メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ピリピ人への手紙3:17-21 (癒し)

投稿者
tbic
投稿日
2022-01-23 21:41
閲覧数
345
ピリピ人への手紙3:17-21、「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」

この地上でたくさんの人々の病気を癒してくださったイエス様は昨日も今日も永遠に変わらない方であります。そして、その方は今もなお、力を持っておられます。

皆さん、聖書が語る救いと癒しは総体(総合)的な概念です。つまり霊と魂、肉すべてを含んだ救いと癒し、回復を聖書は強調します。

しかし信仰(求め)がなければ、その救いと癒しを逃してしまう可能性もあります。ヤコブ4:2、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」そして、ルカ11:9、「求めなさい。そうすれば与えられます。」私たちが求める時、救いと癒しが与えられます。

マタイは、イエス様がナザレの村で人々の不信仰のために、多くの奇跡の働きを行わなかったと記録しています。イエス様は今もなお奇跡を起こし、癒しと回復を与えられる方です。だから信仰ある人々が、たまにお医者さんたちも理解できない形で癒されるケースがあります。

しかし改革派教会の神学者であるウォフィルドは結婚生活の中でずっと病気を患っていた妻のせいか、今日今の時代は超自然的な癒しはないと断言しました。これは間違った話ですが、またカリスマ系(聖霊派)の主張する「祈れば、すべての病気は癒される。癒されない理由は信仰が足りないからだ。」と言っていることも間違った考えです。奇跡的な治癒を求めたが、癒されなかった素晴らしいクリスチャンたちが多くいることを、私たちはよく知っています。

これを総合的に言えば、イエス様の奇跡的な癒しは過去と同じように今もなお起きています。しかしイエス様がこの地上で行われる癒しは特別な目的(意味)があります。つまりイエス様の癒しは愛の働きであり、イエス様がメシア(救い主)であることを表す証拠です。だからイエス様の奇跡的な癒しはイエス様がどういう方であり、どんな力を持っておられるかについての決定的な証拠です。

しかし今はイエス様が過去のように超自然的な癒しを豊かに起こしていない感じがします。なぜかというと、力自体が大事じゃなくて目的が大事だからです。イエス様の目的は救いですから、私たちの救いのためなら病気にかかって死ぬことも許すときがありますし、それも有益だからです。

だから当時のイエス様が病気を癒してくださったから、今も必ず癒してくださると考えてはなりません。イエス様は救いの目的のためなら、死も用いられる方だからです。もちろん救われる時、肉体の病気が癒されるケースもあります。しかしそうではない場合もあります。むしろその場合が、癒されない場合が多いですね。結局、私たちみんなは必ず一回死にますから。

しかし、はっきり約束されたことは、今日の本文、ピリピ人への手紙3:21です。「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

皆さん、完璧な癒しと回復は、まさにその日です。つまり私たちが待っている復活の日であり、それは天国で完全に成し遂げられることです。だから完全な肉体の回復は救われた後、すぐ与えられる祝福ではなく、これから将来与えられる祝福です。

ある牧師先生の証を聞いたことがあります。不妊だった妻が奇跡的に妊娠し出産しましたが、生まれてきた赤ちゃんが障害児で、しかもその赤ちゃんは一週間も経たないうちに亡くなったそうです。その牧師先生は妻の証をしながら、こうおっしゃいました。「我が子の死を通してイエス様の死が肉体の癒しを完成したという真理を、私ははっきり分かりました。神様が我が子を完全に癒してくださいました。その子を天国に連れていくことによってです。

もちろん私たちに信仰がなければ、肉体の癒しと回復を逃してしまう可能性があります。しかし新約聖書に出る初代教会のリーダーたちさえ、みんな癒されたことではありません。代表的な人物として使徒パウロですが、彼はキリストの御力で奇跡的な癒しを起こし、彼自身も毒蛇にかまれた時、奇跡的に癒されたことがあります。しかし彼には癒されなかった病気(肉体のとげ)がありました。だからその病気が癒されるように三度も祈りました。しかしパウロが願っていた癒しは起こらなかったのです。

コリント人への手紙 第二 12:7-9、「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

パウロだけでなく、テモテやトロピモ、エパフロデトもみんな初代教会のリーダーだったのですが、病気を持っていた人々でした。ピリピ人への手紙2:25-27には、エパフロデトについて、こう記録しています。「彼は死ぬほどの病気にかかりました、、私にとって悲しみに悲しみが重なることだった、、」とパウロは言っています。

皆さん、イエス様さえ病を経験したとイザヤ書では記録しています。イザヤ書53:3、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」ここで「病を知った」と言うとき「知る」の意味はヘブライ語の原文で「ヤダ」です。つまり「経験を通して知る」という意味です。だからイエス様さえ病気を経験したことになります。

神様が病気を癒してくださる方法は二つです。病気を癒してくださるか、あるいは病気に意味を付与して、病気をそのまま残してくださるか、この二つです。

イエス様は多くの病人を癒しましたが、パウロの場合(体にあるとげ)は、そのまま置いとくことによって解決します。 理由は、弱さがキリストの力をもたらす恵みの道具だからです。私たちも一番弱い時に、神の力が一番強く働いた経験を何度もしました。強ければ、神様は要らないですね。

生前いろんな病気を持っていた三浦綾子さんは、自分の弱さの中で悟った病気の意味をこう歌います。「病気にならなければできない祈りがある。病気にならなければ信じられない奇跡がある。病気にならなければ近づけられない聖所がある。ああ、病気にならなければ私は人間になることもできない。」信仰の告白です。

信仰は病気を治すより、人間(患者)自体を治します。多くの人々が病気自体より、病気による否定的な考えのために苦しめられます。だから病気よりもっと恐ろしいことは病気による心配と恐れです。

だから、普通人々を苦しめるのは病気ではなく、その病気に対する間違った解釈です。病気でも身体全体が痛いわけではありません。誰だって、弱いところと強いところがあります。しかし私たちはある一つのところが痛いと言えば、無条件に患者扱いをします。

だから健康についての定義はこれです。「健康とは、病気がないという意味ではない。これは人生の質的問題で、肉体的、精神的、霊的に歪みがないということである。

だから私たちクリスチャンにとってもっと大切なことは、出来事より出来事についての解釈です。信仰は解釈の力で、私たちの人生の中で起きたすべての出来事を神のみこころの中で解釈することが信仰です。不幸に見える出来事の中でも神のみこころを探し出すことが信仰を通した解釈の力です。そうすれば不幸だと思ったことが、急に意味あることになって幸福に変わります。

ヨセフは兄たちに憎まれ、捨てられ、裏切られました。しかしヨセフはその苦しい出来事を神の摂理の中で解釈しました。創世記50:20には、彼の有名な告白が出てきます。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。

信仰の目で過去の出来事を解釈したら、癒し(感情的な傷の内的治癒)が起きました。だから信仰は病気を通り過ぎて、私たちの考えを癒し、私たちの心を癒します。

すべての病気には原因があります。その病気の原因(罪など)を発見し、助けることが信仰です。こういう風に癒す信仰は、御言葉を通した悟りから聖霊に満たされるとき、与えられます。また、十字架を見上げるとき、癒す神の力が臨みます。

 

ガラテヤ人への手紙2:20、「はキリストとともに十字架につけられました。もはやきているのではなく、キリストがのうちにきておられるのです。いまが、このきているのは、のためにご自身をおてになった御子じる信仰によっているのです。」十字架の血潮の力は、罪が赦される力と、サタンを追い出す力と、神と人との間を、また人と人との間を和解させる力があります。そして私たちに与えられた未来の希望は、深く黙想しながら祈るとき臨みます。

 

結論を出します。

1.奇跡的な癒しは、今もなお起きます。しかしイエス様と使徒たちは、その癒しが神のみこころであることを知ったときだけ癒しを起こしました。当時の初代教会でも癒しの働きは当たり前のことではなく、たまに起きた出来事でした。

2.この地上では私たちを聖化(成長)させて行かれる神の計画があります。だからこの地上では完全な癒しはありません。毎日毎日弱さの中で、大変な人生を生きながらも不平不満を言わずに、むしろ喜んで楽しく忍耐しながら他人を愛し、仕えることを主が願っておられます。それが「とげ」と共に生きたパウロの人生だったし、私たちの人生です。そして、これが本当の聖化であり、この地上での最高の恵み、最高の勝利です。

神様はこの地上で私たちの死ぬべき肉体を癒されないかもしれませんが、破壊された人格を癒されることは、今もなお休まずに続けておられます。神様は私たちの人格の癒し(神のかたちの回復)の働きに深い関心を持っておられます。それが復活と永遠のいのちに繋がることだからです。だから私たちは人格的に完璧に近くイエス様のように成長しなければなりません。

3.私たちは肉体が病気になったとき、あきらめることなく癒しを求めなければなりません。病院とお医者さん、また薬を使用できることを感謝しなければなりません。しかし同時に私たちは神様に私たちの病気について聞かなければなりません。そうすれば病気の意味をはっきり知ることが出来ます。それが神から与えられる慰めと励ましかもしれないし、咎められる神からの戒めかもしれません。その時、私たちはパウロが求めた形の完全な癒しを経験することもあるし、パウロが答えられた「わたしの恵みはあなたに充分である」という拒絶(人格の癒し)を経験することもあります。だから私たちはこの二つの答えにみんな心を開く必要があります。

私は今までわりと元気に過ごしましたが、ずっとそうするとは限りません。私の肉体も益々弱くなっていきます。みなさんもそうだと思います。だからどんな形であれ、私たちが肉体的に弱くなってどうしようもない時がやって来た時、今日のメッセージを覚えて自分に適用し、信仰の先輩たちの後についていきたいと思います。
合計 139
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創世記22:1-8「苦しみ(十字架)を受け入れれば、素晴らしい逆転(復活)がある。」
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ヤコブの手紙5:16(クリスチャンが祈らない理由)
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