信仰の証
主の恵みを交わし。

大切な自分に出会えて(S.H)

投稿者
tbic
投稿日
2020-10-21 12:51
閲覧数
3603
わたしは小学生のころ初めて日曜学校に行きました。大好きなお習字の先生のお宅でやっていたので、先生に会いにいけるのがとっても楽しみでした。日曜学校ではいろいろなことをしました。元気いっぱい賛美歌を歌い、クリスマス会をしたり聖書物語を読んでもらっていました。

そのころこんなことがありました。私の名前は広江というのですが、小学生だった私はこの名前が好きではありませんでした。それはよく、学校の男の子たちに「おい、そこのごみ拾え」などとからかわれる名前だったからです。今思うとたわいもないからかいだったと思うのですが、当時の私にはそれはとてもいやなことでした。それで、「ねえどうして私にこの名前をつけたの?」と、ある日両親に名前の由来を聞いてみたのですが、「川から流れてきたのを拾ったから」とか「神社に捨てられていたのを拾ったから」と、ふざけられてしまいました。幼かった私はその言葉を半分本気にし「そっか、だから広江だったんだ、じゃあ私の本当の両親はいったいどこにいるんだろう」と思うようになりました。だから広江という名前がとてもきらいだったのです。

しかし、その曰くつきの広江という名前を取り上げて、ある日、日曜学校の先生が名前についてのお話をしてくださいました。先生はニコニコして「この広江という名前はね、広江ちゃん。広い川って言う意味だから、これは天国にある川のことだよ。天国の川はとっても広くてきれいで澄んでいるんだよ。だから、これは神さまがつけてくれた名前だよ。とってもいい名前だね」とみんなの前で私の名前をほめてくれたのです。そして「これは広江ちゃんの歌だよ」と言って賛美歌の「まもなくかなたの」という、天国の川の歌をみんなで歌ってくれました。そして、日曜学校に来ている子供たちの名前を一人ひとりみんなほめてくれて、一人ひとりに「神さまがつけてくれた名前だ、よい名前だ」と、ニコニコしながら言ってくれたのです。それ以来、私は私の名前に自信を持つことが出来るようになりました。何しろ神さまがつけてくれた名前なのですから。

でも神さまといえば私の実家には数え切れないほどの神さまが祭られていました。八百万の神というのがぴったりの状態でした。あっちにもこっちにもいろんなお札がべたべたと家中に張ってありました。台所には火の神、水周りには水の神、お便所には便所の神、ありとあらゆる神さまと呼ばれるものを祭っていて、ご飯もお茶も、まずご先祖様からって決まっていました。お客さんが来て何かおいしいお土産をもらったときも、まず仏壇に供えてですね、チンチンとおりんを鳴らしてからでないといただけませんでした。何か刺さったときは刺抜き地蔵のお札を飲まされ、いぼ地蔵参りやおだいしさんなど神社仏閣めぐりに連れて行かれました。でも、日曜学校で習う神さまはそのような木や石で出来ている神さま、誰かが作った神さまではないと知りました。聖書では私たちを創って下さった方が神さまだといっているのです。それでお習字の先生のとこに行きまして「見えなくっても神さまっているの?」と聞いてみました。そのとき先生は「風が吹いているのは見えなっても、風に揺れている葉っぱを見たら風があるのはわかるよね。神さまも見えないけどいるんだよ」と、教えてくれました。私は「そうか、じゃあ見えなくても生きている本当の神さまがいるのなら信じよう」と思いました。神さまはいる。見えないけどいるんだ。その神さまを信じよう、そう思ったのです。

そして見えない神さまにお祈りをするようになりました。友達とけんかをしたり、両親に怒られたとき、心が寂しくなっていても、お祈りをするとなんだか安心して眠れるようになりました。

でもだんだんと神さまのことを思う静かなそんな時間がなくなっていき、何年も過ぎてしまいました。それでも日曜学校で教えてもらった賛美歌は記憶の中にとどまって大人になるまで私を助けてくれました。会社に勤めて結婚をして子供が生まれて…。教会にも行っていない時期が長く続いていましたが、何かあると小さなころに習った賛美歌が私の口から出てきました。

日曜学校で習ったなかで大好きだった歌は「まもなくかなたの」ともう一つ、それは「サンデースクールマーチ」でした。「雄々しくあれ、強くあれ少年たちよ。神さまはどこにでもともにおられる。われらを倒して進むものはない、雄々しくあれ強くあれ強くあれ」そう歌っていると自分が何者にも負けない勇士になったような気持ちがしてきました。最初の子を出産するときもこの歌を歌っていました。陣痛が来る中で初めての出産が怖くて怖くて。でも「雄々しくあれ強くあれ」と歌っていると力がわいてきました。神さまが守ってくれている、そう思って子供を生みました。日曜学校で習っていた歌がその時々に私を励ましてくれたのです。

子供も二人授かりました。優しい主人と同居している義父母に囲まれて、私ははたから見たら何も不足のない幸せな奥さんに見えたことでしょう。でも、次第に私の心は渇いて叫んでいることが多くなりました。よいお嫁さんでいたかったし、なんでもそつなくこなしていきたいと思っていましたが、それも限界があることに気がつきました。心の中では「この人は私をどう見てるんだろう、私のことどう思っているんだろう」といつもいつも不安でした。不安定な自分にいらだっていました。だからニコニコしていたかと思うと、今度はまるっきり落ち込んで手がつけられなくなったりもしました。人と自分の間に分厚い壁を作って人を憎んだり、恨んだりしていました。自分でも自分をもてあましてあきれていました。嫁姑の確執も大きくなってきました。子供をかわいがってくれているのが頭ではわかりましたが、それも辛くなっていきました。何でも悪いほうに考えたり、いじけたりする自分の心がざらざらしているような気がしていました。

神さまはいると思う、でもほんとのところなんだかよくわからないという状態が続いていました。私の中では「神さまがいる」という小さかったころの安心感がだんだんと小さくなっていき、まるで消えてしまいそうになっていました。見えないけれど本当の神さまはいる、と確かに信じたけれど、聖書をしっかり読んだこともなかったのでその神さまがどんな神さまなのかぜんぜん理解がなく、正しい考えをもつことが出来ていなかったからです。私の心の状態はひどくなっていき、ますます自分が嫌いになってしまったころ、主人の書棚から一冊の本を見つけました。漫画やデザイン関係のたくさんの本の中にうずまるようにその本はありました。それは三浦綾子さんの「光あるうちに」でした。「どうして三浦綾子さんの、しかも信仰入門編のこの本が主人の本棚にあるの?」私にはなんとも不思議でした。主人はそういう本を読まない人だったからです。後で主人に聞くとなんの気もなく買ったのだと言っていました。でも、そのときにも神さまは私の状態を見てくれていて私にその本を与えてくださっていたのに違いありません。砂が水を吸い込むように一気にそれを読んでしまった私は「ああ、やっぱり神さまのところに帰りたい。夜寝るときにはお祈りをして安心して眠りにつくことが出来た、日曜学校に通っていたあのころに戻りたい」と心からそれを願ったのです。神さまはその思いに答えてくれました。教会に導かれ、聖書をきちんと学ぶ機会が与えられたのです。でも大人になっていた私は素直になりたいのに素直になれなくなっていました。いろいろと傷がありましたし、疑うことがたくさんあって、神さまを心から信じてしまうのが怖かったのです。これで裏切られたら目も当てられない、と思っていました。

でも、教会に通うようになってしばらくたったときでした。その日は子育てセミナーのある日でした。いつも子育てセミナーに参加するたくさんのお母さんたちが、私のほかはその日に限って一人も来ません。「珍しいこともあるものだ」と、教会の人は首を傾げていました。でも、私がいるからと、その日は、教会の皆さんがイエスさまに出会った話や様々な体験をはなしてくださったのです。そのなかでTさんの話は私の心を強く捉えました。Tさんのお友達のお嬢さんが結婚したとたん、そのお友達は心にぽっかりと穴が開いてしまったようで何もする気が起こらない、そんな状態であるということを聞きました。その話を聞いたとき、私は自分がなぜ今こんなに苦しいのかがわかったのです。「そのお友達は心の真ん中にお嬢さんだけが大きな存在を占めていたんだ。お嬢さんがすべてだったから、心にぽっかりと穴が開いてしまったんだ。私の心も同じように今は子供のことだけ大きくなっている。お姑さんのことが憎いのは、私の子供や主人を取られるのが我慢できないからなんだ、心にぽっかりと穴が開くのに、私の心は脅威を覚えているんだ」そうふっとわかったのです。「私の心の真ん中には子供たちを置いたりしてはいけない。子供たちを置いていたら私も子供もだめになる。子供を偶像にしてはいけないんだ。もっと違うもの、決して変わらないものを置かなくては」そう思いました。

Tさんは、また自分が神さまと出会ったときのことも話してくれました。Tさんの息子さんがまだ三歳だったころ、息子さんが突然いなくなってしまったことがあったそうです。Tさんはその当時まだクリスチャンではありませんでした。半狂乱になって探すTさんはいらいらし不安で胸がつぶされそうになっていました。「どうしてこんなことが」と思うと心に平安はまったくなくなりました。一方、Tさんのお母さんは熱心なクリスチャンでした。孫の姿がないことを聞くと、一心に全能なる神に祈りをささげたそうです。

Tさんはその姿を見て「お母さんは祈る対象を知っている」と気がついたそうです。「神さま、仏様、観音様、何でもいい、誰でもいい、子供を守ってください」そう、訴える対象を知らずに不安でいっぱいの自分と、自分の信じている聖書の神は全能の神さま、守ってくださらないことがあろうか、という全幅の信頼を置いて祈る自分の母の祈り。

Tさんは自分にもその神が必要だと求め、クリスチャンになったということでした。

私は、その話を聞いて私にも同じようにその神が必要ではないだろうか、と思って家に帰りました。午後、いつものように子供たちを公園に遊びに連れて行きました。いつものとおりの午後になるはずでした。しかしその日は違っていました。何と上の子供がいなくなったのです。子供が公園からいなくなってしまうことはそれまで一度もありませんでした。不安が押し寄せる中でさっき聞いたTさんの話が心に思い返されました。そのときわかったのです。「これは…神さまがいるってこと?…」私のことを見ている方がいる、今もそのすべてをご覧になっている方がいる。そう知ったとたん不安がすっと消えていきました。今までの私だったら、その状況ですぐにパニックになるところでした。おろおろと不安になり私の心配は子供への怒りに変わっているはずでした。もし子供が見つかっても子供に対して「どうしてお母さんに心配かけた!」と、手を上げたり、怒鳴ったり、泣きながら責めていたはずでした。でもそのときは違いました。神さまがこのことを起こしているのがわかりました。神さまが私を見つめている視線がわかったのです。「神さま、あなたはすべてを知っているのですね。あなたはいらっしゃるのですね。子供の居場所も知っているのですね。どうぞ子供が帰ってきますように」そう祈ることが出来ました。平安が心をゆったりと占めていきました。しばらくして、子供が帰ってきました。怒られるのでないかとびくびくしている子供を抱っこして、私は本当に心から「見つかってよかった。心配したんだよ」と言うことが出来ました。神さまに心配事を預け、平安である体験をしたのです。そして、そのとき迷子になっていたのは、子供ではなくて、私自身だったのだということに気がつきました。私の創り主、お父さんである神さまから離れ迷子になって、傷ついたり泣いたりしていた私を神さまが見つけ抱っこしてくれているのがわかりました。私が子供に言ったように「見つかってよかった。心配したんだよ」そう神さまが私の心に言ってくれていました。神さまは私を探しに来てくれたのです。神さまと私の関係が切れてしまったことに、神さまのほうが心を痛めて関係の回復を願ってくれたのです。それは私のことを愛して愛して、その関係の回復のためには神さまのほうで命を投げ出すほどの愛でした。神さまがその神であるという立場を捨て、人間になりイエスさまが十字架につかれたのだということがやっとわかりました。私のために死んでもいいと言って下さる愛でした。そして事実イエスさまは十字架で死んでくださったのです。私の罪はあまりにも深く、どのようにしても許されるものではなかったのです。人を憎んだり恨んだり自分のことをひどく嫌っていたこと、それは大きな罪でした。たとえ自分から命を捨て、死んだとしても負いきれない、解決出来ないほどの罪だからこそ、神さまご自身であられるイエスさまが人間の姿をとり、私の身代わりとなって十字架の上で命を捨ててくださったのです。自分が神さまに歯向かっていることすらも気がついていないようなときから、私の罪を許してあげたいと、その道を造って下さったのです。そして、そのことを信じた人々には神さまの子供となる特権を与えてくださいました。

私も自分を見る目が少しずつ変えられてきました。自分の弱いところも見ることが出来るようになってきました。この失敗ばかりする弱い私が神さまに受け入れられているんだ、神さまは私を愛してくれているんだ、そう信じると力がわいてくるのです。かつての私はあれも出来ない、これも出来ないと思って出来ないことを数えていました。でも私は今、まだ不十分なところはたくさんあるけれど、私は自分のことが大好き、それに私はきっとまだいろんなことが出来ると信じられるようになりました。たとえ私にはできなくても、すべてのことを教えてくださる方がいるから大丈夫なのだという安心感がいつも心にあるのです。「やってごらん、できるよ。その力も私があげよう」そういってくださる神さまがいるからやってみよう、そう思えるように変えられてきました。それは私が私の本当の創り主、私のすべてを愛し受け入れてくれる生きた神さまに出会うことができたからでした。

私が神さまを知らなかったときにも、神さまは片時も離れず私のそばにいて、私に優しく呼びかけてくださっていました。神さまが私を呼ぶためにつけた名前で、神さまがいつも私を呼んでくださっていたのだとイエスさまに出会ってから知ることが出来ました。あなたの名前も、今日神さまが呼んでくださっています。心の耳をどうぞ開いてあなたの名前をやさしく呼ぶ神さまの声を聞いてください。「あなたは私のもの、私はあなたを愛している」そう語ってくださっている神さまの声に耳を傾けてください。呼びかけてくださっている神さまに答えてください。みなさんもこの生きた本当の神さま、私たちを作ってくれた神さま、私たちとの関係を回復したいと願っておられる愛の神さまに、どうか出会うことが出来ますようにお祈りします。
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