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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ピリピ人への手紙4:4 (クリスチャンがいつも喜ぶ理由)

投稿者
tbic
投稿日
2021-10-10 23:58
閲覧数
380
ピリピ4:4、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

救われたクリスチャンは、もう既に永遠に成功した人です。だから、クリスチャンはいつも喜ばなければなりません。今日の本文、ピリピ4:4をもう一度読みます。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

愛する皆さん、神様がご自分の子供として選び、救われた人々は、必ず世の中で聖い生き方、聖徒の人生を生き、天国まで連れて行かれ、栄光に満ちた永遠の命が定められています。このプロセスの中で、私たちクリスチャンはそれぞれの人生に、成功と失敗が繰り返されます。それは何を意味するのでしょうか?主は私たちクリスチャンを、世の中で成功する目的で呼ばれたのではありません。私たちを聖い者として、神の栄光を現わすために呼ばれたということです。だから、必要に応じて、成功と失敗が適切に与えられます。

もちろん、信者には最後の勝利が定められています。そのために、イエス様が十字架の上で死なれ、復活によって勝利を完璧に成し遂げられました。ただ、私たちが永遠の御国に入る日までは、この世の中で悪魔と罪と、肉の欲との戦いが、私たちの人生の中に、繰り返して起きるわけです。その中で、信仰によって勝利したり、時々敗北したりするのです。だから、大切なことは何ですか?世の中で勝利したり、敗北したり、成功したり、失敗したりすることで、一喜一憂することではないんだということです。

今年東京オリンピックで野球の侍ジャパンが優勝しました。本当に素晴らしい試合でした。その試合を、今度は生中継ではなく、録画の中継で見るのであれば、試合の状況がどうであれ、皆さんはゆっくり試合を楽しみながら、テレビを見るはずです。毎回毎回一喜一憂しないのです。焦る必要もありません。なぜかというと、勝利した結果をもう知っているからです。

しかし、最後の勝利が約束されたクリスチャンでも、つまり、救われた人でも、堕落する可能性があるんだと、聖書は、はっきり言われます。イエス様を売ったイスカリオテ・ユダが、そうでした。

それにもかかわらず、真のクリスチャンは、世の中で、決して失敗することができません。自分の足で信仰の道から飛び出して行かない限り、私たちは最後の最後まで勝利が約束されているから、必ず勝利します。もちろん、十字架は通りますが、必ず復活します。

だから、今日 、私たちは世の価値観によって、自分の世的な業績と結果を見て、その高さと低さによって笑う必要もないし、悲しむ必要もありません。神様は永遠の定めによって私たちを、この地上で聖い生き方、その過程を通して、天国で栄光に満ちた永遠のいのちを与えるために、今もなお緻密に導いておられます。髪の毛一本までも数えながら守り、細密に導いてくださる神が、今年もそうなさったし、来年もきっと、そうなさることを私は確信しています。

皆さん、私たちが世の中で必ず幸せになる(成功する)ことが神様の目的ではありません。私たちがクリスチャンとして清くなり、神の栄光にたどり着く、そのプロセスの中で、神様が必要であれば成功を与えて下さり、また必要であれば失敗も与えて下さいます。だから、世の中で私たちの成功と失敗を見ながら、自慢することもなく、悲しむ必要もありません。ただ、主が成し遂げられた9回裏の勝利を見ながら、私たちがいつも喜ぶんであれば、それでOKです。

だからこそ、テサロニケ第一5:16でも、「いつも喜びなさい。」と言われるわけです。これは私たちが、イエス様を信じて世の中で成功する大当たりの人生になるから、「いつも喜びなさい」というわけではありません。また、人生の苦しみの中で肯定的な考え方を持った方がいいから、「いつも喜びなさい」というわけでもありません。

聖書(使徒パウロ)が私たちクリスチャンに、「いつも喜びなさい」と言われたのは、9回の裏を見て、最後の勝利を見たからです。私たちクリスチャンが聖い十字架の人生を生きながら、結局、永遠に生きる栄光の姿(9回裏の勝利の姿)を見て、その大きな流れの中で今日も神様が私たち一人ひとりを導いて行かれるのを見て、この世の一喜一憂する必要もなく、「すべての事に、いつも喜びなさい」ということです。

皆さん、私たちは神様が定めた道を歩み、神様が願っておられる目的通りに生きることが、神の栄光となります。自分の目的、自分の願い通りの成功が、神の栄光ではありません。ヨハネ17:1に、「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。“父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。”」 イエス様は祈られました。「子の栄光を現してください」と、このみことばは、イエス様が「十字架にかけられるように導いてください」という意味ですが、それは神が定めた道を歩むことが、御父の栄光を現すことだからです。

私たちは、いつも世の中で成功する時、神の栄光になると、思い込んでいますが、イエス様は、自分の十字架を負うことが、「神の栄光」だとおっしゃいます。これは、必ず苦しむことが神の栄光だという意味ではありません。成功であれ、失敗であれ、神が定めた道を歩む人が、神の栄光を現す人だということです。ヨハネ17:4に、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」 こういう風に、イエス様は「御父の栄光を現すことは、御父がわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げることだ」と、はっきりおっしゃいました。

皆さん、これを、病気の場合を例えれば、「神様、どうして私がこんな重い病気になったのでしょうか?やるべきこともいっぱいあるし、子供も小さいのに」と、つぶやく時があります。

その時、神はこうおっしゃいます。「愛する息子、娘よ。わたしは目的があって、あなたのために、やるべきことがあるのだ。それがあなたの重病を通して現れることだから、しばらく我慢しなさい。」と、実際に多くの成熟したクリスチャンは、「自分が重病にかかってから、神がこの病気を許した意味を悟った」と話しています。そして、その病気を許した神に、むしろ感謝しています。

神の栄光を現す人生というのは、神が自分に許した状況を、そのまま受け入れる人生です。そして、私たちはそれを受け入れざるを得ません。とにかく信仰から外れない限り、すべてを働かせて益としてくださる神様を、私たちは信じなければなりません。

イエス様の告白をもう一度読みますと、ヨハネ17:4に、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」だから、世の中で成功できなかったことで、「自分は失敗した」と言わないでください。皆さんが本当に救われた信者であれば、この世の価値基準と結果に、皆さんの信仰は騙されないはずです。

身体が健康で、長生きしていても騙されてはなりません。イエス様は「全身が健康で地獄に落ちるより、障碍者で天国に入る方がましだ。」とおっしゃいました。もちろん、イエス様を信じて身体も精神も健康であればいいのですが、イエス様を信じて病気になっても、それは悲しむことではありません。自分が健康過ぎって自分を楽しませ、永遠のいのちを受け取る可能性がまったくなかったのに、主が憐れんでくださり、病院に入院させ、主を求めて祈り、もっと綺麗に清めてくださって、天国を求めるクリスチャンになったから、むしろ喜ぶことです。

神様は私たちが願っていない苦しむ道を定めるときがあります。コリント第一4:9、「私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

使徒パウロは神の栄光を何度も言っていたし、クリスチャンは神の栄光を現すために生きるべきだと、誰よりもよく知っていた人です。そして、自分はそういう風に生きたと、主張しました。しかし、パウロは、「あたかも神が自分を殺そうとしたかのように、自分の人生は苦しかった」と告白しています。

愛する皆さん、どうして、もっぱら神の栄光を現すために生きたパウロを、まるで神が彼を殺す気で追跡するような人生にさせたのでしょうか?だから、パウロはコリント第二11:23から、こう告白しています。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」こういう状況の中に神は、パウロをそのまま、ほったらかした感じがします。一体、どうしたのでしょうか?その理由は、こんな最悪の事態の中でも、神の栄光は現れると、パウロを通して見せたかったと思います。

だから、コリント第一4:11からも、「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。」 皆さん、これが神の栄光になれるのでしょうか?そうです。これがまさに、神の栄光を現わすクリスチャンの生き方です。

愛する皆さん、今日のみことばのキーポイントがこれです。必ず世の中で成功し、トップ(一等)になるのが神の栄光ではなく、自分に与えられた使命、自分に定められた道を、黙々と歩み続けることが神の栄光を現わす人生です。神はそういう人々を、ヨブのように自慢し、ほめてくださいます。「ほら、見なさい。わたしの民が、ああいう状況の中でも、黙々と生きるじゃないか!」その状況がどうであれ、素直に神の導きに従う者、その人が神の栄光を現わす人です。

皆さん、是非覚えてください。クリスチャンは決して失敗することはできません。この世の価値観は人の業績、成果の可視的結果を見て、成功と失敗を分けますが、しかし、既にイエス様の十字架によって完了したクリスチャンの現在と未来を見たら、確かに私たちを救われた主が、必ず私たちを栄光の道へと導かれることを信じるから、私たちこそが、真の成功の人生です。だから、私たちクリスチャンは、今の結果がどうであれ、みんな成功した人々です。

イエス・キリストは悪魔に打ち勝ち、私たちに完全な勝利を与えてくださいました。だから勝利は私たちにとって、既に完了したのです。ただ、私たちはイエス様を真実に受け入れ、その方にしっかり、しがみついていればOKです。

パウロはコリント第一10:31で、こう命令しています。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」これは私たちの日常生活の中で起きるすべてのこと、つまり、食べること、飲むことまでも、神の栄光のためだという意味です。イザヤ書43:7、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

だからこそ、私たちは特別なこと、トップになることとか、世の中での成功だけをもって、神の栄光を現わす必要はありません。もし、私たちの平凡な日常生活が神の国と、その義を求めることであれば、むしろそれが神の栄光を現わす、とても大切なことになります。食べるにも、飲むにも、何をするにも、そうです。

そうしたら、私たちが夫婦喧嘩をしたり、肉の思いで罪を犯したりしても、それが神の栄光を現わすことになれるのでしょうか?はい、そうです。もし、喧嘩を通して、また、罪を犯すことによって、その罪の力を悟り、「二度と、そういう風にしてはならない」ということを、切実に学んだのであれば、それも神の栄光のためのものになります。

神様はたまに、そういう「つまずき」を許す時があります。それが、最後の勝利へ繋がる道であれば、必要に応じて、そういう「つまずき」は起きます。しかし、クリスチャンには、決して最後の失敗はありません。イエス様が最後の勝利を、既に完了したからです。だから、私たちは、いつも喜びながら生きることができるし、神の栄光を現わす人生を生きることもできます。

皆さん、今年も、もう10月です。 この時期に入れば、多くのクリスチャンは来年の願いを紙に書いて、それが叶えられるように、 神社での初詣 のように、神に祈りをささげるのですが、それは真のクリスチャンの信仰ではありません。真のクリスチャンは、自分の願いではなく、神のみこころと、その導きに徹底に従う人です。そのみこころの中には、平安もあり、苦難もあり、健康もあって、病気もあります。色々な形で神のみこころは現れます。そして本物の信仰は、それが何であれ、そこに服従するのです。自分の願いが叶えられるように、せがむのではなく、それが何であれ、みこころであれば、自分の人生の中で、それが成し遂げられるように、すべてを受け入れるのです。

だから皆さん、成功と失敗を、あまり気にしないでください。私たちは、元々ちりでできているちっぽけな存在でした。しかし、天の父は、その者たちを救い、天にまで引き上げてくださいました。だから、地上では成功であれ、失敗であれ、それらは結局、ちりに過ぎません。みんな腐ってしまうものです。

だから、使徒パウロは「いつも喜びなさい。すべての事について感謝しなさい。」と言うとき、必ず、今日の本文のように、「主にあって」という言葉を付け加えます。そして、「主にあって」主の導きを見れるのであれば、すべてが感謝です。もし、皆さんが罪を犯して、自分の中にある悪魔を体験しても、それによって、イエス様の十字架なしには自分が永遠に罰せられる存在であることを、悟ったのであれば、それも祝福であり、感謝なことです。

愛する皆さん、私たちは神の導き、神の統治の中にいるとき、一番幸せです。それが、真の自由です。しかし残念ながら、私たちはその神の導きから逃れ、自分の欲を満たすことが成功だと勘違いをしています。魚が水の中にだけ自分は過ごしているんだと、不平不満を持っていれば、そうしたら、どうしますか?それで陸地に出た瞬間、その魚は死です。

神が定められたところで、神の統治の下で従順に生きることが、クリスチャンの本当の幸せです。それが成功であれ、失敗であれ、健康であれ、病気であれ、また、貧しさであれ、富であれ、それは関係ありません。

神が自分をどこに呼んだのか?その呼ばれた所に、しっかりとどまること、それがクリスチャンの幸せであり、自由であり、成功です。どこかに行って頑張って、有名になって、成功することがクリスチャンの幸せではありません。神が定められた自分の場所を離れて、頭角を現し、成功したとしても、それは水から離れた魚に過ぎません。すぐ死んでしまう運命です。だから、皆さんは、ぜひ神の導きの中で、この世の判断と価値基準に揺るぐことなく、ただ、神の栄光だけを現わす、真のクリスチャンの人生を歩み続けてください。

もちろん、その栄光に満ちたクリスチャンとしての歩みの中で、つまずいて倒れる時もあります。その時、つぶれたからと言って、気後れする必要もないし、金持ちになったからと言って、高慢になる必要もありません。ただ、日常生活の中で私を統治し、導いて行かれる神の主権を認めながら、毎日毎日、主と共に交わりの中で生きるのであれば、それで十分です。

そうすれば、世の中で自分の位置と業績、所有と関係なく、天の御国の絶対的喜びを、この地上でも楽しんでいる自分を見られるはずです。そして、実際にそういう人生を生きる方々が、私たちの周りにも、ちゃんといらっしゃいます。

愛する皆さん、今はコロナ禍の中ですが、それは関係ありません。ぜひ、この残りわずかな2021年と、次の新年には、その喜びで満ち溢れる人生になることを、切に願います。
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