メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

詩篇73:1-28 (アサフが悟った真理)

投稿者
tbic
投稿日
2021-08-29 21:23
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972
詩篇73:1-28、

詩篇73篇は、歴史を通して多くの人に愛されてきた詩篇です。なぜなら、神に従って歩もうとしたすべての人が必ずどこかで体験する葛藤を正直に描き、神から離れようとする揺れ動く心を正しい現実に引き戻してくれるからです。この詩篇を書いたとされるアサフは、イスラエルの歴史の中でも屈指の賛美指導者であったと記録されています(参照:I歴代誌6:39、II歴代誌29:30、ネヘミヤ12:46)。彼は、ダビデ王に仕え、楽器を巧みに演奏し、ダビデの書いた詩篇に音楽を足した優れた作曲家でした。また彼は、詩篇50篇、および詩篇73-83篇を書いたとされますが、それらのいくつかはアサフの子供たちによって書かれたと一般的に言われています。

詩篇73篇は、「なぜ神に従おうとする人には苦しみがつきまとうのに、神を恐れていない人たちには苦しみがないのであろうか」という疑問を中心に書かれています。神に従うことに本当の価値があるのだろうか。神を無視して生きたほうが楽なのではないか。これらの誰もが一度は考える疑問にアサフは真剣に取り組むのです。

今も昔も、神に仕える人は一般人より特別な信仰を与えられていると思われがちです。しかし、この詩篇はそうではないと伝えます。アサフのようにイスラエルの民の賛美を導く優れた指導者であったとしても、時には悩み、神の言葉を疑い、時に信仰が揺れ動くという現実を教えてくれます。アサフは神の民を正しく礼拝に導くことができるだけの神についての知識もありました。しかし、彼の告白から、みことばの知識だけでは人が変われないという事実も学ぶことができます。

詩篇73篇は、アサフの信仰生活の日記だと言えます。私たちは、この詩篇を通して、神に仕える人の心の中がどのようなものなのか、のぞく事ができます。これは個人的に私の働きにも大きな影響を与え、信仰生活の中でおそらく最も頻繁に読み返す詩篇の一つです。

この詩篇を通して、神に従う、また神に信仰を持つということがどのようなことなのかを学びましょう。

73:1 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。

まず「まことに」という言葉で始まります。この言葉は、疑う余地のない確かな事実を表す時に使われる言葉で、この73篇13節と18節でも使われています。

アサフは、聖書に書かれている疑う必要のない事実を出発点として、彼の考えを整理しようとします。

ここで「いつくしみ深い」(原語:トーヴ)と訳されている言葉は、英語で「good」と訳される言葉で、「正しく」、または「善を持って」接することを意味します。

アサフは、天地を創造されたまことの神が、その民に最善を望まれていることは疑う余地の無い事実であると告白します。しかし、同時にその確信と現実世界が一致していないように感じ、彼の歩みが不安定になっていることを否定しませんでした。

73:2 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。

73:3 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。

いくら聖書の教えを暗唱できたとしても、そのみことばに確信がなければ人は変わりません。アサフは神のことばと自分の観察した世界にギャップを感じました。聖書の真理と感情のギャップを感じることは、当時に限らず、現代のクリスチャンにもよくあることです。

アサフの確信は揺らぎ、生活が信仰から離れようとしていました。神は悪者を裁き、義人を祝福されるはずなのに、前者が栄え、後者が乏しく生活している様を見て、神のことばよりも目で見た世界を現実として受け入れようとしていたのです。

そのようなアサフの心の不安定さを、彼は同義形パラレリズムで訴えかけます。

私の足は     たわみそうで

私の歩みは   すべるばかりだった

当時の文化では、「足」と「歩み」という言葉は人生の生き方(道)と関係していました。ヨブ記には、「私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった(23:11)」と書かれています。

足は心が向いた方向に進みます。また、前に踏み出す力強さは、心の確信の強さと比例します。アサフの「足がたわみそう」だった、とは「足首をねじる」また「転びそうになる」という意味があります。つまり、アサフの心は信仰的につまずく寸前だったことを示します。

「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。(73:2)」

「歩み」とは、生活のことを指します。この句を直訳すると「私の足取りは少しだけ注ぎだされました。」となります。これは比喩表現で、「私の信仰生活はもう少しで押し流される所でした」という意味です。

つまりアサフは神のことばが真理ではなく、神を認めた生活をしなくても、十分成功し、満足できるではないか。かえって神を認めない生き方の方が、人生の中で有利ではないのかと思ったのです。

信仰生活における詩篇73篇の生かし方

この詩篇を通して学ぶ大切なレッスンの一つは、「神を信じ、神に仕える立場にいる人でも信仰を疑い、心の中で悩み苦しむことがある」ということです。

神学や教理、伝統を重んじる教会文化の中で教育されたクリスチャンには、時に、教えられたことを疑ってはいけない、また疑いがあることを認めてはいけないという暗黙のプレッシャーがあります。しかし、本当に神を求め、真理に従って生きることを願う人には、確信と同時に多くの疑問があるのです。時として、それまで教わってきたことに対する疑いが大波のように押し寄せてきます。

聖書が本当に神のことばなのか。本当にイエスは存在したのか。教会は本当に必要なのか。神が本当に天と地を無から創られたのだろうか。

このような根本的な疑いを持っていることをクリスチャンの友達や牧師先生が知ったら、自分を見下すのではないか、という恐れも出てきます。しかし、自分の中にある疑いを無視して、信じられないことを強引に受け入れることが聖書の教える信仰ではありません。 信仰とは信じる真心や信仰の量よりも、 信仰の対象が大切であることを聖書は繰り返し教えています。 山のような大きな信仰を持っていたとしても、その信仰の対象が間違っていればアリの巣ほどの問題でさえ解決することができません。しかし、正しい真理を信仰の対象とするのであれば、「からし種」ほどの信仰で山をも動かせるのです。

アサフの抱えていた問題は、正しい教理や神学を知らなかったということではありません。彼は、イスラエルの歴史上、有名な礼拝リーダーだったのです。彼の問題は、知識ではなく、彼の感情でした。彼がこの世を観察して感じたことが聖書の約束と不一致しているように感じたのです。

神を信じ続ける人は、自分の信仰の対象を常に疑い続ける人でもあります。神の言葉が信じられないと感じ、疑いの大波に揺さぶられることもあるかもしれません。しかし、その大波の中で溺れそうになっていたとしても、神はすでにその波の中にいてくださっているのです。そして、そのような体験を通されなければ、得られない成長と救いが訪れることを神は計画されているのです。

ここで大切なのは、神に対して疑問を持つのは罪ではない、ということです。なぜなら、疑問を持つことと、不信仰を形にして神に逆らうことは同じではないからです。クリスチャンは、信仰に疑問を持つことを恥と思う必要はありません。疑いを通らない信仰生活は、深みのない子どもっぽい信仰でしかありません。聖書が教える幼子のような信仰とは、すべての疑問が解決されていなかったとしても、子が親に信頼するように神に信頼する信仰です。

クリスチャン生活は、疑問がすべて解決されてから歩めるようになるものではありません。むしろ、疑問や疑いを持ちながらも神を求め、神のことばを学び、神の家族と共に歩むことです。神はそれらを通し、私たちの頭と心が神のことばに確信を持てるように変えることのできる力強い存在です。

詩篇73篇の後半には、アサフの疑いが、彼の感情と体験を神の視点から見直すことによって、正しい現実に引き戻される過程が描かれます。その結果、彼の確信は増し加わり、彼を囲む神の家族と共に神の素晴らしさを賛美できるように変えられたのです。この詩篇を通して、私たちもアサフの心情を追体験しながら、疑いや迷いから解放される希望を期待できるのです。

詩篇73篇の著者アサフは、イスラエルの民の指導者でした。イスラエルの民は、モーセの契約によって神から特別な祝福と災いの約束を与えられていました。まことの神を彼らの主として礼拝し従えば、天から数えきれないほどの祝福と救いを体験し、もし神から離れ、偶像に従えば数えきれないほどの災いと滅びが降り掛かるというものでした。契約をいただいたイスラエルの民は、神に仕えることを選ぶ責任があり、それを放棄すれば自己崩壊につながると信じていたのです。

しかし、主に対するアサフの信仰は揺れ動かされていました。神の契約の約束が完全に果たされていないと感じ始めたからです。神を主とするイスラエルがあわれみを受けているのと同じように、神を主としない人たちも、あわれみを受けているのではないか。また、多くの場合、神を恐れている人たちよりも、神を恐れない人の方が苦しみも悩みもない喜びの生活を送っているではないかという疑いが生じていたのです。

アサフは、自分に与えられているものと、神を主としない人たちに与えられているものを比べ始めました。そして、彼らの生活が自分よりも優れていると見、神に仕える生き方が最終的に無駄であるように感じ始めたのです。

詩篇73:4-16は、そのようなアサフの心の混乱と葛藤を正直に告白しています。そして、神の礼拝者であったとしても、どれほど簡単に神から心が離れやすいかを表現しています。

73:4 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。

73:5 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。

アサフはまことの神を主と認めない人々を観察しました。彼らは、生活の苦しみを知らず、健康も守られ、ついには神がいなくても人生に何の影響もないと断言できるほどすべてが整えられているように見えました。

アサフは、偶像礼拝者たちを見て、

彼らの死には  苦痛がなく

彼らの体は   脂ぎっている

と言いました。ここで「苦痛」と訳されているヘブライ語は、「縛り」(参照:イザヤ書58:6)という言葉で、人生の喜びを制限する苦しみや痛みのことを指します。体が脂ぎっているというのは、必要以上の食べ物と富が常に備えられていたことを指します。体脂肪が少ないことが良いとされる現代日本文化と異なり、冷蔵庫もなく、食べ物の調達が困難だった当時、脂肪があることは富を持つ象徴だったのです。

彼らは、神の基準によって生活をしません。そのため、安息日や食物規定を守らず、弱者から搾取するなど、律法に逆らうことで楽をしていたのかもしれません。神に背いている人たちが何も苦労をしないで、神の祝福の約束を与えられているはずのイスラエルの民より楽な生活をしているのではないか。アサフがそのように感じていたことが、この同義型パラレリズムから分かります。

73:6 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。

73:7 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。

73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。

73:9 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。

偶像礼拝者は、まことの神に仕える人の心に嫉妬心を引き起こす力を持っています。偶像礼拝者が神を無視しながら楽しんでいる姿を見て、時に義人の心が揺れ動かされるのです。

6節 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。

アサフが彼らを観察した時にまず目撃したのは、彼らの高慢な心です。趣味の良い人のファッションセンスが身に付ける洋服に反映されるように、人間の心にあるものは、その人の態度に現れます。首飾りとは、自分を飾る誇りです。また、着物とは他者がその人を見た時、まず始めに目に付くその人の自己表示です。

偶像礼拝者は、神の御顔に拳を突き上げる姿勢を自分の誇りとし、彼らの第一印象(着物)は暴虐であるということです。ここで暴虐と訳されている言葉は、「悪」や「偽りの証言」と訳されることもあり、自分に都合の良い嘘をつくことや、暴力を振るって他者に危害を与えることを指します。

7節 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。

7節に書かれている表現は、多くの学者を悩ませており、実際にどのような意味があったのか定かではありません。しかし、この節も同義型パラレリズムで書かれているので、彼らの内側にある心の思いが高慢や暴虐という外側の態度に現れていることを伝えたいことが分かります。

8節  彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。

アサフは、彼らを観察し、彼らは神のように語ると表現します。「高い所」とは、「権威のある場所」という意味で、多くの場合偶像がまつられていた場所を指します。おそらく、彼らは自分たちが神であるかのように考え、神とその民をばかにしていたと思います。

9節  彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。

また、「その口を天にすえ」というのは、偶像礼拝者をとても大きな巨人にたとえた表現です。まるで口が天にあり、あごが地上に届いている巨人の様子です。その大きな口で神の必要性を否定した言葉は、世界の果てまで届くほど広がっていると言っているのです。

73:10 それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。

多くの学者の間で、この節は詩篇全体の中でおそらく一番解釈するのが難しいといわれる箇所です。なぜなら、この節の「民」が誰を指すのかが文脈の中で明確でないからです。

 

73:11 こうして彼らは言う。「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」

73:12 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。

アサフの観察はさらに続きます。神を無視してそれなりの成功を収めると、偶像礼拝者は神が必要ないという錯覚に陥ります。この偶像礼拝者は、無神論者ではありません。神の存在は否定しなくても、その神が私たちの世界に関与することがなく、私たちの生活には無関係であると誇っているのです。

アサフは、このように神の律法を無視しても裁かれず、かえって神の民より成功を収めているように見える彼らを眺め、うらやましがるようになり、神の約束に対する誠実さを疑うようになったのです。

信仰生活においてのヒント

クリスチャンの中には、罪に敏感な人が多くいます。しかし時として、自分の心の罪ではなく、他人の罪に敏感である場合があります。

アサフもそのような人間でした。彼は、偶像礼拝者のように罪を犯し、神をあざけることはしませんでした。しかし、神を無視した人の成功を見て、彼らを裁かない神に不信感を抱き、彼らの生活を妬むようになったのです。

殺人や姦淫は大きな罪とされますが、聖書によれば他人の生活を妬む、またはうらやましがることも同じだけの罪です。人を殺してはいけない、姦淫してはいけないと書かれているモーセの十戒には次の命令も含まれていることを忘れてはいけません。

「 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。(出エジプト記20:17) 」

妬みとは、何らかの次元(所有物、業績、地位など)において、自分の方が優位か同等である、又はそうあるべきだと思っているにもかかわらず、実際には他者が優位に立っている時に生じる不快な感情のことを指します。

神を愛さず、理性だけで神に従っている人は特に、神に従わず成功を遂げる人に嫉妬することがあります。常に自分を他人と比べ、キリストと結ばれている喜びをなくしていくのです。

クリスチャンが嫉妬する時、その人の心はキリストとキリストの内にある諸々の祝福だけでは物足りないという状態になっています。又は、父なる神の知恵と愛によって自分に委ねられたものを不十分だとし、神よりも自分の方が自分に何が相応しいのかを知っているという心が表れているのです。

他人を妬む罪は、教会の中で比較的大きな問題にされない罪です。しかし、神の知恵と愛に信頼せず、神の備えで満足できていない心と態度は、ひょっとすると不倫や泥酔の罪よりも多くの未信者の関心をキリストから遠ざけるかもしれません。

嫉妬への対処法は、他の罪への対処法と同じです。それは、信仰によって、神の知恵と愛を受け入れ、自分に与えられているものが神の視点から見て最善であることに確信を持つことです。報いは、成功や所有物の量によるのではなく、自分に与えられているものをどのように納め、いかに神の栄光のためにそれらを投資したかに応じて神から与えられるのです。

詩篇73篇の最後では、アサフの心があるべき状態に回復します。しかし、そこにたどり着くまで、アサフは自分の心の罪を認め、自分の弱さを公に告白する必要があったのです。次回はアサフがどのように罪を認め、告白するかに至ったかを学びます。

詩篇73篇の著者アサフは、まことの神を主と認めない人たちの成功を見て、信仰が揺らぎました。もし悪が栄え、善が苦しむことを神が許されるのであれば、モーセを通して与えられた契約の約束が無視されていると感じたのです。そして、神が契約の言葉を守らないのであれば、それに従って生きることには価値がないと結論しました。

73:13 確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。

73:14 私は一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた。

アサフは、同義型パラレリズムを使って、彼の主に捧げた生活のすべての面が無駄であったように感じたことを表しています。

13で、「心」と訳されている言葉は、人間の思いと動機をつかさどる器官として使われる言葉です。そして「手」とはその思いを行動に移す手段です。つまり、アサフは内面も外面もすべて主の栄光のために捧げたことがむなしかった、と感じているのです。「きよめる」、また「洗う」というのは、神に仕える祭司たちが神の前に立つ時に必要とされた儀式のことですが、ここではアサフの道徳的な生き方のことを指しています。

14節では、アサフが被害妄想に陥っていることが分かります。自分のことしか考えることができなくなった彼は、常に自分が責められ、辛い生活を強いられているように感じていました。自分だけが辛い思いをしていると感じ、朝ごとに挫折感を味わっていたのです。

73:15 もしも私が、「このままを述べよう。」と言ったなら、確かに私は、あなたの子らの世代の者を裏切ったことだろう。

73:16 私は、これを知ろうと思い巡らしたが、それは、私の目には、苦役であった。

15節は、もしアサフが感じていたことをそのまま公に告白したら、彼を礼拝の指導者として敬っていたイスラエルの民全体がつまずくぐらいのスキャンダルになるだろうという意味です。彼の気持ち、彼の仕事、彼の信仰、彼の将来、それらのことをどう整理すればよいのか…。考えても、あまりにも複雑であるために、苦役であったと続く16節では述べています。

しかし、17節から彼の心の思いは大きく変わり、神の現実の世界に立ち返ることができるようになりました。彼は、大切なことを悟ったのです。

73:17 私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。

彼は、「神の聖所」に入ったと書かれています。これは、ただ霊的に神の御前に立ったというだけではありません。「聖所」が複数形で書かれていることから、実際に、幕屋、あるいは神殿の境内に入ったということが分かります。そして、そこで祭司たちが聖書から罪人のたどり着く滅びについて語っているのを耳にして(参照:詩篇1、11、12、37、112など)、彼らの最後を悟ったのではないかと考えられます。

73:18 まことに、あなたは彼らをすべりやすい所に置き、彼らを滅びに突き落とされます。

73:19 まことに、彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼしくされましょう。

73:20 目ざめの夢のように、主よ、あなたは、奮い立つとき、彼らの姿をさげすまれましょう。

アサフの心が変わったのは、自分の内面を見つめて悟りを開いたからではありませんでした。自分の中にはない、神のことばを聞いたことによって真理を悟ったのです。

この18-20節の大切な点は、神を無視して成功している人たちの成功は一時的でしかないということ。彼らの人の目から見た成功は神の目から見れば破滅のもとでしかないということです。

神に信頼する人は、揺るぐことない土台の上に立たされます。しかし、自ら神を否定し、侮る人は「すべりやすい所」に立たされます。彼らの成功はほんのひと時にしか過ぎず、少し目を離したら足を滑らせ、底のない暗闇に転落するのです。

誰かが夢から目覚めたとき、その夢の記憶には実質が伴いません。同じように、彼らの成功を神の目から見た時、それはまるで夢のように、実質がないと書かれています。20節で彼らの「姿」と訳されている言葉は、詩篇39:6「まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。」においては「幻」と訳されています。

罪人は、偶像礼拝をして、この地上での成功を収めます。そしてその成功の度合いが自分の偉大さの度合いであると考えます。しかし神は、彼らの成功は夢と同じほどの実質しかなく、彼らの価値もそれに比例すると教えます。

73:21 私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、

73:22 私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。

アサフの抱えていた問題は、彼の環境解釈にあったのです。アサフは、自分が「愚かで、わけまえがなかった」と告白します。彼が主の前で獣のようだったと言うからです。聖書は、動物には人間のような理性が働かないことを教えています(参照:IIペテロ2:12、ユダ1:10)。

ここでのキーワードは「主の前で」ということです。本当の現実の世界は、まことの神がすべてを治められている世界です。しかしアサフはその現実を忘れてまわりの状況を解釈していたのです。もちろん、アサフは偶像礼拝者のように神の存在を否定することはしなかったと思います。しかし、アサフの頭の中で思い描いていた神の姿は、現実の神とは異なる、アサフの想像によって作り上げた小さな存在だったのです。

73:23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。

アサフは、理性を放棄して、神のことばではなく自分の解釈や印象に信仰を置いてしまいました。アサフは、「まことの神が約束に誠実ではない」という空想の世界観を描いていました。それでも、神はアサフから離れず、アサフの手をしっかりと捕まえられていたのです。偶像礼拝者の足が滑りやすい場所に置かれるのと対照的に、神の家族とされた人との運命の違いが表現されています。

73:24 あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。

73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

73:26 この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。

73:27 それゆえ、見よ。あなたから遠く離れている者は滅びます。あなたはあなたに不誠実な者をみな滅ぼされます。

73:28 しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

24-28節には、アサフの不信仰や疑問が、かけらも見当たりません。すべての問題が解決していない状態で、アサフは悩みから解放されたのです。偶像礼拝者たちのこの世の成功はそのまま続いています。しかし、アサフの目は神だけに釘付けになり、神の近くにいる、そしてそのことによって与えられる本当の安心感と安全観の中で心を休めることを見出したのです。

詩篇の中でも、これほど美しい信仰の表れはないかもしれません。しかし、これらの結論にたどり着くまで、著者の心は苦しみ、神の誠実さに対する疑いと奮闘しなければいけなかったのです。

アサフが美しい賛美を捧げることができたのは、彼の生活のすべてが順調にいっていたからではありません。その美しさの背後にある自分の罪の自覚、神の言葉の確かさ、そしてそれをそのまま受け入れる信仰が、すべてアサフの心の中で交差したことによって生まれたのです。

詩篇73篇を現代人にいかすには

この詩篇を読んで、現代人として考えさせられることが多くあります。その中でも、大切なことを3つあげてみたいと思います。

1.経済的社会的成功についての認識

人によっては、クリスチャンとして成長すればするほど、健康と経済的な祝福に恵まれると信じている方がいますが、そのようなことは聖書には約束されていません。

アサフは、神の民の霊的指導者でした。にもかかわらず、彼は「一日中打たれどおしで、朝ごとに責められた」という精神状況に追い詰められるほど、罪人の成功を嫉妬する状態に陥りました。

聖書は経済的や社会的優位者からの視点ではなく、主のために迫害され、この世の富や快適さを放棄した人たちの視点から書かれています。しかし、聖書を、経済的・社会的に成功している人たちが解釈するとき、自己改善や成功の秘訣の教科書であるかのように利用されることがあります。

キリストは33歳で十字架に架かり、弟子たちはヨハネを除いてみな若くして殉教しました。パウロが数回に渡って、小アジアやヨーロッパを巡ったのは貧しいエルサレム教会の信徒たちの必要をまかなうため、献金を集金するためでもありました。その目的のために捧げた教会も極度の貧しさを体験していた人たちでした。

キリストに習う者として、クリスチャンは、貧しい人たちや社会的に追い込まれた人たちと共に歩みます。そして、この世での賞賛と成功のためにイエス様を告白するのではなく、イエス様を通して神の近くにいることのできる幸せと、私たちが罪を犯しても私たちの手を離さない主の恵みを知り、イエス様を救い主として告白するのです。

2.クリスチャンとしての心の態度

二つ目に大切なのは、クリスチャンは他人の罪を批判したり、彼らの成功を羨むことに時間を使うのではなく、自分の罪に敏感になり、主の目から見て成功した人になることを目指すということです。

アサフは、偶像礼拝者の罪や傲慢に対して敏感でした。同時に、自分の心の中にある嫉妬や間違った世界観に対しては鈍感でした。

すべての人は罪人です。人は個性や環境の差によって、異なる種類の罪を犯します。他人が自分と異なる種類の罪を犯すからといって、その人たちを裁いたりすることは、クリスチャンのすべきことではありません。

他人の罪に焦点を当てるのではなく、その人たちのために祈り、自分自身も悔い改めることです。そして、他人の成功を羨ましがるのではなく、主が自分の近くにいてくださる幸せが何よりも優れていることを聖書のみことばから学び続けることが信仰のあるべき姿なのです。みことばから離れると、アサフのように間違った世界観と現実感の中で苦しむことになります。

3.神のことばを通して諭される

そして、最後に学ぶことは、神のことばがなければ、私たちは何が現実であり、真理なのかを理解することができないということです。

ギリシャ語で「真理」と訳される言葉は、同時に「現実」という意味を持っています。つまり、神の真理は、この世界の現実であるという考え方です。ですから、聖書がなければ私たちは何が現実であるのかを知ることさえできないのです。

アサフは、彼の身の回りの環境を観察し、自分の感性や常識に頼ってものごとを解釈しました。彼は自分の理性に信頼して自分の感情と信仰を導こうとしました。しかし、そもそも神のことばから離れた世界観が出発点になっていたため、間違った結論しか生み出すことができなかったのです。

彼が信仰を捨てようと考えた状態から喜びと希望にあふれた礼拝者に変えられたのは、神の神殿に入り神のことばを聞いたことがきっかけとなりました。それまで、アサフは聖書を知らなかったわけではありません。ただ、彼の限られた視点や考えではバランスがとれていなかったと思います。アサフは、恐らく新しいことを学んだのではなく、神殿に行って、それまで忘れていたことを思い起こさせられたのです。

私たちは常に新しいことを学ぶ必要はありません。私たちは、すでに知っていることを常に思い起こさせられる必要があります。キリストの十字架、福音の目的、神の家族に属しているアイデンティティ、その中で隣人を愛するライフスタイルなど、頭で理解していることを、日々の生活の中で聖書から諭される必要があるのです。そして、何よりも信仰によってそれらを行動に移すことによって神が喜んでくださるのです。

アサフは、私たちのよい見本です。この詩篇73篇は、忘れてしまいがちな大切なことを思い起こさせてくれる詩篇です。神の前で、神に仕えることは決して無駄になりません。そして、たとえ私たちの信仰が揺さぶられたとしても、常に私たちの手を離さない主がおられるのです。

 
合計 137
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
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New ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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