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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

詩篇23:1-6 (1年間の感謝)

投稿者
tbic
投稿日
2021-11-21 22:10
閲覧数
320
詩篇23:1-6、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

1年があっという間に過ぎていく感じがします。「1年って、こんなに長いの?」と言われた人に、今まで会ったことがありません。今年もあと一カ月あまり残っていますが、来月はクリスマス礼拝で、その次は新年になりますので、今日は一年間受けた主の恵みに感謝したいと思います。

今日の聖書の箇所は詩篇23篇です。詩篇の中でも一番よく知られています。23篇には感謝という言葉はありませんが、感謝の気持ちがしみこんであります。感謝の思いなしに、この詩篇は書けないと思います。

今日は何に対する感謝があるのかを考えてみたいと思います。まず、神様が共におられたことに対する感謝です。23篇全体には、常に主が共におられるのがわかります。これこそが最大の感謝です。主は私から遠く離れた所におられる方ではなく、いつも共におられる方です。私たちの手をしっかり握って私たちを導き、守って下さる主です。

ダビデには、そのような信仰があったので、前向きで健全な人生を生きることが出来ました。彼の人生は決して平凡で順調な人生ではなく、波乱万丈の人生でした。しかし、その中でも神が自分と共におられるという信仰を持っていたので、苦しみの中でも、神の慰めと勇気を受けて、勝利することが出来ました。

神が共におられるという事実から目をそらすと、私たちは絶望し、常に不安と思い煩いに支配されます。しかし、主はいつも共にいて下さる方です。それが神の約束でした。マタイの福音書28章20節、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

主が共におられることが、どれほど感謝なのか多くの人々がよく分かりません。主がいらっしゃらない生活は考えられません。今年も主が共にいて下さったことが何よりも感謝です。そして、主の助けと導きと守りが感謝ですが、ダビデは主が羊飼いとして自分を緑の牧場、いこいの水のほとりと、義の道に導き、敵からも守って下さったことをすべて思い出して感謝しました。

ダビデは多くの戦いを経験した勇士でもありました。だから、命が取られるような場面がたくさんあったにもかかわらず、生き延びたことは自分の力ではなく、神の助けと守りがあったからだ、と彼は信じていました。私たちも同じです。主の守りと助けがなかったならば、どうなったのでしょうか?

皆さんも自分の人生を振り返ってみて下さい。思い出すと、危険な場面がたくさんありました。助けられた、守られたという場面が色々と思い出されます。一つ間違えたら、死んだかも知れない場面がきっとあります。車を運転する方は、事故を起こしたかも知れない場面があります。

また、台風や地震などの自然災害もありますし、今はコロナ禍の中でコロナにかかってもおかしくない状況でもあります。毎日のように世界の様々な所で様々なことが起きています。これらは、自分で自分を守ることが出来ません。神様の守りと助けなしには、一日も生きられません。だから、無事に過ごせたことが大きな感謝です。

そして、当たり前のように思いますが、衣食があったことに感謝です。第1テモテ6章7-8節、「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。

皆さん、衣食は人間生活の一番基本です。不足があると、生活が不便になり、とても困ります。世界に目を向けると、家もなく、食べるものもなく、着る物もない人が、たくさんいます。世界には日本の人口の何十倍も困っている人がいます。難民のことを考えると、一瞬にしてすべてを失い、どこに向かったら良いのかも分からず、困っている人がたくさんいます。それを見た時も、本当に衣食があることに感謝が出てきます。

日本も貧困層が年々増えています。実際に日本では学校の給食が命綱となっている子供が七人に一人(143万人)だそうです。彼らが食事できるのは、学校だけです。しかし、コロナの影響で学校が休校になったり、給食自体が中止になって、給食で命をつないでいた子供たちは、今大変な状況に追い込まれています。その人たちは衣食住を確保するだけで、毎日必死です。私たちはいっぱい食べて不自由なく、一年過ごせたことは本当に感謝です。

だから良いことが何もなかったから感謝したくないのではなく、それでも守られて、助けてもらったので感謝することです。そして、感謝は自分自身の活気ある生活のために、他人に喜びをプレゼントするために、また神の祝福の手を握るために必要です。その感謝は明日への感謝と恵みにつながります。

今日の本文の6節には、恵みへの期待と信仰があります。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

ある牧師が書いた「ありがとう」という詩があったので、皆さんにご紹介したいと思います。とても単純です。「ありがとう。窓よ。ありがとう。カーテンよ。ありがとう。床よ。ありがとう。壁よ。ありがとう。天井よ。ありがとう。木々よ。ありがとう。庭よ。ありがとう。空よ。ありがとう。友よ。ありがとう。兄弟よ。ありがとう。みんなよ。見回しても、見回してもありがたいことばかり。朝も夕もすべてを見てもありがたいことばかり。」

私たちの人生は、こういう風に感謝と恵みで溢れています。だからこそ、その受けた恵みと祝福は、流して行かなければなりません。ルカの福音書6章38節、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人々を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。

うちの近くには、小川がきれいに流れるんですが、ある所は水の色がほぼ黒に近く、ごみや黒い油のようなものが浮かんでいます。そこは本当に汚い所です。その理由は色々あると思いますが、私が感じるのは、流れないので汚くなっている所です。ごみがある所を見ると、全く流れていません。すべての所が綺麗なら良いのにと、そこを行くたびに思います。しかし、山からきれいな水が勢いよく、下に流れていく川は、いつも綺麗です。

皆さん、受けても流さないと、汚くなりますが、絶えず流すならば、いつも綺麗です。イスラエルのヨルダン川と死海もよく比べられます。ヨルダン川は綺麗ですし、大きな魚もたくさんいて、主の弟子たちもそこで漁師をしていました。そしてヨルダン川から流れる水は、死海に向かって流れます。しかし、この死海は見た目は綺麗に見えますが、生き物が生きられないので「死海」です。死海は受けるものだけ受けて、流さないので死海になりました。私たちも受けたものを流すか、流さないかによって、「ヨルダン川」にもなり、「死海」にもなります。

イエス様は絶えず、恵みを流して下さるお方です。皆さんが気づいているか、いないかは関係なく、絶えず恵みを流しておられます。私は何を見ても、見回しても見回しても、そこに神の恵みが流れているのが見えます。しかし、ある人はその恵みに気付かず、すべてをこぼしていながら、「自分には恵みがない」と、神につぶやいています。

また、ある人は、手を握ってあげても「こんなものは要らない」と、振り放す人もいます。ある人は、受けた恵みを自分のものだけにして、誰にもそれを流さない人もいます。そばで困っている人、倒れた人がいても、それが目に入って来ません。「自分さえ良ければいい」という精神は「貪欲」そのものです。それはサタンの思いです。神が忌み嫌われる心です。

しかし受けた恵みを、きちんと流して行く人々もいます。その人々は、いつも神様から新鮮な恵みを受けています。それを他の人々にも流すので、神様は天を開いてその人が乏しくならないように与え続けて下さいます。

イエス様は最初に弟子たちを遣わした時に、このように語られました。マタイの福音書10章8節、「病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」イエス様は、まず彼らに恵みと力を与えました。そして、それを使って他の人を助け、恵みを流すように命じました。

私たちが教会で互いに仕え合うことは、お互いが受けた恵みを流して行く姿です。それによって、みんなが恵みを受けます。「自分には流す恵みがない」というのは、言い訳に過ぎません。流したことがないので、気付いていないだけです。

私たちは、あらゆるところで、色んな人に恵みを流すことが出来ます。やろうと「決心」すれば、何を流すべきかが分かります。手を差し伸べれば、そこに恵みを流す対象がいます。私たちは既に多くの恵みを神から受けています。最大の恵みは神から受けた愛です。私たちは神から、ただで愛を受けたので、その愛を流して行かなければなりません。

自分が救われたように、他の人も救われるように神を紹介し、祈りをささげ、世話をすることが愛の恵みを流していくことです。自分だけ天国に行くことを喜んだらいけません。他の人々も天国へ行けるように努力することが真の愛です。

主が、マタイの福音書22章39節で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と命じましたが、それは本来、私たちが出来ることではありません。神の愛の恵みがなければ出来ませんが、私たちが受けた神の愛を流して行くならば、出来ないことでもありません。そうすると、自分の愛ではなく「神の愛」で、愛することが出来ます。

「こんな私のような者も神が愛して下さったならば、神はあの人を、もっと愛しておられる」と思って、受けた神の愛を流せば良いと思います。愛を流さず、自分だけにとどめるなら、それは「自己愛」ですが、流せば「隣人愛」に変わります。

そして、様々な神の恵みを体験したならば、感謝して終わるのではなく、恩返しを忘れてはいけません。恩返しは、受けた恵みを流していくことです。人々から良くしてもらったならば、自分も誰かに対して良くしてあげれば、それが恩返しの連鎖になり、人間関係がとても良くなるし、社会もよくなると思います。

皆さんは良くしてもらったことが、ありますでしょうか?もしあれば、また、それを他の人々にも流していかなければなりません。しかし、過去に終わった事で、記憶にも残っていないかもしれません。詩篇103編2節、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」このように言われますが、これは記憶だけしなさいという意味ではなく、自分が受けた恵みをちゃんと流すようにするならば、決して忘れることが出来ないんだという意味です。

そして、自分が神に赦されたならば、他の人のことも赦すことが出来ます。赦された人は、それがどんなに素晴らしいことかが、よく分かります。マタイの福音書6章14ー15節、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

私たちは罪が赦されて「神の子ども」になりました。だから、当然神様は私たちが人に対して、赦すことを期待します。しかし、私たちが他人の罪を赦さず、神の期待外れになると、私たちが罪を悔い改めて赦しを求めても、神はそれに応じないと語っておられます。マタイの福音書6章14節、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

神の力が私たちに与えられたならば、神は私たちがその力を持って他の人を立ててほしいと願っておられます。知恵の力もあり、金銭の力もあり、健康の力、能力の力もあります。それを使って、人を助けることです。

主が「与えなさい」と命じました。そうすれば、自分も与えられるんだそうです。このように、あらゆる恵みを私たちが流して行く時に、神の栄光が現れます。元々それは神から流れて来たものだからです。与えたら、どのようになりますか?与えた人も、受けた人も共に神から祝福を受けます。しかし、与えた人の方が、何倍も祝福されます。

その約束が、先ほど読んだ、ルカの福音書6章38節の御言葉です。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

皆さん、一番祝福を受ける人は「与えた人」です。神は偽りを言わない方であり、約束を真実に守る方です。「与えると空っぽになり、損するだけで自分が困る」のではなく、与えると何倍も主が報いて下さるから、さらに豊かになります。

その実例が聖書にもたくさんあります。エリヤにわずかな持ち物を与えた貧しいやもめが大いに祝福されました。また、福音書には少年が差し出した小さいお弁当で、5千人以上が食べられる奇跡もありました。

与え続けた人がホームレスになった話は聞いたことがありません。反対に、たくさん持っていた人が、すべてを失ってホームレスになった話は、たくさんあります。

貪欲な心を持っていたイスカリオテ・ユダは、結局、祝福されることなく、自滅してしまいました。だから、神様が自分に何かを与えて下さった時には、自分だけの恵みだと思わず、それを誰に流そうかと考えてみて下さい。

パウロは、主の教えをちゃんと守り通しました。その告白が、使徒の働き20章35節です。「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。

皆さん、 受けるよりも与えるほうが幸いです。これから私たちも、この主のみことばを心に刻み、与えることが習慣になるようにしたいと思います。
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