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詩篇 119:105

ヨハネの福音書1:45-51 (ナタナエルに対するイエス様の三つの言葉)

投稿者
tbic
投稿日
2022-01-09 17:57
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321
ヨハネの福音書1:45-51、『ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」』

1. 彼のうちには偽りがない。

今日の本文、ヨハネ1:47『イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

ナタナエルはストレートな人でした。

「ほんとうのイスラエル人」 .. 正直な人 honest な人だということです。
「彼のうちには偽りがない」 ..「騙すところがなく、率直な人だ!」

やさしく言えば、言葉を回して婉曲に喋る(話す)人ではなく、ストレートで話す人です。

これを間違って誤解すれば、「皮肉を言う」ような表現になるかもしれませんが、今本文の状況ではイエス様がナタナエルをほめてくださったことは確かです。

ナタナエルが誰なのか、まだ会ってもいない人を、今イエス様が高く評価するのは、彼に対する称賛、ほめ言葉に違いありません。

なぜイエス様がこういう風に、おっしゃったのか?今日の本文1:45‐46を読めば、その理由をすぐ分かります。『彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

ナタナエルは、ストレートで言葉を投げました。「ナザレから何の良いものが出るだろう。

こういう風に、ストレートで話したナタナエルを見て、イエス様は本気でほめてくださいました。本文のヨハネ1:47『イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

言葉をストレートで、正直に言っている人だと、イエス様はナタナエルをほめたのです。

実は、今日私たちの文化的観点で見ますと、ナタナエルは無礼な人です。今の私たちの社会では、相手を傷つけないように、言葉を婉曲に回して話すからです。

例えば、もし皆さんが「私は山形県のある村から来ました」と話した時、ある人が「そんな田舎の出身ですか?そこで何の良いものが出るだろう!」と言ったら、皆さんはたぶん怒ると思います。しかし、ナタナエルはそういう風にストレートで話して、イエス様はそれを「本当に正直な人だ!ストレートで話しするんだ!」とほめて下さいました。

もしかしたら、無礼な態度かも知れないナタナエルに、なぜイエス様はこういう風に、寛大にほめて下さるのでしょうか?それは、とても簡単(単純)です。彼が事実を言ったからです。ナザレは、「そこで何の良いものが出るだろう」と思うほど、期待できない山の僻地だったからです。

もちろん、ナタナエルのように、あまりにも正直にストレートで表現することも問題になるかもしれませんが、今日それよりもっと大きな問題は誰も事実を正直に言ってくれないから、それが問題です。ナタナエルのように、正直に言ってくれる人が日本の文化の中では、なかなか見つからないのが現実です。私たちは、ほとんど言葉を回して婉曲に話す習慣になれているからです。

例えば、「肥満の人」を、「デブ」とか「太ってる人」という言葉より、「ぽっちゃりした人」とか「肉付きがよろしい方」「堂々たる体格」、こういう風に話します。ドラマとか映画を見ますと、これらがよく分かります。だから、私のような外国人は、余計に日本語が難しくなります。傷つけられないように、言葉を回して婉曲に表現するから、言葉の理解が更に難しくなります。

これは外国人だけの問題ではありません。日本人も単純な解釈ではなく、その言葉の意味を深く理解しなければいけないから、それは簡単ではありません。もちろん、そういう言葉使いは紳士的で丁寧な言語の生活だとは思います。

しかし私が今言っていることは、今日私たちがあまりにもナタナエルのように、ストレートで言わないから、いろんな面で真理がないがしろにされ、この世と妥協してしまう所があるからです。

聖書にはストレートな表現がたくさん出て来ます。例えば、使徒パウロがテトスに送った手紙を見ますと、こういう風にストレートで話します。テトス1:12-13「、、クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、

もちろん、現代のクレタ島の人はそうではありませんが、パウロはいつも正直に言っているし、自分に対しても正直に言っています。ローマ書7:18「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。

皆さん、ちゃんと覚えて下さい。他人に対してストレートで言わずに、言葉を回して婉曲に言う人は、自分に対しても真実に直面しない人かもしれません。 人間は自分をありのままで正直に見ることは、とても難しいと思います。それは神の御前で、残酷な正直さが要求されます。

たまにリーダーが間違った道にそれたり、自分もやっぱり間違った道にそれる理由が、その周りに「ナタナエルのように、ストレートで話す人」がいないからです。みんな婉曲に言葉を回して言ったり、いつも良い面だけを言うのです。だから、自分のありのままの真実を直面せず、結局、間違った道にそれるわけです。

しかし「残酷な正直さ」という言葉のように、自ら、あるいは他人に正直になることは、本当に残酷なことですし、とても耐えられない残忍なことでもあります。それは獣のような乱暴な言葉の攻撃に耐えなければならないからです。

しかし、その中でも「継続的に成長する人」が、たまにあります。その秘訣は「自分を非難する人の言葉を深く黙想する」ことです。もちろん、その非難の言葉を聞いて、うつになることではなく、彼の正直な話を聞いて、「神の御前で祈りながら、正直に自分と対面する」ということです。

イエス様は「ナザレから何の良いものが出るだろう。」という言葉に怒りませんでした。なぜでしょうか?事実だからです。このように、私たちも事実を聞いて怒らなければ、その発展の可能性は無限です。 神様は、心の中心の真実さを、私たちに求めておられます。詩篇51:6「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

私たちは「間違った」とか「罪だった」という言葉より、「足りない選択だった」と言いますが、もっと正直でなければなりません。みなさん、「同性愛」とか「結婚の前の同棲」は罪だと言うべきなのに、それを「仕方が無い選択、足りない選択だった」と言わないでください。確かに、「それは罪だ」と言わなければなりません。それは、罪に定める裁きではなく、彼らが悔い改め、正しく立てられることを願う愛の心で、正直に言ってあげることです。

今日もナタナエルのように、ストレートで言う人が、神様から認められると思います。なぜかというと、私たちの文化の中では、ナタナエルのように、ストレートで言う人が、あまりいないからです。 もちろん「他人に傷を与える言葉を自由にしゃべりなさい」ということではありません。しかし、「自分にも、他人にも助けになる正直な言葉」なら、聖霊様がその感動を与えて下されば、私たちは憎しみと迫害、不利益を覚悟して、必ず「ナタナエル」にならなければなりません。神の御国、神の栄光のために、そうしなければなりません。
  1. あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。
今日の本文、ヨハネ1:48『ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存知なのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

主がいちじくの木の下にいたナタナエルを見たのであれば、今日私たちも、主が見ておられます。聖書には主の目が私たちを見つめられる(見守る)という言葉が88回も出て来ます。これはとてもたくさん出るという意味であり、「主は確かに私たちを注目しておられる」という意味です。

聖書には主の目に入ったたくさんの人々が出て来ます。創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」ヨハネ4:23「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」第一ペテロ3:12「主の目は義人の上に注がれる」第二歴代誌16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

しかし、聖書には、主の目が悪を行う者たちの悪も見ておられると言われます。つまり、「主の目の前に悪を行う」という表現が度々出て来ます。今日私たちが注目する内容は「いちじくの木」です。そこには特別な解釈的意味を付与することができます。聖書に出て来る「いちじくの木」は、否定的な素材として度々出て来ます。
  1. エデンの園でアダムは罪を犯した後に、いちじくの木の葉っぱで着物を作り、それを着ました。その意味は「人間が自分の罪と咎を覆うこと」です。 今日も私たちは社会的身分、成功、人間的道徳、格好の良さで自分自身を覆うわけです。とにかく、聖書には自分の罪を覆う人間的な努力と試みを否定的な意味で書いてあります。
  2. マルコ11章では、イエス様が道端で葉の茂ったいちじくの木を見て、葉のほかは何もないのに気づかれ、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と、いちじくの木を呪いました。
そのいちじくの木は、葉の茂った木だったので、うわべだけではいのちで溢れているように見えましたが、その中には実がありませんでした。これは当時の堕落したユダヤ人とユダヤ宗教を比喩的に指摘したものです。

こういう二つの例を照らして、今日の本文で「イエス様が、ナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見た」という場面を解釈すると、ナタナエルは何か自分を隠そうとしていたことが分かります。全ての人間がそうですが、みんな自分のことを隠そうとしています。

今日の本文で、ナタナエルがストレートで言うから、イエス様もストレートでおっしゃいます。ナタナエルが「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と言ったら、イエス様は「おまえは神様から離れて、いちじくの木の下に隠れている」とその意味でおっしゃったのです。 ナタナエルはビックリして、ばれたと思い、こう話します。本文の1:49『ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」』つまり、「私がいちじくの木の下に隠れていたことを、もうご存知ですね!」そういう話です。

みなさん、他の福音書よりも、ヨハネの福音書は特に象徴的です。まるで、ヨハネが書いた黙示録のように、ヨハネの福音書は四つの福音書の中でも、一番象徴的な表現が多いわけです。 そうしたら、今日の本文に出る「いちじくの木」は、ただ普通の木ではなく、象徴的に解釈できると思います。
  1. 天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。
今日の本文の1:50-51『イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

皆さん、「神の御使いたちが人の子の上を上り下りする」という意味は何でしょうか?

イエス様は天と地をつなぐ仲介者だということです。仲介者のイエス様を通して、神様と人間が再び、関係が回復することを意味します。そして、創世記28章のヤコブの体験と関連して解釈すれば、イエス様がナタナエルにおっしゃった御言葉の意味が分かります。

創世記28:12「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。

これを見たヤコブはイスラエルの12部族の先祖となりました。この御言葉を通して、イエス様をヤコブと同一視させたわけです。つまり、イエス様はヤコブのように、(霊的)イスラエルの先祖だという意味です。

イエス様を通して始まる「新しい霊的イスラエルの歴史」、それが12弟子を通して成し遂げられることを「ナタナエルおまえは、これから見るであろう。そして、わたしはヤコブのように、その先祖である。」とイエス様はおっしゃったわけです。

実際にナタナエルは12弟子の一人になります。バルトロマイがナタナエルと同一の人物です。その理由は、12弟子の名簿が出るとき、バルトロマイが出たらナタナエルは不在して、ナタナエルが出たらバルトロマイは不在するからです。そして、ヨハネ21:2でナタナエルは「ガリラヤのカナのナタナエル」と記録しています。バルトロマイの出身地(故郷)が「ガリラヤのカナ」です。だから、ガリラヤのカナでの婚礼の宴会記念教会の向かい側に、バルトロマイ記念教会が建てられています。こういう風に、今日の本文のヨハネ1:51のイエス様の預言「 天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」が、そのまま成就しました。

だから、実際に黙示録には、こういう御言葉が出て来ます。黙示録21:14「また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」つまり、この御言葉は12弟子で始まったイエス様の働きが、12使徒で完成する場面を預言しています。

愛する皆さん、私たちもナタナエルのように、イエス様の働きに招かれたイエス様の弟子の一人ひとりです。その特権を生かして、今年も勝利したいと思います。
合計 137
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137
ヨブ記6:21-27(慰めの秘訣)
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