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詩篇 119:105

レビ記19:1-4(自分の母と父を恐れなければならない)

投稿者
tbic
投稿日
2023-09-24 19:31
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レビ記19:1-4『主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたは偶像の神々に心を移してはならない。また、自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」』

神様と共に母と父を恐れることが真の敬虔(清さ)です。今日の本文2-3節に、「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。」ここで恐れるという言葉はヘブライ語で「ヤレ」ですが、その意味は、1) ほとんどの聖書個所ではこれをそのまま「怖い、恐ろしい」という意味で使われています。例えば、創世記3:10に「アダムが神を恐れて隠れた」とか、創世記 42:35では「ヨセフの兄弟とヤコブがまだ自分を明かしていないヨセフ(エジプトの総理大臣)を恐れた」とか、こういう箇所では、そのまま「怖い、恐ろしい」の意味です。2) しかし今日の本文に出る「自分の母と父を恐れなければならない」では、この恐れの言葉が「敬う」という意味で使われています。例えば、出エジプト記1:17に「助産婦たちは神を恐れた」とか、出エジプト記3:6に「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」とか、ここでは神を「恐れる」ことが神を「敬う」という意味です。こういう風に、恐れることは二つの意味(恐ろしい 敬う)を持っています。

今日のレビ記の本文は「聖、清さ」が何か、具体的に説明しています。本来「聖、清さ」とは、「この世と区別される」ことを意味しますが、それは具体的に何を意味するのかというと、「自分の母と父を恐れる(敬う)こと」を意味します。

今日の本文3節で、「自分の母と父を恐れなければならない」と出ますが、これは「神を恐れなさい」という時に使う御言葉と同じです。それが「聖、清さ」という意味です。つまり神を恐れる(敬う)ことと両親(父と母)を恐れることが同じだということです。私たちは普段、神様だけにちゃんと仕えれば清いと思い、それが聖であると考えています。しかし聖書は父と母もちゃんと仕えなければならないし、ちゃんと敬うことが敬虔なクリスチャン、清いクリスチャンの生き方だと教えています。

聖書は繰り返して、神を恐れることと、父と母を恐れることを同一線上に置いています。言い換えれば、神様をちゃんと敬う人が父と母もちゃんと敬うことができるという意味で、反対に父と母をちゃんと敬えない人は、実際に神様もちゃんと敬えないという意味です。

皆さん、十戒の第五の戒め(あなたの父と母を敬え)は一から四までの戒めと、六から十までの戒めの架け橋となっています。つまり一から四までの戒めが「神を愛しなさい」という戒めで、六から十までの戒めは「人を愛しなさい」という戒めです。その真ん中にある第五の戒め(あなたの父と母を敬え)は二つ(神を愛すること、人を愛すること)をつなぐ架け橋です。

言い換えれば、神様を愛することと隣人を愛することは、父と母を敬う第五の戒めで結ばれています。それは自分の親をちゃんと敬う人が、他人もちゃんと愛することができるということです。つまり第五の戒めをちゃんと守る人が、残りの六から十までの戒めもちゃんと守ることができます。自分の親も敬えない人が、どうやって他人を愛することができるのでしょうか!

そのすべての始まりは、神様を愛することから出発します。「神を愛する者 父と母を敬う人になり、隣人を愛する者となる」ということです。 つまり1- 4の戒めができれば、5の戒めができ、5の戒めができれば、6 -10の戒めもできるわけです。

皆さん、理解できなくても、父と母を敬ってください。敬うこと(恐れること)は理解できなくても、無条件に従うことです。創世記22:12で主はアブラハムに「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と言われました。

アブラハムはひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげようとした時、100歳に与えられた息子を、それも殺してささげなさいと言われた神様を、到底理解できませんでした。しかしアブラハムは理解できなくても、無条件に従いました。そのとき、神様がアブラハムに「神を恐れることがよくわかった」とほめてくださったのです。

皆さん、神様に対する恐れは「自分が納得いかない時も、変わらず従い続けること」を意味します。理性的に納得できる命令だけに従うのではなく、理性を超えた命令にも従う時、それが本物の「恐れ」となります。親に恐れを持って敬うことも、これと同じです。先ほど「恐れ」とは、「理解できなくても従うこと」だと話しました。だから今日の本文、「自分の母と父を恐れなければならない」と言われた神の命令は「父と母が理解できなくても従いなさい」という意味になります。

もちろん父と母が自分の気に入った時もありますが、時々親が到底理解できない時、納得いかない時もあります。特に両親が年を取ると、昔と著しく変わって行きます。子どもたちに怒ったり、傷つける言葉も平気でしゃべったりして、「あれはダメじゃないの」という思いがする時もあります。ボケているからそうかもしれないし、とにかく親が年を取っていくと、もっと利己的になり、子どもぽくなります。しかし信仰を持って神を恐れる信者は、理解できず納得いかなくても、母と父を敬います。

世の人々とクリスチャンが、より分けられる時点が、まさに、そこです。父と母が年を取っていくと、理解できない瞬間がやって来ます。その時、世の人々は大体、親を憎んで排斥し、捨てます。まるで敵のように縁を完全に切ってしまうのです。親が到底理解できないからです。これが自己中心的に生きる世の人々の生き方です。親が気に入ったら仕え、気に入らなかったら拒絶し、捨てます。しかし信者はそういう人々と区別されなければなりません。親に仕える時、神様に仕える時のように仕え、恐れを持って仕えなければなりません。自分の頭では理解できなくても、ちゃんと敬わなければなりません。それが神の命令だからです。

皆さん、自分の親を論理的に判断しないでください。自分の考えと異なることで心を閉ざしてはなりません。自分にとって理解できない時でも、即断せず「敬いなさい」ということが主の命令です。

親が認知症になったら、息子も娘も知らず怒鳴る時もあります。しかし親が認知症になっても敬わなければなりません。神様を敬う信者はどんな場合にも、ヨブのように神を恨みません。同じように、父と母を敬う子どもはどんな場合にも、父と母を恨みません。これが清い信者の「清さ、聖」だと今日の本文(2-3節)は教えています。だからどんなことがあっても、父と母を恨んだり、無視したり、不平不満を言ってはなりません。

皆さん、誤解しないでよく考えてみてください。愛はバランスを失うことです。わざとバランスを崩すことが愛です。キリスト教の信仰というのは、「親の心、父の心」を持っていることです。例えば、放蕩息子が帰って来た時、お父さんは彼を叱ったり、批判したりしませんでした。むしろ息子を憐れんでいたのです。それは天の父の心をちゃんと表しています。

こういう風に、私たちは「天の父の心」を持って親を理解し、「天の父の心」を持って子どもを理解しなければなりません。大体、批判が多い人々は自分が正しいと錯覚しますが、もっと大切な「天の父の心」を失う時がたくさんあります。

長年(45年間)牧会をして引退をなさったある牧師先生の証ですが、牧会の結論としての彼の一言は、「バランスより大切なのは父の心だ」と言いました。そして彼は言い続けました。

私は牧会しながら、バランスを取れた教会が健全な教会だと思いました。そして信者がバランスを取れた人格を持っていれば、健康な信者だと思いました。しかし神様はサタンに奪われた魂を取り戻すためにバランスを失われました。それは天の御座を捨て低くなり、惨めな人間の姿で、この世に来られたのです。それも罪人を救うために罪のない方が身代わりとなって死んでくださいました。そのようにして合理性とバランスを失われたわけです。だからバランスではなく、神の心(父の心)を持った教会が健全な教会です。囲いの中にいる99匹の羊より、囲いの外にいる1匹の羊のために涙を流す父の心を持った人が健康な信者であり、健全な教会です。

皆さん、子どもたちに対しても、バランスを失った愛を持ってアプローチしてください。正しい道からそれた子どもたちを見て、理性的に一つ一つを指摘しながら、叱ってはなりません。「バランスを失った父の心」がもっと効果的です。年取った親を見る時も同じです。合理的に判断して批判したら、必ず親が憎たらしく見えます。しかし、「バランスを失った愛の心」で親を見る時、本当に親を尊敬することができます。

もちろん年取った親が自分の気に入らない話もしたり、過ちをする時もあります。また、昔のようにやさしくないし、寛容もなくなってしまうかもしれません。人間が80歳を超えれば、子どものようになって、おかしく変わる場合がたくさんあります。しかし天の父の心で覆い、愛を持って接する時、それが「恐れ(尊敬)」となります。だからこそ、絶対に親を批判したり、叱ってはなりません。

結論、

親に対して私たちの心は「バランスを崩す」必要があります。あれこれ、問いただしてはなりません。親をありのままで受け入れてください。子どもたちに対しては、すべてを覆い、受け入れるのに、親の前では一つ一つを指摘しながら、反発する人が多いです。それは真のクリスチャンではありません。皆さん、ぜひ神様を恐れるように、親を恐れ、敬うことによって神様から「あなたは真のクリスチャンだ。本物の聖徒だ。」と認められる人になってください。

最後に、ある詩人の「母ちゃん!」という詩を紹介して終わりたいと思います。

 

 

母ちゃん!

 

母ちゃん!
背が低い理由をやっと分かりました。
頭ですべての荷を負ったからです。

母ちゃん!
瘦せた理由をやっと分かりました。
食べ物をすべて子どもに与え、食べたくないと帯を締めつけたからです。

母ちゃん!
病気になった理由をやっと分かりました。
子どもが病気になった時、「主よ! この病気を私に下さり、私の健康を子どもに与えて下さい。」と祈ったからです。

母ちゃん!
ボケている理由をやっと分かりました。
家族の分、すべてを取りそろえ、自分の分を失ったからです。

母ちゃん!
急いでこの世を去り、天国へ行かれた理由をやっと分かりました。
一生涯重荷を負って生きられたから、もしかしたら自分が子どもの重荷になるかもしれないと恐れて、この愛の負債を悟る前に、愛だけ残して行かれました。
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