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詩篇 119:105

ルカの福音書9:23(日々自分の十字架を負う)

投稿者
tbic
投稿日
2023-12-31 23:21
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96
ルカの福音書9:23『イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」』

十字架は日々負わなければなりません。ここで強調したい御言葉は「日々(毎日)」の言葉です。イエス様は人々に、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と言われました。イエス様が「日々聖書を読みなさい」と言われたことは、聖書には出ません。もちろん聖書を毎日読むことは当たり前のことですが、また「昼も夜もそのおしえを口ずさむ」という御言葉が詩篇一篇に出るし、ヨシュア記1:8にも出ますが、イエス様が直接、「あなたがたは毎日聖書を読みなさい」と言われたことは四つの福音書には出ません。

イエス様が「毎日しなさい」と言われたことは何もありませんが、ただ十字架を負うことについては、「毎日、日々やりなさい」と命じられたわけです。だから実際に使徒パウロは自分の十字架を「毎日」負いながら、従順に従って生きました。コリント人への手紙第一15:31、「兄弟たち、私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」たまに一回死ぬことではなく、一カ月に一回十字架を負うことでもありません。パウロは、「毎日が死の連続です」と告白しました。

私は子どもの時から、ずっと教会で聞きました。「毎日聖書を読みなさい。毎日祈りなさい。毎日伝道しなさい。毎日信仰の交わりをしなさい。」こういう勧めを聞きながら育ちました。もちろんこれらはとても良い勧めであり、尊いクリスチャンの習慣であることは間違いありません。しかし私は、「毎日自分の十字架を負い、主に従いなさい。」という教えはあまり受けたことがありません。

実はイエス様が直接「日々やりなさい」と命じられたのは新約聖書の福音書を読めば、「日々自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。」と言われたことがすぐわかります。しかしこの御言葉は教会であまり強調せず、他の教え、つまり「聖書を読む習慣、祈りの生活」など、こういう事ばかり教会では「毎日」を強調したわけです。もちろんこういう事も毎日やるべきですが、イエス様の教え、今日の本文によれば、イエス様は毎日「日々自分の十字架を負い、そしてわたしに従って来なさい。」と教えられたことを、今日私たちは忘れてはなりません。つまりイエス様が直接、「日々やりなさい」と教えられたのは、「自分の十字架を負うこと」しかないということです。

皆さん、「日々」十字架を負う理由は何ですか。日々復活するためです。十字架を負うことは自分が十字架にかかって死ぬことです。しかし私たちが死ぬとき、命を得て復活するのです。私たちは毎日いのちが必要であり、そのいのちとは復活するとき、与えられるものです。つまり、私たちは毎日復活の命が必要だということです。

しかし、なぜ私たちの人生に復活の命が現れないのでしょうか。それは毎日十字架で死なないからです。一カ月に一回死ぬ人は一カ月に一回だけ、復活の命が現れると思います。しかし毎日十字架を負い、死ぬ人は毎日復活の命が現れるはずです。

そうしたら現実的に、なぜ私たちが「日々自分の十字架を負い、主に従いなさい。」という戒めを無視し、それに関心がないのでしょうか。私たちが自分の十字架を負うことは簡単ではないからです。

聖書を読むのは少し辛いのですが、できるのです。祈りも少し大変ですが、できるのです。聖徒の交わりも毎日できます。しかし十字架で自分を否認して自分が死ぬこと、それは本当に「毎日」従うことは簡単ではありません。だから教会の講壇でもあまり強調しないし、あまり語られていません。従って、私たちの信者の人生でもキリストの復活の命がとても珍しく現れるわけです。

もっと正直に、私たちが現実を顧みるのであれば、今日クリスチャンの中では「日々自分の十字架を負い、主に従う」というイエス様の戒めを無視して、信仰生活をする人がもっと多いわけです。こういう十字架の信仰自体が教会でも、あまり強調されていないから、そんなことがあったのか、とむしろ問いただす人が多いのです。

皆さん、いのちの働きは必ず十字架を負った後、現れます。だから私たちの人生の中にイエス様が与えて下さった聖霊の実、つまり愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、こういう実をあまり結ばないのであれば、その理由は何ですか。それは私が十字架を負わないからです。自分の自我が生きていて喧嘩する時はしつこく喧嘩し、自分の利益のためには絶対に譲らず、すべての利益を漏らさずに受け取って、少しだけ損害を受ければ、手段方法を選ばず、その相手にそれ以上の損害を与える、こういう生き方をするから、イエス様を信じて信仰生活をすると言っても、その中に復活の命の働きは全く現れず、世の人々と似てる人生を送るクリスチャンが今日には多いわけです。

私たちが本当にキリストの弟子であれば、本当に救われて変えられた人であれば、私たちを通していのちの働きが現されるはずです。必ずその実が現れます。私たちの周りの人々が私たちを通して恵みを受け、イエス様を信じて、私たちがその人々を信仰に導き、さらに成長を助ける、こういうたくさんの命の働きがイエス様を信じれば、私たちの周りから起きるはずです。しかしそういう事がほとんど起きません。なぜでしょうか。私たちが自分の十字架を負い、主に従わないからです。十字架とは簡単に言えば、「自分が死んで、他の人のため(益)になる。」ことです。一粒の麦が地に落ちて死んだら、たくさんの実を結ぶように、自分に死があり、損害があって、苦しみと犠牲があるとき、その恵みが必ず周りの人々に届くのが一粒の麦の働きです。

しかしこの世は自我の死ではなく、自我の充満を求めています。今日私たちがいつも引っ張られていくテレビのドラマや映画を見ますと、そこには自我が死んで、他人に有益を与える場面がほとんど見られません。多分そうすれば、映画やテレビのドラマは面白くないと思います。映画とドラマは私たちに自己否認ではなく、自己充満、自己強化を教育し続けています。

つまり姑に叱られると、お嫁は背後で復習をし、夫と妻がお互いに喧嘩して別れる「自己充満」の行動を私たちは映画やテレビを通して、たくさん学んでいます。その教育を受け、私たちの潜在意識の中に、それらがゆっくりと積まれていくわけです。しかし「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、主について来なさい。」という御言葉は、たまに教会で教わるから、教会での教え1%、テレビと映画、あるいは社会生活での教育99%、この世的な影響力、つまり自我の死ではなく、自我の確立、自己満足、こういうことを99倍で教育を受けるから、キリスト教の信仰の核心が、十字架の信仰であるのに、本当に十字架を負い、主について行く信者は今日とても珍しくなったということです。

だから個人の人生の中でも、いのちの働き、復活の命や聖霊の実が現れないだけでなく、むしろ、クリスチャンが周りに迷惑をかける場合もあるわけです。だからこそ、私たちは今日の本文を通して、イエス様の教えに耳を傾けなければなりません。今日の本文、ルカの福音書9:23をもう一度読みますと、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしに従って来なさい。

旧約聖書のいけにえは新約聖書の十字架のひな形、つまり十字架はいけにえを表しています。動物を取って殺すいけにえは子羊であられるイエス・キリストのただ一回の死を表していますが、その旧約聖書でのいけにえも毎日ささげました。へブル人への手紙10:11、「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、」と出ます。

毎日、朝晩二回、祭壇に火を燃やしていけにえをささげました。その幕屋はイスラエルの12部族の真ん中に位置付けられていました。だから12部族は「毎日」朝晩、幕屋の祭壇で燃え上がる煙を見ながら、彼らは「毎日」旧約の時代の十字架、つまり動物が自分たちの罪の代わりに死んでいくのを見て、十字架を忘れず、それをずっと覚えることができたわけです。こういうふうに「毎日自分の十字架を負いなさい」というのは、旧約の時代から主の十字架を「毎日」忘れずに覚えなさいという意味であり、また主の足跡を私たちが「毎日」ついて行くべきだという意味でもあります。

ペテロの手紙第一2:21、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」だから私たちは本当に復活の命を生きるためにも、主と共に十字架で死ぬ、そういう信仰を実際に身をもって生きなければなりません。しかしこれは言葉では簡単ですが、実際に行うことはとても難しいことです。誰かが自分の右の頬を打ったのに、左の頬も向けられる人が本当にいるのでしょうか。誰かが下着を取ろうとするとき、本当に自分の自我を十字架につけて、上着までやれる人、誰ができるのでしょうか。簡単ではないと思います。

いつも「十字架、十字架」と言いながらも、その十字架の生き方を実際に生きることは、とても難しいことです。だからセイント(聖者)と呼ばれる聖フランシスコを私たちが、なぜ聖者と呼ぶかと言うと、実際に十字架の生き方を自分の人生の中で、身をもって生き抜いたからです。これは一日二日で、できることではありません。しかし5年かかっても、10年かかっても、結局はそれが私たちの生きるべき信仰生活の目標であることを忘れてはなりません。

そうしたら、自分の十字架を負い、自我を十字架につける人の例を分かりやすく上げてみますと、私も聞いた話ですが、とても印象に残る話でした。子どもの中では頑固な子どもがいます。意志も強く、とても頑固で、それは先天的に生まれつきです。こういう子どもたちは、幼い頃からママの話をあまり聞かずに家の中でも大変で、何でも自己中心で自分勝手に振る舞う頑固なタイプの子供です。

学者たちはこういう子は3人の中で少なくても1人はいると言っています。残りの3人の中で1人は、反対に従順のタイプです。「勉強しろ」と言わなくても、真面目に勉強し、別にさせることが何もありません。幼い頃から大人の話にちゃんと従う子だから、本当に楽です。そして3人の中で残りの1人は中途半端な子供です。

しかし頑固なタイプの子どもは、その自我が生まれつきから強くて、すべてが反対の反応です。「これをやりなさい」と言ったら、あれをやって、「食べなさい」と言ったら、食べずに自分が食べたいとき、自分が好きなものを食べます。10代になったら、買ってあげる服は絶対に着ません。自分が他の服を買って着るわけです。そういう子が特にいつ大変になるかと言うと、家にお客さんが来たら、その時は完全に自分の世界となってしまいます。「お客さんがいるから、ママが自分を叱ることはできない。」ということを4-5歳の子が知っているわけです。経験上で分かるのです。だからお客さんが訪ねて来たら、その日はもっと大騒ぎになるのです。ママの髪の毛を引っ張ったり、大声で叫んだり、泣いたり、食べ物も投げ出したりするわけです。完全にやりたい放題です。

ある日、その大変な子持ちの牧師の家に、ある方が訪問したそうです。だからその子はチャンスだと思って、大騒ぎになったわけです。その牧師の夫婦は恥ずかしくて戸惑っていました。その時、牧師の奥さん(その子のママ)がブツブツ独り言を言っていたそうです。どういう話か聞いてみたら、「私は十字架で死んだ。私は十字架で死んだ。」と。その言葉を繰り返してブツブツしゃべていたというのです。本当に自分の自我が生きていたら、その子の背中を叩きながら叱ったり、むなぐら掴んで子どもの部屋に入れて監禁する、そういうことをしたはずのママが、「自我を十字架につける」その場面を見せたのです。その日、そこを訪問したそのお客さんはそれがとても印象的だったというのです。

私たちの人生の中にも、とても腹が立つことがたくさんあり、直ちに対応しなければならないことがいっぱいあります。しかし感情のまま対応したら、必ず2倍3倍に返してもらうケースがたくさんあります。そうしたら、また悔しいから自分で仕返しするのです。だからこそ、この世の喧嘩は絶えまず起こり、東西葛藤、南北葛藤、さらに夫婦葛藤まで絶えまず続くわけです。こういうふうに人間関係の葛藤が絶対に解決できない理由は、すべての人々の自我が生きているからです。

テレビとか映画を見ますと、みんな自我充満です。私は自我が十字架で死ぬドラマを見たことがありません。みんな自己中心、自己満足ばかりです。しかし私たちは本物の信者として、身をもって自我が毎日死ぬ、そういう生き方をしなければなりません。その人が本当に力ある人です。これは1年でできることではないし、10年でもできません。もしかしたら一生涯でもできないかもしれません。自我を十字架につけて毎日自分が死ぬことによって、叩かれても我慢し、犠牲しながら損害を受け、黙々とイエス様の苦難に参加する人生、これは一生涯かかっても、そういうふうに生きることは難しいと思いますが、でも皆さん、そういう目標でも立てて生きようではありませんか。

信仰生活に目標でも、しっかり立てて歩むのであれば、どれほど遅く亀のように這って行っても、結局は到達する日がやって来ます。どれほど速くウサギのように走っても、目標を間違って設定すれば、どうなるのでしょうか。皆さん、十字架はすべての問題の答えであり、すべての試みの解決策です。どんな問題でも起きたら、十字架モードに入ってみて下さい。つまり低い姿勢に入ることです。これは十字架で死ぬことですが、これがすべての問題の答えであり、解決策です。

皆さん、ある大きな問題が起きたら、自分の死を宣言し、どんな反応もせず、ただ祈るだけです。他人が叩いたら叩かれ、水に落としたら落ちて、石で打ったら打たれる、それをされるがままにしていたら、結局はそれが解決策となります。なぜでしょうか。主の復活の命がそこから与えられるからです。

普通の場合、人々は自分が不当に攻撃されれば、反対声明を発表し、自分を防御するのです。自分の味方を作って対応チームを組織します。時には、それが神様から与えられる答えかも知れませんが、そういう可能性はとても低いです。神様の導きによって、そういうふうに対応しても根本的なイエス様の教えは自我が十字架で死ぬことです。この世と同じ方式で対応せず、我慢し忍耐して、耐えることです。

しかし私たちの周りを見ますと、本当にもどかしいことですが、主のしもべなのに、敵と戦いながら、同じ悪魔になってしまうケースがたくさんあります。「悪魔と戦いながら、自分も同じ悪魔になった。」ということです。

つまり敵が自分を苦しめ、あまりにも激しく攻撃するから、自分も粘り強く、しつこく戦います。正義のために戦ったり、悪を取り除くために戦ったり、どうでもいいです。そういうふうに戦ったら、結局は誰が勝つかと言うと、悪魔だけが勝って、両方とも負けてしまうのです。

攻撃する側は本来霊的力がないから、損することはほとんどありませんが、攻撃される側が十字架を負わずに対抗することによって、霊的力を全部失い、恵みも使い果たして、力が抜けたサムソンのようになるケースを私はたくさん見て来ました。それは「十字架を負いなさい」というイエス様の教えに従わなかったからです。

自分が死ぬところで復活の命が現れるはずなのに、自分が死なずに最後まで生き残って戦っているから、敵、あるいは悪魔と似ていくわけです。これは十字架を負わないとき、悪魔が主のしもべを堕落させる代表的な策略です。だから私たちは「毎日」その悪魔の手口を打ち破り、そんな問題が起きても十字架を負うことによって勝利を収める、真のクリスチャンになりたいと思います。
合計 143
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ルカの福音書9:23(日々自分の十字架を負う)
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