メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
詩篇91:1-16 (主は私の避け所)
投稿者
tbic
投稿日
2021-09-05 21:36
閲覧数
2075
詩篇91:1-16、
150篇ある詩篇の中でも、詩篇91篇ほど神に信頼する喜びと祝福を美しく表している詩は多くありません。どのような状況に置かれていても、神を主としている人しか味わうことのできない安心と安全感が描かれており、読む人の心に安らぎと希望を与えます。
また、詩篇91篇は、まことの神と契約関係にあることがどれほど素晴らしく、その神を主として愛する人がどれほど幸せなのかという真理を、巧みな詩的表現で際立てています。この詩篇を通して、神に信頼する人の生き方を再発見できます。また、無限で、全能の神が私たちにどれだけ近いのかを学ぶことができると思います。
91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
91:2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
「隠れ場に住む」とは、「守り/保護の下に自分を置く」という意味です。住むとは、そこに留まり続ける、常にそこに戻ってくるというニュアンスが含まれています。この始めの二節には、創造主を表す四つの名前が使われています。それぞれの呼び名は、創造主の異なる側面を表しています。
「いと高き方」はヘブライ語で「エリオーン」という言葉です。この名前は、創造主を「他の神々よりもはるかに優れた存在」、または、「天と地を所有し、治める存在」として呼び求める時に使われた名前です(参照:創世記14:18-20)。まことの神より遥かに劣った偶像には提供できない本当の保護を主は与えることができるのです。
「全能者」はヘブライ語で「シャダーイ」という言葉です。この言葉の語源は明確ではありませんが、「山」、または「女性の胸」を意味する言葉から来ているとされます。つまり、山のような備えがある存在、または山ほどに祝福される存在。または赤ちゃんに必要な乳を母親が与えるように、私たちに必要なものをすべて備えてくださる。そのような豊かな恵みの神として崇める時に、この名前が使われました。
2節では、著者は創造者を「ヤハウェ」と呼びます。この名前は、ユダヤ人にとって神聖な名前であり、軽々しく口にしてはならない名前です。なぜなら、この名前は、主がモーセを通してユダヤ人と契約を結んだ時に与えた名前だったからです。この「ヤハウェ」を用いる時、ユダヤ人は神と特別な関係と責任があったことを強調していたのです。そして、最後に神は、「エロヒーム」と呼ばれます。この言葉は、神を唯一の創造者として呼ぶときに使われた名前です。
背景にあったモーセ契約
著者がまことの神を避け所とすることができたのは、彼が霊的に優れていたからではありません。また、道徳的であったからでもありません。著者が神の保護に信頼できたのは、まことの神がイスラエルの民と契約を結ばれたからです。神はモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれました。その契約によって、ユダヤ民族は神の似姿として、この世に神の聖さを表す責任が与えられました。そして、その責任を果たせば神は彼らを祝福し、それを放棄すれば災いが必ず降り掛かると約束されました。
その約束の一部が申命記28章に書かれています。もし、イスラエルの民がまことの主を愛し、主から与えられた責任を信仰によって果たすのであれば、このように書かれています。 申命記28:7-10、「主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。」と約束されたのです。
このような特別な契約関係があったからこそ、著者は契約の神の名「ヤハウェ」によって請い求め、その契約の約束に従って神が彼を敵から守り、祝福されるであろうと確信できたのです 。このような信頼の前提には、彼が神を愛し、神から与えられた責任を果たしていた、という現実がありました。
91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
「狩人のわな」という比喩表現は、著者に危害を与える存在(参照:詩篇140:1-5)、または神に与えられた責任を放棄する誘惑と考えることができます(参照:詩篇119:110)。
また、この著者は「恐ろしい疫病」からの救いについて語りますが、これもモーセの契約の祝福の一つです。たとえイスラエルの民が与えられた責任を放棄して、災いを招くようなことがあっても、彼らが悔い改めるのであれば神はその災いを取り除き、彼らを癒す約束がすでにされていたのです。
第二歴代誌7章13節に、このように書かれている通りです。「…もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」
つまり、この3節はどのようないのちの危険であったとしても、主は神の契約に忠実な人を助けるということを教えています。ここで大切なことは、この約束がモーセの契約の条件下にあったということです。現代のクリスチャンは、モーセの契約の下にはいません。イエスさまの愛の中にいます。しかし、この詩篇に書かれている真理は読者の立場が変わったとしても、変わることがありません。
91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
「主の羽」という表現は、神をひなを守る雌鳥のように例えているか(出エジプト19:4、申命記32:11など)、契約の箱の上に彫られていたケルビムの羽を指していると言われます。主の羽の下でかくまわれている人たちに危害を与えようとする者たちは、彼らの周りに主の誠実さ(真実)が盾として彼らを守っていることを発見します。
91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
5-6節には、メリズム(merism)という詩的表現が含まれています。メリズムとは、一つのことを例えるために、それを分割して表現する手法です。例えば、「神が天と地を創造された」というのは、メリズムを使っています。「天と地」という二つの極端なものを使うことによって、実際には「天と地の間に存在するすべてのもの」を創造されたことを伝えています。新約聖書には神が「アルファであり、オメガである」という表現があります。アルファは、ギリシャ語のアルファベットの一番始めの文字、オメガは一番最後の文字です。つまり、神はすべての始まりであり、同時に終わりであり、その中間にあるすべてであるということを表しているのです。
著者は「夜‐恐怖」、「昼‐矢」、「暗やみ‐疫病」、「真昼‐滅び」と表現することによって、夜でも昼でも、いつでも、主は必ず自分を守ってくれるということを忘れてはならないと教えているのです。
91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。
これらの節の背後にも、レビ記26:8「剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」という契約の約束があったのです。偶像ではなく、まことの神を避け所と選ぶ信仰が神に喜ばれ、神の誠実さを体験することにつながったのです。
91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。
モーセの契約によると、神は超自然的な手段でイスラエルの民を守ることを約束されました。それは、現代のクリスチャンにも当てはまる約束であります。
詩篇91篇の始めの13節は人間の視点から書かれていました。しかし、最後の3節は神の視点から書かれています。このように、著者が神の代弁者として、それまでの視点を変える手法は詩篇の中に複数登場します(参照: 60:6-8、81:6-1、95:8-12)。
91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。(新改訳聖書)
この箇所は日本語で読むと、ABA’B’平行法で書かれているかのように訳されています。しかし、これは日本語の文章の美しさを優先した判断によるもので、原本となるヘブライ語では交錯配列法で書かれています。
כִּי בִי חָשַׁק, וַאֲפַלְּטֵהוּ אֲשַׂגְּבֵהוּ, כִּי-יָדַע שְׁמִי
כִּי בִי חָשַׁק A (なぜなら、彼がわたしを愛しているから)
וַאֲפַלְּטֵהוּ B (わたしは彼を救い出そう)
אֲשַׂגְּבֵהוּ B’ (わたしは彼を高く上げよう) *安全な高台に移動させる、という意味
כִּי-יָדַע שְׁמִי A’ (なぜなら、彼はわたしの名を知っているからだ)
ヘブライ語が読めなくても、AとA’の始まりが「כִּי」(「なぜなら」)によって始まっているのが分かり、BとB’の語尾が「הוּ」(「~よう」)で終わっているのが分かります(ヘブライ語は右から左に読みます)。こう書くことによって、詩篇を合唱する時に、ある一定のリズムと韻が生まれ、歌っている人たちが内容を覚えやすくなるという効果もありました。
この詩的表現をあえて選んでいる意図は、構成の中心になる言葉に焦点を置きたいからです。この節では、BとB’がその内容です。つまり、「主を愛し、神と契約関係にある人を神は必ず救われる」という真理が一番大切だと強調しているのです。
救いの理由
主に対する誠実な愛、そして契約によって生まれた親密な関係があるから、主はその人を救われるのです。
契約を土台とした祝福の約束
91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。
そのような人が主を呼び求めると(イスラエルの民との契約関係があることを前提に)主はすべての約束を果たしてくださる、と最後の二節が教えます。ここには、特に6つの祝福がハイライトされています。
ここで学ぶことがいくつかあります。一つ目は、神と契約関係を持っているか、持っていないかということが人生の中で大きな差を生み出すということです。
この詩篇を執筆した著者は、モーセの契約の下にいたので、モーセ契約に含まれていた約束を信仰の対象としてこのような美しい詩を書くことができました。
言い換えれば、もし、この詩篇の著者が神と契約関係を持っていなければこの詩篇に書かれている祝福は、何も期待することができませんでした。神の民とされていない人は、その主の名前を知ることもなく、主を避け所として求めることもできません。
現代のクリスチャンは、モーセの律法の下にはいません。しかし、キリストのからだである教会に足された人は、キリストを通してモーセの契約を遥かに上回る素晴らしい契約を神と結ぶことができるのです。
旧約時代、イスラエルの民が祝福を体験するためには、契約の律法を守る義務がありました。しかし、キリストに属する人は、行いではなく、信仰によって神の基準を満たした者とされ、神と和解することができます。神と和解したものは、イスラエルの民が神と親密な関係を持ったのと同じように、神と新しい契約関係を持つことができるようになるのです。
責任と祝福
キリストを通して神と契約関係を結んだ人たちにはイスラエルの民と同じように責任と祝福が与えられています。
責任は、「(神の民が)この世の中で神の似姿として生きることによって、神の聖さが明確に伝わり、この世が神を信じるようなる」ということです。旧約時代のイスラエルの民も同様の責任が求められました。当時は、イスラエルの民が、モーセの律法を守ることで、一般とは異なる文化、道徳、生活仕様を通して神の特別さを伝えました。そして、彼らの従順、不従順によってユダヤ人たちが祝福されたり、罰せられたりする姿を見て、契約の神の誠実さ、また全能さを目撃することができたのです。
しかし現在は、神の似姿としての生き方がモーセの時代と対照的に異なります。今の時代は律法ではなく、キリストが私たちに示してくださった愛を把握し、それを模範として神の家族が愛し合う、という手段を用いてこの世で神の似姿として輝く責任が与えられているのです。
祝福の面でも旧約の時代と現在では相違点と共通点があります。
相違点
現代のクリスチャンである私たちの祝福は、この地上生活中心の祝福ではなく、キリストを通してキリストが天で所有しているすべての祝福を受け継ぐ相続者とされたということです(参照: エペソ1章)。
クリスチャンは、キリストに信仰を持つことによって、モーセとユダヤ人が神と持っていた関係よりもさらに親密で素晴らしい関係を持つことが約束されているのです。
そのようにキリストを通して神との契約関係ができた人は、どのような状況に置かれても、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」と書かれていることばに確信を持って、主をたましいの隠れ場、避け所、そして大盾にすることができるのです。
共通点
当時も現代も神から与えられた責任を果たすことが、神の守りを体験する前提であるということです。
神は偶像礼拝をしている人たちを霊的に祝福することができません。同じように、神は偶像を避け所としている人たちを守ることはできません。それは、神に救う力がないのではなく、その人たちが間違った救いの対象に信頼し、身を委ねているからです。まことの神ではない存在に仕えている限り、その人は神に与えられている責任を果たしているとはいえません。
そのような状況にいたイスラエル人たちに主は、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ(イザヤ書59:1-2)」と言われました。
神を愛し、神との契約の約束を守ることが私たちの安心と安全につながります。そのため、現代の教会は、私たちがキリストによってどのように愛されたのかを把握し、その愛を模範にキリストの体に属する神の家族を愛することに徹すれば、自然と神の神性をこの世に示す神の似姿へと変えられていきます。神を愛し、その愛を実践する人は、どのような環境に置かれていたとしても、神を避け所とし、必ず神の救いを体験できるのです。
150篇ある詩篇の中でも、詩篇91篇ほど神に信頼する喜びと祝福を美しく表している詩は多くありません。どのような状況に置かれていても、神を主としている人しか味わうことのできない安心と安全感が描かれており、読む人の心に安らぎと希望を与えます。
また、詩篇91篇は、まことの神と契約関係にあることがどれほど素晴らしく、その神を主として愛する人がどれほど幸せなのかという真理を、巧みな詩的表現で際立てています。この詩篇を通して、神に信頼する人の生き方を再発見できます。また、無限で、全能の神が私たちにどれだけ近いのかを学ぶことができると思います。
91:1 いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
91:2 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。
「隠れ場に住む」とは、「守り/保護の下に自分を置く」という意味です。住むとは、そこに留まり続ける、常にそこに戻ってくるというニュアンスが含まれています。この始めの二節には、創造主を表す四つの名前が使われています。それぞれの呼び名は、創造主の異なる側面を表しています。
「いと高き方」はヘブライ語で「エリオーン」という言葉です。この名前は、創造主を「他の神々よりもはるかに優れた存在」、または、「天と地を所有し、治める存在」として呼び求める時に使われた名前です(参照:創世記14:18-20)。まことの神より遥かに劣った偶像には提供できない本当の保護を主は与えることができるのです。
「全能者」はヘブライ語で「シャダーイ」という言葉です。この言葉の語源は明確ではありませんが、「山」、または「女性の胸」を意味する言葉から来ているとされます。つまり、山のような備えがある存在、または山ほどに祝福される存在。または赤ちゃんに必要な乳を母親が与えるように、私たちに必要なものをすべて備えてくださる。そのような豊かな恵みの神として崇める時に、この名前が使われました。
2節では、著者は創造者を「ヤハウェ」と呼びます。この名前は、ユダヤ人にとって神聖な名前であり、軽々しく口にしてはならない名前です。なぜなら、この名前は、主がモーセを通してユダヤ人と契約を結んだ時に与えた名前だったからです。この「ヤハウェ」を用いる時、ユダヤ人は神と特別な関係と責任があったことを強調していたのです。そして、最後に神は、「エロヒーム」と呼ばれます。この言葉は、神を唯一の創造者として呼ぶときに使われた名前です。
背景にあったモーセ契約
著者がまことの神を避け所とすることができたのは、彼が霊的に優れていたからではありません。また、道徳的であったからでもありません。著者が神の保護に信頼できたのは、まことの神がイスラエルの民と契約を結ばれたからです。神はモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれました。その契約によって、ユダヤ民族は神の似姿として、この世に神の聖さを表す責任が与えられました。そして、その責任を果たせば神は彼らを祝福し、それを放棄すれば災いが必ず降り掛かると約束されました。
その約束の一部が申命記28章に書かれています。もし、イスラエルの民がまことの主を愛し、主から与えられた責任を信仰によって果たすのであれば、このように書かれています。 申命記28:7-10、「主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。」と約束されたのです。
このような特別な契約関係があったからこそ、著者は契約の神の名「ヤハウェ」によって請い求め、その契約の約束に従って神が彼を敵から守り、祝福されるであろうと確信できたのです 。このような信頼の前提には、彼が神を愛し、神から与えられた責任を果たしていた、という現実がありました。
91:3 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。
「狩人のわな」という比喩表現は、著者に危害を与える存在(参照:詩篇140:1-5)、または神に与えられた責任を放棄する誘惑と考えることができます(参照:詩篇119:110)。
また、この著者は「恐ろしい疫病」からの救いについて語りますが、これもモーセの契約の祝福の一つです。たとえイスラエルの民が与えられた責任を放棄して、災いを招くようなことがあっても、彼らが悔い改めるのであれば神はその災いを取り除き、彼らを癒す約束がすでにされていたのです。
第二歴代誌7章13節に、このように書かれている通りです。「…もし、わたしの民に対して疫病を送った場合、わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」
つまり、この3節はどのようないのちの危険であったとしても、主は神の契約に忠実な人を助けるということを教えています。ここで大切なことは、この約束がモーセの契約の条件下にあったということです。現代のクリスチャンは、モーセの契約の下にはいません。イエスさまの愛の中にいます。しかし、この詩篇に書かれている真理は読者の立場が変わったとしても、変わることがありません。
91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
「主の羽」という表現は、神をひなを守る雌鳥のように例えているか(出エジプト19:4、申命記32:11など)、契約の箱の上に彫られていたケルビムの羽を指していると言われます。主の羽の下でかくまわれている人たちに危害を与えようとする者たちは、彼らの周りに主の誠実さ(真実)が盾として彼らを守っていることを発見します。
91:5 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
91:6 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。
5-6節には、メリズム(merism)という詩的表現が含まれています。メリズムとは、一つのことを例えるために、それを分割して表現する手法です。例えば、「神が天と地を創造された」というのは、メリズムを使っています。「天と地」という二つの極端なものを使うことによって、実際には「天と地の間に存在するすべてのもの」を創造されたことを伝えています。新約聖書には神が「アルファであり、オメガである」という表現があります。アルファは、ギリシャ語のアルファベットの一番始めの文字、オメガは一番最後の文字です。つまり、神はすべての始まりであり、同時に終わりであり、その中間にあるすべてであるということを表しているのです。
著者は「夜‐恐怖」、「昼‐矢」、「暗やみ‐疫病」、「真昼‐滅び」と表現することによって、夜でも昼でも、いつでも、主は必ず自分を守ってくれるということを忘れてはならないと教えているのです。
91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。
これらの節の背後にも、レビ記26:8「剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」という契約の約束があったのです。偶像ではなく、まことの神を避け所と選ぶ信仰が神に喜ばれ、神の誠実さを体験することにつながったのです。
91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
91:12 彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
91:13 あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。
モーセの契約によると、神は超自然的な手段でイスラエルの民を守ることを約束されました。それは、現代のクリスチャンにも当てはまる約束であります。
詩篇91篇の始めの13節は人間の視点から書かれていました。しかし、最後の3節は神の視点から書かれています。このように、著者が神の代弁者として、それまでの視点を変える手法は詩篇の中に複数登場します(参照: 60:6-8、81:6-1、95:8-12)。
91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。(新改訳聖書)
この箇所は日本語で読むと、ABA’B’平行法で書かれているかのように訳されています。しかし、これは日本語の文章の美しさを優先した判断によるもので、原本となるヘブライ語では交錯配列法で書かれています。
כִּי בִי חָשַׁק, וַאֲפַלְּטֵהוּ אֲשַׂגְּבֵהוּ, כִּי-יָדַע שְׁמִי
כִּי בִי חָשַׁק A (なぜなら、彼がわたしを愛しているから)
וַאֲפַלְּטֵהוּ B (わたしは彼を救い出そう)
אֲשַׂגְּבֵהוּ B’ (わたしは彼を高く上げよう) *安全な高台に移動させる、という意味
כִּי-יָדַע שְׁמִי A’ (なぜなら、彼はわたしの名を知っているからだ)
ヘブライ語が読めなくても、AとA’の始まりが「כִּי」(「なぜなら」)によって始まっているのが分かり、BとB’の語尾が「הוּ」(「~よう」)で終わっているのが分かります(ヘブライ語は右から左に読みます)。こう書くことによって、詩篇を合唱する時に、ある一定のリズムと韻が生まれ、歌っている人たちが内容を覚えやすくなるという効果もありました。
この詩的表現をあえて選んでいる意図は、構成の中心になる言葉に焦点を置きたいからです。この節では、BとB’がその内容です。つまり、「主を愛し、神と契約関係にある人を神は必ず救われる」という真理が一番大切だと強調しているのです。
救いの理由
- ここで「愛している」と訳されている言葉は、申命記6:5などで命じられている「あなたの神、主を愛しなさい」と訳されている言葉と語源が異なります。ここで使われている言葉「カシャック」は、親密につながっているという意味があります。鎖の輪が互いにつながって離れないように、互いが結びついた愛情を表します。聖書には、神が、このカシャックの愛でイスラエルを愛していると書かれています(申命記7:7、10:15)。しかし、聖書の中で私たちが神をカシャックすることによって、神が救ってくださると書かれている箇所はここだけです。
主に対する誠実な愛、そして契約によって生まれた親密な関係があるから、主はその人を救われるのです。
契約を土台とした祝福の約束
91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。
そのような人が主を呼び求めると(イスラエルの民との契約関係があることを前提に)主はすべての約束を果たしてくださる、と最後の二節が教えます。ここには、特に6つの祝福がハイライトされています。
- 主が(祈りに)答えてくださる
- 主が苦しみの時に共にいてくださる
- 主が救い出してくださる
- 主が誉れを与えてくださる
- 主が長い人生を与えてくださる
- 主が救いを見せてくださる
ここで学ぶことがいくつかあります。一つ目は、神と契約関係を持っているか、持っていないかということが人生の中で大きな差を生み出すということです。
この詩篇を執筆した著者は、モーセの契約の下にいたので、モーセ契約に含まれていた約束を信仰の対象としてこのような美しい詩を書くことができました。
言い換えれば、もし、この詩篇の著者が神と契約関係を持っていなければこの詩篇に書かれている祝福は、何も期待することができませんでした。神の民とされていない人は、その主の名前を知ることもなく、主を避け所として求めることもできません。
現代のクリスチャンは、モーセの律法の下にはいません。しかし、キリストのからだである教会に足された人は、キリストを通してモーセの契約を遥かに上回る素晴らしい契約を神と結ぶことができるのです。
旧約時代、イスラエルの民が祝福を体験するためには、契約の律法を守る義務がありました。しかし、キリストに属する人は、行いではなく、信仰によって神の基準を満たした者とされ、神と和解することができます。神と和解したものは、イスラエルの民が神と親密な関係を持ったのと同じように、神と新しい契約関係を持つことができるようになるのです。
責任と祝福
キリストを通して神と契約関係を結んだ人たちにはイスラエルの民と同じように責任と祝福が与えられています。
責任は、「(神の民が)この世の中で神の似姿として生きることによって、神の聖さが明確に伝わり、この世が神を信じるようなる」ということです。旧約時代のイスラエルの民も同様の責任が求められました。当時は、イスラエルの民が、モーセの律法を守ることで、一般とは異なる文化、道徳、生活仕様を通して神の特別さを伝えました。そして、彼らの従順、不従順によってユダヤ人たちが祝福されたり、罰せられたりする姿を見て、契約の神の誠実さ、また全能さを目撃することができたのです。
しかし現在は、神の似姿としての生き方がモーセの時代と対照的に異なります。今の時代は律法ではなく、キリストが私たちに示してくださった愛を把握し、それを模範として神の家族が愛し合う、という手段を用いてこの世で神の似姿として輝く責任が与えられているのです。
祝福の面でも旧約の時代と現在では相違点と共通点があります。
相違点
現代のクリスチャンである私たちの祝福は、この地上生活中心の祝福ではなく、キリストを通してキリストが天で所有しているすべての祝福を受け継ぐ相続者とされたということです(参照: エペソ1章)。
クリスチャンは、キリストに信仰を持つことによって、モーセとユダヤ人が神と持っていた関係よりもさらに親密で素晴らしい関係を持つことが約束されているのです。
そのようにキリストを通して神との契約関係ができた人は、どのような状況に置かれても、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」と書かれていることばに確信を持って、主をたましいの隠れ場、避け所、そして大盾にすることができるのです。
共通点
当時も現代も神から与えられた責任を果たすことが、神の守りを体験する前提であるということです。
神は偶像礼拝をしている人たちを霊的に祝福することができません。同じように、神は偶像を避け所としている人たちを守ることはできません。それは、神に救う力がないのではなく、その人たちが間違った救いの対象に信頼し、身を委ねているからです。まことの神ではない存在に仕えている限り、その人は神に与えられている責任を果たしているとはいえません。
そのような状況にいたイスラエル人たちに主は、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ(イザヤ書59:1-2)」と言われました。
神を愛し、神との契約の約束を守ることが私たちの安心と安全につながります。そのため、現代の教会は、私たちがキリストによってどのように愛されたのかを把握し、その愛を模範にキリストの体に属する神の家族を愛することに徹すれば、自然と神の神性をこの世に示す神の似姿へと変えられていきます。神を愛し、その愛を実践する人は、どのような環境に置かれていたとしても、神を避け所とし、必ず神の救いを体験できるのです。
合計 182
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
182 |
New サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
tbic
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2025.01.20
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推薦 1
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閲覧数 12
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tbic | 2025.01.20 | 1 | 12 |
181 |
ローマ人への手紙8:18-23(今の時のいろいろの苦しみは)
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2025.01.12
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tbic | 2025.01.12 | 0 | 19 |
180 |
ルカの福音書10:38-42(必要なことは一つだけです)
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2025.01.06
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へブル人への手紙4:10(神の安息に入った者)
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2024.12.29
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178 |
マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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2024.12.24
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ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
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2024.12.24
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推薦 1
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閲覧数 58
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tbic | 2024.12.24 | 1 | 58 |
176 |
マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
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2024.12.15
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閲覧数 63
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175 |
ルカの福音書10:1-9 (さあ、リバイバルの町へ出よう)
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2024.12.08
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174 |
マタイの福音書6:20-24(自分のために、天に宝をたくわえなさい)
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2024.12.01
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閲覧数 85
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173 |
ルカの福音書10:25-28(あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ)
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2024.11.24
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tbic | 2024.11.24 | 2 | 95 |