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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ルカの福音書8:40-56(救いへの招き)

投稿者
tbic
投稿日
2025-10-25 11:44
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ルカの福音書8:40-56『さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。』

私たちの人生を考えた場合、予期せぬ出来事、予想もしないことが起きます。しかも見通しのつかないことに出会う度に、絶望感を抱くことがあります。人は映画やテレビのドラマのように、幸せになって人生の幕を閉じる、いわゆるハッピー・エンドで人生の最後を迎えたいと思っています。しかし映画やテレビのドラマ、小説にしても、いえ、それこそ私たちの人生にしても、どこかで納得いかないものに、不安感や不信感を覚えてしまいます。そのことから、私たちは納得いかないものを受け入れることができない時があります。

人間は必ず死にます。ここにいる一人ひとりの上にも死は訪れます。私たち一人ひとりはそのことをよく知っています。しかし人は誰かの死に直面した時、それが親しい人であればあるほど、絶望を抱きます。立ち上がれなくなるような悲しみ、辛さを覚えるのではないかと思います。

ではなぜ、私たちは死ぬことに対して、絶望感を覚えるのでしょうか。それは、死という絶望的な状態に対して、救いを見いだせないからです。救いがやって来ないと考えてしまうからです。このことは、病気に対して、いえ、苦しみや悲しみ、あるいは悩みに対しても、そうではないかと思います。そのように絶望感を持って、人生を歩んでいる時には、そこには少しも救いがありません。あるいは、無力感だけを感じても、救いなんかないのではないかと考えてしまいます。そのような時、私たちは神様を信じる力、信仰の力も失ってしまいます。まさに親しい人の死、あるいは自分が病気で苦しみ、悲しんでいる時には神様を信じることもできなくなっていくのではないかと思います。だから私たちが一番厳しくて悲しく、惨めな思いを生むのはそのような信仰の無力感です。それは神様を信じたって、何にもならないのではないかと思う心です。あの時、イエス様のことを信じますと言って、洗礼を受け、信仰に生きてきたはずなのに、突然信仰そのものが無力であることに気づかされます。私は「絶望を抱いた人々にとっては、信仰は果して無力なのか、死を前にして信仰は何もならないのか、救いなんかないのか、イエス様を信じて生きることは、無駄なのか」という疑問です。しかし私は聖書を通して、改めて信仰に生きる時にこそ、救いがあることを知ることができました。死や病気の中にあっても、絶望から救いへといたる道があることを改めて理解することができました。そのようなことを学ぶチャンスとして、この時間が用いられることを切に願います。今日示されている聖書の物語から、新ためて神様を信じる信仰のことを考えていきたいと思います。

さてルカの福音書が伝えようとしている二つの物語が本文に記されています。その物語に二人の人物が登場するのですが、一人はヤイロという名前をもつ男性で、もう一人は名前のない女性です。この二人の人物を中心にして、二つの物語が展開して行きます。まるで合わさって一つの物語のように語り伝えられています。だから本文の聖書の物語を一つの物語として見ることができます。この二人の人物に共通していることは、絶望の中にあったということです。しかも予期せぬ出来事に出会ったということです。最初に出てきた人物であるヤイロという人は、会堂司だと記されています。会堂司とは、イスラエルの各地にある神を礼拝するための会堂の責任者で、ユダヤ人たちにとても尊敬されていた人物です。恐らく、その地方で立派な地位があった人でしょう。このヤイロという名前がきちんと聖書に記されていることから、後の教会の人々も、この人物をよく知っていたことが分かります。本文は42節で「12歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。」とその時の様子を正確に描いています。病気か何かで、ヤイロの12歳の一人娘が死にかけていました。当時のイスラエルにおいては、12歳とは、結婚してもいい年頃であると考えられていました。しかもヤイロにとっては、一人娘です。一人娘の幸せを願っていた父親にとって、娘がもう結婚してもいい年頃になっていたということは、とても大きな喜びだったと思います。私にも結婚の年頃の娘がおりますので、人ごとではないと思います。ヤイロにとっては、ここまでよく娘が育ってくれたという思いがあったに違いありません。ところが結婚できるまでに育った一人娘が突然、死んでしまったのです。イスラエルにとって、12という数は喜びを意味するものであり、輝かしい意味を持っています。それだけに、このヤイロにとっては一人娘が輝かしい12歳になって、これからという時に、なぜなのかという思いがしたのではないかと考えられます。父親としてヤイロは深い絶望を抱えてしまったということです。「なぜ、こんな思いをしなければならないのか!」地位が高く、りっぱな人だったのですが、絶望の中でどうすることもできなかったのです。そのような絶望の思いから、イエス様にその救いを願いました。恐らく、ヤイロはイエス様が病気を癒す奇跡を行われるうわさを聞いていて、イエス様の救いを願い求めたと思います。それでイエス様に、自分の家に来てくださるようにと願ったのです。

しかしながら、ここでも予期せぬ出来事が起きます。ヤイロの家に向かう途中で、もう一人の人物にイエス様が関わりを持つことになっていったのです。ここで、名前も年齢も記されていない一人の女性が登場します。本文はこの女性を43節で、「12年の間、長血をわずらい、だれにも治してもらえなかった」と描いています。恐らくこの女性は、何かの婦人病にかかって、出血が12年間も止まらなかったということです。とにかく12年の間、この女性は病気で苦しんでいました。どれだけ財産があったのか分かりませんが、医療費を払い尽くし、だれからも治してもらえず、絶望の中にあったのです。不思議なことに、二つの物語を見ますと、ヤイロの12歳の娘と12年の間病気だったというように、12という数字が関わっています。イスラエルでは、12は完全数です。解決の意味があるのです。この女性はヤイロの娘が生まれた時からずっと病気です。つまりヤイロにとっては娘の成長の間が喜びだった時に、この女性にとっては、病気のために苦しい年月でした。対照的に描かれてはいますが、ヤイロもまた娘が死ぬかもしれないという思いの中で力尽きていたと思います。人間は苦しみの年月に関係なく、今この時をどうにかしたいという思いが強いのです。しかしながら、この病気だった女性が12年間も、辛くて苦しく誰からも癒してもらえなかったとしたら、本当に悲惨なことだと思います。しかもこの女性が12年間の闘病生活の中で、体ばかりではなく、心も魂もぼろぼろになっていた姿を連想することができます。病は心も蝕んでいくものです。しかもこの女性にとって、12年間この病気は、解決できない問題でした。もしかしたら、この女性は自分自身を見失って、周囲を恨んだり自分を恨んだり、あるいは神様のことを恨んでいたかもしれません。

皆さん、人間にとって最大の苦しみは、解決できない苦しみではないでしょうか。誰も解決してくれない苦しみや悩みこそが、まことの苦難だと思います。しかも神様がいない、神様を認めることができないことこそが、最大の苦しみだということです。人間の苦しみは、そこから抜け出られないことが分かって諦める時に、絶望がやってきます。

そういう絶望の中にあった女性に人生の転機が訪れます。本文は44節で、その女性が「イエスのうしろから近づいて、イエスの衣のふさに触れた。すると、ただちに出血が止まった。」とその時の様子を描いています。どうして急にこの女性がイエス様のもとに来たのかは、聖書は記していません。恐らくヤイロと同じように、イエス様なら、何とかしてくださるだろうと考えていたかもしれません。しかしイエス様に面と向かって、お願いすることができませんでした。誰からも相手にされなかったこの女性は、ただイエス様の衣に触るだけでよかったのです。苦しくて、耐えられなくて、ちょっとイエス様の衣に触って見ただけです。自分の苦しみと悲しみをただイエス・キリストの衣のふさに触るということで表しただけです。しかしイエス様に関わりを持つことによって、転機が訪れました。女性は病気が癒され、助かったのです。救われたということです。でもこの女性の物語はこれで終わりではありませんでした。45-46節で、イエス様は「わたしにさわったのは、だれですか、だれかがわたしにさわりました。わたしから力が出て行くのを感じました」と言われます。イエス様は衣のふさに触った人物を捜しておられました。その時、この女性はその場をすぐに離れ、こっそりと家に帰ってもよかったはずです。しかしそれをさせなかったのがイエス様でした。ここでイエス様は、腹を立てていたのでしょうか。

その女性は、イエス様が「誰が触ったのか」という問いに対して、「私が触りました。だから救われたのです。」と堂々と人々の前に出て、告白しませんでした。つまり触ったことを恥じたのです。触ったことを恐れて、できれば隠されたままでいたいと願いました。すぐにもその場を立ち去りたいと願っていたのです。しかしもし女性がイエス様に出会うことなく、その場を立ち去ったのであれば、この女性にとって、本当の救いはありませんでした。なぜでしょうか。そうすれば、神様もイエス様も、ただこの女性の癒しの道具にすぎなかったからです。願いが叶えば、それでいいという御利益宗教になってしまうからです。それは人間中心のものになってしまいます。もしイエス様の方から声を掛けて下さらなかったのであれば、この女性はためらいもなく、その場をすぐに離れていったと思います。イエス様との関わりがなかったからです。そうすれば、彼女にとってターニング・ポイントすら起こらなかったと思います。もちろんここでイエス様はこの女性を責められたのではありません。ただご自分の助けを必要としている者が誰なのかを見極めようとされ、呼びかけておられました。イエス様の愛を必要としている者を捜し求めておられたということです。このイエス様の姿を見て、病気を癒された女性は思わずに名乗り出ました。最初は病気が癒されれば、何でもいいと考えていたのですが、イエス様の方から声を掛けられることによって、変えられたのです。結局、この女性は救いを求めるようになり、イエス様から救いが与えられました。

私たちは普段、私たちのほうから、神様との関わりを持つようにと考えてしまいます。私たちのほうが神様を必要とし、救いが必要だというようにです。しかしそうではなく、まさしくイエス様のほうから、私たちに関わりを求められ、ターニング・ポイントが生まれるということです。だからイエス様を信じる信仰とは、まさしくイエス様のほうから与えられるということが言えます。そのようなチャンスが今この礼拝を通して、私たちにも与えられています。それに応えて、この女性は47節のようにイエス様のもとにひれ伏し、イエス様の衣のふさにふれた理由と癒された経緯を人々の前で話しました。それによって、48節でイエス様が、「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と救いの宣言をなさいました。そのようにして、この女性にとっては思いがけないことが起こったわけです。

さて会堂司であるヤイロにとってもまことに思いがけないこと、予期せぬ出来事が起こっていきます。イエス様がこの12年間も病気だった女性と関わっていたために、一人娘が死んでしまったのです。その時の様子を本文の49節で、「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。』」と描かれています。この言葉を聞いたヤイロは自分の娘が死んでしまったという知らせで、心が一杯になっていたと思います。益々絶望の中に落ち込んだということです。しかしイエス様の答えは、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」という50節の御言葉でした。このイエス様の言葉を聞いたヤイロの反応は聖書には何も記されていません。「イエス様がおられるから、大丈夫だ」とか、「はい、信じます」という言葉がありません。しかしヤイロはイエス様を拒絶してはいません。「もう家には来ていただかなくても結構です」とは、言わなかったのです。イエス様のこの「ただ信じなさい」という言葉に引き込まれ、イエス様と共に娘が死んでいる家の中へと入って行きました。イエス様を否定する時間もなく、思わずイエス様の言葉に従って行ったということです。ヤイロはまさに無力で、神様を信じる力も残っていなかったと思います。ただ彼は「信じるのだ」と言われるイエス様に自分自身を委ねるだけでした。まさしくこのことからも、信仰とは人間が信じるということではないことが分かります。人間中心のことではありません。信仰は神様の側のことです。神様のほうから私たちに語りかけてくださって、私たちを引き上げて下さるときにのみ、信仰が生まれていきます。私自身も、ただイエス様の御言葉に委ねるしかありません。

ところで、ヤイロの家には娘が死んだことで悲しんでいる人々がいました。イエス様は、その死の悲しみに対して、「いや、娘は死んだのではない、眠っているだけだ」と言われました。しかし、その言葉を聞いた人々はイエス様をあざ笑ったのです。死に襲われた絶望の中で、どうにもならない現実の中で、やはり人々はイエス様を無視しました。力尽きた人々、絶望の中にある人々には、イエス様の言葉も届かない、何にも役に立たないと思います。この人々はイエス様の言葉には関心がありませんでした。まるでイエス様に関わりたくない、傍観者のような者でした。12年間病気だった女性の物語にも同じような場面があります。イエス様が「わたしにさわったのは、だれですか」という答えに対して、人々は簡単に「知らない」と答えているし、イエス様の一番弟子であるペテロさえ、「大勢の人たちが、押し合っています」と答えました。ペテロも人々も、イエス様の奇跡には気がつかなかったのです。みんな傍観者でした。これはどれだけイエス様の近くにいても傍観者である限り、無関心である限りは、救いに預かることはできないということです。しかし、それでもイエス様は今も私たちに言葉を投げかけてくださり、救いへと招いてくださっています。「恐れることはない。ただ信じなさい。」というイエス様の言葉が私たちに響いて、私たちを救いへと招いておられます。なぜでしょうか。ただ唯一イエス様だけが死を打ち破って、よみがえってくださったからです。

従ってヤイロの娘はイエス様によって、本文の54節に「子よ、起きなさい。」と呼びかけられて、死の世界から救い出されました。しかし覚えていただきたいことは、その子はやがて、また死んだのです。奇跡によって、12年間の病気から救われた女性もやがては死にました。しかしその向こうで、イエス様が十字架に掛かり、死を打ち破ってよみがえってくださったのです。そのよみがえりのイエス様が今も生きて働いておられます。そして今もなお、私たちと共におられます。しかも、さらに私たちにもよみがえりの命が与えられています。ただ、それは私たちがイエス様の救いへの招きを受け入れ、イエス様の言葉を信じて、イエス様にすべてを委ねる時に与えられるものです。その時、絶望からも死からも、解放されるということです。

お祈り、

天におられる父なる神様、私たちは死を前にして、苦しみや悲しみを前にして、絶望を抱きます。しかしその中において私たちにイエス様の言葉を通して、慰めと平安を与えて下さり、イエス様の救いの招きを与えて下さいました。どうか私たちがその御言葉に気づき、受け入れることができますように。今もイエス様が共にいてくださること、イエス様が私たちに声を掛けてくださることによって、私たち自身が主に感謝し、すべてを主に委ねていくことができますように。さらに死を打ち破ってくださったイエス・キリストの十字架と復活に生かされ、絶望の中から私たちを引き上げてくださいまように。その復活の命に私たちが預かることができますように、お導き下さい。今なお、悲しみと苦しみの中にある人々の上にイエス様の御言葉が与えられ、生きる力を、絶望からの解放を、何よりもイエス様の救いが与えられますように。この祈りを主イエス様の御名によって、御前におささげ致します。 アーメン。
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