メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
マタイの福音書4:12 (主が私から退かれた時)
投稿者
tbic
投稿日
2026-01-19 09:43
閲覧数
74
マタイの福音書 4:12 「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。」
人間的な目で見ると、イエス様のこの本文の行動は少し不思議に思えます。荒野でサタンの試みを退けられた後、ご自身の道を備えたバプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられたと聞かれたにもかかわらず、イエス様は静かに退かれました。正義と力の主であるイエス様なら、すぐにでもヨハネを救い出されるべきではないかと思ってしまいます。しかし本文は、ただ短く淡々とこう記しています。「ガリラヤに退かれた。」なぜなのでしょうか。
第一に、ヨハネがその使命を全うしたからです。
バプテスマのヨハネは、主の道を備えるという明確な目的をもってこの地に遣わされました。彼は荒野で叫ぶ声であり、花婿を迎える友でした。ヨハネ自身も、「あの方は栄え、私は衰えなければならない」と語っています。ヨハネが捕らえられたということは、旧約聖書の最後の預言者としての役割が終わり、イエス様の公の働きが本格的に始まったことを意味します。
私たちはしばしば、働きの成功を「長く続くこと」や「華やかな評価」によって測ります。しかし神の視点における成功とは、任された分量の使命を全うすることです。ヨハネは牢に入れられることで自分の舞台を終え、イエス様はそのバトンを受け取ってガリラヤに向かわれました。ですから、イエス様の「退かれた」行動は、臆病な逃避でも無関心でもありません。それは、神の御心と時をよく知っておられる霊的な見極めであり、徹底した節制なのです。
私たちもこの見極めと節制を学ばなければなりません。自分の感情や感じ方だけで動いてはいけません。かわいそうだという理由だけで、急いで行動してもいけません。その背後にある神の御心をよく見極める必要があります。そうしてこそ、後悔する行動を避けることができます。
また、自分が神から与えられた使命のとおりに生きているなら、それで十分なのです。人に認められなくても構いません。人に噂されても気にする必要はありません。ヨハネが牢に入れられたとき、彼の弟子たちは失望したかもしれません。無力に見えるヨハネを見て、「師匠を間違えて選んだ」と不平を言ったかもしれません。
それでもなお、使命のとおりに生きることこそが最大の祝福です。私たちは世の人々が羨む人生ではなく、神の使命に従って生きるべきです。神が喜ばれる人生を生きるべきです。そのような人生こそ、最も祝福された人生なのです。
第二に、この地上よりも天国のほうがはるかに優れているからです。
イエス様がヨハネをすぐに救い出されなかった、さらなる深い理由は、天国がどのような場所であるかをよくご存じだったからです。イエス様は、この地上の命がすべてではないことを誰よりもよく知っておられました。ヘロデの牢獄は冷たく暗い場所ですが、永遠の神の国は、それとは比べものにならないほど栄光に満ちた場所です。
そのため、使徒パウロもコリント人への手紙第一15:19でこう語っています。
「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」
私たちには天国があるからこそ、世の人々を羨む必要はありません。
もしヨハネの人生が、牢獄での斬首で終わるだけのものだったとしたら、イエス様の「退かれた」行動は臆病に見えたでしょう。しかしイエス様は、ヨハネを永遠の安息へと迎え入れられる神の御手をご存じでした。この地上での苦しみの労苦を終え、苦しみも涙もない天国へ行くことこそ、ヨハネにとってはより大きな祝福であることを、イエス様はよく知っておられたのです。
私たちが人生の現場で、切に祈っているにもかかわらず状況が悪化したり、沈黙される神を経験するとき、見捨てられたように感じることがあります。しかし、イエス様の「退かれた」行動は無関心ではなく、私たちにとって最も良い時を神が知っておられるからなのです。
私たちにも、神が退いておられるように感じる時があります。祈りが答えられないように思え、奉仕の扉が閉ざされ、愛する人々が苦難に遭うこともあります。そのとき、ヨハネの退場を思い出しましょう。使命を全うしたなら、それは栄光ある結末であり、人生の扉が閉じられるなら、それは天国の扉が開かれることなのです。イエス様の「退かれた」その背後に、深い神の御心と摂理があることを、決して忘れないようにしましょう。
お祈り、
「主が退いておられるように見えるその背後に、驚くべき御心と摂理があることを、堅く信じることができますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」
人間的な目で見ると、イエス様のこの本文の行動は少し不思議に思えます。荒野でサタンの試みを退けられた後、ご自身の道を備えたバプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられたと聞かれたにもかかわらず、イエス様は静かに退かれました。正義と力の主であるイエス様なら、すぐにでもヨハネを救い出されるべきではないかと思ってしまいます。しかし本文は、ただ短く淡々とこう記しています。「ガリラヤに退かれた。」なぜなのでしょうか。
第一に、ヨハネがその使命を全うしたからです。
バプテスマのヨハネは、主の道を備えるという明確な目的をもってこの地に遣わされました。彼は荒野で叫ぶ声であり、花婿を迎える友でした。ヨハネ自身も、「あの方は栄え、私は衰えなければならない」と語っています。ヨハネが捕らえられたということは、旧約聖書の最後の預言者としての役割が終わり、イエス様の公の働きが本格的に始まったことを意味します。
私たちはしばしば、働きの成功を「長く続くこと」や「華やかな評価」によって測ります。しかし神の視点における成功とは、任された分量の使命を全うすることです。ヨハネは牢に入れられることで自分の舞台を終え、イエス様はそのバトンを受け取ってガリラヤに向かわれました。ですから、イエス様の「退かれた」行動は、臆病な逃避でも無関心でもありません。それは、神の御心と時をよく知っておられる霊的な見極めであり、徹底した節制なのです。
私たちもこの見極めと節制を学ばなければなりません。自分の感情や感じ方だけで動いてはいけません。かわいそうだという理由だけで、急いで行動してもいけません。その背後にある神の御心をよく見極める必要があります。そうしてこそ、後悔する行動を避けることができます。
また、自分が神から与えられた使命のとおりに生きているなら、それで十分なのです。人に認められなくても構いません。人に噂されても気にする必要はありません。ヨハネが牢に入れられたとき、彼の弟子たちは失望したかもしれません。無力に見えるヨハネを見て、「師匠を間違えて選んだ」と不平を言ったかもしれません。
それでもなお、使命のとおりに生きることこそが最大の祝福です。私たちは世の人々が羨む人生ではなく、神の使命に従って生きるべきです。神が喜ばれる人生を生きるべきです。そのような人生こそ、最も祝福された人生なのです。
第二に、この地上よりも天国のほうがはるかに優れているからです。
イエス様がヨハネをすぐに救い出されなかった、さらなる深い理由は、天国がどのような場所であるかをよくご存じだったからです。イエス様は、この地上の命がすべてではないことを誰よりもよく知っておられました。ヘロデの牢獄は冷たく暗い場所ですが、永遠の神の国は、それとは比べものにならないほど栄光に満ちた場所です。
そのため、使徒パウロもコリント人への手紙第一15:19でこう語っています。
「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」
私たちには天国があるからこそ、世の人々を羨む必要はありません。
もしヨハネの人生が、牢獄での斬首で終わるだけのものだったとしたら、イエス様の「退かれた」行動は臆病に見えたでしょう。しかしイエス様は、ヨハネを永遠の安息へと迎え入れられる神の御手をご存じでした。この地上での苦しみの労苦を終え、苦しみも涙もない天国へ行くことこそ、ヨハネにとってはより大きな祝福であることを、イエス様はよく知っておられたのです。
私たちが人生の現場で、切に祈っているにもかかわらず状況が悪化したり、沈黙される神を経験するとき、見捨てられたように感じることがあります。しかし、イエス様の「退かれた」行動は無関心ではなく、私たちにとって最も良い時を神が知っておられるからなのです。
私たちにも、神が退いておられるように感じる時があります。祈りが答えられないように思え、奉仕の扉が閉ざされ、愛する人々が苦難に遭うこともあります。そのとき、ヨハネの退場を思い出しましょう。使命を全うしたなら、それは栄光ある結末であり、人生の扉が閉じられるなら、それは天国の扉が開かれることなのです。イエス様の「退かれた」その背後に、深い神の御心と摂理があることを、決して忘れないようにしましょう。
お祈り、
「主が退いておられるように見えるその背後に、驚くべき御心と摂理があることを、堅く信じることができますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」
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