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詩篇 119:105

ルカの福音書19:1-10 (救いがこの家に来ました)

投稿者
tbic
投稿日
2023-10-15 19:08
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ルカの福音書19:1-10 『それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」』

新約聖書の中、特に4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)には、実際にイエス様が人々に伝道された姿が描かれています。そのイエス様が伝道された姿の中でイエス様に出会って救われた人々を通して、私たちはイエス様が一人一人を大切にし、深い関わりを持ってくださっていることがよく分かります。福音書にはそのようにイエス様と出会い、救いの中に入れられていた人々がたくさんいます。そのようにイエス様と出会った人々を一人一人取り上げて調べてみるとおもしろい発見ができます。福音書に登場する人物を見てみますと、その人は、まるで自分みたいな人で本当に親しみを感じると思います。今日読んでいただいたルカの福音書19章の本文のところにもイエス様と出会い、救われた一人の人物が出てきます。ザアカイと呼ばれる人物です。この箇所はザアカイの物語と呼ばれているところとして教会学校では、子どもたちに大変親しまれているところでもあります。あるいは、このザアカイの物語を知らない人でも、このところを読むだけで何となくザアカイに親しみを感じると思います。

しかしながらザアカイという人が登場するのはこのルカの福音書の、このところだけです。だから実に不思議な物語でもあります。では、ザアカイとは一体どういう人物なのでしょうか。ザアカイという名前は、清い人、正しい人という意味の名前です。だから両親が清い人、正しい人となるようにと願って、ザアカイと名付けられたと思います。私たち一人一人も名前を持っています。私たちも希望を持って、あるいは理想を持って、名付けられたと思います。もちろん名前負けをしていると思っている人もいるかも知れませんが、私たちも皆りっぱな名前を一人一人与えられています。その正しい人となるように名付けられたザアカイは、本文の2節で「取税人のかしらで、金持ちであった」と記されています。取税人とは、税金を徴収する人、つまり人々から税金を取り立てることを仕事としていた人のことです。今の言葉で表すなら、税務署の役人ということが言えます。しかもそのかしらですから、税務署長ということになります。もちろんザアカイが仕事としていた取税人と、今で言う税務署員とは違うのですが、しかし今でも税務署員というものはあまり歓迎されない人です。さらにその当時の取税人は人々の恨みを買うような本当にいやな仕事の人でした。

当時ザアカイが住んでいたイスラエルはローマ帝国が支配していました。ローマ帝国の支配者たちは、ずるいというか、悪賢いというか、とにかく政治に関しては頭がよかったのです。つまりローマ人自らが直接イスラエルの人々、ユダヤ人から税金を取り立てることはしなかったのです。そこで税金の取り立ては同じ民族のユダヤ人にさせて、その税金をローマ帝国の政府へと収めさせることをしたのです。その仕事をする人が取税人と呼ばれていました。だから取税人は同じユダヤ人から税金を取り立てるものですから、ローマ帝国の支配者の言いなりになってスパイ同然の者です。しかも余分に税金を奪い取って、その余りを自分のポケットに入れ、金もうけをしていました。つまり取税人たちは平気で不正をやっていたということです。そのようなことから取税人は人々から恨まれ、嫌われていました。それだけでなく、取税人は犯罪者と同じように取り扱いをされ、同じ民族なのにユダヤ人たちから差別をされていたのです。

だから普通のユダヤ人は取税人の家に入ることも、食事を一緒にすることも、しなかったのです。しかも取税人ザアカイが住んでいたところはエリコという町でした。そのエリコは経済や交通の上で、豊かで重要な町だったのです。そのエリコには地方中心の最大の税務署がありました。ザアカイはその税務署の取税人で、しかも署長、いわゆるかしらですから悪名高く、人々から白い眼で見られていたと思われます。正しい人の意味のザアカイの名前に似合わない者になっていたのです。

では、なぜザアカイはそんな皆から嫌われるような取税人のかしらになったのでしょうか。聖書には確かな理由は記されていないのですが、本文の2節で、「金持ち」という言葉を記していることから、恐らくザアカイがこの世で価値を置いていたものはお金だったと思います。それに取税人のかしらですから、地位も保証されていたということです。だからザアカイは自分の人生に必要なものや価値がお金であるとか、地位や権力であるということを考えていたと思います。それでザアカイは、たとえ国を裏切ることも、不正をすることも、人を苦しめることも、平気でした。そんな価値を見いだすザアカイにとっては、取税人のかしらとは理想の仕事だったと思います。特にザアカイはお金だけが頼りの世の中、お金さえあれば思い通りに人生を生きていけるという考えをもっていたに違いありません。私たちも多かれ少なかれ、お金に執着する時があります。信仰、信仰と言いながらもお金がないと教会に行けないし、神様を信じる信仰生活もお金がないと出来ないのではないかと、どこかで思っているのです。教会生活、あるいは礼拝には献金というものがあります。献金とは、神様から救われていることを感謝して、神様に捧げるお金のことです。決して救われるために、願いが叶うようなお賽銭のように捧げるものではありません。しかし私たちは、「金だけが人生ではない」ということを知りながらも、神様に感謝をしていると言いながらも、お金に弱いし、どれだけ献金したら良いのかと悩んでしまうこともあります。実際、私も献金を捧げて本当に生活ができるのかなという思いを持ったこともあったし、あれもこれもお金がかかるという思いに悩まされてお金がたくさんあればいいのに、というような思いを持ったこともありました。そんな時、いっそ宝くじに当たってくれれば、という願いを持つ時もあります。クリスチャンであっても牧師であっても、これが正直な気持ちです。だから一見ザアカイは私たちに関係のない人物のように見えますが、実は私たち一人一人もまたザアカイのような者です。

さて、ザアカイはお金も地位も持っていて、少なくとも、この世の中では幸せな生活をするだけの環境の中にいました。しかしザアカイには、何かが足りなかったのです。一番大切なものが欠けていました。それは心の平安でした。ザアカイは人々から嫌われ、人々と関わることができず、人々の冷たい視線の中に身を置いていたのです。ザアカイは孤独であり、人生に真の安らぎがありませんでした。人間は誰からも相手にされないとき、無視されたり、無関心でいられたりすると、だんだんと心が病んでいきます。それだけでなく、生きることに対して不安や不満が大きくなって精神的にもおかしくなってくるのです。ザアカイはお金があって、物質的には満たされていたのですが、心は平安ではありませんでした。そのようなザアカイに喜びの日が訪れたのです。それはイエス様がエリコの町にやって来られるといううわさでした。

ザアカイが果してイエス様のことをどこまで知っていたのか分かりませんが、エリコの町にイエス様のうわさが流れていたのです。そのうわさはイエス様がザアカイと同じ取税人をイエス様の弟子(マタイ)にしたり、取税人や罪人と言われている人々と食事をなさったり、取税人を毛嫌いせず、同じ人間として接してくださるということでした。ザアカイは誰も見向きもしてくれない中で、つまり孤独の中で自分の方をむいてくれるかもしれない一人の人がいることを思い、その人をぜひ自分の目で見たいと考えたに違いありません。その方がまさに、イエス様でした。

そこで、ザアカイはイエス様がどんな人か見ようとしたのです。ところが、そこにさえぎるものがありました。喜びの訪れに邪魔が入ったということです。その一つが、ザアカイは背が低かったのです。背が低くてイエス様の姿をそのまま見ることができませんでした。これは、ザアカイにとってのコンプレックス、劣等感の表れでした。最初私がこのザアカイの物語を読んだ時、妙に親近感を覚えた記憶があります。実は私も背が低いということに、劣等感を持っていた時がありました。思春期の頃は背が低いことに悩みながら、身長を伸ばすために努力をしました。高校の時まではほぼ毎日祈りました。170㎝は超えるようにと。またその頃、世間では結婚や恋人にするためには、選ぶための条件として3つの条件、いわゆる3高というものがあったのです。高収入、高学歴、身長が高い、という3つの条件です。今もあまり変わっていないのですが、このことから私は背の高さで自分の人生が変わるのではないのか、あるいは背が低いことは人間失格だとさえ考えたこともありました。もちろん今は分かるのです。背が低いことだけではなく、逆に背が高い人も劣等感を持っている人もいるし、さらに性格や容姿(顔つき)に劣等感を抱いている人もいると思います。そのように、ザアカイにとっては、恐らく背の低さが劣等感になっていたのです。それでザアカイは背が低いということでイエス様を見ることができませんでした。さらにもう一つは大勢の群衆が邪魔をしていたということです。税金の取り立てのため、たくさん儲けて皆から嫌われているザアカイに対して、親切に前を空けてくれる人なんかいません。前に出たいと願い、イエス様を見たいと思いながらも、誰も前に出してくれないし、譲ってくれません。ザアカイは誰からも相手にされない、孤独のどん底の中に陥っていました。ザアカイはまさに人々から離れ、神様からも遠い存在になっていたのです。

しかしそのように遮られるもの、邪魔をされるものに対しても、ザアカイはイエス様を見るために諦めなかったのです。本文の4節で、「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。」何とザアカイはイエス様を見るために木に登ったのです。これは本当に意外な行動だと思います。ザアカイはおっちょこちょいと言いますか、何かユーモアの感じがします。子どもであれば、木に登る行動は分かります。しかし大人が、それも税務署長をしている人が、このような行動をするのであれば、驚くと同時に思いがけないものを見た思いで何かおもしろいのです。しかしながら、私たちの人間関係の中で、人が思いがけないことやユーモア溢れる姿を見せるときに、その人の本当の気質や性格を見たようで、うれしくなることがあります。

それだからこそ、子どもたちがザアカイの物語に魅力を持ち、親しまれる場面で良いおじさんが木に登っている姿ではないかと思います。とにかくザアカイは熱心にイエス様を見ることを求めていました。これこそ、ザアカイがイエス様に救いを求めていたことの表れです。今の生活から抜け出せるものを、あるいは人間として生きるための本当の願いを求めていたに違いありません。ザアカイは少しずつではありますが、神様のことや信仰のことを考え始めていたということです。

ザアカイは木に登っています。そこをイエス様が通り過ぎようとしました。その時、ザアカイはイエス様に見つかってしまい、声を掛けられました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。」というイエス様の言葉、5節の御言葉です。この言葉はザアカイにとって、驚くべき言葉だと思います。なぜイエス様が自分の名前を知っておられるのか、不思議でたまりません。そして何よりも、イエス様がザアカイのことを、そこの人とか、罪人よとか呼ばず、きちんと名前で呼んでいるのです。イエス様はザアカイを一人の人間として、一人の人格を持った尊い存在として呼んで下さったということです。これはザアカイだけでなく、イエス様は、私たち一人一人を知っておられ、呼び出してくださるのです。世の中の人が知らない自分という人間をイエス様ははっきり、知っていてくださるということです。さらにイエス様は、「きょうは、あなたの家に泊まることにしているから」と声を掛けました。この箇所は原文ですと、「あなたの家に泊まらなければならない」というような押しつけがましい言葉であり、非常に強引に聞こえる言葉です。イエス様は、「留めてもらえませんか」と頼んでいるわけではありません。ザアカイの都合も何もないのです。しかしザアカイはイエス様を自分の家に招き入れました。恐らくザアカイは、何がなんだか分からないまま、とにかくイエス様の言葉に驚きながらも、喜んでイエス様の言葉を受け入れて従ったのです。そしてさらに、イエス様をザアカイ自身の心の中に迎え入れました。皆さん、信仰とは決断してイエス様を信じることであり、イエス様を自分の心の中に迎え入れることです。これはイエス様という救いを、自分の人生の中に迎え入れることでもあります。

ザアカイは満たされなかった思いや孤独な人間だったこと、劣等感に苦しみ、平安ではない生活が、イエス様との出会いを通して、救いを受け取ることによって一気に変えられました。何よりもザアカイは神様から遠い存在、失われた者だったことを自覚したのです。神様から離れていたこと、神様よりも大事なものを頼りにして生きていたことを自覚しました。だから自分の罪にザアカイは気がついたのです。自分の罪に気づくということは、ただ悲しむことではありません。そこから神様の方に目を向けることによって、救いの喜びを受け取ることが出来ます。救われたことに対して、ザアカイはイエス様に信仰の告白をしました。8節、「主よ。ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。」それまでのザアカイの人生にとって価値あるもの、大事なものはお金でした。しかしイエス様に出会い、イエス様の救いのすばらしさを迎え入れることによって、大事なもの、価値あるものが変わったのです。イエス様を受入れ、信じるという信仰こそが大事なものに変わりました。そこに救いの喜びがあったからです。

最後の10節にイエス様は、「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」と言われました。イエス様がこの世に来られた目的はザアカイのように神様から離れている人を捜して、神様の方に目を向けさせ、救うために来られました。実は私たちも神様から失われていた者、隣人からも疎外され、自分で自分を見失っていた存在でした。そんな私たちを救うためにイエス様はこの世にやって来られたわけです。このザアカイの物語の後に、実際にイエス様は十字架に架かり、私たちの罪を取り除いて、その罪をゆるしてくださったことが記されています。それは私たち一人一人を捜してイエス様のところに迎え入れ、救うための十字架だったのです。だからこそ、もう救いは私たちにやって来たのです。イエス様によって救いは自分のものになりました。今日の本文の7節で、ザアカイの家に入るイエス様の姿を見て人々は、「あの人は罪人のところに行って客となった」とつぶやいたのです。このつぶやきは事実を語っていて、正しいように思えます。しかしこのつぶやいている人々も、自分が罪人の一人であることに気づいていません。神様から遠い存在で、失われた者であることに気づいていないのです。イエス様を迎え入れなければ、誰も救われないことに人々は気づいていませんでした。しかし聖書ははっきりと証言しています。使徒の働き4:12、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」だから私たちはイエス様によって、もう救いがやって来たことをしっかりと受け止め、喜んでイエス様を心の中に迎え入れ、生活をしていきたいと思います。

お祈り、
愛する天のお父様、今日こうして、主の日に私たちをここに招いてくださり、礼拝の時を持ち、神様から御言葉をいだだく尊い恵みに心より感謝を申し上げます。私たちは実に神様から離れ、神様から遠い存在であり、失われた者でした。しかしそのような私たちをイエス様は十字架に架かり、私たちの罪を取り除いてくださって、罪を赦し、私たちに救いを与えてくださいました。もうすでにイエス様によって、救いが私たちのものになったことをしっかり受け止め、イエス様の救いが実際の生活の中で適用できますように導いてください。そしてここに集う一人一人をイエス様が直接捕らえてくださり、真の祝福を与えてくださいますように。またイエス様が、私たち一人一人を訪ねてくださっていることに気づかせてくださいますように。そして私たちがイエス様の救いを知らない人々に積極的に伝え、イエス様を真の救い主と告白する人が一人でも多く与えられますようにお願いします。また今、病の中、苦しみや悲しみの中にいる人々の上に神様が共にいてくださり、平安と慰めを与えてくださいますように。この祈りを、尊き主イエス様の御名によって御前におささげします。アーメン。
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ルカの福音書19:1-10 (救いがこの家に来ました)
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