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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書 9:1-7 (苦難の原因は過去ではなく、未来にある)            

投稿者
tbic
投稿日
2025-11-16 17:06
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ヨハネの福音書 9:1-7 『1.さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。2. 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」3. イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。4. わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。5. わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」6. イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、7. 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。』

多くの人は、苦難の理由を過去から探し出す傾向があります。しかしこれからは未来から探してください。弟子たちは、「彼が盲人になったのは誰が罪を犯したからですか?」と過去の見方でした。イエス様は、「彼が盲人になったのは神のわざが現れるためだ。」と未来的な見方でした。苦難は必ずしも罪のためだけではありません。

古代ギリシャに、こんな物語があります。ある都市国家の王が学者たちを呼び、「人生にして、本を一冊書いてこい。」と命令を下しました。学者たちが長い間研究をして、とても量の多い厚い本を一冊書いてきました。王が見て「厚すぎる。量が多い。 少し減らしてこい。」と言いました。学者たちは長い時間をかけて、本を減らしました。王が見て、「それでも厚い。 もっと減らしてこい。」また学者たちが減らしました。減らしてくると厚いと言って、また減らしてくるようにと言って、縮めてくると厚いから縮めて来いっと言って.. ずっと繰り返しました。ずっと減らしていたら、後でたった一つの単語が残りました。人生を一言で要約したという話ですが、何と書いてあるかといえば、そこには「苦難」と書かれていたそうです。人生を一言で要約すると、「苦難」という話ですが、意味のある話だと思います。

今日の本文の9章に、苦難に遭ったかわいそうな人が登場します。彼は目の見えない人、視覚障害者でした。どれほどもどかしくて、不便でしょうか。障害者は皆不幸ですが、視覚障害者は特別に不幸です。しかもこの人は生まれた時から視覚障害者でした。空をたった一度も見たことがありません。花を一度も見たことがありません。自分の顔がどんな顔をしているのか、両親の姿がどうなのか見たことがありません。この世がどんな形をしているのか、一度も見たことがありません。「美しい。 荘厳だ。素晴らしい。光る。」こういう言葉がこの人とは何の関係もありません。一生をそんな真っ暗な闇の中で生きて来ました。本当に不幸な人でした。

今では視覚障害者のための、多くの文明の利器があります。例えば、点字本があって視覚障害者も勉強ができます。頑張れば、博士にもなれます。電磁感応式の杖や便利な杖もあります。よく訓練された盲導犬が視覚障害者を導きます。しかしその当時、視覚障害者向けのものは何もありませんでした。ただ杖一本しかありませんでした。彼は社会から捨てられた人でした。希望がありません。期待することもありません。死ぬことができず、仕方なく人生を生きていく哀れな人でした。

まさにこの視覚障害者に対して、弟子たちがイエス様に質問を投げかけます。本文の2節、『弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。親ですか。」』この質問を深く考えてみると、人間の苦難の原因を尋ねているのです。なぜ視覚障害者になったのか、その視覚障害者になった原因です。少し広く考えると、これは人間の苦難の原因を尋ねていることです。

しかしそう考えてからこの質問を見ると、少し変です。この人がなぜ盲人になったのか理由を聞くには、どのように尋ねなければなりませんか。「先生、この人がなぜ盲人になったのですか。この人はなぜ苦難に遭うのですか。」そう聞くのが普通です。しかし弟子たちはそう聞きませんでした。「誰の罪のためですか。親の罪のためですか? 自分の罪のためですか。」と聞きました。

どういう意味でしょうか。一応、視覚障害者になったのは罪のためだと断定しておいて、その前提の下で「誰の罪のためですか。」と尋ねます。視覚障害者になったのは罪のためだという断定が、この質問の中にあります。

もちろん聖書は、「人間の苦難、苦痛、悲しみ、が罪によって始まった。」と教えます。しかし私たちがはっきり知っておくべきことは、それは人間の苦難と悲しみと痛みの起源が罪にあるということであって(一般的論理)、私たちが世の中で受ける、ある具体的な苦難が具体的な罪の結果だと教えるのではありません。この言葉をじっくり考えてみてください。その点を明確にしなければなりません。ところが当時のユダヤ人たちは、すべての苦難が罪のせいだと思っていました。

こう考えると問題が何かというと、病気の人はかわいそうに思うべき対象ではなく、非難される対象になります。それで病人たちを哀れに思いませんでした。人々がハンセン病患者を見ると、呪いをかけて石を投げつけたことも、「あの人はあんなに罪が多い」というような思いがその根底にあったからです。

私たちは、ある若い律法学者がイエス様に尋ねてきて永遠のいのちを得る方法を求めた出来事を覚えています。「先生、どうすれば永遠のいのちを得ることができますか。」その時、イエス様が「律法を守ったのか。」と聞きました。その時、律法学者は「私は律法を幼い頃から全て守りました。」と堂々と答えました。

この人が考えてみて、このように堂々と律法を守ったと言えるのは、彼が若かったし、若かったのに金持ちであるだけでなく、健康だったからです。若かったのに金持ちで健康だったという事実は、その当時の宗教的な背景によると、それほど罪を犯していないということです。それだけ律法をよく守ったということです。それで彼が堂々と、律法をすべて守ったと答えたのです。

それで弟子たちも視覚障害者に対して「誰の罪のためですか。」と聞いたわけです。「盲人の罪のせいですか。」と聞くと、前後が合いません。生まれた時から障害者なのに、自分が罪を犯して視覚障害者に生まれるということは不可能な話です。だからその次に付けた言葉が「親の罪のためですか。」と聞きました。

その時、イエス様が何と答えましたか。本文の3節、『イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」』本当に大事な御言葉です。「この人やその親の罪のためではない。」これは、その人や両親は罪がないという意味ではありません。当然罪があります。

しかしこの人が視覚障害者になったのは、彼や彼の両親の罪のためではないのです。「その問題は罪のためではない」とはっきりおっしゃいました。だから私たちは他人の不幸をむやみに判断してはいけません。特別にある不幸について「あれがある罪のためだ」と。こんな判断は絶対に言ってはいけません。

ある教会の人が大きな困難に遭いました。他の人が集まりの中で、その人の話をしました。本当に難しいでしょう。本当に心が痛いです。祈りましょう。こうやって話をするのですが、年上の執事さんがそばで聞いていて、こう言いました。「罪が多いのかな」と。この言葉が回り回って、本人の耳に入りました。それを聞いたとき、当事者はどれほど心を痛めたことでしょう。

イエス様の弟子たちも同じです。道を歩いていて視覚障害者を見ました。そうしたら、イエス様に何と言わなければならないのでしょうか。「先生、あの人はかわいそうです。先生は力がありますから、あの人を治してください。」こういう話をしないといけません。あるいは、「先生、かわいそうな人のために私たちに何ができるのでしょうか。」と。こんな話をしなければなりません。視覚障害者を哀れに思わなければならないのです。それがイエス様の心です。当時、病人を無視し、障害者を冷たく待遇していた宗教的文化の中で、初めて病気になった者を哀れに思い、障害者を哀れに思った方は私たちの主イエス・キリストです。

人類の歴史において、病んだ者と障害者に対する関心と愛はイエス様によって始まったものです。私たちはイエス様の心を持たなければなりません。困っている人を見ると、かわいそうに思って、愛して、「どんなに大だろう」という暖かい心を持って、祈らなければなりません。しかし弟子たちはそのように考えず、「誰の罪のためか」と無駄な喧嘩ばかりをしていたのです。

自分自身についても同じです。私たちが困難や苦難に直面する時、「もしかして私の罪のせいではないか」と調べることは必要なことです。神様の前で自分を見ながら、もし思い出す罪があれば悔い改め、断ち切るべきものは断ち切って、直すべきものは直すことが自分にとって有益になります。しかしそのように悔い改めたのであれば、その後は罪を考えるべきではありません。悔い改めてからも、「、これは私の罪のためです。私のせいです。」と考えるのはだめです。神様は私たちが悔い改めれば、記憶もしないと言われたので、私たちがずっと罪を持ち出し、ずっと罪のせいだと覚えるのは神様の前で間違っていることです。これは神様がしようとする働きのためです。

もう一度はっきり申し上げます。イエス様は、この視覚障害者の障害は罪のためではないと言われました。それでは、イエス様は何とおっしゃったのでしょうか。「この人に神のわざが現れるためです。」本当に驚くべき話です。視覚障害者になった理由が、神のわざが現れるためだということです。すごい話です。彼は生まれた時から視覚障害者として生まれました。一生を真っ暗な闇の中で苦労しながら暮して来たのですが、その苦難の理由がいつかは神のわざが現れるためだったということです。実に驚くべき御言葉であると言わざるを得ません。

私たちがここでまず考えなければならない真理は苦難の聖書的原因は未来にあるという事実です。私たちは常に苦難に対して、その原因を過去から探しています。「過去に私がこうであったから、今日私はこうである。」基本的にすべての人は苦難の原因を過去から探しています。しかし苦難の真の原因は未来にあります。神のわざが現れるために苦難があります。それがどれほど重要な真理か分かりません。

モーセはミディアンの荒野で 40 年を過ごしました。寂しく孤独で、確かにモーセにとって苦難の歳月でした。その荒野の40年間、モーセの苦難の原因がどこにあったのでしょうか。一般的に見ると、エジプト人を殴り殺したのが原因です。殴り殺して逃げたのですから、原因は過去にあります。この世の見方です。

しかし本当の原因はどこにあったのでしょうか。神様がモーセをイスラエルの偉大な指導者に立てるためにミディアンの荒野の40年をくださいました。荒野の40年を通して、モーセはイスラエルの民の200万を神様の前に導いていく偉大なイスラエルの指導者になります。では、モーセの苦難の原因はどこにあったのでしょうか。本当の原因は未来にありました。

苦難の原因が過去にあるとき、その苦難は辛いものです。大変なことです。後悔していることです。心が痛いのです。しかし苦難の原因が未来にあるとき、それは必要な苦難です。希望的なものです。期待があるのです。神の働きを期待する気持ちで、苦難を見つめることができるのです。

今もオリンピックに向けて数多くの若者たちが汗を流しています。汗を流しながら、訓練を受けています。その若者たちにとって、訓練は苦難です。重労働以上に大変で、体重に関係する選手たちは思うように食べることもできません。大変な苦難です。しかし彼らはその苦難を辛いとは思っていません。大変だとは思いません。誇りに思います。オリンピック選手に選ばれたこと自体を光栄に思います。

どうしてでしょうか。その苦難の原因が未来にあるからです。いつかはオリンピックでメダルを取るという未来への願いがあります。未来が苦難の原因になったとき、苦難は必要なものです。いくらでも手に負えます。望みがあるのです。

皆さん、しっかり覚えておいてください。皆さんが受ける苦難の本当の原因は未来にあります。未来にあるということを信じなければなりません。未来のために苦難があるということを信じて、揺れてはいけません。

では、考えてみて下さい。私の苦難の原因が未来にあるとしたら、その未来は何でしょうか。神の御心がなるのです。つまり私の苦難を通して、神様が成し遂げられる御心があるということは真理です。生まれた時から視覚障害者を通しても神様が成し遂げられる御心があれば、私を通して神様が成し遂げられる御心は必ずあるはずです。私は誰でしょうか。私を正しく知っておくべきです。神の愛の焦点は、神様は一人を愛して、ひとり子イエス・キリストを死にまで渡してくださいました。神の働きの焦点は私です。私をこんなに愛しておられます。

生まれた時から視覚障害者を通して神様がなさることがあれば、私を通しても神様がなさることがあります。これを信じなければなりません。その神様がなさることは、もちろん視覚障害者が目を開けるような奇跡的なことかもしれません。しかしそのような奇跡的なことではなくても、静かにいくらでも神の働きは成し遂げられます。その時、神の栄光が現れ、私の苦難を通して神の国が拡張され、神の働きが行われる時、神の御わざが現れるのです。

韓国の視覚障害者博士1号はカン·ヨンウ博士です。2002年度に膵臓がんで天に召されましたが、この方は14歳の時、道端でサッカーをしていたのですが、ボールに目を打たれ、両目を失明しました。とんでもないことです。ボールに当たって網膜が破れて、両目とも見られなくなりました。その失明の苦痛がどれほど苦しかったのでしょうか。そんな中で勉強をしようとしたら、差別と偏見と言えない難しさがありましたが、それを克服し、延世大学の文科次席で卒業し、アメリカのピッツバーグ大学で教育哲学の博士号を取得しました。韓国の盲人博士1号です。学位を取得した後、世界中の障害者や困っている人々のために働きました。特別にそのことを通して、キリストの福音を伝えました。アメリカのジョージ·ブッシュ大統領の時、アメリカ国家障害者委員会の政策諮問次官補になりました。韓国人としてはアメリカ政府の一番高い地位に就いた人です。世界中にキリストの光を放つ働きをしました。今は韓国の中学3年生の教科書に、現代の英雄として紹介されています。この方がこの世を去る時に、こんな言葉を残しました。「は私の失明を通して、私が想像もできなかったことを成し遂げてくださいました。神は私が目を失うこの苦難を通して、私が目を開けている時に想像もできなかった多くの神のきを成し遂げてくださいました。」と最後の言葉を残しました。カン·ヨンウ博士、彼は本当に失明という苦難を通して、とてつもない神の働きを成し遂げました。

皆さん、私たちの苦難を通しても神様が成し遂げられる計画があります。私たちが貧しくてもいいです。病気になってもいいです。言えない苦難でもいいです。明らかなことは、私たちの苦難を通して神様が成し遂げられる働きがあり、その働きは美しいものです。恵み溢れるものです。それによって神の国が拡張され、神の栄光が高く現れるのです。

未来の栄光のために、今日の私の苦難があります。この事実を信じる時、私たちは苦難の中でもいくらでも勝利することができます。そうしたら、神の働きを成し遂げるために私たちはどうすれば良いのでしょうか。

イエス様が盲人の目を開ける過程をもう一度見てみましょう。今日の本文の6-7節に、『「イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、って行った。」

ここでイエス様が視覚障害者の目を開ける方法は、少しおかしく見えます。私たちがよく知っている通り、イエス様はこのようにする必要がありません。彼を前に立てておいて、「目が見えるようになれ」と言われたら、それで終わりです。イエス様の一言で終わるのであって、複雑な方法を動員する必要はありません。しかしあえてイエス様が唾を吐いてから泥をこねて、それを目に塗った後、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と言われました。

古代社会では、唾には薬の効果があると信じたそうです。また土にも薬の効果があると信じました。私も子供の頃、膝を怪我したとき、唾をつけたり、とても細かい土を傷口の上に塗った覚えがあります。しかし皆さん、いくらなんでも視覚障害者の目に唾を吐いて泥をこねて塗ったということは私たちが納得しにくいことです。一体イエス様がどうして、こうなさったのでしょうか。一度想像してみてください。

視覚障害者が杖をついて、目には泥を塗って、シロアムの池まで歩いて行きます。その姿がどれほどおかしかったのでしょうか。本人はどう思ったのでしょうか。「これは何だ、おれがどうして、こんなことをしなければいけないのか。」という気もしたと思います。

ところが、彼は従いました。従順にしたがったら、目が見えました。イエス様は彼に「ただいなさい」ということです。従順が重要です。服従こそ、神の働きが成し遂げられる鍵です。従順が重要であることを示すために、こんなおかしなことをさせたのです。唾や土に何か効き目があるわけではありません。イエス様は「ただ順にいなさい」ということです。

信仰は確信より従順です。私たちは、信仰は確信だという考えを持っていますが、この盲人を考えてみてください。イエス様がこの人の目に唾でこねた泥を塗って、シロアムの池に行って洗うように言われた時、「あ、それなら、私は治る」という確信があったのでしょうか。多分なかったと思います。もし確信があったなら、行く前に「先生、ありがとうございます」と挨拶でも一言したでしょう。しかし挨拶はしませんでした。確信がなかった可能性が高いです。疑ったはずです。「これで目が開けるのか」と半信半疑でした。しかし従順でした。従順に従ったら、目が見えるようになったのです。「信仰は」です。

皆さん、イエス様が地上で働きをなさる時を、一度考えてみてください。特別な働きをなさる時に弟子たちに要求するのは、いつも従順でした。イエス様が初めて弟子たちを呼ばれた時に魚をたくさん捕らせてくださいました。その時、弟子たちは一晩中網を投げましたが、一匹も捕れませんでした。イエス様が来られて、「深いところに網を投げなさい」と言われた時、漁師の弟子たちからすると、納得しがたい命令だったのですが、従順に従ったら、網が破れるほど多くの魚が捕れました。

パン5つと魚2匹で5千人に食べさせた時も、イエス様はパン5つと魚2匹を持って何と言われましたか。弟子たちに人々をみんな座らせるようにと言われました。「食事できるようにみんな座らせなさい」ということです。座らせたら、パン5つと魚2匹で5千人を食べさせたのです。

ラザロの墓の前に来られた時、イエス様は何も言わずに、弟子たちに墓の石を移すようにと言われました。墓の中には死体が腐っていて臭いがしていました。でも石を転がすようにと言われるのです。石を転がしたら、イエス様が「ラザロよ、出てなさい。」と言われました。石を転がす命令に従うと、ラザロが歩いて出てくる御わざが起こりました。

今日私たちにも、主は言われます。「苦難の中にいるのか。未に起こされる神のきを見て、順になりなさい」ということです。理不尽のように見えても従順で、もどかしくても従順で、理解できなくても従順でなければなりません。最後まで従順でなければなりません。

今、皆さんの前にある神の御言葉は何か、考えてみてください。神様が私たちに何を言われようが、従うことを決断してください。そして動揺せず、最後まで従順に従ってください。具体的な御言葉が聞こえなかったら、ただ従順な姿で立っていてください。「順にいます」という姿勢で生きていってください。そんな時、その従順を通して神の働きが行われることになります。

もう私たちの苦難について、これ以上不平を言わないようにしましょう。もう恨まないようにしましょう。苦難の原因は未来にあります。未来に行われる神の御わざを見つめましょう。

私に与えられた神の御言葉に従う時、従順な姿勢で進む時、その苦難を通して神の働きが成し遂げられると信じます。きれいな心で従順に従いましょう。それで苦難を通して偉大な神の働きを体験する真のクリスチャンになってください。

お祈り、

愛する天のお父様、苦難に遭いながら苦難の意味が分からなかったので、時に落胆していた私たちを、御言葉を通して悟らせてくださったことをありがとうございます。生まれた時から視覚障害者になった者にも神の御心がありました。神のわざが現れるためだとおっしゃいました。私たちが受ける不幸と苦痛を通しても、神様がなさる未来の御わざがあることを信じさせ、最後まで御言葉に従う私たちになるようにしてください。それで私たちにも神の働きが成し遂げられ、神の栄光が高く現れることによって、私たちを立ち上がらせてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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