メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

コリント第一13:1-13 (いつまでも残るものは)

投稿者
tbic
投稿日
2021-12-05 18:17
閲覧数
381
コリント第一13:1-13、「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」

今日は、みなさんのよく知っている御言葉でが、「いつまでも残るものは」というタイトルで話をしたいと思います。代々受け継がれるうちの家の家訓がこの御言葉です。コリント第一13:13、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」これは私の大好きな御言葉でもあります。

これはコリント人への手紙ですが、コリントの教会には、いろいろな霊的賜物がありました。しかし聖霊を受けたとしても、賜物はあったけれども、その中には高ぶったり、賜物だけを強調し、クリスチャンらしさが抜けた生活をしている人もいたわけです。そのような人たちに対して、「賜物があっても、一番必要なのは愛だよ。」とパウロは語っています。

今日の本文の前の章、コリント第一12章には次のように書かれています。第一コリント12:8-10、「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

コリントの教会には奇蹟を行う人もいたし、癒やしの賜物がある人もいました。異言も語るし、すごい人たちがいたのです。しかし、使徒パウロが13章で教えていることは、「たとえ異言を話しても、天使の言葉を話しても、預言をしても、たとえ自分のからだを焼かれる為に渡しても、愛がないなら、それはむなしいことだ。」と語っています。

私たちのクリスチャン生活も同じです。いろいろな賜物をそれぞれ与えられているわけですが、聖書は「鏡を見ているようなもので、愛がなければ何の役にもたちません。むなしい。」とあります。だから私たちも、ただただ愛を求めましょう。その為に、聖書を学んでいきたいと思います。

」とは何かというと、それは「神は愛」です。神の中に愛があります。私たちがそれを信じたら、神の愛によって、愛のある人になることができます。そこで具体的に愛ということを、一つ一つ考えてみますと、愛とは何か?今日の本文、13章に、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

ここに「愛は寛容であり」とあります。皆さん、自分のことを考えて「愛は寛容であり」とありますが、もしも寛容さに欠けていたら「私は愛がないな…」ということです。寛容ということは、心が広い人のことです。

それから、「愛は親切です。」とあります。私はある日、電車に乗りましたが、すごい派手な格好をしてぴかぴかに化粧をした女性が、私の向かい側に座っていました。私はいい気持ちではありませんでした。実は彼女を軽蔑していたのです。そうしたら、少し経つと、急に天使のような優しい声で、「どうぞお座りください」と言いながら、体の不自由な人を座らせたのです。本当に優しい人でした。私は心から反省して、悔い改めました。

皆さん、うわべだけで人を見てはいけません。裁いてはいけません。主の命令です。「また愛は人をねたみません。」とあります。ねたむ事は、クリスチャンでも時々あります。私は何も持っていない手ぶらの人ですが、随分ねたまれた人生を歩んできました。いろんな形で妨害されました。妨害したのは、ほとんどがクリスチャンです。それも、牧師が多かったのです。結局はねたみです。ジェラシーなんです。

私たちの中に、ねたむ心があってはなりません。人が成功した、人がすばらしくなった、良い学校に入った、家を建てたとしても、ねたんではいけません。むしろ、心から祝福してください。それがみこころです。

その次ぎに、「愛は自慢せず」、「高慢になりません。」とあります。私が日本に来た時、私を導いてくださったある先生が私を随分攻撃しました。「田は高慢だ、高ぶっている」と。しかし、その先生はもっと高慢でした。私はそのおかげで、謙遜な人になりました。今も常に、へりくだるように心がけています。

高慢は自分が神になることです。だから、神様から一番嫌われることが高慢です。箴言16:18、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」高慢になったら、一番先に神様から打たれると思います。めちゃくちゃに打たれますから、私たちはどんなに恵まれても、高ぶらないように気をつけましょう。

それから聖書はこう書いています。「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、」とあります。礼儀正しくしなくてはなりません。クリスチャンとして、よく挨拶をして無礼をしてはいけません。自分の利益を求めない、怒らないとあります。「怒りは神の義を現すことではない」とありますが、私はふっと考えました。怒るということは良い事ではない、という事です。

私はTBICに来た時、もう10年前のことですが、ある信徒から、ものすごく攻撃されました。ありえないことで攻撃され、とんでもないことでいじめられたのです。妻はずっと泣いていました。私は頭に来て、その人に怒鳴りました。「いいかげんにしなさい!」と、私は本当に腹が立ちました。そのとき彼女は、がたがた震えだし、こう言いながら、教会を去りました。「お前は牧師じゃない!牧師はそんなに怒らない!」と、かなり驚いた様子でした。私はその時、こう思いました。「こんな時はイエス様でも怒ったはずだ。自分は正しい!」と。

しかし、私は後でよく考えて、反省し、悔い改めました。あの時に私が、もっとへりくだって、謙遜な態度で彼女に接したら、結果は違ったかもしれません。みなさん、「怒ってはいけません」と書いてありますが、やはり私には愛がなかったのです。

最近、聖書を読んでいて教えられた言葉があります。「人のした悪を思わず」という言葉が心に留まりました。みなさん、私たちは自分のした悪じゃなくて、人のした悪、「あいつ、過去にこんな悪いことをしたぞ。あんな奴と交わりたくない」と、人の悪を思うのですが、人の悪を思ってはいけません。裁くのは神様ですから、私たちは赦さなければいけません。私たちクリスチャンが「裁かず、人のした悪を思わない」という愛をもらったら、教会は、また私たちは、もっともっと祝福されるはずです。

また6節、「不正を喜ばずに真理を喜びます。」とあります。クリスチャンはどこまでも悪を喜んではいけないし、正しいことを喜ばなければなりません。続いて7節、「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」そして8‐12節に、こう書いてあります。「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

そして、最後の13節をみなさんで一緒に読みましょう。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」いつまでも残るもの、これは一時的なものではなく、いつまでも残るもの、それは信仰と希望と愛だと書いてあります。皆さんの人生の中で、家庭の中で残るもの、何を持っていますか?

私の祖母は家族の中で一番最初にクリスチャンになって、祖父は牧師になり、家族全員がクリスチャンになりました。孫の私は宣教師になって日本に来ています。今はもう天に召されましたが、うちの初のクリスチャンであった祖母の聖書を、今、私の父親が宝として持っています。皆さん、いつまでも残るもの、それは神の御言葉です。

アブラハム・リンカーンの母さんは、死ぬ前に息子に聖書を渡したと言いますが、私たちはいつまでも残るものを、しっかりと持たなければいけません。時々、世の中に残るものというと、今の世界は経済や財産を考えます。金、金、金と考えますが、私はある人が書いた詩、「いつまでもあると思うな、親と金」という詩を読んだことがあります。「親と金はいつまでもあるんじゃない」と言っています。それで第一テモテ6:17節に、こう書いてあります。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

金があると、人は高ぶります。どんなに金ができても、どんなに成功しても、どんなに立派になって有名になっても、まず、豊かにすべてを与える神に望みを置くようにと教えています。

そして信仰とはいったい何か?「なんでもいい」のではありません。「鰯の頭も信心から」という日本のことわざがあります。日本は多神教で、何でも信じます。きつねでも、たぬきでも、豚でも、何でも信じて、蛇でも信じるわけです。それではいけません。

皆さん、信仰というのは天と地を造られた、まことの神様と私のために死んで下さった救い主であるイエス・キリストを信じる信仰です。いつまでも残るものは信仰だと、はっきり書いてあります。皆さん、考えてみたら、イエス様は、2021年前にお生まれになったけれども、以来キリスト教信仰はいろいろと迫害がありました。しかし、ずっと生き続いているわけです。今、世界で、クリスチャンの数は20-30億人になったと言われています。生きている神様です。だから皆さん、しっかりと、信仰を持たなければいけません。

聖書の中に、こういう言葉があります。有名な御言葉(マタイ16章)で、ピリポカイザリアで、イエス様がお話しした御言葉です。イエスは弟子たちに向かって「わたしのことを何と言うか?」そうしたら、預言者だと言います。エリヤだと言います。弟子達は、いろいろな事を返事したわけですが、では「あなたはどう思いますか?」と言った時に、マタイの福音書16:16、『シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」』とあります。

皆さん、永遠にいつまでも残るものは何かというと「イエス様が神の子キリストだ!」これです。その時にイエス様がおっしゃったことは、マタイの福音書16:17-18、『するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」』

信仰とは「イエスは神の子キリストだ!」この告白の上に教会を建てます。ハデスの門というのは、地獄の門ですから、よみの力、悪魔の力です。それは信仰の力に勝つことはできません。私たちの人生において「イエスは神の子である」と信じたら、地獄の門、ハデスの門も勝つことはできない、サタンも勝つことはできません。

クリスチャンは最終的にはどんな戦いがあっても、勝利者です。だから、第一ヨハネの手紙5:5に、こう書いてあります。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

イエス様は神の子です。私のために死んで葬られて死人の中からよみがえり、今日も天においても地においても一切の権威を持っています。皆さんの家庭で一番大きなことは「イエスは神の子です!よみがえられました!今も天においても地においても一切の権威を持っています!信じてます!」ですね。聖書は「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)とありますから、今イエス様を信じたら、永遠に残るものを持っているということです。

子どもが良い大学に入ることも大切ですが、金持ちになること、有名人になること、テレビに出るとか、それは大したことではありません。一番大切なことはイエス様をどんなことがあっても、第一に信じる、これが大切です。皆さん、イエス様を信じてください。たとえ少しくらい頭が悪くても、良い学校に入れなくても、「イエス様を信じています。」これが一番大切です。いつまでも残るものです。

その次は「希望だ」とあります。皆さんに希望はありますか?人間的に考えると、歳を取ると希望がなくなってきます。人生は長くて短いと思います。それは、第一ペテロ3:8に、「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とあります。

私も妻と結婚して、今年で22年、もう23年目になりました。私の妻も子どもの時があったし、女学生の時代もあったし、花嫁になった時もあるし、若い時代もあったけれども、いつの間にか、顔はおばさんになりました。私は良い人と結婚できて幸せだと思っていますが、もう先は長くありません。いつ、何があるか分かりませんが、いつかはこの世から去ります。しかしクリスチャンには希望があります。どこに希望がありますか?

ピリピ人への手紙3:20-21、「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」クリスチャンになることはすごい事です。「死んでも天国に行ける。信じたら天国に国籍がある。」私たちの国籍は天にあります。今は日本人、あるいは韓国人ですので、国籍を二つ持っています。天国の国籍と日本人、韓国人の国籍です。やがてここから出て行く時がやって来ますが、その時には「私たちの国籍は天にあります。」その次に、すばらしいことは「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

皆さん、イエス様はまもなく帰って来ます。イエス様がオリーブの山から天に帰って行く時、弟子たちが見ていたら「イエス様が天に帰って行く中・・・」雲に包まれた時、二人の若者たちが側にいました。彼らは天使でした。彼らは「なぜ天を見ているのですか?あなた方が、イエス様が天に上って行くのを見たように、もう一度イエス様は帰って来ますよ」と言われました。これがクリスチャンの望み、世界の希望です。いつまでも残るもの。それは、イエス様の再臨です。

再臨の日、ここに書いてありますように、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」卑しいからだ、歳を取ると、からだは弱くなります。だんだん足も弱くなったり、頭も弱くなったりしますが、それも結構です。どんなに卑しくなったとしても、ここに書いてある通りに、「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」イエス様が再臨なさる時、私たちはイエス様と同じ姿になるのです。復活のからだです。すごいじゃないですか!

私も天国に行く日を楽しみにしています。天国に行って一番最初に会いたいのは誰かというと、もちろん、イエス様です。また、私の祖父、祖母にも会いたいし、そして母親を始め、天に帰って行った多くの人たちに会いたいです。

イエス様の再臨の時には、イエス様と同じ御姿になるのです。イエス様は復活なさって、私たちも同じ御姿になります。こんな希望が私たちにはあります。皆さん、地位や名誉は、いつかなくなります。しかし、クリスチャンには希望があります。

そして、最後に「いつまでも残るものは愛です。」とあります。これは何かと言ったら、イエス様ご自身です。神は愛です。第一ヨハネの手紙4:16、「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

愛とは何かと言うと、イエス様ご自身です。愛がなければ何もならないというのは、賜物があって何かあっても、いつの間にか賜物を重視して、イエス様を忘れてしまいます。どんなに恵まれても、イエス様を忘れてはなりません。イエス様は私たちの宝です。イエス様は私たちの愛です。そのイエス様がなんとおっしゃったかというと、マタイの福音書28:20、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

神は愛です。永遠に残るものです。神が私たちと一緒にいます。信じますか?すばらしいじゃないですか!そして、イエス様が約束してくださったのです。ヘブル人への手紙13:5、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

皆さん、何よりも信仰と希望と愛をしっかり持って、愛について具体的に学びましたが、イエス様の中に全てが含まれています。だから、まずイエス様ご自身を私たちのものとして、愛の中でやっていきましょう。

特に今日、私たちが教えられたことは「人のした悪を思わず」と「人を裁かず」です。いつの間にか高慢になって、人の悪ばかり考えたり、人を批判したりじゃなくて、自分自身が神の前にへりくだって生きると、祝福の道にあずかります。

皆さん、何か一つでも持ちましたか?「今日、この御言葉を私はつかんだ!」ある人は寛容が足りないとか、親切が足りないとか、私の場合は人の悪を思わずとか、人を裁くなとか、教えられたことですから、神の前に最もすぐれたものを求めながら、ご一緒に神の国のために働いていきたいと思います。一緒にお祈りしましょう。みなさんも示されたことを祈ってください。自分の欠けた所に、愛を与えてくださいと一緒に祈りましょう。

愛する天の御父様。いつまでも残るものは、信仰と希望と愛だとおっしゃいました。今、イエス様あなたが生ける神の子、キリストであることを信じます。死人の中から三日目によみがえって、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられることを感謝します。そして、あなたが私たちのために、肉体を裂かれ「これはあなた方のためのからだである」とおっしゃい、また杯を取って「これはあなた方のための血である」とおっしゃいました。私たちのために肉体を裂かれ血を流してくださったこと感謝します。また、私たちが信じることによって、神の子とされて、永遠のいのち、天国に行けることを感謝します。主よ、あなたは世の終わりまでいつも私たちと一緒にいてくださることを信じます。どうか愛のうちに過ごさせてください。お願いします。今週も誰もサタンの誘惑にあうことがないように、主よ、守ってください。何よりも、今日みんなにイエス様に対する愛を与えてくださるよう、お願い致します。感謝して、主イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
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