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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ゼカリヤ書2:10-13 (主が立ち上がられる日)

投稿者
tbic
投稿日
2022-02-06 21:10
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340
ゼカリヤ書2:10-13、『シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。‐‐主の御告げ‐‐その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。』

今日読んでいただいたゼカリヤ書は、旧約聖書の中で小預言書と呼ばれる中に入るのですが、小預言書と言っても結構ボリュームがあって、重要な内容が含まれています。エレミヤは「将来と希望」を語りましたが、それは時代的には、ユダの民がバビロンに捕囚された初期に預言された御言葉です。「70年経ったら、あなたがたをエルサレムに戻して帰してあげますよ!」という預言でした。しかしゼカリヤは70年が経った後に、すなわち、ユダの民が預言通りにエルサレムに帰還した後に活躍した預言者でした。一つの預言が成就した後、神が告げられた預言のことばです。この箇所を見ていきますと、大変重要な事柄が含まれている事に気づかされます。つまり、これから何をしたら良いのか、ゼカリヤ書は大きな示唆を与える書物であると思います。

第一に「ゼカリヤ」という人物が、どのような人物だったのかに関して、ゼカリヤ書1章1節に述べられています。『ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。』主のことばがゼカリヤに臨むようになったのが、ダリヨス王の第二年の第八の月だと記されています。ここに、ゼカリヤの家系も記されています。ゼカリヤのお父さんは「ベレクヤ」、おじいさんが「イド」だったようです。聖書に出てくる人物は、すべて名前に意味があります。従って「イド」おじいさんには、「彼の時」という意味がありました。またお父さんの「ベレクヤ」の「ヤ」は「ヤーウェ」の「ヤ」で、神様を現します。「ベレクヤ」とは「主は祝福される」という意味があって、「ゼカリヤ」は「主は覚えている」という意味があります。ただの系図を表しているように見えますが、この中にゼカリヤ書全体のテーマが隠されているのです。つまりすべて合わせると「主は覚えておられ、時が来たら、あなたを祝福される。」という意味になるわけです。

時々、私たちは様々な課題を持って、神の前に出るのですが、なかなか祈りは聞かれない、状況は悪くなる一方だと失望する時があります。「神様も忙しくて、俺の祈りには耳を傾けてくれない。」と私はそんな気持ちになったことが、何度もありました。しかし、ゼカリヤ書を読んで励まされました。ユダの民も、バビロンに捕囚されて70年も経過すると、先祖たちが祈っていた祈りを共有できなくなって、奴隷の身分でもいいや!みたいな、ムードがあったはずです。しかし「主は覚えておられて、時が来たら祝福された」のです。神は時を支配しておられるということを、ここからも学ぶことができます。

また、神の時が実現する瞬間には、必ず天での戦いがあるのです。これはゼカリヤ書の中にも見られます。ゼカリヤ書1章12節、『主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」

ゼカリヤ書は、「み使い」という、神様の前で仕えている存在が、かなりクローズアップされています。み使いは神様の言葉を記録したり、私たちの祈りも記録していて管理しているようです。ある日、み使いが主の前に行き、「ユダの民を解放するとあなたは語られましたが、七十年経ちましたよ。」と告げました。み使いがそのような進言を天で神の前にしたことにより、神が働かれ始めました。その結果、ゼカリヤの口を通して、主が恵みの預言を語られるようになりました。

先ほどお読みした今日の御言葉、本当にすばらしいです。『シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。‐‐主の御告げ‐‐』ここには、『あなたのただ中に』と、「あなたがた」ではなく、単数で「あなた」と記されています。主があなたと共におられるのです。そして、最後の部分では、『すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。』主が来られる時、私たちは厳粛な思いにさせられます。礼拝とは、主が私たちの所に訪れてくださる瞬間です。ここで、『主が立ちあがって、その聖なる住まいから来られる』と記されています。

ゼカリヤ書は、ユダの民がエルサレムに戻って、その後、世界に何が起こるのかが預言されています。ここを読む時、主は時を支配しておられて、ご自分の計画を成し遂げられることを確信できます。ゼカリヤ書ではイエス様の「誕生(初臨)と再臨」が預言されているのです。ゼカリヤは、紀元前6世紀に活躍した人物です。今、私たちはイエス様の誕生を、過去の事実(史実)として受け取ることができます。しかし、この時代、ゼカリヤは未来への事として、預言しています。さらにイエス様がもう一度、地上に戻って来られる再臨さえも、預言しているわけです。

皆さん、ゼカリヤ書は二つの山を一つの視点から見ているような預言書だというのです。つまり、山の上から眺めると山が一枚だけではなく、幾つも重なっているのが分かります。しかし下から山を見上げると、山は一つにしか見えません。聖書の預言も、同様な表現がなされています。ゼカリヤ書はイエス様の初臨、つまりイエス様の誕生を預言していて、さらに、もっと高い山、イエス様が再び地上に戻って来られる再臨をも同時に預言しているのです。イエス様の誕生は、ゼカリヤによって、どのように預言されたのかというと、ゼカリヤ書9章9節、『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

やがて王であるイエス様が、王となるために入城される場面を、ゼカリヤは主から教えられました。6百年後、その通りに実現したわけです。新約聖書においてマタイは、その光景を、ゼカリヤ書を引用しながら語っています。マタイの福音書21章5-7節、『「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

ここからイエス様がどのようなお方であるのかが分かります。そして、イエス様のご性格もわかります。イエス様は天地万物を造られた創造主なる神様です。その方が肉体をまとわれて、地上に来られ、王としてエルサレムに入城されたのですが、王となるどころか、捕まえられて、十字架につけられて死んでしまったのです。

一般的に王が入城するとき、絶対にロバなんかには乗りません。それも荷物を運ぶロバの背にのって、イエス様はエルサレムに来られたのです。当時、王が入場する時は、必ず、白馬にまたがって登場しました。今日ならば、首相とか大統領は黒塗りの高級車に乗って入ってくるはずです。荷物を運ぶロバに乗ってきたという表現は、天皇が自転車に荷物を積んでやって来たようなイメージです。イエス様は、本当にへりくだった柔和なお方で、私たちの味方です。私たちを決して忘れることなく、覚えておられるのです。こういう所を見ても、イエス様は良い方であるのが分かります。この世の神々のように、よく拝んだら神になるけれども、放っておけば鬼になるような存在ではありません。イエス様は、この世の権力者としてではなく、しもべとして私たちを助けるために来られました。

それと共にゼカリヤはイエス様の再臨さえも預言しています。今日は時間がないので、全体を学ぶことはできませんが、ゼカリヤ書にはそのような預言が幾つかあります。ゼカリヤ書14章6-9節、『その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。

これはイエス様が、地上に戻って来られて世界の王となられる究極の場面を描いています。現代を生きる私たちはゼカリヤ以上に信仰を持つことができます。なぜなら、ゼカリヤにとって救い主の誕生、初臨はまだ起こっていませんでした。しかしこれは現代の私たちにとって、すでに成就したわけです。ということは、二番目の預言、イエス様がもう一度お帰りになるという再臨は、聖書が示している通り、必ず未来の時に起こるはずです。

今日のメッセージ・タイトルは「主が立ちあがられる日」です。聖書の中で「主が立ちあがる」という表現は、究極的には主がこの地上に戻って来られる、「再臨される」という意味で使われています。主はもう一度、この地上に来られて、世界を治めてくださるのです。ある意味で、今ほど主が帰って来てくださり、世界を治めてほしい!という心境になっている時はないと思います。

今、世界はコロナの影響で本当に大変です。アメリカだけで7500万人以上の感染者がいるというのです。日本も300万人以上になって、更にみんな自分勝手にやっているので、どんどん広がっているというのです。今は冬ですが、コロナウイルスは冬に強いと言われます。だから私たちも油断するのではなく、祈っていかなくてはいけません。今後どうなるか、本当に不安ですが、しかしイエス様が帰って来てくださって、世界を治めてくださって、私たちのただ中に住んでくだされば、すべての悪と問題は一掃されます。

今まで私は日本の宣教が難しいのは、文化的な理由だと思っていましたが、そうではなく、日本には悪魔・悪霊どもによる覆いがあることに気づかされました。彼らと戦って、打ち破らない限り、日本は変わらないと、主が語ってくださいます。マタイの福音書12章28節に、『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

神の国はどのようにして現れるのかに関して、ユダヤ人たちは強い権力者が現れて、自分たちを治めてくれるだろうと期待していました。しかしそうではなかったのです。イエス様が来られて、人々の背後に潜んでいた悪霊どもを暴かれたのです。人々はそんな光景は見たことがなかったので、「これはなんだ!」と、当時、悪魔をベルゼブルと呼んでいて、イエス様はベルゼブルという霊を操って、悪霊を追い出しているのではないかと、イエス様に対して批判の目を向けました。そんな時にイエス様が語られた言葉が『聖霊によって悪霊どもが追い出されているのなら、神の国はあなたがたのところに来ている。』でした。

皆さん、やがてイエス様はこの地上に帰って来られて、この地を治められます。私たちは顔と顔とを合わせて、イエス様と会う日が来ます。それに先だって、神の国は、からし種のような小さな形で、この地に現れるのです。それは聖霊の働きと共に、悪霊が追い出される現象を伴うのです。

雨が多い時、堤防が決壊するのには、いくつかのタイプがあるのですが、一つは堤防で守られている堤内地に、足下からちょろちょろ水が流れる小さい水漏れから始まります。それは既に堤防を貫いて水が入って来ている証拠です。それが進行すると、ある時、大きな決壊に至るのです。

神の国も同じです。まずは、聖霊が注がれて、第一の天に小さな穴が空いて、ちょろちょろ、地を支配している悪霊どもが追い出される現象が起こってきます。それは既に、神の国の現れそのものです。それをあくまで続けていくと、やがて霊的堤防が決壊するような、大きな神の国の現れにつながるのです。

皆さん、やがて天国はどこに出現するのでしょうか?神様は天を複数造っておられます。「第三の天」という表現が聖書(第二コリント12章)にはありますが、それ以上の天が造られていることは確かです。今、宇宙物理学では、11次元くらいまで設定しないと宇宙を定義できないと言います。第三の天とは、死者の世界だと思われます。そこまでは完全な神の国の現れがあるはずです。しかし残念ながら、私たちが住んでいる第一の天と、その上の第二の天は悪魔の支配下にあるわけです。しかし第二の天を貫き、第一の天に聖霊が注がれ、小さな穴が空き、だんだん穴が大きくなると、ある日突然、決壊が起こって、神の国の支配が完全に到達する日がやって来るのです。私たちは、その日を目前にしています。そのことを信じて戦い、祈り続けなければいけません。

今、世界規模の疫病で世界中が苦しんでいます。その次に来ることは、主が帰って来られる、霊的堤防の大決壊です。霊的戦いはすでに始まりました。霊的戦いは天の軍勢が戦うので、我々は戦いが終わった頃に出て行って「勝利を宣言します!」と、宣言するだけで決着が着くと思います。そして重要なポイントが、聖餐式の祝福です。聖餐式はパンとぶどうジュースを食べて飲む行為ですが、それには深い意味があります。聖餐式の土台にある概念は、過越の祭りです。ヘブル民族はエジプトに430年も捕虜になっていました。神はヘブル民族をエジプトから救い出す為に、エジプトの長男たちを、皆殺しにされました。天使たちが出て行って、エジプト中の長男たちを打ちました。そんな災いがエジプトに降りかかった時、主はヘブル人たちに、「子羊をほふって、かもいと柱に血を塗るように」と指示されました。そして「種を入れない種なしパンを持って、すぐにエジプトから出なさい」と語られました。これが聖餐式の土台にあります。

出エジプト記12章12節、『その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。

聖餐式の原型、過越の概念は、「エジプトの神々に対するさばき」でした。エジプトを支配していた悪霊どもを打ち破るために、過越が用いられたわけです。つまり聖餐式は、何を意味するのかというと、「これを通して災いが過ぎ越される」ということです。

出エジプト記12章13節、『あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

聖餐式を行うことは、イエス様の十字架の血潮の守りです。またエジプトの神々に対するさばき、言い換えれば、日本の神々、世界の偶像に対する勝利の宣言となります。今日も聖餐式を行い、それから戦いに出て行くわけですが、今、私たちはある意味でコロナから救われているようなところがあります。ぜひ皆さん、この聖餐式の素晴らしさを体験してみて下さい。今日も主は立ちあがられて、祈りをもって「天の軍勢と共に戦え」と、そして「聖餐式は重要だ」と教えてくださいました。聖餐式は「主が来られる日まで」という限定付きです。聖餐式はイエス様のお帰り、再臨を目指しているのです。

ゼカリヤはイエス様の初臨と再臨を同時に預言しました。それは、70年が経って、「さあ次に何が起こるのか?」を意図していました。今、私たちはイエス様の再臨を目指して、「霊的な戦いをし、主の守りの中で生きなさい」と語られていると信じます。主の再臨を地上でお迎えすることができたら最高です。

最後に一言お祈りして、聖餐式に入りたいと思います。

ハレルヤ、天の父なる神様。み名をあがめます。今日はこのようなすばらしい礼拝を持つことができて感謝します。また聖餐式の祝福についても語りましたが、今日も聖餐式を通して、かもいと柱に十字架の血潮が塗られて、すべての災いからお守り下さい。また、すべての病や問題が消えていきますように。あなたは私たちのことを知っておられます。心から感謝をいたします。主は覚えておられ、時が来たら祝福されるという御言葉を信じます。主よ、一人一人の祈りに答えてください。また喜んで主に捧げた献げ物を祝福し、経済的にも守ってください。すべての栄光を主にお返しし、イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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