メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヨハネの福音書6:38-40 (今の決定が、私たちの未来を決定する)

投稿者
tbic
投稿日
2021-12-27 00:41
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306
ヨハネの福音書6:38-40、「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

イエス様はご自分がこの世に来られた理由を、今日の本文で、こう語られます。ヨハネ6:38、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」このたった一言で、私たちはイエス様がこの地上の中で毎日毎日どういう風に生きられたかを、はっきり分かります。もちろん公の働き、つまり公生涯の以前の、イエス様の30年の生涯は、主にナザレでの生活でしたが、私たちには詳しく知られていません。

しかし今日のみことば、本文でイエス様はその30年の間、毎日の生活をどういう風に生きられたかを、一言で教えてくださいます。つまり、「イエス様はご自分のこころ、ご自分の意志を否認し、いつも神様のみこころを行いながら過ごした」ということです。

イエス様も私たちのように、肉体をもって世の中で過ごされたとき、その肉体はちゃんと自分の意志、自分のこころがあったはずです。だから、それはしょっちゅう、神のみこころと正反対に衝突を起こしたと思います。しかし、その時、イエス様は自分のこころを否定し、父のみこころを行ったということです。

もし、イエス様が公生涯の以前にも、十字架を負い、十字架の道を歩まれたのであれば、それは天の父のみこころを行うために、ご自分のこころを否定したことになります。イエス様はご自分の体を十字架につける以前にも、すでにご自分のこころを、十字架につけながら生きられたということです。その道を先に歩まれたイエス様が、弟子である私たちにも「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と、自分のこころ、自分の意志を否認することを語られます。自分がやりたいこと、自分が行きたい道を十字架につけ、すべてを下ろし、謙遜な心で神に聞き従うことです。普段こういう生き方が、ちゃんと訓練されている人が成熟した真のクリスチャンです。

私たちは毎日の人生の中で、いろんな問題について、ある決定を下しながら生きて行きます。今日一日、自分に与えられた時間をどこに、どういう風に使うべきか?今日一日、自分に与えられた物質をどこに、どういう風に使うべきか?今日私は誰に、何を、どういう風に言うべきか?どういう風に反応するか?また、祈りと聖書の学びには、どのぐらいの時間を投資するか?など、、朝から晩まで私たちはどんな形であれ、そこに反応しながら生きて行きます。

これらをすべて数えれば、私たちも知らないうちに、私たちは一日数百回の決定を下しながら生きるわけです。大切な決定は数十回、ささいな決定を含めば、数百回の決定です。とにかく、その数百回の決定はたった二つに分かれます。つまり、自分を喜ばせる決定と、神を喜ばせる決定、この二つだけです。

しかし、この決定の大切さは、このすべての決定と選択の結果が重なって、3年が過ぎ、5年が過ぎたら、自分が霊的な人になるか、反対の肉体的な人になるかを、決定づけられる大切な選択となります。だから、このメッセージのタイトルが「今の決定が私たちの未来を決定する」です。イエス様を信じる人々、クリスチャンも表面では、みんな同じように見えますが、実際にはこういう風に、二つに分かれます。

イエス様を信じてから、自分の意志を捨てて、神を喜ばせるために、みこころを聞きながら毎日生きる人がいて、こういう人は何年が過ぎたら、神から認められる霊的な人になります。しかし、同じようにイエス様を信じてから、自分の罪が赦された事実だけを喜んで、その後、毎日毎日自分を喜ばせるために生きる人も、実際にいるのです。こういう人は何十年信じても、肉体的な人になってしまいます。

こういう人は自分の救いも危ないです。多くの人々が誤解しやすいのは、霊的な人はある日突然、幻を見たり、天から声を聞いたり、ある神秘体験をしたりすると、誤解するのですけれども、霊的な人はそのように一日の間、一瞬にして作られる者ではありません。そんな神秘体験自体を否定する必要はないのですけれども、もちろん、ないよりあったほうがいいです。しかし、ある日突然、一瞬の体験で霊的な人になることではないんだということです。そういう風に体験した人であれ、その体験がない人であれ、同じく毎日の生活の中で、自分の決定によって、10年後には、霊的な人と肉体的な人に分かれると思います。

そして、私たちが霊的な人として生きるべき理由は、肉体的に生きる人は、それを無視するかもしれませんが、霊的な人は本当に豊かな人生を生きます。この世が知らない平安と平和、現在この地上でも天国を体験します。だから、絶対に霊的な人に、つまり真のクリスチャンにならなければなりません。

同じ二人が神学校を卒業しても、10年が過ぎて見たら、二人の道が相当遠くなる場合があります。一人は成熟して、霊的働き人となり、主から与えられた大きな使命を全うします。もう一人は、勉強もうまくできたし、外見も素晴らしかったかもしれませんが、その条件と関係なく、その人は神学校を卒業して10年後にも、なお子供のままです。だから、神様が彼には、どんな使命も任せられず、むしろ彼は他の人から養育され、助けられる立場になってしまいます。なぜでしょうか?毎日自分のこころ、自分の意志を否定しながら生きる人と、毎日自分の心通り、自分を喜ばせる人が生きた結果は、10年後には真っ二つに分かれるからです。

もちろん遅れても再び再出発すればいいと思います。もしそうしなければ、20年後にはもっと大きな差ができてしまいます。それでも、もしそうしなければ、50年後には、つまり天国に行って永遠の差で決まるということです。それを分かりやすく説明すれば、成熟した霊的な人が2千ワットの光であれば、成熟してない肉体的な人は、天国で5ワットの光しか放ちません。夜のない天国で5ワットの光は何も見えません。天国での様子を第一コリント15:41ではこう語っています。「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。

だから私たちは更に、霊的な人生を歩まなければなりません。例えば、私たちが誰かと出会って対話したり、電話で話し合うときに、そこにいない誰かについて誹謗中傷したり、うわさ話を広めたくなる欲望を感じる時があります。更に相手が、先に第三者についてのうわさ話(悪口)を言い始めたら、雰囲気上、相手に合わせる可能性が高いです。そのとき、私たちは自分を喜ばせる自分のこころを否定し、神のみこころであるみことばに従えるのでしょうか?

ある人は「そんなに一回だけの悪口、うわさ話を広めるのが大きな罪なのか?」と言うかもしれません。特に、神が悪口をする私たちに現れ、雷で打ったり、ミリヤムのように、ツァラアトにかかるような、そんな病気を起こすわけではないので、何の気がかりもなく、悪口やうわさ話を広めます。しかし、長い目で10年後を見て下さい。そういう風に自分のこころで10年間を、自分を喜ばせた人と、自分のこころを否定し、10年間神を喜ばせた人は、考えられないほどの大きな差ができると思います。彼らは死んだ後、永遠に生きるとき、絶対に自分のこころのまま生きながら費やした年月を後悔すると思います。もちろん、その時は、後悔しても意味がありません。遅いです。しかしローマ15:3に、「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」と、はっきり語っています。

もう一つのことを例えれば、私たちは次のように自分を喜ばせる人生を生きます。食べ物のことですが、普段午後3時だと、そんなにお腹はすきません。しかし別にやることもないし、暇だから出かけて、ケーキやデザートを買って食べる人もいます。

もちろん自分のお金で自分が買って食べるのに、問題になることもないし、罪でもありません。しかし成熟したイエス様の弟子である真のクリスチャンは、自分の人生を自ら節制します。特に、お金を使う前に、この支出が自分を喜ばせることなのか、神を喜ばせることなのか?を、ちゃんと考えます。そして、神を喜ばせることに、自分の資源を投資するのです。

その他、ショッピングをするときも、人間の本性は自分を喜ばせる目的で品を選び、また、旅をするときも、私たちの本性は自分を喜ばせるために、旅をするわけです。ある人は、夜12時が過ぎても寝ないで、夜中2時3時まで何かをします。それが何であれ、自分を喜ばせることなのか、神を喜ばせることなのか、私たちは正直に判断しなければなりません。夜に充分寝なければ、次の日をまた、浪費することになるから、気をつけましょう。

こういうことをみんな、罪だとは言えませんが、それが自分を喜ばせることであれば「今の決定が私たちの未来を決定します。」つまり、未来にも続けて乳を飲みながら、他人から養育され、助けられる霊的赤ちゃんとなるんだということです。こういう人々は定期的に教会に通いながら、聖書を読み、祈っても、実は自分の人生を無駄にすることです。10年が過ぎても、残るものが一つもありません。ある人は暇だから、ニュースを繰り返して見ている人がいます。ニュースを見ることは罪ではないのですが、それが自分を喜ばせることだということを知りません。ニュースを見ながら、尊い自分の人生を費やしているのです。こういう人はイエス様を信じても、一生涯霊的赤ちゃんとして生きる人です。しかしそんなささいな時間、物質を良く使い、敬虔な生き方を10年間やり続けた人の結果を、そうではなく、自分勝手に生きた人の結果と比べれば、神様が誰を用いて下さったかは、言うまでもありません。

皆さん、聖書の知識は、ないよりあったほうがいいです。いろいろな奉仕もないよりあったほうがいいですね。しかし、これらは決定的な変数ではありません。神様が用いて下さる人の決定的な変数は自分を喜ばせることではなく、神を喜ばせることを決定する人です。普段の自分の人生の中でです。マタイ25:21、「その主人は彼に言った。よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」へブル5:14、「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

もっと実際的な話を例えれば、太っている二人がお医者さんに行って診断を受けました。医者はこれから12カ月の間、運動することを勧め、どういう風に運動するかを詳しく教えました。それで、一人Aさんは自分を節制し、毎日運動をしました。その結果、12カ月が過ぎて、体がスリムになり、健康になりました。しかし、もう一人Bさんは最初の何日間は運動をしましたが、すぐ諦めたら、以前よりもっと太っていました。

これは例えですが、教会に通っている信者がみんなそうです。Aさんのように、自分を節制し、訓練しながら教会に通う信者がいるのであれば、Bさんのように、教会に通いますが、しばらくは節制して、結局は自分の本性に戻る信者もいます。この世の誘惑も、甘くないからです。皆さん、教会に通うだけで満足してはなりません。毎日自分の人生の中で節制し、訓練して、神を喜ばせる人生を生きるべきです。その結果は10年後、20年後に、大きな差で現れるはずです。

私がある本を読んだのですが、一人の牧師の話です。彼はテレビをたくさん見るのが、自分でも問題として感じられました。もちろん、それは不健全な番組でもないし、ニュースと教養などの健全な番組でした。しかし、あまりにもたくさん見るので、気がかりとなって、結局は極端な選択としてテレビをリサイクルショップに売ってしまいました。そして以前はテレビを見ていた時間に、聖書を読み、祈って、みことばを研究することに時間を使ったそうです。それをやり続けたとき、神様は彼に新しい働きを与え、数千名の人々に仕える牧師として用いられたという話です。

健全なテレビ番組を見るのは間違ったことではありません。しかしそれが自分を喜ばせることであれば、それにたくさんの時間をかけること自体が間違ったことです。神様はそういう人々にたくさんの働きと祝福を与えられません。なぜでしょうか?へブル11:6に「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方」だからです。だから熱心に主を求めましょう。

そして、神は外見を見ません。また、誰も差別しません。神様はいつも収穫するものがいっぱいあるのに、働き人が足りないんだとおっしゃいます。人々がみんな自分を喜ばせることに献身しているからです。

私たちの今の姿は、私たちが過去10年の間、生きて来た結果です。もしかしたら、とても小さなこと、ささいなことかもしれません。食習慣、経済管理、生活、友達関係など、すべてのところで、皆さんは神様を喜ばせる人生を生きて来ましたか?そうじゃなければ、自分を喜ばせる人生を生きて来ましたか?皆さんはもう成熟して、周りにいる弱い人々を助けられる力はありますか?そうじゃなければ、今もなお自分さえ自立できない、そういう弱さの中にとどまっていますか?

もう50歳を過ぎたら、体が昔のようには動きません。主に仕え、たくさん奉仕したくても体がついて来ません。皆さん、自分の人生の黄金時代である今を、自分のために、自分を喜ばせる人生を生きるのか、神を喜ばせる人生を生きるのか、今決めなければなりません。

一度過ぎ去った人生(年月)は再び戻りません。神様は全能なる神様ですが、人生の年月を戻せることはなさいません。だから献身は早ければ早いほどいいです。聖書に出て来るしもべたちは、モーセ以外にはほとんど、若い時に献身しました。

とにかく、神様は神を喜ばせることに献身した人々に、御国の働きを任せると思います。だから彼らを通して、創世記12:3のみことばが成就します。創世記12:3、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

皆さん、ぜひこれからは自分を喜ばせる人生を諦めて、ただ神様だけを喜ばせる人生を生きると、宣言し、決断してみてください。そうすれば、皆さんの未来の10年は過去の10年と比べて、確かに違うと思います。ただ教会に、定期的に通っているだけで、満足してはなりません。自分を喜ばせる人生を生きながら教会に通えば、10年が過ぎても振りかえて見て、後悔するだけです。「私は人生を無駄にしたのだ!」と、、それが、呼吸が止まる瞬間の告白であれば、一番大きな災いです。しかし、残念ながら現実には、こういう災いが頻繫に起きています。

だから私が皆さんにお願いしたいのはこれです。皆さんが皆さんの周りを見ますと、実際に多くの人々が自分を喜ばせる人生を生きるのが、すぐ分かると思います。でも、彼らを批判したり判断したりしないで下さい。パリサイ人たちのように、裁く人にならないで下さい。ただ自分を顧み、自ら誠実に生きながら、彼らに模範となる生き方を見せるだけです。批判の言葉の代わりにです。

皆さん、この世と区別された生き方、それが私たちクリスチャンの生き方です。イエス様を自分の模範として生きながら、もし他人の弱さのために、それを批判しながら、つまずくのであれば、愚かなクリスチャンです。私たちは、ただイエス様を見上げながら、今日私たちに与えられたこのみことば、ヨハネ6:38、「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」という、このみことば通り生きたいと思います。
合計 144
手順 タイトル 投稿者 投稿日 推薦 閲覧数
144
ヨハネの黙示録14:14-20(愚かな人生を生きてはならない)
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143
ヨハネの黙示録12:10-12(終末の時は悪魔がもっと賢い)
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ヨハネの黙示録7:9-14(神様から祝福より、認められよう)
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141
マタイの福音書8:5-13(百人隊長の信仰)
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ルカの福音書5:27-32(天の御国にゴミ箱はない)
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創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
tbic | 2024.04.07 | 推薦 1 | 閲覧数 46
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138
テモテへの手紙第二1:7(無力からの解放)
tbic | 2024.03.31 | 推薦 1 | 閲覧数 49
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137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
tbic | 2024.03.24 | 推薦 1 | 閲覧数 54
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136
ヨハネの福音書16:25-33(わたしはすでに世に勝ちました)
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ヨハネの福音書 14:1-5(変えられた言葉が新しい人生を造る)
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