかと言うと、「こうめ!」という指示があります。神社に行くと、どうでしょうか。本殿の前まで行かなければならず、遠くからは拝めないのです。そして要求される作法があります。日本の偶像礼拝には全て作法があります。神社でも、「一度をし、二回拍手をし、二回をする」とか、作法が記されています。ちゃんと指示通りにやらないと、「罰がたる」というのです。

しかし聖書の神様はそういう方ではありません。とことん良いお方です。この女性がいやされたのも、別に聖書から指示されて、法則に従ったから治ったのではないのです。恥ずかしいから、後ろから着物をちょっと触ればという、普通から言えば勝手な解釈です。それにも関わらず、彼女はいやされました。その後も怒られるわけでもなく、彼女の未来まで含んだ言葉まで頂きました。この所を見たら、私たちの神様は素晴らしい神であることがわかります。どんな方法でも、ただイエス様のほうに向き、イエス様を仰ぎ期待したら、どんな所にいても祈りを聞いて下さるお方です。

今話したように、神社の本殿前に来いとか、仏壇の前に来い、仏像の前に来い、金を払えとか、そういう事は一切ありません。どこでも祈れるというのが聖書の素晴らしい世界です。

皆さんは日曜礼拝に参加して下さっていますが、決して義務だとか、来なければ一週間悪い事がありそうだから、イエスさまが怒るから、などと思わないで下さい。絶対にそんな事はありません。来たら、来ただけ素晴らしいですし、また兄弟姉妹とも会う事が出来て素晴らしいです。しかし「行かないと、危ない」などと思ってはいけません。来ることが出来ない週でも、同じように守って下さいます。

私は、教会とは一年に一度来ても、二年に一度しか来られなくても、敷居が高くない所にしなければならないと思っています。皆色々な事情がありますから、教会は一年に一度しか来られない人も、二年に一度しか来られない人も、同じように祝福を受けることが出来る場所であるべきです。「何だ、お前は一年に一度しかていないじゃないか」と怒られることは決してありません。来られなくても、神様は私たちを愛して下さっています。ぜひ「愛なる神様」に仕えている事を知って頂きたいと思います。

だからこの御言葉、『娘よあなたの信仰があなたを救ったのです。安心してりなさい。病にかからずすこやかでいなさい。』は、この女性だけではなく、全ての人に語られている御言葉なのです。私たちの神はどんな環境の中でも助け、守って下さるのです。

今日も色々な環境の中から来られています。クリスチャンホームの方もおられますし、誰もクリスチャンはいない、たった一人と言う方もおられます。「私にはいがある」という方もおられます。しかし主は同じように、いやそれ以上に主は助けて下さるお方です。一週間の間に色々な場所に遣わされるかもしれませんが、どこでも主は祈りを聞いて下さる事を心に刻んで祈り続けたいと思います。

聖書を読んでいくと、次から次へと場面が転換していきます。一つ新しい事が起こり、それが終わらないうちに次のことが起こる、それが聖書だと思うかもしれません。しかしよく読むと、聖書のストーリーにはテーマがあることがわかります。

今日読んだのはマルコの福音書5章ですが、3章から連続で読んでいくと、一つのテーマが貫かれている事がわかります。イエスさまが12人の弟子を選び、「悪霊に立ち向かい、勝利する」を授け、神の国について語り、彼らを遣わしていくのです。その実際の訓練として、イエスさまは弟子たちを連れて、ガリラヤ湖を渡った向こう岸、ゲラサに行ったわけです。イエスさまがそこに行く途中、大風が吹いたと記されています。あわや舟が沈没しそうになった事が記録されていますが、イエス様が「れ、まれ!」と風と波を叱ると、瞬間的に風と波が止まったのです。その後、イエスさまが弟子たちに言われたのは、『どうしてそんなに怖がるのです。信仰がないのはどうしたことです。』と語られました。弟子たちに「お前たちには信仰がない」と言われたのです。そして5章に入ると、悪霊に支配されていた男が解放され、それに続くストーリーが会堂管理者の娘が死にそうなので、助けて下さいという願いです。すると、イエスさまは会堂管理者の家に、「行ってあげましょう」と言い、死にかけている少女の所に出向いて行くのです。

しかしその途中に挿入されたかのように、一つの事件が起こるのです。それが12年間血の病の女性が突然出て来て、イエスさまの着物を触り、いやされたという流れです。その女性がいやされた時に主が語られた言葉が、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」ということでした。

イエスさまの体から力が流れて女性はいやされたのですが、イエスさまは「俺がいやしてやった」とは言われず、「あなたの信仰があなたを救った」と語られました。

そんな奇跡が起こって喜んでいる最中に、イエスさまにとって本当の目的であった死にかけていた娘が死んだという、悲しい知らせです。「先生、もうなくてもいいです。あの少女は死んでしまいました。」という知らせが届きました。最悪の結果でした。一方では華々しい事が起きているのにも関わらず、本編は敗北のようです。行く途中、偶然のように事件が起こり、女性はいやされたものの、少女は死んでしまったのです。そのことを聞いて、皆は戸惑ったと思います。

イエスさまと一緒に会堂管理者の家に向かっていった弟子たち一行は、「なんてことだ。この女性が割りんでたものだから、少女は死んでしまったじゃないか。」と怒ったのかも知れません。この女性はすぐに死ぬような事はありませんでした。歩いてイエスさまに近づく事が出来たぐらいですから。優先順位としては、少女のいやしを優先し、急がなければならない状況だったのです。このストーリーは、こちらを立てればあちらは立たず、というような事ではないでしょうか。一方では、うまく行くけれど、こっちはうまくいかないのです。

人生の中でも、時にそのような事があります。私も色々な方々のために祈りますが、一方ではうまくいくけれど、一方ではうまくいかない事があるのです。そういう時は、「なぜだろう。あっちはうまくいったのに、何でうまくいかないんだろう。」と不信仰になります。

皆さんもそんな時があるのではないでしょうか。ある意味、イエスさまも同じような状況でした。一方では12年間どうにもならない女性がいやされ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。病にかからずにすこやかにりなさい。」と語っていたら、こんどは「少女は死にました。なくて良いです。」という悪い知らせを聞いたからです。しかしイエスさまはその時、何と言われたのでしょうか。マルコの福音書5:36、『イエスは、その話のことばをそばで聞いて、堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

実は、先ほども言ったように、聖書には一つのテーマがあり、それが貫かれているのです。そのテーマは「信仰」です。風が吹いた時にも、12年間苦しんだ女性にも、そして娘が死んで動揺している中でも、「恐れないでただ信じなさい」と信仰について語られたのです。

私たちの人生の中で最も重要なのは、信仰です。信仰は「信じて仰ぐ」と書きますが、どういう意味かと言うと、聖書にその定義があります。へブル人への手紙11:1です。『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』これが信仰の定義です。分かりにくいようですが、リビングバイブルを引用しますと、『信仰をどう定義したらよいでしょう。それは願い事が必ずかなえられるという不動の確信です。また何が起こるかわからない行く手にも望み通りのことが必ず待ち受けていると信じて疑わない事です。』つまり「必ず主は良くして下さる」という確信を持つことが「信仰」だというのです。まだ見てはいない、受け取ってはいないけれども信じる事、それが信仰です。

しかし私たちの信仰が時々、自己実現的になる場合には注意が必要です。「自分の願望がかなうように」という視点ではいけません。信仰には、「主のみ心がなりますように」という中心軸があるのです。信仰は「主の計」の実現に関わっていくわけです。しかし聖書を見ると、信仰が大変重要であるとわかります。信仰を固く持つ時、主が扉を開いて下さるのです。しかしそれを聞くと、少々心が暗くなります。「やはり信仰が深くないと、キリストではやっていけないのかな」、「信じきる事が出なければ、神いてくれないのかな」と少しへこみます。信仰を強調されると、ある人は「クリスチャンになって日がいから、私には無理だ。」と思うかもしれません。

しかし12年間苦しんでいた女性に対して、イエスさまが信仰として扱われた事柄は難しいことではありませんでした。先ほども少し触れましたが、この女性が信仰と評価されたことは、全く勝手な彼女の思いこみでした。「イエスさまの所に行って、その衣にちょっとれたら治る。」と勝手に考え、それを実行したのに過ぎません。ある意味、その行為はちょっと呪術的です。時々、神社や寺に行くと、「病が治りますように」と願いをかけて、像を触ったりしています。彼女の根底に、もしかしたら同じような考え方があったのかもしれません。それでイエスさまの衣に触れば、何か御利益がある、くらいの考えかもしれません。

しかしそんな中でも神の業は現されたのです。ここから何が言えるのかと言うと、先ほど語ったように、「は良い方である」と言えるとともに、「フォカスがイエスさまにたる時、一見幼稚に見える行動も、信仰として評される」ということです。「イエスさまに期待することが信仰であり、その時、信仰の鍵が動いた」という現実を見るのです。

私も時々、どう信仰を持てば良いのかわからない時があります。しかし「信仰」とは、単純に「イエスさまに期待する」事です。イエスさまに期待する中で、主は大きなみ業を現わして下さると、ここで教えているのです。だから今週、私たちはただイエスさまに期待しようではありませんか。信仰のレベルが高いとか、低いとか、それはあまり関係ないのです。12年間長血の女性が自分勝手な解釈で、「イエスさまにったら、いやされるかもしれない」と考えました。彼女がただイエスさまに期待したように、私たちも主に期待するのです。今日もし皆さんの中に色々な問題があっても、イエスさまに期待していくなら、必ず勝利があります。今日もイエスさまは私たちに語って下さっています。あなたの信仰、すなわち「イエスさまにする期待」があなたを直すと。「安心してりなさい。病にかからず、すこやかでいなさい。」と語って下さるのです。イエスさまに期待し、安心して帰ったら良いのです。そこに必ず勝利がある事を学ぶ事が出来るのです。

皆さん、この12年間長血を患った女性はイエスさまに助けてもらいました。しかし少女は死んでしまったのです。しかしイエスさまは死んだ少女の手を取って「タリタ、クミ!」と。訳して言えば、「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」と言われると、「すぐさま少女は起きあがってき始めた」と記録されています。

死人も生かす事が出来るイエスさまに、全幅の信頼を置き、敵と戦っていくならば、私たちの信仰の人生は捨てたものではないのです。元気に生きる事が出来るはずです。今日皆さんに主は語っておられます。「安心してりなさい。病にかからず、すこやかでいなさい!」この御言葉を自分に語って頂いている言葉として受け取り、安心してイエスさまに期待して、お帰り頂きたいと思います。
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