メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

詩篇23:4-6(契約)

投稿者
tbic
投稿日
2026-01-09 14:23
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98
詩篇23:4-6「4.たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。5.私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。6.まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

今日の御言葉は、大変重要な御言葉です。本文の23:4、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」とあります。死の陰の谷のような時も、主が共におられます。

世界は「契約」で成り立っていると言えます。契約とは、ただの約束よりも、さらに深い約束を意味します。辞書で調べますと、「契約とは、当事者同士で結ぶ約束のこと。お互いの権利・義務に関して、法的拘束力を持つ。」となっていました。契約が結ばれたら、双方約束は必ず守らなければならないわけです。

聖書は、旧約聖書と新約聖書で構成されています。旧約、新約とは、約束の「」です。古い約束と、新しい約束の書物です。そしてこの「」はただの約束ではなく、「契約」です。私たちが仕える神は「契約の神」です。皆さんも車を買ったり、家を建てる時には契約を結んだはずです。契約が結ばれたら、必ず双方に義務が生じます。ハンコを押したら、必ず代金を払わなければなりません。そして車屋は自動車を手渡さなければなりません。その背後に国が関わる法律があって、履行しなかったら、罰則があるわけです。それが契約です。聖書の神も、このような契約の中で、私たちと交わりされます。

旧約聖書はヘブル語で書かれているのですが、「契約」という言葉をヘブル語では「ベリート」です。この語原は「切る」、または「食べる」という意味だというのです。英語でもヘブル語でも「契約を結ぶ」とは、「契約を切る」と表現されます。英語では「to cut the covenant」、「cut/切る」と表現します。本日のメッセージを理解するために、これを覚えていただきたいのです。「契約」とは、「切る、食べる」という意味から出来ています。今日はその意味について、考えたいと思います。

神様が人類を造られた時に、元々神とは契約の神ですから、人間同士にも「契約概念」を与えられました。聖書を「契約」という概念を持って読むと、大変興味深い側面が見えて来ます。神様が私たちと交わりをされる時には契約の概念が根底にあります。それを知らないと、神様を正しく理解できませんし、良い関係を築くことも出来ません。そもそも世界のすべての文化の中に「契約」という概念が存在します。タイ、ミャンマーの国境地帯に分布するカレン族の人々は日本人のルーツのような人々だと言われています。稲作はこの付近から始まっています。

このような山岳民族の人たちは日本で言えば、縄文時代くらいの古い文化を現代にまで保っています。ということは、アダムとエバが暮らしていた頃の文化・習慣を今でもキープしているわけです。民俗学的調査によると、彼らは三段階の契約レベルを持っていると言われます。それはある意味、神が人を創造した時に与えた神と人との関係、また人同士の約束の手法を引き継いでいます。

彼らは敵と和平条約を結ぶ時、第一段階においては、「共に食事をする」そうです。私たちも時々、会食をし、共に食事をします。何気なくお腹が空いたから食事をするように考えるのですが、実は食事とは大変重要な意味を含んでいます。先ほどヘブル語の契約の語源に「食べる」という意味があると言いました。これは契約を表す行為です。

食事とは元々、「神、神々の前で食事をする」行為です。家を建てる時など、神道では建物を建てる予定の土地の上で業者の人たちと共に食事会をします。現代においては「ご苦労さん食事会」としか捉えていませんが、実は神道においては、「直会(なおらい)」と言って、日本の神々の前で共に食事をする契約行為だそうです。

本来は天地万物を造られた神の御前で食して契約を結ぶ重要な行為を、日本においては悪魔に取られています。食べるとは、お腹が空いたから食べるというよりも、元々は神との契約関係に入るための行為を原点に持ちます。クリスチャンは食前の祈りをします。食前の感謝の祈りは短ければ短いほど喜んでいただけます。あまり長くしてはいけません。長ければ食事はすべて冷えてしまいますから。食事には「神の前で契約を結ぶ」という意味があります。だからご飯を食べる前には天地宇宙を造られた神と契約を結ぶ、そんな気持ちで祈って食べるのです。食べる行為は契約です。

そしてカレン族は、さらに強力な効力を持つ第二段階のレベルを持っています。それは「共に木を植える」そうです。「木が生きている間は平和が保たれる」という意味だそうです。戦後天皇が「全国植樹祭」と言って、全国を廻って木を植えまくりました。現人神だという存在から人間天皇をアピールするために、GHQ(連合国軍総司令部)が関わり実現しました。あれをただの緑化運動のように国民は捉えていますが、そうではありません。全国植樹祭は日本の神々の前に平和を誓う契約行為でした。今の天皇も植樹祭をやっています。植樹祭は儀式です。これは日本の神々との契約です。本来は天地万物を造り、すべての被造物を創造された神の前で木を植え、人が被造物を管理する管理人である宣言としての契約を立てるべきです。

そしてカレン族にとって最も深い第三段階の契約は「血の契約」だというのです。「族長が部族の代表として立ち、契約を結ぶ当事者がそれぞれの太ももを切って血を流し、互いの血を混ぜる。次に指を血に浸して唇に塗る。この契約は最大限の効力を持ち、平和や停戦に同意するだけでなく、平和な時も戦いの最中でも助け合う約束を含む。もし契約当事者が部族長なら、契約の効力は部族全員に及ぶ。もし契約当事者が一個人なら、その契約の効力は彼の近親と直系の子孫に及ぶ。」なんと血の契約が結ばれると、ある意味、永遠に破られない契約となるのです。カレン族の人たちは、今でもこのような契約文化を保っています。しかしこれはカレン族に限ったことではなく、世界共通の文化です。その根源にあるのが、神が天地を創造し、人を創造した時に神が人と結んだ契約に原点があるのです。

聖書を契約という視点で読んでみますと、「あっ!まさに神は人と揺るがない契約を結んでおられる。」と気づかされます。信仰者の根源はアブラハムです。はじめはアブラムと呼ばれました。アブラムが神の声を聞いたところからストーリーが始まるのですが、アブラムという一人の人物が神から声をかけられて、最終的には神と永遠の契約を結んでいただきました。そのプロセスと神との関わり合いを見ていくと、どのような形で神がアブラムと関係を築かれたのかを知ることができます。アブラムは古代バビロニア帝国のウルに住んでいました。そこは偶像で満ちていて、悪しき神々の巣窟みたいな所でした。しかしある日、彼は不思議な声を聞くわけです。創世記12:1、『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」

これはある意味、霊体験です。どうですか、生活のただ中で、このような不思議な声を聞いたら、びっくりします。彼は日本と同じような偶像文化のただ中で生活していました。そこで突然「この声は日本の神々ではないし、バビロンの神々の声ではないぞ。」というような不思議な声を聞くわけです。なぜなら、「あなたの父の家から出ろ」と言われたからです。父の家とは、すなわち家系です。偶像礼拝が連綿と続く家の束縛から離れる事を意味します。そこから「出ろ」と言われたからです。出たら、どうなるのか、12:2、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

脱出したら、「あなたの名前を祝福という名前に変えてあげる」と約束されました。人類に名前を付けるとしたら、一言で言えば、「呪い」と付くのではないでしょうか。実際、人生には悲しいことが多すぎます。今もいろいろ悲しいレポートが寄せられています。一瞬にして長い間、愛し合っていた夫婦が引き裂かれ、帰らぬ人になったり、あまりにもひどすぎると思います。人類には呪いのタイトルが付けられているような気がします。しかしそれを「祝福」に変えてくださるというのです。そして12:3、『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

彼は「アブラハム」という名に変えられ、一人から地上のすべての民族が祝福されるという、ものすごく大きな祝福をいただいたわけです。それがどのような形で約束されたのでしょうか。まず第一に、彼は神の声を聞いたのです。

皆さん、神の声を聞いたことはありますか?私は神の声を聞きたいと日々願っています。しかしなかなか自分の思いなのか、神の声なのか分かりません。でも幸いなことに現代では聖書があります。聖書は神の言葉そのものです。聖書を読むことは、アブラムが直接神から言葉をかけていただいたのと同じ意味があるわけです。私たちにも神からの声が届けられています。

しかしアブラムは、ただ神の声を聞いただけで終わっていないのです。創世記15:6、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。神がせっかく声をかけてくれても信じなければ、約束はアブラムのものにはなりませんでした。私たちは聖書の御言葉を読んで、それを信じなければいけないのです。信じるって、どこまで信じればいいのかという疑問も残りますが、神の言葉を信用することです。アブラムは「あなたから地にあるすべての民族が祝福されます」と祝福の言葉をかけられたわけですが、それを「信じた」時、「彼は義と認められた」のです。信じることは大事です。しかしよく見ていきますと、まず第一に神はアブラムと口頭で約束をされました。そしてその言葉をアブラムが信じたことによって、義と認められました。

プロテスタント教会は、「信じることによって義と認められる」という「信仰義認」が強調されています。なぜなら、それがルターによる宗教改革の争点であり、原点であるからです。とにかく「信じたら、義と認められる。救われる。」これは正しい理解です。しかしここで止まっている事が多いのです。その後のアブラムの神との契約を見ると、その次もあることを知らなければなりません。次は何かというと、創世記15:9、「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」と神は言われました。それらを切り裂き、血を流して、生け贄としてささげることを要求されたのです。それでアブラムは神から言われた通りに生け贄を用意して血を流したら、何が起こったのでしょうか。15:17を見ると、「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた」とありますが、何者かが血が流れている生け贄の間を通り過ぎたのです。これは神が通り過ぎられたのです。そして15:18から、「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。」とあります。アブラムと神との約束は、最初は「口約束」から始まり、最終的には「血を流す」事によって成立しているのです。案外私たちは神の言葉を「信じる」という場面で止まっています。しかし次の段階、生け贄をささげて血が流された事によって契約が成立しているというゴールを見落としてはいけません。

旧約聖書の中の契約で最も有名なのが、モーセがシナイ山で神と結んだ「シナイ契約」です。それが聖書の重要な契約概念となっています。まとめると、『シナイ山における神との契約は、「血の儀式」と「神の前での食事」によって結ばれた。』ということです。

ある神学者がこのように解説していたのですが、アロンとその子らは会見の天幕の入口で、「食べろ!」と命じられています。それは「生け贄に使った動物など、もったいないから食べろ。パンももったいないから食べろ。」という残り物を食べる印象で現代人は受け取ってしまうのですが、そうではありません。先ほど「ベリート」が「切る」という意味と「食べる」という意味が根底にあると話しましたが、まさに生け贄を切って血を流す、神の前で食事をするという、二つの行為が神と契約を結ぶ条件として、大変重要だった事が理解できます。神と結ぶ契約は壮大な神の前での食事を伴う生け贄儀式と共にあったわけです。

今でもイスラエルでは旧約の概念に生きていて、このような儀式を見ることができます。しかしユダヤ人たちは生け贄をささげたりはしません。なぜささげないのかと言うと、旧約聖書にささげるように言われていますが、生け贄の儀式は神殿がないとできません。今神殿がないから、生け贄の儀式はやらないと言うのです。しかし以前にもお話ししましたが、イスラエルにはサマリヤ人という人たちがいます。サマリヤ人はイスラエル十部族の子孫です。彼らはゲリジム山の山頂に住んでいて、今でも生け贄儀式をやっています。祭りの時には世界中から見学者が来るのですが、彼らは彼らの神殿の跡地で儀式を行っています。

私たちクリスチャンはこんなことはしません。もしもキリスト教がこれを受け継いで毎週血の儀式をやっていたら、誰も教会には来ないと思います。しかしネパールでは、彼らはヒンズー教ですが、必ず血の儀式を行います。毎日のように羊や山羊の首を切り、ヒンズーの神々にささげるのです。そして生け贄を食べます。本来は神と結ぶ契約を悪魔に取られているわけです。

クリスチャンはこのような儀式は必要ないように考えるのですが、旧約聖書をベースにして考え、私たち自身が神の神殿なら、何らかの契約儀式が必要となるわけです。神との口約束のレベルでは、完全な契約は成立していません。本当の契約は「食事と生け贄」がささげられて初めて成立し、発効されるわけです。でも旧約聖書的に言うと、まだ契約書は出来上がっていないのです。契約書が発行されるまでは、油断できません。

新約時代ではどのようにして具体的な契約書にまで持ち込むことができるのでしょうか。その方法が示されたのが、イエス様が十字架にかけられる前に行われた「最後の晩餐」と呼ばれる食事会でした。そこでイエス様は神との契約の結び方を弟子たちに教えられました。最後の晩餐の中に同席している気持ちで、聖書を読んでみたいと思います。まずはそれに先立ち、ヨハネの福音書6:51を読みますと、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

この御言葉をイエス様から聞いたら、どうでしょうか。受け入れることができますか?「そうだ。イエス様がいのちのパンだ!」と信じることができると思います。しかしイエス様は続けて、こう話されました。6:53、『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」』6:56、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

皆さん、どうでしょうか。「俺の肉を食って、俺の血を飲まないとおまえらに命はないぞ。」と言われたら、絶対に引くと思います。実際、イエス様の十二弟子以外の多くの弟子たちがこの発言を聞いて離れて行きました。私たちもそこに居たら、きっと「この人、やばいぞ。何を言うんだ?」みたいな所があると思います。しかし旧約聖書の時代の契約文化を知っていたら、少しは違うと思います。その後、イエス様は何と言われたのかというと、ルカの福音書22:19-20、『それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」』と言われました。

旧約時代は大規模な生け贄儀式が行われないと、神との正式な契約には至らなかったのですが、イエス様が十字架で血を流し、ご自分を神の前に生け贄としてささげてくださることによって、古い契約が新しい契約と置き換えられたのです。大規模な生け贄儀式は「聖餐式」に置き換えられました。「パンはわたしのからだです。ぶどう酒はわたしの血です。パンを食べたら、わたしの肉を食べるのと同じです。ぶどう酒を飲んだら、わたしの血を飲むのと同じです。」と今は聖餐式という形で血の契約が結ばれるのです。

私たちが現在祈っている事柄を神から、正式な契約書にしていただくには何が必要なのでしょうか。それは「聖餐式」が必要ということです。神の言葉の約束を信じることはとても大切です。しかしもう一歩進むと言うか、旧約聖書を土台にして新約の契約に目を向ける時、案外軽く考えられている聖餐式が神との契約を交わすための重要な働きであることが分かります。

私はクリスチャンホームに生まれて、小さい頃から聖餐式を見て育ちました。洗礼を受けてからは自分も参加してきました。しかしあまり良いイメージを持っていませんでした。なぜなら、コリント第一11:29-30にこう書かれています。「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

聖餐式にあずかると、弱くなったり、病気になったり、最悪の場合、死んでしまう、教会で毒入りのパンと、毒入りの飲み物を提供するような聖餐式は、やらないほうがいい!」と私は考えていました。しかし聖書の御言葉は文脈をしっかりと抑えないと意味を曲解してしまいます。コリント第一10章、11章で、パウロは何を警告しているのかと言ったら、コリントのクリスチャンたちはクリスチャンと言っても、コリントの文化と習慣の中にどっぷりつかっていました。彼らはアブラハムのように、父の家から出ることをしませんでした。

コリントにはギリシャ神話の神々が至る所にまつってあって、毎日のように動物の生け贄が悪霊にささげられていたわけです。彼らはその肉を無批判に食べていたし、神殿には神殿娼婦がいて悪い習慣が数多くありました。クリスチャンと言いながら、特に偶像礼拝にまつわる行為を平気で行いながら、同時に聖餐式にも参加していたのです。彼らは聖餐式ではなく、悪餐式のような行為に日々関わっていたのです。

パウロは「偶像にささげた肉はあなたがたに被害を及ぼす。ゆえに病気になったり、弱くなったり、死んだ者も大勢いる。だから悪しき文化を捨てて、真の神と血の契約を結んでください!」と呼びかけているのです。それがコリント第一10章、11章に述べられている全体の文脈です。聖餐式は本来、大きな祝福であるわけです。

今日、皆さんと共に詩篇23:4-6をお読みしました。今お話したような契約と聖餐式の概念を加えて読むと、普段では見えないものが見えてきます。23:5、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

敵の前で食事」、敵である悪魔・悪霊どもの前で、本物の神と共に食事をするのです。そして「杯は、あふれています。」真の神との血の契約が結ばれるわけです。ゆえに敵は私たちに手出しできません。「まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

聖餐式は一つの神秘です。そこには大変重要な意味があります。同時に食事も神との契約であることをちゃんと覚えてください。神様は口約束で終わる方ではありません。ちゃんと契約書を作ってくださいます。それも血の契約書です。どんなふうに作るのでしょうか。それは簡単です。聖餐式の中で契約が結ばれるのです。またそれに伴う食事の中で結ばれます。私たちの生活のただ中で、イエス様の十字架と復活を通して、神は私たちと血の契約書を交わしてくださるのです。だからそれは絶対に破られません。必ず成就します。「ですから神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります。主は敵の前であなたがたに食事を整えられます。」ハレルヤ!主を賛美しましょう。
合計 237
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
237
New マタイの福音書 11:2-6 (つまずかないためには)
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New マタイの福音書10:1-4 (なぜ主はイスカリオテのユダを選ばれたのか)
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マタイの福音書 5:21-26 (信仰は愛の深さに比例する)
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マタイの福音書25:31-46 (最も小さい者たちの一人)
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マタイの福音書4:12 (主が私から退かれた時)
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詩篇23:4-6(契約)
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使徒の働き2:1-4(聖霊によって主の証人となりなさい)
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詩篇103:1-5(主をほめたたえよ)
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クリスマス•キャロル
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ルカの福音書2:1-11(大きな喜びの知らせ)
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