メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ヨハネの福音書5:1-5(38年も病気にかかっている人)
投稿者
tbic
投稿日
2025-11-03 00:22
閲覧数
41
ヨハネの福音書5:1-5『1. その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2. エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。3. その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。彼らは水の動きを待っていて、4. それは御使いが折々降って水を動かす事があれば、その動きの後、最も先に池にいる者は、如何なる病気でも癒されるためである。5. そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。』
人に会う時は第一印象が大切です。私を初めて見る人はほとんど「優しく見える」「優しい人みたい」と言います。日本語で言うと「優しい人」です。職業が牧師だから、優しい人になろうと努力しているから、そうです。
聖書の中で一番優しい人のように見える方はイエス様です。イエス様を初めて見る人たちはみんな「優しい人」と言うほどでした。今日の聖書箇所にも優しいことをなさるイエス様の話が出てきます。
1) ベテスダの池
エルサレムに行くと神殿があったのですが、人々は神の家と呼びました。ユダヤ人たちは神殿を守るために城壁を高く築きました。城門を通過せずにはエルサレムの神殿に入る方法がありませんでした。エルサレムの都市を囲んでいる城壁には門が8つありました。その中で一つの門の名前が「羊の門」です。羊の門と呼んだ理由は神様の前に生け贄として捧げられる羊たちが出入りしたからです。8つの城門の中で羊の門は最も特別なところでした。
羊の門の横には池が一つあったのですが、名前を「ベテスダ」と呼びました。ベテスダという言葉は「恵みの家」「憐れみの家」という意味です。ベテスダの池には伝説が一つありました。天から天使たちが降りてきて体を洗う時があるのですが、水が動く時に一番最初に入る人はどんな病気にかかってもきれいに治るということです。こんな噂が全国に広まり、各種の病人が集まってきました。彼らの中に38年も病気にかかっている人もいました。
2) 救いの方法
イエス様は病人を癒すために、この世に来られたのではありません。イエス様は罪人を救うために、この世に来られました。38年も病気にかかっている人の話も病気を癒すことが目的ではないということを知らなければなりません。
ユダヤ人たちは律法を守ってこそ、救われると思っていました。だから一生懸命に律法を守りました。しかし律法を完全に守れる人はいません。すでにモーセを通して確認させてくださいました。モーセは神様から律法を直接受け取りました。しかし完全に守れなくて、カナンの地に入れませんでした。モーセにとって不可能なことだったら、他の人も同じだったはずです。それでもユダヤ人たちが律法を守ろうと努力した理由は、それ以外には救われる方法を知らなかったからです。
3) 偽りの噂
ベテスダの池で起こる奇跡は救われる方法を教えてくれます。ベテスダに対する噂は大げさでした。天から天使が降りてきて水を動かす時、一番最初に入る人はどんな病気でも治るという噂は本当ではありません。ベテスダの池の水が動く理由について2つの説明があります。一つは、当時祭司シモンが200年前に神殿で水を使うために池を作ったというのです。生け贄を捧げる時に必要な水を使うために水路を開くと、水が動いたということです。もう一つは、ベテスダが温泉だったので、時々水が沸いたそうです。
こういうことはたまに起こったので、とても運のいい人だけが、水が動くのを見ることができました。前が見えない盲目はどうでしょうか。ベテスダの池の水が動くのを見ることができないので、池に入る機会がありません。水が動くのを見た人が「水が動く」と叫んだら、誰が一番最初に入ることができるのでしょうか。たまにあることだったので、とても運のいい人だけが水が動くのを見ることができたはずです。だから盲目の人はどんなに長い間ベテスダにいても真っ先に水に入る機会を得ることは不可能です。水が動くのを見た人は「水が動く」と叫んだはずです。その時、誰が一番先に水に入ることができるのでしょうか。誰が先に入ったか確認する方法がありません。お互い先に足を浸したと主張するのが明らかです。
4) 律法に関する噂
日本は温泉が有名ですが、韓国も温泉が有名だった時期がありました。ほとんど有名な温泉はオニャンという田舎町とユソンという地方都市でした。お互い自分たちの水が良いと噂を広めました。どれだけ水が良いか、皮膚病にかかった人が入ると、きれいに治ると言いました。いざ行ってみると、入り口には「皮膚病患者は出入り禁止」と書いてありました。皮膚病がきれいに治るという噂は嘘だとわかります。皮膚病にかかった人は誰も温泉に入ったことがないのです。
モーセの律法は温泉の噂のようなものです。もちろん律法を完全に守れば救われるのは正しいです。しかし人の中で誰も律法を全部、100%守ることはできません。いくら熱心に律法を守っても結局無駄な苦労だということです。しかし救われる他の方法を知らないから、ずっと律法を守る無駄な苦労をしているのです。
5) 恵みによって受けた救い
イエス様は38年も病気にかかっている人に聞きました。「良くなりたいか」(6節)とんでもない質問です。良くなりたくて長い間ベテスダに留まったのです。ところで病人の答えが無茶苦茶です。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7節) 38年も病気にかかっている人は救い主であるイエス様を認識できませんでした。イエス様を、ただ困っている人を助ける善良な人として見ただけです。だから誰も自分を水に入れてくれないので、イエス様に「真っ先に池の中に入れてくれるか」と助けを求めたのです。
イエス様は怒るに値するのに、そうせず、病人を癒してくださいました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8節) すると、38年間動けなかった病人が立ち上がって歩きました。イエス様が病人をベテスダの池に入れてくださって癒されたのではありません。ベテスダの池とは何の関係もなく、イエス様が38年も病気にかかっている人を癒してくださいました。
救いは信仰によって得られるのです。しかし38年も病気にかかっている人はイエス様を信じたから癒されたのではありません。イエス様が憐れみ、恵みを与えてくださって救われたのです。「私が信じて救われた」というと、それは律法を守って救われるのと同じです。律法は私がやることで結果を得るのです。しかし恵みは神様がなさったことで結果を得るのです。原因が全く違うのです。
6) 優しい人
日本には神がたくさんいるという噂を聞きました。神々ごとに助けられる領域があると聞いたのです。そうすると、イエス様もいろんな神々の中の一つだと思うかもしれません。ただ優しい神だと思うのです。
しかしイエス様は優しいことをするために、この世に来られたのではありません。イエス様は私と皆さんの罪を赦すために来られました。私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。だからイエス様を信じれば、罪が赦されます。罪を赦されれば、救いを得ます。救いを得れば、永遠のいのちを得ます。永遠のいのちというのは、永遠に生きるという意味より、もっと重要な意味があります。永遠に生きるということは、神様と同行する人生を生きることになるという意味です。神様の中で生き、私たちの中に神様が住んでおられるのです。この世だけでなく、死んでも永遠に神様の中で生き、私たちの中に神様が生きておられます。それがまさに永遠のいのちです。
7) イエス様を信じる方法
世の中の誰を信じても永遠のいのちを得ることはできません。永遠のいのちを得る方法は、ただイエス様を信じることです。イエス様を信じる方法を、もしかして知らないのでしょうか。では、こう私を真似してついて言えばいいのです。「イエス様、私は罪人です。イエス様が神様であることを知りませんでした。イエス様が救い主であることを知りませんでした。しかし今は知っています。私の罪を赦してください。これからイエス様を私の心の中に受け入れて生きます。」
これがイエス様を信じることです。このようにイエス様を信じると救われ、永遠のいのちを得ます。これをしようと、2,000年前にイエス様がこの世に来られました。この事実を知らせようと、田牧師が25年前に日本に来ました。そして皆さんに会いました。これから皆さんがみんなイエス様を信じて、救われ、永遠のいのちを得て、天国に入ることができることをイエス様の御名によって祝福します。
人に会う時は第一印象が大切です。私を初めて見る人はほとんど「優しく見える」「優しい人みたい」と言います。日本語で言うと「優しい人」です。職業が牧師だから、優しい人になろうと努力しているから、そうです。
聖書の中で一番優しい人のように見える方はイエス様です。イエス様を初めて見る人たちはみんな「優しい人」と言うほどでした。今日の聖書箇所にも優しいことをなさるイエス様の話が出てきます。
1) ベテスダの池
エルサレムに行くと神殿があったのですが、人々は神の家と呼びました。ユダヤ人たちは神殿を守るために城壁を高く築きました。城門を通過せずにはエルサレムの神殿に入る方法がありませんでした。エルサレムの都市を囲んでいる城壁には門が8つありました。その中で一つの門の名前が「羊の門」です。羊の門と呼んだ理由は神様の前に生け贄として捧げられる羊たちが出入りしたからです。8つの城門の中で羊の門は最も特別なところでした。
羊の門の横には池が一つあったのですが、名前を「ベテスダ」と呼びました。ベテスダという言葉は「恵みの家」「憐れみの家」という意味です。ベテスダの池には伝説が一つありました。天から天使たちが降りてきて体を洗う時があるのですが、水が動く時に一番最初に入る人はどんな病気にかかってもきれいに治るということです。こんな噂が全国に広まり、各種の病人が集まってきました。彼らの中に38年も病気にかかっている人もいました。
2) 救いの方法
イエス様は病人を癒すために、この世に来られたのではありません。イエス様は罪人を救うために、この世に来られました。38年も病気にかかっている人の話も病気を癒すことが目的ではないということを知らなければなりません。
ユダヤ人たちは律法を守ってこそ、救われると思っていました。だから一生懸命に律法を守りました。しかし律法を完全に守れる人はいません。すでにモーセを通して確認させてくださいました。モーセは神様から律法を直接受け取りました。しかし完全に守れなくて、カナンの地に入れませんでした。モーセにとって不可能なことだったら、他の人も同じだったはずです。それでもユダヤ人たちが律法を守ろうと努力した理由は、それ以外には救われる方法を知らなかったからです。
3) 偽りの噂
ベテスダの池で起こる奇跡は救われる方法を教えてくれます。ベテスダに対する噂は大げさでした。天から天使が降りてきて水を動かす時、一番最初に入る人はどんな病気でも治るという噂は本当ではありません。ベテスダの池の水が動く理由について2つの説明があります。一つは、当時祭司シモンが200年前に神殿で水を使うために池を作ったというのです。生け贄を捧げる時に必要な水を使うために水路を開くと、水が動いたということです。もう一つは、ベテスダが温泉だったので、時々水が沸いたそうです。
こういうことはたまに起こったので、とても運のいい人だけが、水が動くのを見ることができました。前が見えない盲目はどうでしょうか。ベテスダの池の水が動くのを見ることができないので、池に入る機会がありません。水が動くのを見た人が「水が動く」と叫んだら、誰が一番最初に入ることができるのでしょうか。たまにあることだったので、とても運のいい人だけが水が動くのを見ることができたはずです。だから盲目の人はどんなに長い間ベテスダにいても真っ先に水に入る機会を得ることは不可能です。水が動くのを見た人は「水が動く」と叫んだはずです。その時、誰が一番先に水に入ることができるのでしょうか。誰が先に入ったか確認する方法がありません。お互い先に足を浸したと主張するのが明らかです。
4) 律法に関する噂
日本は温泉が有名ですが、韓国も温泉が有名だった時期がありました。ほとんど有名な温泉はオニャンという田舎町とユソンという地方都市でした。お互い自分たちの水が良いと噂を広めました。どれだけ水が良いか、皮膚病にかかった人が入ると、きれいに治ると言いました。いざ行ってみると、入り口には「皮膚病患者は出入り禁止」と書いてありました。皮膚病がきれいに治るという噂は嘘だとわかります。皮膚病にかかった人は誰も温泉に入ったことがないのです。
モーセの律法は温泉の噂のようなものです。もちろん律法を完全に守れば救われるのは正しいです。しかし人の中で誰も律法を全部、100%守ることはできません。いくら熱心に律法を守っても結局無駄な苦労だということです。しかし救われる他の方法を知らないから、ずっと律法を守る無駄な苦労をしているのです。
5) 恵みによって受けた救い
イエス様は38年も病気にかかっている人に聞きました。「良くなりたいか」(6節)とんでもない質問です。良くなりたくて長い間ベテスダに留まったのです。ところで病人の答えが無茶苦茶です。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7節) 38年も病気にかかっている人は救い主であるイエス様を認識できませんでした。イエス様を、ただ困っている人を助ける善良な人として見ただけです。だから誰も自分を水に入れてくれないので、イエス様に「真っ先に池の中に入れてくれるか」と助けを求めたのです。
イエス様は怒るに値するのに、そうせず、病人を癒してくださいました。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8節) すると、38年間動けなかった病人が立ち上がって歩きました。イエス様が病人をベテスダの池に入れてくださって癒されたのではありません。ベテスダの池とは何の関係もなく、イエス様が38年も病気にかかっている人を癒してくださいました。
救いは信仰によって得られるのです。しかし38年も病気にかかっている人はイエス様を信じたから癒されたのではありません。イエス様が憐れみ、恵みを与えてくださって救われたのです。「私が信じて救われた」というと、それは律法を守って救われるのと同じです。律法は私がやることで結果を得るのです。しかし恵みは神様がなさったことで結果を得るのです。原因が全く違うのです。
6) 優しい人
日本には神がたくさんいるという噂を聞きました。神々ごとに助けられる領域があると聞いたのです。そうすると、イエス様もいろんな神々の中の一つだと思うかもしれません。ただ優しい神だと思うのです。
しかしイエス様は優しいことをするために、この世に来られたのではありません。イエス様は私と皆さんの罪を赦すために来られました。私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。だからイエス様を信じれば、罪が赦されます。罪を赦されれば、救いを得ます。救いを得れば、永遠のいのちを得ます。永遠のいのちというのは、永遠に生きるという意味より、もっと重要な意味があります。永遠に生きるということは、神様と同行する人生を生きることになるという意味です。神様の中で生き、私たちの中に神様が住んでおられるのです。この世だけでなく、死んでも永遠に神様の中で生き、私たちの中に神様が生きておられます。それがまさに永遠のいのちです。
7) イエス様を信じる方法
世の中の誰を信じても永遠のいのちを得ることはできません。永遠のいのちを得る方法は、ただイエス様を信じることです。イエス様を信じる方法を、もしかして知らないのでしょうか。では、こう私を真似してついて言えばいいのです。「イエス様、私は罪人です。イエス様が神様であることを知りませんでした。イエス様が救い主であることを知りませんでした。しかし今は知っています。私の罪を赦してください。これからイエス様を私の心の中に受け入れて生きます。」
これがイエス様を信じることです。このようにイエス様を信じると救われ、永遠のいのちを得ます。これをしようと、2,000年前にイエス様がこの世に来られました。この事実を知らせようと、田牧師が25年前に日本に来ました。そして皆さんに会いました。これから皆さんがみんなイエス様を信じて、救われ、永遠のいのちを得て、天国に入ることができることをイエス様の御名によって祝福します。
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