メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

創世記15:1-7(信仰によって生きる)

投稿者
tbic
投稿日
2025-10-19 07:41
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創世記15:1-7『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」』

今日読んだ聖書の箇所はアブラムと呼ばれ、後に、アブラハムとなった男に神が直接語りかけられた箇所です。彼は父親と一緒に、古代バビロニア帝国の発祥地である「ウル」という街に住んでいました。お父さんの名前はテラと言いました。

ある日、「あなたはここから出て、わたしの示す地に行きなさい。そうしたら、あなたを祝福してあげますよ。」と語られたのです。その声を聞いた時、彼は神の声に従って出て行きました。出て行くことを決めた動機付けが何であったかというと、15:6に、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と記されています。

これは何を表しているのかというと、アブラムは「私に語りかけられたのは、天地を造られた神だ。」と信じて、まだ見ていない地に向かって踏み出したのです。その時、彼は大いなる祝福を受けたと聖書は告げています。創世記15:1を見ると、『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

神様はアブラムに「わたしの示す地に行きなさい。」と語られたのです。人間は自分の居場所を見つけると、そこから中々動きたくないものです。これから冬が来て過ぎたら、春を迎え、新しい環境に踏み出していく人もいると思います。新しい学校に入るとか、社会人になり、新しい職場に入る人もいます。しかし新しい旅立ちには不安があり、中々勇気が要るものです。しかしそんな中で、最も勇気が要る事は、自分や自分の家の宗教を変える事です。それは最も勇気が要る事かもしれません。日本の方は仏教や神道の環境の中に生まれますから、そこから出て、キリスト教に移るというと、相当勇気が要ります。最も動かしたくないのは「家の宗教」だと思われます。私は生まれた時から両親がクリスチャンでしたから、「とりあえず、クリスチャン」というような感じでした。しかし日本のクリスチャンのほとんどが仏教や神道などから宗教を変えた経験があります。

アブラハムも自分の宗教を変える決断を迫られたのです。今まで信じていた神ではなく、全く想像もしなかった神の声を聞いて従っていったのです。その神が「わたしについておいで」と語られたのです。彼はかなり混乱した事と思います。しかし決断して、「よし、この方についていこう。」と決心しました。神を信じた時、彼の人生は変わりました。その勇気は大したものだと思います。それは世界のほとんどの人が天地万物を造られた神の事を知らなかった時代だったからです。そんな中で、神に従っていく事には、大きな勇気が要ったのかもしれません。

しかし今の時代、信仰を持つのは、そんなに難しいことではありません。なぜなら、私たちの信仰は教えだけではなく、その根源もちゃんと検証出来るからです。また信仰のために戦ってきた信仰の先輩たちも数多くいますから、彼らの信仰に習う事も出来るからです。だから今日私たちはいとも簡単に信仰を持つ事が出来るのです。一番良い時代に生きている事を感謝しなければいけないと思います。

アブラムが神からの声を聞いた時、彼はけっこう年をとっていました。その時、神が何と語られたかというと、「あなたに子供が生まれます」と言われました。実はこのアブラムが、自分の子供を得た年齢は何歳だったのかというと、実に「百歳」でした。だから90代の老人に対して「あなたの家に子供が生まれます」と神は言われたのです。普通では絶対に信じられない事ですが、何と神はそれを成し遂げて下さいました。そして名前も「アブラム(尊い父)」から「アブラハム(民の父)」に改名されました。彼にとっては未知数でしたが、神に従っていった時に、大いなる祝福を受けたのです。

私たちもアブラハムと同じように、祝福された人生を送る事が出来るのです。聖書に記されている事は事実だと分かれば、信仰を持つ事は容易になります。私たちはただイエス様を信頼して、ついていけば良いのです。へブル人への手紙11:1、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』まだ見てはいないけれど、先取りして信じる事、それが信仰です。神が言われた事はまだ起こってはいないけれど、先に信じて受け取る事が信仰です。そして、アブラハムに語られた言葉は、同時に現代を生きる私たちに語られた言葉だと聖書は告げています。

ガラテヤ人への手紙3:7-9、『ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

信仰の原則は、決断と共に神の祝福を受けるものです。教会に来て、私たちは何をつかむのかというと、「信仰」を掴むのです。その信仰の中に人生の祝福が隠されているのです。

実は創世記15章に神の言葉が記されていますが、それはアブラハムにとって始めての経験ではありませんでした。すでに前もって、12章で神様が祝福の言葉をアブラムにかけられている事がわかります。神様は一度声をかけて、それに応答しないからといって、あきらめる方ではなく、何度も何度も声をかけて下さる優しい愛を持った方である事がわかります。

創世記12:1-3を見ると、『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

この言葉は素晴らしいです。アブラハムに語られた言葉を信仰によって、自分に与えられた言葉として受け取るなら、アブラハムにだけではなく、私たちにも祝福が来るのです。これは、私たちに語られている言葉です。「わたしはあなたを大いに祝福します。あなたの名は祝福となる」と神は語っておられます。

名前は体を現わす」という言葉がありますが、聖書の世界は実にそれです。名前がその人の人生全体を表します。という事は、皆さんがイエス・キリストを信じたら、皆さんの名前は「祝福」という名に変えられているのです。そしてアブラハムが受け取った祝福の中身を見ると、「こんなに素晴らしい物をもらったのか」と分かります。私たちも主を信じたら、同じように素晴らしい祝福を頂く事が出来るはずです。

創世記13:2を見ると、『アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた』と記されています。彼は経済的な祝福を受けていたのです。皆さんはいかがでしょうか。信仰を持つなら、経済的祝福も、その中にあるのです。しかし「私は主を信じたのだから、経済的にも祝福されるべきだ。」という姿勢ではいけません。アブラハムはそのようではなかったからです。実は、アブラハムは気がつくと、全ての領域で祝福されていたのです。創世記24:1、『アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。』彼は気づいたら、祝福されていたのです。

キリスト教の世界には様々な神学、聖書理解、考え方などがあります。現在、世界で議論の的となっているのが「繁栄の神学、繁栄の福音」などと呼ばれる神学です。それは、「アブラハムが祝福されたのだから、私たちも祝福されるべきだ。神様、あなたは私を祝福すべきです。」と積極的な信仰、可能性思考的に生きて行けば、祝福を勝ち取る事が出来るという教えです。

しかしそれはアブラハムの祝福とは逆の間違った考え方です。私たちは祝福を「勝ち取らなければ」というのではなく、信仰の世界に入っていくと、アブラハムと同じように、気がついたら祝福されているのです。経済的に祝福されるべきとか、可能性思考に生きて行くというものではなく、アブラハムが年を取った時、「気がついたら、あれ、私って祝福されてる」ということでした。彼は祝福を意識していたのではなく、気がついたら、祝福されていたのです。

信仰の原則は決して自己実現ではありません。信仰とは自分の願望を果たすための手段や道具ではなく、「気がついたら、祝福されている」事なのです。祝福を真剣に求めなければ与えられないというのではなく、主と共に歩むようになれば、「気がついたら、祝福されている」という事です。

今、ここで皆さんと共に礼拝を守る事が出来ていますが、それは本当に感謝な事です。こうして素晴らしい場所があり、エアコンで温度も調整された中で快適に礼拝出来るのは、本当に感謝です。だから信仰は、決して勝ち取る物ではなく、気がついたら、祝福されている事に気がつくのです。

アブラハムに約束の子のイサクが生まれ、またイサクにはヤコブという子供が生まれました。ヤコブには12人の子供が生まれ、祝福はアブラハムだけに留まらずに家系に受け継がれるのを見る事が出来ます。

今日、ここにおられる方々の中で、「私は大変な迫害の中で、クリスチャンになりました」という方もいますし、気がついたら、私のようにクリスチャンファミリーに生まれていましたという人もいると思います。さらにクリスチャン四代目、五代目もいます。彼らがどんな人生を歩んでいるのか、検証出来るわけです。

実は、これは聖書の中にそのモデルがあります。このアブラハムの二代目のイサクに、神が何と語られたのかというと、創世記26:24を見ると、こうなっています。『主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」

二代目のイサクに「あなたを祝福しますよ」と語られたのですが、なぜ祝福されたかというと、「わたしの僕アブラハムのゆえに」と語られたのです。初代のクリスチャンには、大きな戦いがあります。中々、クリスチャンとして家族の中でやっていくのは大変です。頑張って信仰を持ち、力強く前進して頂きたいと思うのですが、実は本当に大変です。しかし頑張って下さい。なぜなら、それは一代目だけで終わるのではなく、次の世代にも関わる事だからです。

なぜ、アブラハムの息子、イサクが祝福されたのかというと「アブラハムの故だ」というのです。私に置き換えてもそうです。なぜ私が祝福されたのかというと、「父、また祖父のゆえだ」と言われるかもしれません。皆さんの家族が、みんなクリスチャンであるなら、感謝して下さい。初代のクリスチャンであれば、必ずその祝福は子供たちに受け継がれるのです。そして子供たちが祝福された時、神は言われるのです。「あなたが祝福されたのは大変な中で信仰を持った、あなたのお父さん、お母さんのゆえですよ」と。

続いて三代目ヨセフには何と語られたかというと、創世記49:25-26に、『あなたを助けようとされるあなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。

何と、三代目に至っては、祝福はさらに拡大され、『上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福』でした。天においても地においても、全ての領域を包括するような祝福が三代目にはあったのです。何と、私たちが受け取る祝福は、その代だけで終わるものではなく、二代目、三代目、四代目と受け継がれていくのです。アブラハムの祝福は、「千代に至る祝福」につながっていきます。なんと感謝ではないでしょうか。多少は戦いがあるかもしれませんが、未来のために戦っていきましょう。世の中では神社の祭りがあり、偶像礼拝がなされていますが、そんな中でも、信仰を告白し、力強く歩んでいくことは大切です。

それでも、「信じるのは中々難しい。聖書も難しい事を言っているし」と言う人がいます。しかし信じる事は本当に難しくありません。漢字がそれを表しています。「信じる」という漢字は人べんに「」という部位で構成されています。つまり信じるとは、「私はイエス様を信じます」と告白すれば、いいだけです。それが信じることです。

以前、12年間病を患っていた女がイエス様の衣にちょっと触れるという勝手な解釈の信仰を実行した事により、癒されたという話をさせて頂きました。彼女は「もしもイエス様の衣に触る事さえできれば癒されると思っていた」と新改訳では訳されているのですが、英語の訳では「彼女は着物に触る事さえ出来れば癒されると『言っていた』」と訳しています。「私は今は病気だけど、イエス様の衣にちょっとでも触る事さえ出来れば、癒されるかもしれない。」と周りの人々に語っていたのです。それが「信仰」でした。

皆さん、是非とも自分の信仰を口で告白して頂きたいです。周りの方々に「私はイエス様を信じています。私はクリスチャンです。」と告白するのです。信じるとは、告白そのものです。それは世代を越えて増大し、気がつけば、天でも地でも大いなる祝福として私たちを覆っているのです。

そのために、もう一つの条件があります。それを最後に学んで終りたいと思います。それが何かと言うと、先ほども言ったように、創世記12章で最初に神がアブラムに語りかけを始めた時、「あなたは、あなたの生まれ故郷の父の家を出てわたしが示す地へ行きなさい」と言われたのです。

これを聞くと、心配になります。「あれ、キリスト教も出家が必要か」出家し、家を捨てなければいけないのかと少し心配になります。しかしこれがどういう意味かと言うと、アブラムのお父さんはテラと言いました。テラは偶像の神々を信じていました。アブラハムがどこで生まれたのかと言うと、「ウル」という街に生まれたのです。今その場所が特定されていますが、考古学で発掘されているのです。そこは月神礼拝の中心地でした。またテラがウルからハランに移ったと記録されていますが、ハランもウルと同じ月神礼拝の中心地だったのです。

実はバビロニアの宗教は日本の宗教と大変よく似ていて「トーテミズム」と呼ばれるものでした。トーテムポールをご存じだと思いますが、それが街に立っていました。トーテムの一番上に乗っていたのは牛であったと言われます。ウルでは牛を神としていたのです。そんな礼拝行為をしていた場所で、彼は生まれました。日本でも牛を神とされている所もあります。

つまり「父の家から出なさい」とは何かというと、「偶像礼拝から離れなさい」という意味でした。だから私たちが祝福される秘訣は、偶像礼拝から離れる事です。申命記の11:26-28、『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

実は神に従うか従わないかというのは何かというと、偶像礼拝から離れるか否か、という事です。祝福か呪いかは「偶像礼拝に従って行ったら、呪いがきますよ。」と言うのです。なぜなら、手で造った神々は、単に物を拝むのではなく、背後に悪霊が存在するゆえに、大変な事が人生に起るのです。しかし私たちが創造主なる神を礼拝する事は、祝福につながるのです。イエス・キリストを信じるなら、呪いではなく、祝福の道です。その祝福は子々孫々流れて行きます。そして気がつけば、全ての領域で祝福されているのです。それは霊的祝福です。

エペソ人への手紙1:3、『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』またピリピ人への手紙4:17、『私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。

祝福された」というのは、ただ現実の祝福ではなく、霊的祝福なのです。霊的領域に関心を払うなら、霊的祝福を受け、その結果が地上に表されるのです。だから私たちはただ単に地上の祝福を求める視点ではいけません。私たちの受け取る祝福とは、「霊的な口座に加えられていく実なのです」。

今日皆さんはアブラハムの子孫です。神様は祝福を与えようとされていて、それを受け取るための鍵が何かというと、「信仰」です。その祝福は自分だけで終わるのではなく、代々続くものです。だから時には困難があるかもしれませんが、負けてはいけません。

ロケットを見ると三段、四段になっています。始め、一段目のロケットが点火されると、すごい推進力が必要です。重いロケットがものすごい煙を吐きながら、上がっていく光景を時々テレビで見ますが、その時が一番墜落の危険があります。しかし一段目が燃え尽きて二段目に火がつくと、今度はスピードがアップします。さらに三段目に火がつくと、今度は大気圏外に出るわけです。そして最終的には人工衛星が放り出され、自動的に地球を回る軌道に入るのです。

私たちの信仰も同じかもしれません。日本で信仰を持つのはある意味一段目の人もいれば、二段目三段目、まだ人工衛星の人は多くありません。しかしそれぞれの世代に役割があり、それぞれの時代を担って、次の世代にバトンタッチしていくのです。

教会は一段目も二段目も三段目も、互いに助け合って霊的祝福を受け取る場所です。信仰をもって前に進んでいこうではありませんか。そうすれば、主が喜ばれ、霊的祝福だけでなく、現実の祝福もいっぱい受け取ると私は信じております。
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マルコの福音書5:34(安心して帰りなさい)
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