メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
コリント人への手紙第一13:1-13 (愛がなければ)
投稿者
tbic
投稿日
2025-09-21 18:25
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コリント人への手紙第一13:1-13 「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
職場や学校、近所において、あるいは私たちが関わるすべての人々において、好きな人、気に入った人がいます。その反対に、嫌な人、気に入らない人がいます。うちの教会だけでなく、あらゆる教会の中においても、そのように気に入った人、あるいは気に入らない人というように選びながら、私たちは接しています。しかしクリスチャンであるということから、自分の気に入らない人たちに対しても、愛をもたなくてはならないと思ってしまいます。このことは、つまりクリスチャンになるということは、気に入らない人に対しても、好きにならなければならない、好意を持たなければならないと考えてしまうということです。そのことから、聖書の中で愛について書かれているところを読んで、愛のことを思えば思うほど、落胆してしまうことが正直な気持ちです。しかし本当に私たちは無理にでも、自分の心を偽りながらも、人を愛さなければならないのでしょうか。この考えから、聖書が示す愛というものを、どう考えて良いのか、皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
先程読んだ、本文のコリント人への手紙第一の13章全体は、「愛の讃歌」と呼ばれています。愛を褒めたたえている歌であるということです。愛についての讃美歌といっても良いでしょう。この全体を見ますと、愛というものが語られていることは、クリスチャンではなくても、よくわかると思います。イエス様のことを知らなくても、イエス様を信じなくても、この13章の全体を読むだけでも感動し、みんな13章の最後の13節、「一番すぐれているのは愛です」という言葉の偉大さに、心を引かれると思います。そのように、この箇所はだれにでも感動を与えるところです。しかもこの箇所があまりにも偉大過ぎて、読むだけで愛というものが自分には分かりきっていると思い込んでしまいます。そのため、私たちが持っている愛に対する考え方によって、この箇所で語られている愛というものの本当の意味を見失ってしまう可能性もあります。「キリスト教は愛の宗教である」と一般的には言われています。イエス様ご自身も「愛」について説明されたし、聖書全体が愛について語られているからです。
それでは愛とは一体何でしょうか。特に愛とは、こういうものだということが4-7節のところに記されています。ここで示されている愛というのは、実際に人が生きていく生き方、あるいは生活の態度を説明しているのです。このコリント人への手紙は使徒パウロがギリシャの町にあるコリントの教会に送った手紙です。パウロは愛というものが人の行動やその生活の中でちゃんと生かされ、現われなければならないと思ったのです。それでパウロはこの手紙の中に愛というものが、どういうものであるかを記しました。もちろん愛は具体的にこういうものだと言うことはできませんが、愛が生かされると、こうなるということをここで語っています。4節のところを見ますと、いきなりパウロは「愛は寛容であり」ということから、愛について書きはじめます。これは愛についての一般の説明をくつがえすものでもあります。普通「愛というものは美しいもの、楽しいもの、喜ばしいもの、情熱的である」というように考えられていると思います。だから一般的に愛は寛容であるとは、私たちは言わないのです。しかし私たちも愛というものが寛容に通じていることを知っています。もしかしたら、みなさんの中でも愛という名のゆえに、寛容しているという方もいらっしゃると思います。しかしもしかすると、愛とは名ばかりで、嫌で、仕方がないけれど、我慢している方もいらっしゃると思います。でも、ここで言われている寛容とはそういことではありません。この「寛容」とは「気を長く持つ、忍耐」という意味です。自分の愛する相手、自分の隣人はいつでも自分に気に入ることを言ったり、したりするとは限りません。嫌なところが目立つこともあるでしょう。まして好きでもない人に対しては、嫌なことが気になったり、感じたりすることも多いと思います。しかしそういう人を愛するということは、愛するというよりも、その人に対して気を長く持つ、忍耐するということが一番大事であることを、ここでパウロは言っているのです。
それに続いて、「愛は親切です。また人をねたみません。」と記されています。考えてみると、ねたまない愛があるのでしょうか。私たちは、愛すれば自分のものにしたいと思ってしまいます。独占したいと考えるということです。つまり私たちは愛にねたむことが当然だと考えています。次に「愛は自慢せず、高慢になりません。」と記されていますが、これは愛については、あまりにも考えにくいことであり、無関係だと思ってしまいます。まして5節で記されているように、「愛は礼儀に反することをせず」という言葉ほど理解できないものはないと思います。それは私たちが人を愛したら、礼儀などは無視しても良いと思っているからです。愛が深くなればなるほど、多少の礼儀は許されるし、むしろ礼儀がなくなることが、愛が深まったしるしだと考える人も少なくありません。このように考えれば考えるほど、ここでパウロが言っている愛というものは、私たちが普通に考えている愛とは異なるということが分かります。つまりここで言っている愛は愛情ではありません。また愛は恋愛や好きであるという気持ちとも違うのです。そのことから、愛には非常に高い愛があれば、汚らわしいと言いたくなる愛もあるということでしょうか。私たちはもちろん愛はだれでも持っていると思っています。しかし私たちは自分の愛が完全だとは思いません。しかしながらも、もっと愛されたい気持ちは常に持っています。だからこそ、本物の愛について説明しようとすれば、難しいと思いますし、説明するのに困ってしまうこともあります。
この4-7節までの愛についてのことを注意深く見ますと、まるで人間のように愛のことが記されていることが分かります。直接に愛のある人、愛する人、愛される人と言うようには記されていないのです。ただ「愛は~である」というのです。だから私たちはこれが謎のように思いますし、人がついていないだけに、美しいものに見えます。このことから、つまり主語がわたしやあなたというような人間を表していないことから、ある人はこの愛という字は、実はイエス・キリストのことではないかと言うのです。つまり愛のことが人間のように記されているので、愛はイエス様のことを指していると言うのです。パウロがこれだけ愛のことを語っているのに、ここにはイエス・キリストの名前が一つも記されていないからです。このことから、「愛」のかわりに「イエス様」の名前を入れてお読みになってみて下さい。「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。また人をねたみません。イエス様は自慢せず、高慢になりません。」というようにです。そのようにすると、この言葉が何とすばらしく、この愛という言葉が真実であるというように心に響いてきます。
しかしもしかしたら、どうもそうは思えない人々もいるかと思います。そのような時は愛という字の代わりに、自分の名前を入れて読んでみたらどうでしょうか。たとえば、恥ずかしいのですが、私の名前は田ですので、愛の代わりに田を入れて読んでみたいと思います。「田は寛容であり、田は親切です。また人をねたみません。田は自慢せず、高慢になりません。」ここまで語っているだけで、何とも恥ずかしさで一杯になります。それと同時に自分自身の名前を入れることが何と不自然であり、嘘に満ちていることでしょう。あるいは、大きな罪を犯しているかのように感じます。みなさんも愛の代わりに自分の名前を入れてみると分かるかと思います。それでお読みになると、そのことに耐えられるでしょうか。きっと、耐えられないと思います。そこでこの箇所を自分のこととして読むと、愛のことが随分とよく分かると思います。だから私たちはここをこのように読んだらどうでしょうか。「私は寛容ではなく、私は親切ではありません。また人をねたむことばかりしています。私はつまらないことを自慢し、高慢になっています。私は礼儀も知らず、自分の利益ばかりを求めています。常に怒って、人のした悪に恨みを抱いています。不正を喜び、真理を嫌っています。そして、すべてをがまんできず、すべてに不信感を持ち、すぐ絶望的になって、なげだしてしまいます。」というように、少なくとも私自身にとっては、このように言うことが正直だと思います。このことから、私は益々、愛には値しない人間であることを思い知らされます。従って、この愛というものは、確かにイエス様のことを指しているということがよく分かります。
パウロは恐らく本当の愛、真実の愛というものが、イエス様御自身であるということを十分わかって、ここに記したと思います。だからやはりこの4節から記されていることは、私たちに愛の生活を実際に行ってほしいということですが、しかしパウロがそういう風に語っても私たちは、こんなことはできないと思えるのです。でもできない愛に、イエス・キリストによって真実な愛が与えられていることは間違いありません。だから「イエス様の愛というものを知らなければ、真実の愛もわからない」ということが見えてきます。つまりイエス様の愛なしには、愛に生きるということもできないということが言えるのです。だからイエス様の愛ということを知らなければ、この13章の愛の讃歌も、ただの美しいもので終わってしまいます。あるいは幻想や理想のものとして、こんなことはできないが、こういうような愛の生活ができたらいいなというようなことで終わってしまいます。では、イエス様の愛とはいったい何でしょうか。それよりも、そもそも神様の愛とは何でしょうか。このことが本当に自分のものにならないと、愛も、あるいは13章の御言葉も自分のこととして、はっきりと受け取ることができないということです。
聖書ではヨハネの手紙第一4:9-10にかけて、神様の愛ということがどういうことなのかを、はっきり示しています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方(独り子)によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」結局、神様が私たちを愛して下さったということです。そのために神様の大切な独り子であるイエス様が私たちのために十字架にかかり、私たちの罪の贖いとして、いけにえになったということです。これこそが、愛であるということです。私たち人間のためにイエス様が死なれたということこそが本物の愛であるということです。
ところがパウロは今日の本文のコリント人への手紙第一の13:3で「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」と語っています。しかし私たちは持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えることは、愛ではないのではないかと考えてしまいます。持っている物の全部を出してしまえば、生きられなくなるかも知れません。あるいは持っている物の全部を投げ出すことは自分の生命を捨てることになるかもしれません。誰かのために死ぬことは本当に愛なのか、疑問に思うし、しかもそれはイエス様も私たちのために死んでくださったので、同じではないかと考えてしまうのです。しかし本文の3節を新共同訳の聖書では、あえて「自分自身を誇ろうとして」と記されています。つまり誰かのために死ぬということの中にも、自分の美しい行いとして自分で満足したり、それを誇ろうとする思いがひそむということです。しかしながら私たちは何かの犠牲の死に関して、愛を感じ、心を動かされるということもよく知っていると思います。たとえば、海や川で溺れている人を助けようとして、助けようとした人の代わりに、その人が死んでしまった話だったり、あるいは車に引かれそうになった自分の子どもを助けようとして代わりに死んでしまった母親の話だったり、そのような愛の話に本当の愛を見いだすのです。そのようなニュースにクリスチャン、ノンクリスチャンと関係なく、そこに真実な愛を感じるのではないでしょうか。
まして神様の愛、イエス様の愛は、これよりもはるかに究極な愛だと思います。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。全然関係がないと思えるような私たちのためにも、イエス様は十字架につけられ、死んでくださって、私たちの罪を取り除き、救って下さったからです。実は私たちは神様から離れ、自分勝手な生き方をしていました。愛するということも、自分の気に入った人を愛すれば良いと考えて、自己中心の愛に生きていたのです。生きるということも、愛するということも、自分がまるで神のようになって、自己中心に物事を考えていたということです。そのように自己中心に考え、神様なんか要らないと思っていた私たちの罪を取り除くために、神様は独り子をこの世に送って下さいました。しかし私たちは、その独り子であるイエス・キリストを十字架につけて殺したのです。このことは、私たちには関係がないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそのような私たちの考えがイエス様を十字架につけたのです。ある人が愛の反対は憎いや嫌いということではなく、無関心であると言いました。私たちの無関心がイエス様を十字架につけたということです。イエス様は御自分が憎まれても、嫌われても、しかしそれでもなおイエス様は私たちを愛しておられます。それは神様がかけがえのない人間として私たち一人一人を愛されたからです。だから具体的な目に見える形として、神様は大切な独り子であるイエス様を十字架につけて、私たちに愛を示されたのです。
そのことから神様の愛とはイエス様によって救われ、私たちの罪が赦されたことにあります。愛とは赦しであるということも言えるのです。自分が赦される必要がないと思っている人は決して人を赦すことができません。これは神様から愛される必要がないと思っている人は神様も愛せないし、人も愛せないということです。しかしそれにもかかわらず、神様は私たち一人一人に愛を注いで下さっています。だから私たちは神様が私たちを愛して下さっていること、私たちの愛がイエス様によって与えられていることを信頼して、歩んでいきたいと思います。私たち人間が求める愛は決して自分たちの努力によって、何とかなるようなものではありません。何よりも、すべての人に愛を持って接することは、イエス・キリストなしにはありえません。つまり私たちが神様に愛されていることを実感することは、イエス様を通してしかありえないということです。まだイエス様の愛に気づいていない方は、イエス様がどんなに私たちを愛して下さっているのかを、聖書を通して知ってもらいたいと思います。そして私たちは神様が私たちを愛して下さっていることを素直に受け止め、イエス様の愛に答えて、さらに神様から力をいただきながら人々を愛し、愛の生活をしていきたいと思います。お祈りします。
愛する天のお父様、主の日に私たちを教会へ招いてくださり、愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守り、神の御言葉によって、新しい恵みが与えられていることを、心から感謝を申し上げます。私たちは日頃の生活の中で、愛が足りないことを覚えて過ごしています。時には自己中心の愛や考えから、人々をきずつけ、いらだちながら、生活を繰り返しています。しかしそのような私たちでさえも、神様は愛を与えてくださり、何よりも私たちを愛してくださいました。それは神様の大切な独り子であるイエス様を十字架につけるほどの愛です。どうか私たちが神様の愛を受け入れ、イエス様のことを信頼していくことができますように。また神様のことを愛して、その愛によって好きになれない人々をも愛していくことができますように。そしてまだイエス様の愛を知らない人々にも、イエス様がどんなに私たちのことを愛しておられるかということを気づかせてくださいますように。何よりも私たちがイエス様の愛を受けながら、愛の生活を行っていくこができますように。今、病の中、悩みの中、苦しみ悲しみの中にいる兄弟姉妹にも神様の愛を示してくださり、平安と慰めをお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
職場や学校、近所において、あるいは私たちが関わるすべての人々において、好きな人、気に入った人がいます。その反対に、嫌な人、気に入らない人がいます。うちの教会だけでなく、あらゆる教会の中においても、そのように気に入った人、あるいは気に入らない人というように選びながら、私たちは接しています。しかしクリスチャンであるということから、自分の気に入らない人たちに対しても、愛をもたなくてはならないと思ってしまいます。このことは、つまりクリスチャンになるということは、気に入らない人に対しても、好きにならなければならない、好意を持たなければならないと考えてしまうということです。そのことから、聖書の中で愛について書かれているところを読んで、愛のことを思えば思うほど、落胆してしまうことが正直な気持ちです。しかし本当に私たちは無理にでも、自分の心を偽りながらも、人を愛さなければならないのでしょうか。この考えから、聖書が示す愛というものを、どう考えて良いのか、皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
先程読んだ、本文のコリント人への手紙第一の13章全体は、「愛の讃歌」と呼ばれています。愛を褒めたたえている歌であるということです。愛についての讃美歌といっても良いでしょう。この全体を見ますと、愛というものが語られていることは、クリスチャンではなくても、よくわかると思います。イエス様のことを知らなくても、イエス様を信じなくても、この13章の全体を読むだけでも感動し、みんな13章の最後の13節、「一番すぐれているのは愛です」という言葉の偉大さに、心を引かれると思います。そのように、この箇所はだれにでも感動を与えるところです。しかもこの箇所があまりにも偉大過ぎて、読むだけで愛というものが自分には分かりきっていると思い込んでしまいます。そのため、私たちが持っている愛に対する考え方によって、この箇所で語られている愛というものの本当の意味を見失ってしまう可能性もあります。「キリスト教は愛の宗教である」と一般的には言われています。イエス様ご自身も「愛」について説明されたし、聖書全体が愛について語られているからです。
それでは愛とは一体何でしょうか。特に愛とは、こういうものだということが4-7節のところに記されています。ここで示されている愛というのは、実際に人が生きていく生き方、あるいは生活の態度を説明しているのです。このコリント人への手紙は使徒パウロがギリシャの町にあるコリントの教会に送った手紙です。パウロは愛というものが人の行動やその生活の中でちゃんと生かされ、現われなければならないと思ったのです。それでパウロはこの手紙の中に愛というものが、どういうものであるかを記しました。もちろん愛は具体的にこういうものだと言うことはできませんが、愛が生かされると、こうなるということをここで語っています。4節のところを見ますと、いきなりパウロは「愛は寛容であり」ということから、愛について書きはじめます。これは愛についての一般の説明をくつがえすものでもあります。普通「愛というものは美しいもの、楽しいもの、喜ばしいもの、情熱的である」というように考えられていると思います。だから一般的に愛は寛容であるとは、私たちは言わないのです。しかし私たちも愛というものが寛容に通じていることを知っています。もしかしたら、みなさんの中でも愛という名のゆえに、寛容しているという方もいらっしゃると思います。しかしもしかすると、愛とは名ばかりで、嫌で、仕方がないけれど、我慢している方もいらっしゃると思います。でも、ここで言われている寛容とはそういことではありません。この「寛容」とは「気を長く持つ、忍耐」という意味です。自分の愛する相手、自分の隣人はいつでも自分に気に入ることを言ったり、したりするとは限りません。嫌なところが目立つこともあるでしょう。まして好きでもない人に対しては、嫌なことが気になったり、感じたりすることも多いと思います。しかしそういう人を愛するということは、愛するというよりも、その人に対して気を長く持つ、忍耐するということが一番大事であることを、ここでパウロは言っているのです。
それに続いて、「愛は親切です。また人をねたみません。」と記されています。考えてみると、ねたまない愛があるのでしょうか。私たちは、愛すれば自分のものにしたいと思ってしまいます。独占したいと考えるということです。つまり私たちは愛にねたむことが当然だと考えています。次に「愛は自慢せず、高慢になりません。」と記されていますが、これは愛については、あまりにも考えにくいことであり、無関係だと思ってしまいます。まして5節で記されているように、「愛は礼儀に反することをせず」という言葉ほど理解できないものはないと思います。それは私たちが人を愛したら、礼儀などは無視しても良いと思っているからです。愛が深くなればなるほど、多少の礼儀は許されるし、むしろ礼儀がなくなることが、愛が深まったしるしだと考える人も少なくありません。このように考えれば考えるほど、ここでパウロが言っている愛というものは、私たちが普通に考えている愛とは異なるということが分かります。つまりここで言っている愛は愛情ではありません。また愛は恋愛や好きであるという気持ちとも違うのです。そのことから、愛には非常に高い愛があれば、汚らわしいと言いたくなる愛もあるということでしょうか。私たちはもちろん愛はだれでも持っていると思っています。しかし私たちは自分の愛が完全だとは思いません。しかしながらも、もっと愛されたい気持ちは常に持っています。だからこそ、本物の愛について説明しようとすれば、難しいと思いますし、説明するのに困ってしまうこともあります。
この4-7節までの愛についてのことを注意深く見ますと、まるで人間のように愛のことが記されていることが分かります。直接に愛のある人、愛する人、愛される人と言うようには記されていないのです。ただ「愛は~である」というのです。だから私たちはこれが謎のように思いますし、人がついていないだけに、美しいものに見えます。このことから、つまり主語がわたしやあなたというような人間を表していないことから、ある人はこの愛という字は、実はイエス・キリストのことではないかと言うのです。つまり愛のことが人間のように記されているので、愛はイエス様のことを指していると言うのです。パウロがこれだけ愛のことを語っているのに、ここにはイエス・キリストの名前が一つも記されていないからです。このことから、「愛」のかわりに「イエス様」の名前を入れてお読みになってみて下さい。「イエス様は寛容であり、イエス様は親切です。また人をねたみません。イエス様は自慢せず、高慢になりません。」というようにです。そのようにすると、この言葉が何とすばらしく、この愛という言葉が真実であるというように心に響いてきます。
しかしもしかしたら、どうもそうは思えない人々もいるかと思います。そのような時は愛という字の代わりに、自分の名前を入れて読んでみたらどうでしょうか。たとえば、恥ずかしいのですが、私の名前は田ですので、愛の代わりに田を入れて読んでみたいと思います。「田は寛容であり、田は親切です。また人をねたみません。田は自慢せず、高慢になりません。」ここまで語っているだけで、何とも恥ずかしさで一杯になります。それと同時に自分自身の名前を入れることが何と不自然であり、嘘に満ちていることでしょう。あるいは、大きな罪を犯しているかのように感じます。みなさんも愛の代わりに自分の名前を入れてみると分かるかと思います。それでお読みになると、そのことに耐えられるでしょうか。きっと、耐えられないと思います。そこでこの箇所を自分のこととして読むと、愛のことが随分とよく分かると思います。だから私たちはここをこのように読んだらどうでしょうか。「私は寛容ではなく、私は親切ではありません。また人をねたむことばかりしています。私はつまらないことを自慢し、高慢になっています。私は礼儀も知らず、自分の利益ばかりを求めています。常に怒って、人のした悪に恨みを抱いています。不正を喜び、真理を嫌っています。そして、すべてをがまんできず、すべてに不信感を持ち、すぐ絶望的になって、なげだしてしまいます。」というように、少なくとも私自身にとっては、このように言うことが正直だと思います。このことから、私は益々、愛には値しない人間であることを思い知らされます。従って、この愛というものは、確かにイエス様のことを指しているということがよく分かります。
パウロは恐らく本当の愛、真実の愛というものが、イエス様御自身であるということを十分わかって、ここに記したと思います。だからやはりこの4節から記されていることは、私たちに愛の生活を実際に行ってほしいということですが、しかしパウロがそういう風に語っても私たちは、こんなことはできないと思えるのです。でもできない愛に、イエス・キリストによって真実な愛が与えられていることは間違いありません。だから「イエス様の愛というものを知らなければ、真実の愛もわからない」ということが見えてきます。つまりイエス様の愛なしには、愛に生きるということもできないということが言えるのです。だからイエス様の愛ということを知らなければ、この13章の愛の讃歌も、ただの美しいもので終わってしまいます。あるいは幻想や理想のものとして、こんなことはできないが、こういうような愛の生活ができたらいいなというようなことで終わってしまいます。では、イエス様の愛とはいったい何でしょうか。それよりも、そもそも神様の愛とは何でしょうか。このことが本当に自分のものにならないと、愛も、あるいは13章の御言葉も自分のこととして、はっきりと受け取ることができないということです。
聖書ではヨハネの手紙第一4:9-10にかけて、神様の愛ということがどういうことなのかを、はっきり示しています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方(独り子)によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」結局、神様が私たちを愛して下さったということです。そのために神様の大切な独り子であるイエス様が私たちのために十字架にかかり、私たちの罪の贖いとして、いけにえになったということです。これこそが、愛であるということです。私たち人間のためにイエス様が死なれたということこそが本物の愛であるということです。
ところがパウロは今日の本文のコリント人への手紙第一の13:3で「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」と語っています。しかし私たちは持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えることは、愛ではないのではないかと考えてしまいます。持っている物の全部を出してしまえば、生きられなくなるかも知れません。あるいは持っている物の全部を投げ出すことは自分の生命を捨てることになるかもしれません。誰かのために死ぬことは本当に愛なのか、疑問に思うし、しかもそれはイエス様も私たちのために死んでくださったので、同じではないかと考えてしまうのです。しかし本文の3節を新共同訳の聖書では、あえて「自分自身を誇ろうとして」と記されています。つまり誰かのために死ぬということの中にも、自分の美しい行いとして自分で満足したり、それを誇ろうとする思いがひそむということです。しかしながら私たちは何かの犠牲の死に関して、愛を感じ、心を動かされるということもよく知っていると思います。たとえば、海や川で溺れている人を助けようとして、助けようとした人の代わりに、その人が死んでしまった話だったり、あるいは車に引かれそうになった自分の子どもを助けようとして代わりに死んでしまった母親の話だったり、そのような愛の話に本当の愛を見いだすのです。そのようなニュースにクリスチャン、ノンクリスチャンと関係なく、そこに真実な愛を感じるのではないでしょうか。
まして神様の愛、イエス様の愛は、これよりもはるかに究極な愛だと思います。どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。全然関係がないと思えるような私たちのためにも、イエス様は十字架につけられ、死んでくださって、私たちの罪を取り除き、救って下さったからです。実は私たちは神様から離れ、自分勝手な生き方をしていました。愛するということも、自分の気に入った人を愛すれば良いと考えて、自己中心の愛に生きていたのです。生きるということも、愛するということも、自分がまるで神のようになって、自己中心に物事を考えていたということです。そのように自己中心に考え、神様なんか要らないと思っていた私たちの罪を取り除くために、神様は独り子をこの世に送って下さいました。しかし私たちは、その独り子であるイエス・キリストを十字架につけて殺したのです。このことは、私たちには関係がないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそのような私たちの考えがイエス様を十字架につけたのです。ある人が愛の反対は憎いや嫌いということではなく、無関心であると言いました。私たちの無関心がイエス様を十字架につけたということです。イエス様は御自分が憎まれても、嫌われても、しかしそれでもなおイエス様は私たちを愛しておられます。それは神様がかけがえのない人間として私たち一人一人を愛されたからです。だから具体的な目に見える形として、神様は大切な独り子であるイエス様を十字架につけて、私たちに愛を示されたのです。
そのことから神様の愛とはイエス様によって救われ、私たちの罪が赦されたことにあります。愛とは赦しであるということも言えるのです。自分が赦される必要がないと思っている人は決して人を赦すことができません。これは神様から愛される必要がないと思っている人は神様も愛せないし、人も愛せないということです。しかしそれにもかかわらず、神様は私たち一人一人に愛を注いで下さっています。だから私たちは神様が私たちを愛して下さっていること、私たちの愛がイエス様によって与えられていることを信頼して、歩んでいきたいと思います。私たち人間が求める愛は決して自分たちの努力によって、何とかなるようなものではありません。何よりも、すべての人に愛を持って接することは、イエス・キリストなしにはありえません。つまり私たちが神様に愛されていることを実感することは、イエス様を通してしかありえないということです。まだイエス様の愛に気づいていない方は、イエス様がどんなに私たちを愛して下さっているのかを、聖書を通して知ってもらいたいと思います。そして私たちは神様が私たちを愛して下さっていることを素直に受け止め、イエス様の愛に答えて、さらに神様から力をいただきながら人々を愛し、愛の生活をしていきたいと思います。お祈りします。
愛する天のお父様、主の日に私たちを教会へ招いてくださり、愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守り、神の御言葉によって、新しい恵みが与えられていることを、心から感謝を申し上げます。私たちは日頃の生活の中で、愛が足りないことを覚えて過ごしています。時には自己中心の愛や考えから、人々をきずつけ、いらだちながら、生活を繰り返しています。しかしそのような私たちでさえも、神様は愛を与えてくださり、何よりも私たちを愛してくださいました。それは神様の大切な独り子であるイエス様を十字架につけるほどの愛です。どうか私たちが神様の愛を受け入れ、イエス様のことを信頼していくことができますように。また神様のことを愛して、その愛によって好きになれない人々をも愛していくことができますように。そしてまだイエス様の愛を知らない人々にも、イエス様がどんなに私たちのことを愛しておられるかということを気づかせてくださいますように。何よりも私たちがイエス様の愛を受けながら、愛の生活を行っていくこができますように。今、病の中、悩みの中、苦しみ悲しみの中にいる兄弟姉妹にも神様の愛を示してくださり、平安と慰めをお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
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