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詩篇 119:105

マタイの福音書11:28-30 (十字架を負うとき、真の休みがある)

投稿者
tbic
投稿日
2021-09-26 23:14
閲覧数
301
マタイの福音書11:28-30、

もう一度、本文のマタイ11:28を読みます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 イエス様は真の休みを与える神様です。

11:29、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」 ここでわたしのくびきというのは、十字架を意味します。

だから、私たちが自分の十字架を負って、先に十字架を負ったイエス様を学びながら、従って行くとき、たましいに安らぎが来ます。つまり、イエス様の十字架の陰に、その十字架のくびきに休みがあります。それで、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われます。

結局、自分の十字架を負い、十字架の人生を学びながら生きるとき、私たちはたましい(心)に安らぎが来ます。「たましいに安らぎが来る」と言われますが、たましいには安らぎが大切です。

実際に、今、私たち現代人に必要なことは、「たましいの安らぎ、心の平安(心の休み)」です。肉体労働をたくさんする方々は、肉体の休みが必要ですが、現代人はほとんど精神労働をたくさんするから、ただ家で休みながらテレビを見たり、本を読んだら、頭がもっと痛いと言っています。肉体は休みますが、心の休みがないからです。つまり、頭が痛い人々が車に乗って、2、3時間かけて出かけて見るが、そこでも心の休みを取ることができません。

皆さん、本当の心の休み、たましいの安らぎはどこから来るんでしょうか?自分の十字架を負い、主から与えられる御言葉を学ぶときに、そこから安らぎが与えられるんだと主は言われます。私たちはその御言葉を信じなければなりません。だから、聖書のすべての真理を「パラドックス(paradox、逆説)の真理」だと言いますが、それは確かに真理です。

しかし、ただ休んだら休みが取れるんじゃなくて、十字架を負って歩むその道はとても難しいし、大変ですが、むしろ本当の休みは十字架を負って歩むその道にあるんだということです。パラドックス、逆説的な真理です。

だから、トマス・ア・ケンピスの本 <キリストに倣いて>の中で有名な言葉が出るんですが、「自分が十字架を負って行けば、主の十字架が自分を負って行く。」と話します。確かに主の十字架が私たちを負って行くとき、そこに真の休みがあります。

今もし、皆さんの人生の中に休みがないと思っている方がいらっしゃるんであれば、それは自分の十字架を負わないからです。自分の十字架を負うとき、そこに真の休みがあります。

「休み」という言葉を漢字で見ますと、「人が木の横に寄り添って休む姿」です。その木を自分の十字架だと思えばいいです。私たちクリスチャンは十字架の木に寄り添って、そこにぶら下がって歩む人生ですが、それは大変ではなく、むしろ休めるということです。

皆さん、偉大な発見は休むときに、現れました。17世紀にペストがヨーロッパ全体を巻き込んだときがありました。その時、イギリスのケンブリッジ大学はペストのため、一年半も休校を余儀なくされました。だから、大学教授たちはみんな自分の家に戻り、長い休みを送ったんですが、そのとき、教授の中でアイザック・ニュートンという科学者がいて、自分の家で休みながら驚くべき業績を成し遂げます。彼は休む一年半の間、万有引力の法則、光のスペクトル、数学の微分積分などを発見します。休む中で彼は、偉大な業績を成し遂げたということです。

科学を専攻した人々の中では、アイザック・ニュートンはとても有名な人です。ニュートンよりもっと有名な人はたった一人ですが、アインシュタインです。アインシュタインが登場する前までは、つまり、20世紀の半ばまでアイザック・ニュートンの科学理論が全世界を支配していました。それぐらい偉大な科学者が「休みながら驚くべき科学的理論を発見した」ということです。

言い換えれば、私たちも今コロナ禍の中で17世紀のヨーロッパと同じです。十字架の陰で真の休みを取るとき、私たちの人生の中に驚くべき創造的な働きが起こされるという意味でもあります。

愛する皆さん、自分の十字架は自分の体にピッタリ合います。今日の本文、マタイ11:30を見ますと、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、「わたしのくびきは負いやすく、、」つまり、主から与えられる十字架は負いやすいんです。私たちが十字架を負って主に従うとき、それは私たちにとって、とても簡単だということです。

それは、英語では easyと翻訳されて、やさしい、簡単という意味ですが、原文のギリシャ語で見ますと、「クレストス」、つまり、「フィトfit、ピッタリ合う」という意味です。だから、「負いやすい easy」という言葉は、十字架が自分の体に「ピッタリ合うfit」という意味でもあります。だから、負いやすいんです。自分の体に、自分のサイズにピッタリ合うから負いやすいんです。

牛もくびきを負うとき、くびきが牛の体にピッタリ合うとき、畑をちゃんと耕し、荷車もちゃんと引っ張って行きます。皆さんも自分に合わない靴を履いて散歩してみてください。遠くまで行けません。靴は自分の足にピッタリ合うとき、歩きやすいんです。

ある韓国人の牧師先生が、過去、軍隊で勤務した時に、 8Km を軍装のリュックを担いで走る訓練があったそうです。小隊長が「リュックサックが緩んだら、大変で走れない」と注意をしたが、その牧師先生は注意を無視し、リュックの肩ひもを外しやすく、緩めたままにして置いたそうです。

彼が小隊長の注意を無視した理由は、「自分は走ることには自信がある」と考え、背中のリュックサックはどうでもいいと思ったからです。それで、部隊の兵士全員が 8km の距離を走るその訓練に参加したが、走るのに自信があった彼は、あまりにも大変でとても苦しかったので、かなり遅れてしまい、途中で行進をあきらめてしまいました。結局、二人の兵士が彼を助け、最後まで訓練を終えましたが、その後、彼は自分の傲慢と過ち、失敗を打ち明けました。

自分の背中に担ぐリュックサックが、自分の体にピッタリくっつかず、肩ひもを緩めていたから、行進するとき、背中でそのリュックが揺さぶられ、邪魔になり、結局は落伍してしまったということです。その時、「リュックは自分の体にピッタリ密着しないとダメだ」ということを、骨にしみるほど体験したそうです。

このように、本文のマタイ11:30、「わたしのくびきは負いやすく」という御言葉は、主から与えられる十字架は私たちの体にピッタリの十字架だということです。自分にちゃんと合う十字架ですね。 しかしもし、自分の十字架が重いと、邪魔になると思って投げ出したら、後でもっと重くて大変な十字架が待っていて、それを負うようになります。私たちの人生は、この荷じゃなければ、あの荷を負うんです。つまり、十字架の荷じゃなければ、重荷を負うことになります。

だから、私たちは主から与えられた、どんなくびきでも、それが自分にピッタリの十字架だと信じなければならないし、自分にピッタリの十字架を負って行くとき、そこに何がありますか?疲れた人生の中に、休み(安らぎ)があるんだということです。

しかし自分の十字架を負わないときに、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」という御言葉のように、私たちは疲れた人、重荷を負っている人になります。

十字架を負って行く人は、むしろ、そのくびきが負いやすく、軽いが、その十字架を投げ出し、逃げようとする人は、すべて、疲れた人、重荷を負っている人のカテゴリーに彼は含まれるということです。

皆さん、険しい人生を生きる人間になった以上は、重荷を負わざるを得ません。何も負わないためには、墓場に行くしかありません。

この世の、すべての人類の負うべき荷は、たった二つしかありません。すべて疲れた人の重荷か、主から与えられる十字架の荷か、この二つの中、一つを、私たちは負わなければなりません。そうしたら、十字架の荷を負ったほうが、よっぽどいいと思います。

では、なぜ、私たちがこういう風に十字架を負って、主に従わなければならないんでしょうか?そうしなければ、真の平安が与えられないからです。それが人間です。私たち人間はみんな共通点があります。みんな罪人ですね。罪人だから、自分が十字架に釘づけられない限り、つまり、自分の思い、自分の判断、自分の良心さえ、腐敗しているから、自分の自我が十字架で死なない限り、私たちが触るすべての事が失敗に終わります。触ったとたん、だめになるのが、私たち人間のやることです。

今日私たちが、どれほど素晴らしく、人材や専門家を動員して、政治、経済、社会、文化、芸術などのいろんな分野で頑張って行っても、結局、罪人である人間が触るすべての働きの結果は、罪の結果であり、悪を生み出す結果となります。

また、私たちの中で、何となく自分ひとりで成功したと考えてみましょう。しかし、その自分の成功が他人には悪と害となり、意図はしなかったかもしれませんが、他人にたくさんの害を与える結果を生み出す可能性もあります。

市場の中で一つの企業がお金をたくさん儲けば、相対的に他の企業は死ぬケースがあります。だから、企業もキリスト教の精神をもって、自発的に社会還元をしなければ、その企業、あるいは個人の事業の成功は、みんなの成功と全く関係のないものになります。

だから、罪人である私たちが、ある事を遂行するときに、一番先にやるべきことは、自分自身を、自分の自我を十字架につけることです。「主よ。私はできません。主が助けて下さらなければ、私の力では何もできません。」と、自分を十字架につけること、自己否認することです。

そのとき、主がどうなさいますか?自我が十字架につけられ死んだ、彼を通して、主が働くわけです。もちろん、これは主がご自身ひとりで働かれる、自分は十字架で死んだから何もしない、そういう意味ではありません。その自我が死んだその人を通して、イエスの御霊である聖霊が、彼の中に入って働くことです。そのとき、すべての結果が政治、経済、社会、文化、芸術、すべての所で一番美しく出てきます。それは自分がやったんじゃなくて、主がなさったことだからです。

例えば、手袋の中に手が入って手袋を動かすように、自分が死んだ状態で主が自分の中に入られ、働かれることです。これが十字架で自我が死んだ人です。だから、私たちの中で主が、十字架で死んだ私たちを通して、直接なさるその働きが良い働きであって、そこに真の休み(安らぎ)があり、その手袋が私たちの体にピッタリ合うものです。しかし、そうではなく、私たちが、どれほど一流大学を優秀な成績で卒業して、どれほど経験が多く、どれほどその働きがうまくできたとしても、もし自我が生きたままであれば、私たちが取り扱う全ての働きは、結局、社会だけでなく、自分にも害を与える働きであって、全てのものに罪をもたらす結果となります。罪人である自分が主体となって取り扱う全てのものは、結果がいつもそうです。

私たちが人間の良心を言いますが、キリスト教が言っていることは、 total depravity、人間の完全なる腐敗です。つまり、人間は良心さえも根本的に堕落したということです。 自分は良心的にやっていると言いますが、その良心さえ、堕落した良心だから、彼がやっている全てのことは、どれほど良心的であっても、結果はみんな傷ついた結果、良いことではないんだということです。

だから、私たちは自分の良心さえも、つまり、自分の全ての思いと判断、行動のすべてを十字架につけ、自分が死んだ状態で、完全に主に頼り、ただ主の道具となって、ある事をやって行くときにだけ、他人にも良い結果をもたらし、自分にも良い結果をもたらします。

愛する皆さん、この世の期待と主のみこころ、つまり、自分の心と主のみこころは、大きな差があります。この世の期待は何ですか?自分に益となれば、他人には害となります。競争の社会で仕方がないかもしれませんが、私が勝てば相手は負けるんです。

しかし不思議ですけれども、主のみこころは私にも益となり、他人にも益となります。ウィンウィン(win win)ですね。世の人々、みんなにも益ですけれども、それが結局、自分にも益となるんです。これは本当に神秘的な働きです。

皆さん、本当に十字架は軽いんです。この世の重荷を全て下ろしてください。自分の自我、名誉、人を気にすること、すべてのことから死ねば、むしろ生きるんです。主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからだ」と、言われました。言い換えれば、十字架を負うことは、この世の中で一番やさしいこと、簡単なことだということです。

自分がお金をたくさん儲ける事業家だという名誉心のような、この世のくびきを捨てなければなりません。自分は働きがうまくできる専門家だという、この世のくびきも捨てなければなりません。また牧師は牧会の専門家だというプライドが十字架につけられ、死ななければなりません。

私たちは自ら重い世のくびきを負い、毎日苦しみながら生きて行きます。だから、十字架で自分の自我を釘づけ「私は罪人です。だから何もできません。私は何もない存在です。私が自分の意志と自分の思いで触るすべてのものは、むしろ自分の周りを汚染させ、堕落させています。」という事実を徹底的に認識しなければなりません。

子どもの養育も同じです。親が自分の自我を十字架につけずに、ただ親の愛だと言いながら、自分の思い、自分の心通りに子どもを育てるんであれば、その子どもは不良になる可能性がとても高いです。

実際に、私たちはそれを、周りでたくさん見ています。それが親の愛で、尊いものに見えますが、実はそうではありません。それも堕落した人間の良心、腐敗した良心から出て来る自己愛に過ぎません。つまり、親の自己満足のために、子どもに押し付けることです。これは子どもに重荷を負わせるようなものです。

愛する皆さん、私たちは本当に羽のように軽い人生を生きることができます。それはパラドックス、逆説的な真理で、自分の十字架を負うことです。自我が死ぬことですね。イエスの御名によって、自我の死を毎日宣言することです。そうすれば、必ず羽のような軽い人生を生きることができます。

では、結論を出します。

「疲れた人の重荷」を捨てるか、 「十字架の荷」を捨てるか、人間はこの二つの中で一つを選ばなければなりませんが、皆さんはどっちを選びたいですか?

実際に、今日の本文の28節に、主が「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われた時、その休みというのは主の十字架を負って歩むことによって与えられる休みです。パラドックス、逆説的な真理ですね。実は、十字架は重いんですけれども、逆説的に、そこにしか真の休みがないんだということです。

そういう風に十字架の中で真の休みを取るとき、アイザック・ニュートンのように、いろんな創造的業績も成し遂げることができます。ちなみに、ニュートンは敬虔なクリスチャンです。

また本文の30節に、主が「わたしの荷は軽いからです」と言われた時、その軽いという意味は、「自分の体にピッタリ合う 、fit」という意味です。主から与えられた十字架は自分の体にピッタリ合うものだから、私たちは、ただ黙って、それを負って行けば、大丈夫です。

しかし、この十字架を捨て、自分の知識、自分の経験、自分の力で行うすべての事は、堕落した人間の本性から出るものだから、結局、自分だけでなく、他人にも害を与える、とても危ないことです。

愛する皆さん、実際に人生のすべての事がそうです。だから、私たちが毎日、自分の十字架を負い、その十字架に自分自身を釘づけ、聖霊の助けによって行うすべての働きは、他人にも益となり、自分自身にも益となります。是非、この真理を、確信をもって自分の人生に適用し、自分自身に与えられた人生を歩みたいと思います。
合計 137
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ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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