メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

詩篇23:1-6 (主は私の羊飼い)

投稿者
tbic
投稿日
2021-08-19 14:58
閲覧数
2555
詩篇23:1-6、

詩篇23篇は、旧約聖書の中でも最も有名な詩篇の一つです。クリスチャン生活とは無関係な文学や映画などでもこの詩篇が引用されることが多く、西洋では葬儀の時に読まれる代表的な聖書箇所です。

英国の著名な牧師のチャールズ・スポルジョン氏は、この詩篇を「詩篇の中の真珠」と呼びました。この詩篇には、まことの神に完全により頼んだ人に与えられるたましいの喜びをとても美しく描かれています。詩篇は、人の心にある不安、恐れ、心配などの感情をテーマにする詩が多くあります。しかし、この詩にはそれらの存在が一かけらもなく、主に属することによって与えられる平安と満足がテーマとなっています。

始めの1-4節は、著者と主の関係を「羊と羊飼いの関係」として例えます。そして、5-6節は、主と著者の関係を「豪華な宴会を主催する王とそれに招かれた主賓」として例えます。しかし、この最後の例えの中にも羊と羊飼いの関係は保たれており、全体的に一つのまとまった流れを保つ、美しい詩として出来上がっています。

231a 主は、私の羊飼い。

ヘブライ語によって書かれる詩の美しさは、俳句に通じるものがあります。限られた言葉数で、限りない世界を美しく描くことができるのがヘブライ語の特徴です。この詩篇の著者であるダビデ王はそのユニークさをこの節で最大限に生かしました。

「主は、私の羊飼い」という文章は、ヘブライ語でたった2文字で成り立っています。しかし、この2文字によって旧約聖書の中で最も美しく、愛情に満ちた神との信頼関係の姿が描かれています。

主を羊飼いとして呼ぶことは、当時の人たちにとって珍しいことだったと思われます。なぜなら、当時の社会では羊飼いの仕事は社会的に階級が最も低い人に与えられていたからです。羊飼いは一日24時間、羊と共に生活しました。昼も夜も羊のことを心にかけ、晴れでも雨でも羊の面倒を見て、雨期でも乾期でも羊の必要を考え、それらを導き、守り、癒やし、助けることが求められました。そのような生活ができる人は、社会的に何の貢献も期待もされていない人たちだけだったのです。

詩篇を含め、聖書の中では、まことの神を崇高で神聖な存在として表現します。神に人格を与える時は、「王」、「万軍の主」、また「贖い主」などというように一般の人が軽々しく近寄る事ができない存在として表現されています。または、時には「盾」や「岩」や「砦」など、人格のないシンボルとして表現されます。しかし、この詩篇では、主を羊飼いと表現することで、神を手の届かない存在としてではなく、常に自分のことを心配し、備え、導き、守り、癒やし、助けてくれる身近な存在として描いています。

ダビデが、主を羊飼いとして例えたのには、個人的な理由がありました。それは、ダビデ自身が王になる前に羊飼いだったということです(Iサムエル16:10-12)。ダビデは、羊飼いの意思と責任を個人的に理解していました。彼は八人兄弟の末っ子であったために、誰もしたくない羊飼いの仕事が与えられていました。しかし、ダビデは羊の世話をすることによって、羊飼いが羊に対して持っている責任感と役割を学び、羊飼いが羊をどのように扱うかを学びました。ダビデは、それらの経験を通し、主を羊飼いと例えることが一番相応しいと思ったのでしょう。

ダビデは、「主」は私の羊飼い、と言います。ここで「主」と訳されている言葉は、「ヤハウェ」という呼び名です。この名前は、まことの神がイスラエルの民と特別な契約を結んだことを思い起こさせる時に使われる特別な名前です。しかし、ここでは、ダビデは「主は、『我々の』羊飼い」ではなく、「私の」羊飼いと表現します。それは、神がイスラエルを通して前進させていく神の大きな計画だけに心を止めておられるのではなく、そこに属している一人ひとりのことも気にかけてくださっていることを教えます。

イエスはたとえ話の中で、100匹の羊を持っていても、もしその一匹が群れから外れたら、羊飼いはその一匹を探すために身の危険を冒すと教えました(ルカの福音書15:4-5)。ダビデも、獅子や熊が自分の群れに属する羊をさらうようなことがあれば、それを追跡し、それらを命がけで倒し、羊を取り戻したと言いました(Iサムエル17:34-35)。まさしく、良い羊飼いは、一匹の羊のために自分の身を捧げるのです(ヨハネ10:11)。ダビデは、主も羊飼いと同じように、群れ全体に目を向けながら、一人ひとりのことに心を留めてくださることを知っていました。羊飼いが羊を一匹も置いていかないのと同じように、主も神の家族に属する人を誰も置いていかれるようなことをしないのです。

ダビデは、主を個人の羊飼いとして呼ぶことによって、主が手に届かない抽象的な存在ではなく、自分の隣を歩み、安全へと導いてくださる存在だと理解していました。

231b 私は乏しい事がありません。

ヘブライ語では、この文章も2文字で書かれています。これを直訳すると、「ない、私には何かが欠けている」と書かれています。この表現には、主が私の羊飼いであるから、自分の必要はすべて満たされる、という意味があるのと同時に、主が私の羊飼いでいてくださるのであれば、それ以外のものは必要ないという確信が表れています。主さえ共にいてくださればそれ以上のものはいらない、と告白できる人は、知識だけではなく体験を通して主の価値を理解している人だけです。貧しくても、主が共におられるのであれば、決して乏しくなることはありません。

232 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

2節の主題は、主が良い羊飼いであるから、私たちはどこにいても安全であり、いつでも安心できる、ということです。その真理を簡潔に表すために、ここでも同義型パラレリズムが使われています。羊が草に伏すとは、安心して休むという意味があります。羊は動物の中でも特に面倒が掛かる動物であり、さまざまな条件が整わないと草に伏しません。おなかが満たされていない羊は、草をたらふく食べるまで牧草を求めて歩き回り、横たわることをしません。また、外敵から狙われている気配がある間は、恐怖心のために横たわることをしません。さらに、病気を持っていたり、体調を崩している羊はそれが直るまで伏せません。ですから、羊が緑の牧場に伏せるとは、これらの条件がすべて満たされていることを意味します。

「いこいの水のほとり」とは、羊が休み、力付けられる水飲み場のことを指します。中東の荒野などで遊牧生活する羊飼いは、どの時期に、またどの場所に水飲み場があるのかを知らなければ、羊に脱水症状を起こさせて全滅させます。いつも、羊の状態を観察して、羊が群れで歩ける距離に次の水飲み場があることを確認します。このことは、長い乾期が続くユダヤの地では大切なことでした。

しかし、水飲み場があるだけでは、羊が自主的に水を飲むという訳ではありません。羊は、他の動物と比べて、自分の身を外敵から守るすべを持っていません。そのため、少しでも身の危険を察知すると羊は怯えて水を飲まなくなります。そのため、羊飼いは水飲み場を確保するのと同時に羊の害になる動物を追い払い、羊が安心できる環境を確保していました。

また、羊は病原体が入っている水を飲むと、すぐに病にかかってしまいます。そのため、汚い水ではなく、きれいな水を用意する必要がありました。人間の羊飼いが、羊のためにそこまで気を配るのであれば、私たちのたましいの牧者である主も私たちのことを心に掛けてくださり、人生の荒野をさまよう私たちが安心と安全を体験できるように導いてくださるのです。

233 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ダビデはこの節でも同義型パラレリズムを使います。「私のたましいを生き返らせる」とはどのような意味でしょうか。パラリズムの役割を理解していると、それは「義の道に導かれる」ことと同じ意味があることだと分かります。聖書の世界観によると、不義の道のたどり着く所は滅びであり、義の道のたどり着く所にはいのちと繁栄があります(詩篇1:6)。つまり、羊飼いの示した道が義であり、その道に従って導かれることが著者のたましいをいのちに戻すということなのです。

主は、ご自分の名声を保つため(「御名のため」)に私たちを導いてくださいます。まことの神は、すべての人が主に希望を置くことを望み、誰一人として滅びてほしくないと願っています。そのため、まことの神の名が人に希望と確信を与えるものであることを望みます(参照:エゼキエル書36:22-32)。人が主の名前を出す時に、「その名の神は約束を守らない」とか、「その神には人を救う力がない」とか言われないように、約束した事は必ず成就させ、ご自分の信望が失われないように働かれます。

主は、イスラエルの民と特別な関係を築かれ、彼らが主を愛し、その御教えに従うのであれば、彼らを必ず祝福し、いのちを与えると約束されました。ですから、イスラエルの民が主に従っているにもかかわらず、その民が守られないというのであれば、まことの神には約束を守ることができず、言葉通りにご自分の民とされた人たちを守ることができないと偶像礼拝者たちから責められ、現実の世界では価値のない存在として忘れられてしまいます。主の名声が損なわれないように、主は神に属する人たちをいのちへつながる義の道に導かれるのです。

234a たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

義の道とは、必ずしも楽しさに満ちた道であるとは限りません。時には、その道が私たちにとって通りたくない道であるかもしれません。「死の陰」と訳されている言葉は、旧約聖書に20回ほど登場します。多くの場合、それは「深刻な闇」という意味を持っており、絶体絶命の状態や環境のことを指します。

しかし、もし全能の主が、私の羊飼いであり、その知恵の導きによって死の陰の谷を通るのであれば、その道が羊にとって最も安全な道であると確信を持つことができるのです。

ダビデは、この節で個人の信仰をさらに豊かに表現します。これまでは、主を三人称で表現してきましたが、この節では「あなた」と、二人称に変えることによって主との距離を縮めています。

なぜ、ダビデがそのような確信を持つ事ができたのでしょうか。それは、神はすでにイスラエルの民を「死の陰」の地を通し、無事に導いた実績があったからです。エレミヤ書2章6節では、主のことを「私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方」と呼んでいます。もし、だれも住むことができない不毛の「死の陰」の地で40年間も大きな国民を養うことができたのであれば、たった一人を守ることは主にとってたやすいことだと確信を持てるのです。

詩篇234b あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

この箇所で「むち」と訳されている言葉(ヘブライ語で「シェイベット」)は、杖、こん棒、王の笏と言う意味があります。ミカ書7章14節では、同じ言葉が「どうか、あなたの杖(シェイベット)で、あなたの民、あなたご自身のものである羊を飼ってください」と訳されています。この杖(こん棒)は、羊飼いが常備していた唯一の武器でした。このこん棒は羊を打つためではなく、野獣を追い払ったり、自分を守ったりするためにありました(Iサムエル17:35、ここでダビデが羊をさらった獅子や熊を「打ち殺した」と訳されている表現は、こん棒で打ち殺したという意味です)。

また、「杖」とは、羊飼いが持っていた、長く、先がフック状になっている杖を指します。この杖は、羊が群れから迷い出ようとした時に群れに連れ戻す為に使われました。

敵が襲いかかってくる死の陰で道を迷うことがあっても、もし主が羊飼いであるなら、その人を天敵から守り、群れの中に引き戻してくれるのです。そのような確信が、不安や不信仰との戦いの時にダビデの慰めとなったのです。

235 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

詩篇のイメージはこの節を境に一変し、 舞台は羊飼いと羊の荒野生活から王家のバンケット(宴会)に変わります。ここで、主は宴会の主催者として描かれています。しかし、羊飼いと羊の親密な関係は引き継がれており、詩の主題も変わっていません。死の陰の谷を抜けた後にダビデを待っていたのは、主が個人的に用意してくれた特別な祝会でした。

この会の素晴らしさは4つの主の恵みによって表されています。

一つ目は、 ダビデの敵の脅威が主によって取り除かれているということです。主がダビデの敵の前でダビデのために食事を整えるということは、主がダビデの敵をすでに負かしていることを示します。羊飼いが羊に危害を与えようとする野獣を追い払うように、主も主に属する人に危害を与えようとする存在を取り除きます。主に属する羊を傷付けようとする者は、主の敵です。主は、それらを負かした後に、主が自分に属する者を愛されていることを敵の目前で証明されるのです。

二つ目は、主ご自身が食事の準備をし、食卓を整えてくださるということです。つまり、主が羊をもてなしてくださるというのです。本当であれば、私たちが主に仕えるべきであるにもかかわらず、私たちに安心と安全を与えてくださる神は、それ以上の祝福を与えてくださるのです。

この箇所は、主であられるイエス・キリストが示してくださった、しもべの姿を連想させます(ヨハネ13章)。世界の救い主でありながら、弟子たちの足を洗われた主のへりくだった手本がこの詩篇の主の姿と重なります。

三つ目は、頭に油を注がれるということです。香油は、当時の時代では高価な物であり、特別な来客をもてなす時の必需品でした。特に、食事前は、会の主催者がお客さんの額に香油を塗ることで、中東の強い日射しと乾燥によって乾ききった皮膚に潤いを与え、気分をさわやかにしたのです。この習慣は、イエスの時代にも受け継がれていました。あるとき、罪深い女性がイエスのもとに来て、イエスの足に香油を塗りました。そのような女性がイエスの足に香油を塗っていることに不安を持ったシモンに対して、イエスは、「あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。(ルカ7:46)」と言いました。ですから、頭に油を塗るという行為は、もてなしの表れと同時に、相手に敬意を示すことでもあったのです。

四つ目は、杯があふれているということです。「杯」は、聖書の中で、神がその人に与える宿命の象徴として頻繁に使われます。ここでも、この言葉はそのように使われています。この箇所が強調しているのは、主から与えられた杯があふれている、ということです。主が与えてくださる杯は、なみなみと注がれているのではなく、中側から勢いよく湧き出てくるほどの祝福によって満たされているということです。もちろん、羊である私たちはそのような宿命を与えられる資格や権利を持っていません。それは、ただ主の恵みの大きさを表しているのです。

236 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ダビデは、まことの神を主として生きる人の結末を理解しました。それは、ダビデの人生の幕が閉じる日まで、神のいつくしみと恵みがダビデの行く所々の後を追ってくるということです。ここで、「いつくしみ」と訳されている言葉は、「トーヴ」という言葉で、神が世界を創造された時に被造物を見られ、それらを「良い」と言われたときに使われているのと同じ言葉です。どの角度から見ても欠点がなく、良いものが「トーヴ」なのです。そのような良い祝福が一生自分の後を追いかけてくるのは、すべての面で「トーヴ」でおられる主が共にいてくださるからです。

また、「恵み」と訳されているのは、「ヘセッド」という言葉で、主がイスラエルの民に対して忠実で、約束を誠実に守られる神の愛情を示す言葉です。この言葉は、まだ実現していないけれども、神の誠実さによって必ず実現される神の将来の恵みを指すために使われることが多いです。

つまり、主から離れない生き方は、一生良いものと恵みによって満ちているということをダビデは悟ったのです。なぜなら、主に導かれ、死の陰の谷を抜け出すと、もうさすらう必要はなく、主の家で永遠に主と過ごすことができるからです。

この詩篇から学ぶこと

この詩篇は、神に対する確信と希望の詩です。世界を創られたまことの神が、私たちの日常の生活に関心を持ってくださり、手の届く存在となってくれるという事実は、私たちの信仰生活を大きく変えることができます。私たちの神は、遠く離れている存在ではないのです。

詩篇23篇に書かれているような親密な関係を主との歩みの中で体験したい人は、いくつかの前提を理解していなければいけません。

一つ目は、主は私たちの羊飼いですが、羊飼いである前に主だということです。主が私たちを求めてくださるのは、主のいつくしみと恵みが理由です。羊と羊飼いの価値が同じでないように、私たちと主の権力は同等のレベルにあるのではありません。主が私たちに近くなってくださっているのは、主が私たちを恵みによって選んでくださったからであり、私たちがそれにふさわしいからではありません。そのことを忘れて、主を同等の存在のように考えると、主の導きに従う心がなくなってしまいます。

イエス・キリストはその真実を明確に教えました。イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です(ヨハネ15:14)」と言いました。この友人関係も同等の関係ではなく、主の一方的な恵みによって成り立っています。なぜなら、私たちが主に対して、「主よ、あなたも私の命じる事を行うなら私の友です」と言えないからです。

羊の安全は、羊がどれだけ羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いの近くに留まるかによって決まります。羊の責任は、羊飼いの声に従うことであり、羊飼いを自分の声に従わせることではありません。

二つ目は、主が約束する安心と安全を求めるのではなく、それらを与えることができる主を求めることを学ぶということです。たましいの安心と安全は、主が与えてくださる恵みです。主から離れた場所にそれらのものは存在しません。しかし、主を愛するのではなく、主が約束する恵みをもっと愛しているのであれば、私たちの心はすぐに主から離れてしまいます。そして、主以外の場所からそれらを手に入れようとして、間違ったにせの羊飼いの声に従い、義の道からさまよい出てしまうのです。主から離れると、安心も安全も存在しません。しかし、主がおられるとそれらの祝福もついてくるのです。ですから、安心や安全を求めるよりも、主を愛して、その声に聞き従う事に専念すれば欲しかった物も自然と主のうちに与えられるのです。

三つ目は、このような関係は一日で成り立たないということを理解することです。人間同士の間でも言えることですが、人生を変える素晴らしい信頼関係はすぐに生まれません。時間をかけてお互いを知り合い、相手の生活や考えに関心を抱き、相手を無条件で受け入れることを学ぶ必要があります。

同じように、ダビデも一日でこのような信頼の詩を書けるようになったのではありません。ダビデは人生の最後に近付いても多くの失敗を繰り返し、人一倍罪を犯しました。しかし、ダビデの尊敬できるところは、主の訓戒を受け入れて、毎回悔い改めたということです(詩篇51篇、ヘブル12:5-7)。神から離れる場合があっても、主の杖によって引き戻されることを何度も繰り返した結果、主の杖が彼の慰めとなったと言えるようになったのです。

これらのことを心に刻み、主を正しく畏れ、主を愛し、そして、主の懲らしめを訓練と思って耐え忍ぶバランスを学ぶことによって、徐々に主を羊飼いとする特権と喜びを体験できるようになるのです。
合計 144
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
144
ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)
tbic | 2024.05.12 | 推薦 1 | 閲覧数 21
tbic 2024.05.12 1 21
143
ヨハネの黙示録12:10-12(終末の時は悪魔がもっと賢い)
tbic | 2024.05.06 | 推薦 2 | 閲覧数 22
tbic 2024.05.06 2 22
142
ヨハネの黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)
tbic | 2024.04.28 | 推薦 2 | 閲覧数 30
tbic 2024.04.28 2 30
141
マタイの福音書8:5-13(百人隊長の信仰)
tbic | 2024.04.21 | 推薦 2 | 閲覧数 33
tbic 2024.04.21 2 33
140
ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
tbic | 2024.04.15 | 推薦 2 | 閲覧数 37
tbic 2024.04.15 2 37
139
創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
tbic | 2024.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 46
tbic 2024.04.07 1 46
138
テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
tbic | 2024.03.31 | 推薦 1 | 閲覧数 48
tbic 2024.03.31 1 48
137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
tbic | 2024.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 54
tbic 2024.03.24 1 54
136
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
tbic | 2024.03.17 | 推薦 1 | 閲覧数 58
tbic 2024.03.17 1 58
135
ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
tbic | 2024.03.10 | 推薦 1 | 閲覧数 59
tbic 2024.03.10 1 59

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