信仰の証
主の恵みを交わし。

新しくされた人生(T.Y)

投稿者
tbic
投稿日
2020-11-02 20:13
閲覧数
3561
ヤクザへの道

私は、祖父の時代から造園業を営む家庭に、三人兄弟の末っ子として生まれました。何不自由ない暮らしに暗雲が立ちこめ始めたのは、長兄が生まれてすぐのことです。父親が他に女を作り、家を空けるようになりました。

父は酒もタバコもやりませんでしたが、その分を補うかのように、女性関係が派手な人でした。そんな父の長年の放蕩は、母の気持ちをどれだけ荒廃させ、憎しみにゆがませていったことでしょうか。母はいつしか父に対して殺意を抱くようになり、布団の下に出刃包丁を隠して眠っていたといいます。

父が家を出て、母は自分がいなくなれば父は帰ってきてくれるのではないかと、かすかな望みをたくして、自分も家を出てしまいました。家に残されたのは、三人の子供たちだけでした。当時私は、小学校三年生、十一歳離れた兄が幼い私と姉の面倒をみてくれたのでした。

両親に見捨てられたというだけでも子供心には耐え難い悲しさでしたが、その上食べる物にも事欠く困窮生活でした。三人で梅干しの種を分け合い、飢えをしのぎ、私は近所の畑で瓜やスイカを盗んだりしました。そんな悲惨な生活に追い討ちをかけたのは、突然の兄の自殺でした。電車に飛び込んだのでした。

一方、母は家を出て神戸でタイヤキ屋をしていましたが、子を捨てた罪の意識にさいなまされていたところ、一人のクリスチャンの女性に出会い、罪の赦しを信じてクリスチャンになって帰ってきました。短気なところのあった母が、それは別人のように優しくなって帰ってきたのです。私が小学校五年生のときでした。

中学校三年生の時、貧しさのために修学旅行に行けませんでした。その時、思春期の人生の疑問、生きることへの疑問がどっと押し寄せてきました。悪いこともせず、真面目に正直に生きる人間も、好き勝手をして欲望のままに生きる人間も、死んだら同じ、みな灰になるだけやないか。それなら人間真面目に生きるなんてバカみたいやないか。アホラシイ。そんな虚無感にとらわれました。

でも私は、十九歳まで辛抱しました。村では模範青年で通し、家から父親の仕事の現場へ通いながら、造園の仕事を覚えました。

ある日、私は他の女性と住んでいる父の所へ行き、「お父さん、どうか家へ帰ってください」と泣きながら頼みました。しかし父は帰ってきてくれませんでした。

「ワシがこないに頼んどるのに、お父さんは帰ってくれん。もうどうなってもええ。ワシはヤクザになってやる」

その瞬間、張りつめていた糸がプツンと音をたてて切れたのでした。私は知り合いに頼んで、ある親分の所へ連れていってもらいました。それから結局、二〇年間極道の世界に身を沈めることになったのでした。

ヤクザの世界も下働きは厳しいものです。朝、便所掃除から拭き掃除、灰皿を洗ってきれいに変え、賭場に白い布をはって札に数字を書いてお客さんを待つ生活が始まりました。

こんな賭徒の生活をしながらも、組の事務所の近くに教会があり、母がそこに通ってくる姿を時々見かけては、申しわけなさに身を縮めていました。私はヤクザをやめるのに二〇年かかりましたが、その間ずっと私のために祈りを捧げる母の背中を見ていました。クリスチャンの生き様というものを見ていました。

結婚、暴力、クスリ

私が妻の千代子と初めて会ったのは、姫路の駅前にあるダンスホールでした。ヤクザの私の周りにいるのは水商売の女性ばかり、そんな中で堅気の娘さんの健康的な明るさがまばゆいようでした。私はヤクザだと気づかれないようにして、六年ほど付き合い、私が三〇歳、千代子が二五歳の時に結婚しました。

ごく平凡な会社勤めの父親の家庭で育った妻は、私の「会社員」だという言葉を夢にも疑っていませんでした。しかし、だんだん私の嘘もはがれ、地の私の姿が現れ始めました。

妻が一人目の子を身ごもっていた時、「集金に行ってくる」と家を出て、三日も帰らなかったことがありました。妻は事故でもあったのかと警察にまで電話して捜しまわりました。そこへ私は、何食わぬ平気な顔で帰ってきました。そして「金がいるんや。金を出せ」と金をせびるようになりました。博打打ちには、金がいくらあっても足りません。あればあるだけ使ってしまうので、家に入れる金などないどころか、妻の持っている生活費まで出せと大声を出し、手を振り上げることが多くなりました。実の両親にも殴られたこともないような妻でしたから、大きなお腹をかばいながら逃げ回り泣き叫びました。

結婚二年目で長男が誕生しました。しかしこの守は、重度の脳性小児マヒでした。食事の世話からオムツの世話まで、生活のすべてに介護が必要な子でした。妻はこの守にかかりっきりになりました。顔を合わせれば「」金を出せ、そして暴力。二人目の息子、学が産まれても状況は悪化するばかり、この頃の妻の心情を妻自身の言葉で語ると次のようなことです。

「私は妊娠中に顔をボコボコになるほど殴られ蹴られ、病院に行っても夫にされたとは言えず、自分で転んだと言ってごまかしていました。でも、長男が脳性マヒで産まれたのは、妊娠中にこの人が私を殴る蹴るしたためや。こんな人、人間やない。人間の姿をした鬼や。そう思っていました。こんな人、いっそ死んでくれたらええのに。子供らのためには、殺しとうても私が殺すわけにはいかん。そやから、自分でどこぞへ行って池にでもはまってくれたらええのに、と本気で思っていました。それは心底、この人を憎んでいました。」

私は自分がこんな人間でありながら、二人の子供は可愛いのです。可愛くて可愛くて、この子らのためにヤクザから足を洗いたいと思いました。そして考えた末、ヤクザのもっとも嫌う覚醒剤に手を出したのです。クスリをやる人間は平気でウソをつきます。そしてクスリ代を手にいれるためには、何でもするようになります。ヤクザにとっても、信用ならない人間なのです。

幼子の笑顔に救われて

そういう人間になって、ヤクザの方から見放してもらうために、私は二年間クスリを打ち続けました。その間クスリ代に不自由すると、結婚当初、妻の実家の両親がもたせてくれた着物や帯も黙って持ちだしました。

妻はとうとう愛想をつかして、二人の子を連れて実家に帰ってしまいました。でも私はすぐに子供に会いたくなり、実家の前に行っては「守、学、お父さんやでー。迎えに来たでー」と叫び回り、世間体も実家の迷惑もかえりみずに騒ぎました。何度もそんなことを繰り返して、妻の父が連れ戻しにやって来たときは、「連れて帰れるもんなら、帰ってみい」と、狂ったように包丁を振り回して父親を脅しました。

私は「自分は何でこんな人間なんやろ」自分で自分に愛想がつき、いっそ死んでしまおう、そうや、二人の子を連れて死のうと思いました。そして二人の子を布団に寝かせて、「守、学、お父さんと死んでくれるか」と言うと、幼い子らは、「うん」と言うではありませんか。そして私が子供の首に手を回そうとすると、その子がニコッと笑ったのです。私はそれを見て涙が止まりませんでした。やっぱりこんな可愛い子らを殺すなんてできん。ワシはクスリやめて真人間にならなアカン。

もうその頃は、クスリのために神経も細かくなり、被害妄想もひどくなっていました。小バエ一匹いても、そいつが自分を殺しに来たと怖くてたまらず、押し入れの下の段に布団を敷いて身を潜めていました。そして、とうとう姉に電話して義兄に迎えに来てもらい、精神病院に連れていってもらいました。

私は、なんとか一週間という早さで退院できました。病院では、神に祈る母の姿を小さい頃から見てきていましたので、「神さま、助けてください」と祈りました。神が私の近くに感じられ、その後、ヤクザをやめたいという私の願いもかないました。

妻との復縁

退院してから、妻を捜しましたが、私の知らない所へ引越してしまい、居場所がわかりませんでした。私はあちこち必死で捜し回りました。そして皆自分からないのに、自力で捜しあてられたのは、今から考えても不思議でならないのですが、やはり神さまの存在というものを感じずにはいられません。

訪ねていった私を、妻は家には入れてくれませんでしたが、私が妻にしてきたことを考えれば文句を言えた義理ではありません。それでも子供たちは「お父さん、お父さん」と喜んでくれました。

私は、続けて子供たちに会いに行くようになりました。初めは公園だったのが、そのうち玄関の外で、またしばらくすると玄関の中で、そして居間に上げてもらえるようになるまで、二~三年はかかったでしょうか。

妻もボチボチと話をするうちに、私が以前の男のようではないことを感じてくれたようでした。そのうち、「お腹すいてへんの?何か食べて行けば?」と言ってくれるようになり、「泊まっていく?」となり、氷が解けるように妻の態度も変わってきました。

「私はこれ以上ないくらい、お父さんを憎んでいた。でも、お父さんだけを責め、憎んだ自分もいけなかったと思う。人を憎んだ自分も神さまに赦してもらい、そして私はお父さんを赦そう」そう言って、妻が復縁を承諾してくれたのは、それから五年後でした。

新しい人生の始まり

復縁してからは植木屋の仕事を真面目にやり、妻子を養いながら落ち着いた日々を送っていました。転機が訪れたのは、一九八〇年。大阪の日生球場で「ビリー・グラハム国際大会」に家族全員で参加したときのことです。その時、皆に祈っていただき、胸の内からあふれるような喜びに満たされました。

それが契機となって、私の母の通う姫路福音教会に、日曜日の礼拝と水曜日の祈り会に行くようになりました。

その後、一九八九年のこと。守の両足首に異常が生じて歩けなくなってしまったのです。私と妻は必死で祈り続けました。教会の仲間たちも熱心に祈ってくれました。結果、手術は成功し、守は再び歩けるようになりました。

また一九九一年には、妻に乳がんが発見されたのです。妻の入院中、子供たちを食べさせて病院へ通う毎日ですが、母親のいない家庭は暗く、子供たちもだんだん口数が減ってきます。「お前ら、お母さんが早くいやされるように、三人で祈ろう」と子供たちを励ましながらも、妻のありがたみを一番感じていたのは、私かもしれません。この妻の入院を機に、私も家事をやるようになり、そして子供たちは今までにも増して、母親を大事にするようになりました。

何より、妻の手術が成功し、手術後の観察期間を五年といわれていたのに、四年で「もう大丈夫です」と医者のお墨付きがもらえた時も、神さまが祈りを聞き届けてくださったと、家族全員で感謝したことでした。

もとヤクザたちのクリスチャン集団「ミッション・バラバ」ができたのは、一九九三年十二月二日のことでした。一九九四年の十一月には、アメリカにも伝道旅行に行きました。考えてみると、中学校の修学旅行にも行けなかった私が、こうしてミッション・バラバの仲間と、アメリカに伝道に行っている。その後もハワイ、カナダなど海外に一五回以上も行かせて頂いているということに、不思議な力を感じずにはいられません。五〇を過ぎてから、思いも及ばなかった人生が開け、私はもう一人分の人生を生かされているような気さえします。

私が聖書の中で特に好きなのは、次の一節です。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。~しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(第一コリント1:26-28

私ほど、この言葉にピッタリの人間がいるでしょうか。ヤクザ稼業で人様に言えないようなこともし、クスリに狂って妻子を不幸のどん底に落としたような人間、学もなく、この世にいなくてもいいような人間、無きに等しい者の代表のような人間の私が、こうして現在生かされている。こんな素晴らしいことがあるでしょうか。今の私は、毎日喜びで満たされています。そして、この喜びを、一人でも多くの人に語りたいのです。
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