メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
ダニエル書4:28-37 (バビロンの王、ネブカドネツァル)
投稿者
tbic
投稿日
2022-06-12 22:56
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ダニエル書4:28-37『このことはみな、ネブカドネツァル王の身に起こった。十二か月たって、バビロンにある王の宮殿の屋上を歩きながら、王はこう言っていた。「この大バビロンは、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が私の権力によって建てたものではないか。」このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカドネツァル王よ、あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べるようになり、こうしてあなたの上を七つの時が過ぎ行き、ついにあなたは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」このことばは、ただちにネブカドネツァルの上に成就した。彼は人の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲のように、爪は鳥のように伸びた。その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものと見なされる。この方は、天の軍勢にも、地に住むものにも、みこころのままに報いる。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。ちょうどそのとき私に理性が戻り、私の王国の栄光のために、私の威光と輝きが私に戻ってきた。私の顧問や貴族たちに求められて、私は王位に戻り、こうして絶大な権威が私に加えられた。今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。』
ダニエル書4章の特徴、暴君と思われたネブカドネツァル王が直接記録した内容。「私」一人称を使用。自分の自慢ではなく、恥ずかしい内容を、つまり高慢によって自分自身が倒れ、低くなった姿を記録。結局、ネブカドネツァル王は神の御前で大きな恵みを受けて、証をする内容がダニエル書4章である。
ネブカドネツァル王の心が柔らかくなった理由、彼はすべての部分で最高を成し遂げた王。ユーフラテス川辺に造られたバビロンの「The Hanging Garden」だけ見ても最高の王である。しかし、結論を言えば、神の御前で謙遜になったということ。
適用、私たちはネブカドネツァル王と比べれば、取るに足りないちっぽけな者だが、高慢である。しかしネブカドネツァル王は高慢から神様の介入を通して謙遜な者へと変わった。
それでは、神のみこころとは?旧約聖書と新約聖書での神のみこころの言葉と意味の違い。
旧約-祝福(Blessing)、アブラハムは祝福の源。
新約-恵み(Grace)、パウロ-神様の恵みによって今の私になった。
祝福と恵みは相互交換できるinterchangeableなものである。つまり神からやって来て、値なしに与えられるものが 祝福と恵みである。この祝福と恵みが臨む者は必ず勝利する。ネブカドネツァル王はこの祝福と恵みを受け、謙遜へと導かれた。第一ペテロ5:5、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」結局、私たちもこの謙遜と祝福の恵みを体験しなければならない。
今日の本文の前の内容ではネブカドネツァル王の二回目の夢が出て来る。彼は夢の中で自分を表わす大きな木を見た。私たちは夢に対する誤解がある。多くのクリスチャンは夢が好きである。そして夢を通して、たくさんのことを決めようとする傾向がある。伝統的な占い信仰(御利益信仰)によって生じる影響である。
夢に対する正しい聖書的態度は?神様は主に、悪者たちに夢を通して語りかける。(例-サウル王、ネブカドネツァル王、ピラト)理由は?御言葉を聞かないから。ヨセフの時代は聖書がなかったので、ヨセフにも夢を通して神が現れた。しかし神様は主に、御言葉を通して御民に現れ、御言葉を聞かない人々には夢を通して現れる。だから申命記13:1-5には、こう言われる。「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう』と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」
本文に戻って、ネブカドネツァル王の夢は?4:10-17の内容(木の夢)。その木は生長して強くなり、その高さは天に届いていた。そしてその下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。しかしひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来て、その木を切り倒す夢であった。
ダニエルとネブカドネツァル王の反応(19節)-驚き、おびえていた。つまり、木はネブカドネツァル王を象徴し、7年間野の獣と過ごすようになるということ。そして、25節に、ネブカドネツァル王 はこの経験を通して神を発見し、真の王様が誰なのか分かるようになる。しかし私たちは王でもないのに、王様以上に高慢になっている。神様は私たちに、ネブカドネツァル王を通して「あなたは王でもないし、神でもないのだ。」と言われる。
しかし残念ながら、本文の28節の以降を見ると、ネブカドネツァル王は高慢さを維持し続けたことが分かる。神様は裁きの御言葉を与えられて、すぐに裁きを行われたわけではなく、12ヶ月の間チャンスを与えた。しかし三日坊主のようにネブカドネツァル王はその夢を忘れてしまった。そして30節に、『王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」』と自分を強調していた。
自分を強調することはとても危険なこと。そして高いところ、宮殿の屋上を歩いていたと書かれてあるが、その高いところを歩くことによってネブカドネツァル王は倒れた。ダビデも屋上を歩いていたとき、シャワーを浴びているウリヤの妻バテ・シェバを発見し、罪を犯した。自分を強調する屋上の意識、高いところはとても危険な場所である。だから聖書は常に神を見上げ、神のみこころを強調する。中国の孫子の兵法でも、最高の兵法は敵を高慢にさせることだと言う。つまり、敵を高慢にさせることは高慢になったときが一番弱いときだからである。だから私たちも高慢になってはならない。
高慢になったときは必ず神様に裁かれる。本文の4:31-33、『このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカドネツァル王よ、あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べるようになり、こうしてあなたの上を七つの時が過ぎ行き、ついにあなたは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」このことばは、ただちにネブカドネツァルの上に成就した。彼は人の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲のように、爪は鳥のように伸びた。』
高慢になったら、完全に狂ってる人生を生きるようになる。
だから目を上げ、天を見上げる必要がある。34節に、「その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」謙遜に神を見上げれば、回復し、神に栄光を返す人生を生きるようになる。
36、37節、ネブカドネツァル王の最後の告白-謙遜な王様になった。「ちょうどそのとき私に理性が戻り、私の王国の栄光のために、私の威光と輝きが私に戻ってきた。私の顧問や貴族たちに求められて、私は王位に戻り、こうして絶大な権威が私に加えられた。今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。」
結局、ネブカドネツァル王は真の王様、神様を認める人生を生きるようになった。
私たちはこのダニエル書4書を繰り返して読まなければならない。世の中で最強の王であるバビロンの王が神の御前で謙遜を学んだ。これを適用すれば、
1.高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)
2.謙遜に主を喜び、賛美すれば、可能性の種が芽生える。
3.謙遜になれば、安息(平安)の人生を生きるようになる。
(適用)1.高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。
多くの人々は高いところを目指して歩もうとする。しかし高いところは試みと試練の場所である。私たちは上座ではなく、下座に座らなければならない。下座は座って祈る姿勢である。ひざまずいて、ひれ伏すことが必要である。謙遜に仕え、祈ることがクリスチャンに求められている。
神様に出会った人々の特徴1、自分の弱さを認める。2、神に触れられる。3、感激あふれる人生を生きる。だから涙は霊的力のものさしである。心がかたくなになったら、涙が消え去り、心が柔らかくなったら、涙が出てきて霊的力がよみがえる。
チャールズ・スポルジョン牧師先生の話、
ある日、泣いている先生を見た先生の奥様はその理由を聞いた。そのとき、先生はこう言った。「イエス様の十字架を黙想しても感激がないんだ。」それで、泣いていたということ。それがまさに霊的力そのものである。
質問、なぜ私たちは霊的力を失ってしまうのか?
自分が罪をコントロールできると思っているからである。それが高慢である。私たちの傾向、罪を罪だと認めない。罪を過ち、病気、弱さだと合理化する。罪を合理化すれば、自分が罪をコントロールできると勘違いをし、その思いに支配されて高慢になる。
しかし罪人は答えのない、どうしようもない存在である。自分が責任とれない存在が罪人である。つまり、自分が解決できないから泣くようになる。そして涙の悔い改めを通して「私を哀れんでください。」と叫ぶようになる。結局、自分の力ではどうしようもないから、その無力感によって涙が出る。だから自己破産によって自分の無能力が分かれば、私たちは哀れみを求め、叫ぶようになる。
ネブカドネツァル王も泣き叫び、謙遜になったから神様に戻った。結局、私たちも礼拝を通して完全に崩れ、謙遜なしもべに戻る体験をしなければならない。
霊的力の霊性は中身を見る力である。中身が分からなければ、不従順の人生となる。試練と危機の状況では中身が見えるが、多くの場合、中身が見えないから不従順になり、失敗する。
私たちは恐れもあるし、楽な人生を生きようとする。そして方向も知らずに、一生懸命走る傾向がある。しかし、一生懸命走ることが献身ではない。むしろ熱心さが人を高慢にさせる。だから走る人生をしばらく止めて、自分が走った分、振り返って見てほしい。そうすれば、誰だって涙なしには生きられないことが分かる。私たちは涙なしには生きられません。ルカ8:6に「また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。」水分、つまり涙がなければ私たちは生きられない。
日本の現実を見ると答えがないように見える。特にディズニーランドでもないのに、Cosplayの衣装を着て道を歩いている人々を見ると、さらに胸が苦しくなる。もちろん、若者たちがそうするのは理解できる。しかしおじさん、おばさんがCosplayをして漫画の主人公のように振舞っている姿を、たまに見かけるが、全然かわいくないし、むしろ胸が重苦しくて耐えられなくなります。漫画の世界と現実が分からない人々が、この世には溢れている。この現実を見ると涙しか出ない。
しかし、この涙が希望である。日本宣教は涙でやることである。高慢になったら涙も出ないし、宣教も、伝道もできない。涙というのはどうしようもないときに出てくるし、このように神の御前で自分の無力さを認めれば、そこから神が直接、働き始める。
私たちTBICも、この地域に住んでいる人々を見ながら真の涙が出る時、伝道が始まる。そのためにはまず、謙遜にならなければならない。イエス様にも、人々にも謙遜な心で仕えなければならない。神の御前でまず、この謙遜を学ぼう。高慢は私たちの人生の中で、一番私たちを弱くさせる敵であることを、覚えよう。
(適用)2.いつも主を喜び、賛美すれば、可能性の種が芽生える。
本文に戻って34節、「その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」
神様が造られたこの宇宙は可能性で溢れている。だから感謝し、賛美すれば可能性が成長する。私たちも可能性を見て賛美し、感謝すれば、その人は必ず勝利する。しかしある人は可能性を無視して、チャンスを殺す人がいる。自分に与えられた可能性を無視しないでほしい。
ある先生がこう言った。「この世にはシンデレラがいないのではなく、シンデレラを呼んでくれる王子様がいない。」と言った。イエス様もペテロの可能性を見て、岩だと言われた。イエス様が卑怯なペテロを、そのように呼んでくださったからペテロは岩となった。
私たちも可能性を呼んであげることが大事である。親は子供たちの足りなさを指摘するのではなく、良いことを探し出し、それを励まし、慰め、喜んで祝福しなければならない。ひたすら一つだけでも信じて、喜ぶことがとても大切である。
年をとって行くと、ますます柔和で柔らかく、誰でも抱くことができる余裕が必要である。しかし年取った年配の人々の中では批判的で、鋭い理性と口を持っている人がいる。それはただ、うるさい人である。おばあさん、おじいさんが良いのは、咎があっても失敗しても、それを覆ってくれるし、抱いてくれる。いつも良い面だけを見て喜んでくれる。このようなおじいちゃん、おばあちゃんになってほしい。
(適用)3.結局、ネブカドネツァル王は安息できる王様になった。
本文37節、「今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。」
ネブカドネツァル王が安息できた理由は?神の愛を、ヘッセド(Hassed)を信じたからである。ヘッセドの意味は?いつくしみ、愛、 失敗しない愛 (Unfailing Love)である。神は絶対に失敗しないから安心できる。
詩篇23:6、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(Unfailing love will pursue me all the days of my life)
安息というのは混沌、乱れ(chaos)を許すことができる。私たちは、この混沌を許さなければならない。混沌を許すから可能性がある。しかし安息できない人は混沌を許さず、すべてをコントロールしようとする。つまり許さないから健康ではない。例、放蕩息子の物語の中に、すべてを許すお父さんが出る。
申命記5書では十戒の命令が出る。その中心的内容は、唯一の神を信じて「安息しなさい」ということ。
出エジプトした民に、神様は「安息しなさい」と命令する。つまり、もう奴隷ではないことを教える。結局、御民の最高の姿は安息することである。
だからヘッセドを信じることは、状況と環境、条件をすべて乗り越える本当の安息である。
例、アブラムとロトの話が創世記13章に出る。アブラムにとって、状況と環境、条件は問題にならなかった。アブラムがロトに何と言う?創世記13:9、「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」アブラムには余裕がありました。
アブラハムは神のヘッセドの愛を信じたから自由であった。つまり何でも許す心の余裕は、救われたクリスチャンに現れるしるしである。
ローマ8:38、39に、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」これは失敗しない神の愛 (Unfailing love )を知った人の告白である。
レビ記25章では、安息年とヨベルの年を守るように神の命令と定めが出て来る。
ヨベルの年は何?レビ記25:8、「あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。」そして次の年、11節に、「この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。」
ヨベルの年は安息年の49年目と50年目が重なっている。2年間、何もしないで安息を取らなければならない。その安息が終わり、種を蒔いたとしても、その年は収穫を待たなければならない。だからヨベルの年は3年間、収穫がないことになる。そうしたら、どうやって生きるのか?ただ神様の約束と、神様のヘッセドの愛を信じるだけである。
レビ記25:20、21に、『あなたがたが、「もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか」と言うなら、わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。』神の約束である。
謙遜に神の恵みを体験すれば、真の安息を取ることができる。これが信仰である。
つまり、私たちの人生の中に混沌、乱れ、挑戦、何でも許して大丈夫。このすべての状況の中でも、神様のヘッセドの愛、失敗しない愛(Unfailing love)だけを信じれば、私たちは絶対に倒れない。
この主の約束を握り締め、生き生きとした命溢れる日々を過ごしたい。
ダニエル書4章の特徴、暴君と思われたネブカドネツァル王が直接記録した内容。「私」一人称を使用。自分の自慢ではなく、恥ずかしい内容を、つまり高慢によって自分自身が倒れ、低くなった姿を記録。結局、ネブカドネツァル王は神の御前で大きな恵みを受けて、証をする内容がダニエル書4章である。
ネブカドネツァル王の心が柔らかくなった理由、彼はすべての部分で最高を成し遂げた王。ユーフラテス川辺に造られたバビロンの「The Hanging Garden」だけ見ても最高の王である。しかし、結論を言えば、神の御前で謙遜になったということ。
適用、私たちはネブカドネツァル王と比べれば、取るに足りないちっぽけな者だが、高慢である。しかしネブカドネツァル王は高慢から神様の介入を通して謙遜な者へと変わった。
それでは、神のみこころとは?旧約聖書と新約聖書での神のみこころの言葉と意味の違い。
旧約-祝福(Blessing)、アブラハムは祝福の源。
新約-恵み(Grace)、パウロ-神様の恵みによって今の私になった。
祝福と恵みは相互交換できるinterchangeableなものである。つまり神からやって来て、値なしに与えられるものが 祝福と恵みである。この祝福と恵みが臨む者は必ず勝利する。ネブカドネツァル王はこの祝福と恵みを受け、謙遜へと導かれた。第一ペテロ5:5、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」結局、私たちもこの謙遜と祝福の恵みを体験しなければならない。
今日の本文の前の内容ではネブカドネツァル王の二回目の夢が出て来る。彼は夢の中で自分を表わす大きな木を見た。私たちは夢に対する誤解がある。多くのクリスチャンは夢が好きである。そして夢を通して、たくさんのことを決めようとする傾向がある。伝統的な占い信仰(御利益信仰)によって生じる影響である。
夢に対する正しい聖書的態度は?神様は主に、悪者たちに夢を通して語りかける。(例-サウル王、ネブカドネツァル王、ピラト)理由は?御言葉を聞かないから。ヨセフの時代は聖書がなかったので、ヨセフにも夢を通して神が現れた。しかし神様は主に、御言葉を通して御民に現れ、御言葉を聞かない人々には夢を通して現れる。だから申命記13:1-5には、こう言われる。「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して『さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう』と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」
本文に戻って、ネブカドネツァル王の夢は?4:10-17の内容(木の夢)。その木は生長して強くなり、その高さは天に届いていた。そしてその下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。しかしひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来て、その木を切り倒す夢であった。
ダニエルとネブカドネツァル王の反応(19節)-驚き、おびえていた。つまり、木はネブカドネツァル王を象徴し、7年間野の獣と過ごすようになるということ。そして、25節に、ネブカドネツァル王 はこの経験を通して神を発見し、真の王様が誰なのか分かるようになる。しかし私たちは王でもないのに、王様以上に高慢になっている。神様は私たちに、ネブカドネツァル王を通して「あなたは王でもないし、神でもないのだ。」と言われる。
しかし残念ながら、本文の28節の以降を見ると、ネブカドネツァル王は高慢さを維持し続けたことが分かる。神様は裁きの御言葉を与えられて、すぐに裁きを行われたわけではなく、12ヶ月の間チャンスを与えた。しかし三日坊主のようにネブカドネツァル王はその夢を忘れてしまった。そして30節に、『王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」』と自分を強調していた。
自分を強調することはとても危険なこと。そして高いところ、宮殿の屋上を歩いていたと書かれてあるが、その高いところを歩くことによってネブカドネツァル王は倒れた。ダビデも屋上を歩いていたとき、シャワーを浴びているウリヤの妻バテ・シェバを発見し、罪を犯した。自分を強調する屋上の意識、高いところはとても危険な場所である。だから聖書は常に神を見上げ、神のみこころを強調する。中国の孫子の兵法でも、最高の兵法は敵を高慢にさせることだと言う。つまり、敵を高慢にさせることは高慢になったときが一番弱いときだからである。だから私たちも高慢になってはならない。
高慢になったときは必ず神様に裁かれる。本文の4:31-33、『このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカドネツァル王よ、あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べるようになり、こうしてあなたの上を七つの時が過ぎ行き、ついにあなたは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」このことばは、ただちにネブカドネツァルの上に成就した。彼は人の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲のように、爪は鳥のように伸びた。』
高慢になったら、完全に狂ってる人生を生きるようになる。
だから目を上げ、天を見上げる必要がある。34節に、「その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」謙遜に神を見上げれば、回復し、神に栄光を返す人生を生きるようになる。
36、37節、ネブカドネツァル王の最後の告白-謙遜な王様になった。「ちょうどそのとき私に理性が戻り、私の王国の栄光のために、私の威光と輝きが私に戻ってきた。私の顧問や貴族たちに求められて、私は王位に戻り、こうして絶大な権威が私に加えられた。今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。」
結局、ネブカドネツァル王は真の王様、神様を認める人生を生きるようになった。
私たちはこのダニエル書4書を繰り返して読まなければならない。世の中で最強の王であるバビロンの王が神の御前で謙遜を学んだ。これを適用すれば、
1.高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)
2.謙遜に主を喜び、賛美すれば、可能性の種が芽生える。
3.謙遜になれば、安息(平安)の人生を生きるようになる。
(適用)1.高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。
多くの人々は高いところを目指して歩もうとする。しかし高いところは試みと試練の場所である。私たちは上座ではなく、下座に座らなければならない。下座は座って祈る姿勢である。ひざまずいて、ひれ伏すことが必要である。謙遜に仕え、祈ることがクリスチャンに求められている。
神様に出会った人々の特徴1、自分の弱さを認める。2、神に触れられる。3、感激あふれる人生を生きる。だから涙は霊的力のものさしである。心がかたくなになったら、涙が消え去り、心が柔らかくなったら、涙が出てきて霊的力がよみがえる。
チャールズ・スポルジョン牧師先生の話、
ある日、泣いている先生を見た先生の奥様はその理由を聞いた。そのとき、先生はこう言った。「イエス様の十字架を黙想しても感激がないんだ。」それで、泣いていたということ。それがまさに霊的力そのものである。
質問、なぜ私たちは霊的力を失ってしまうのか?
自分が罪をコントロールできると思っているからである。それが高慢である。私たちの傾向、罪を罪だと認めない。罪を過ち、病気、弱さだと合理化する。罪を合理化すれば、自分が罪をコントロールできると勘違いをし、その思いに支配されて高慢になる。
しかし罪人は答えのない、どうしようもない存在である。自分が責任とれない存在が罪人である。つまり、自分が解決できないから泣くようになる。そして涙の悔い改めを通して「私を哀れんでください。」と叫ぶようになる。結局、自分の力ではどうしようもないから、その無力感によって涙が出る。だから自己破産によって自分の無能力が分かれば、私たちは哀れみを求め、叫ぶようになる。
ネブカドネツァル王も泣き叫び、謙遜になったから神様に戻った。結局、私たちも礼拝を通して完全に崩れ、謙遜なしもべに戻る体験をしなければならない。
霊的力の霊性は中身を見る力である。中身が分からなければ、不従順の人生となる。試練と危機の状況では中身が見えるが、多くの場合、中身が見えないから不従順になり、失敗する。
私たちは恐れもあるし、楽な人生を生きようとする。そして方向も知らずに、一生懸命走る傾向がある。しかし、一生懸命走ることが献身ではない。むしろ熱心さが人を高慢にさせる。だから走る人生をしばらく止めて、自分が走った分、振り返って見てほしい。そうすれば、誰だって涙なしには生きられないことが分かる。私たちは涙なしには生きられません。ルカ8:6に「また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。」水分、つまり涙がなければ私たちは生きられない。
日本の現実を見ると答えがないように見える。特にディズニーランドでもないのに、Cosplayの衣装を着て道を歩いている人々を見ると、さらに胸が苦しくなる。もちろん、若者たちがそうするのは理解できる。しかしおじさん、おばさんがCosplayをして漫画の主人公のように振舞っている姿を、たまに見かけるが、全然かわいくないし、むしろ胸が重苦しくて耐えられなくなります。漫画の世界と現実が分からない人々が、この世には溢れている。この現実を見ると涙しか出ない。
しかし、この涙が希望である。日本宣教は涙でやることである。高慢になったら涙も出ないし、宣教も、伝道もできない。涙というのはどうしようもないときに出てくるし、このように神の御前で自分の無力さを認めれば、そこから神が直接、働き始める。
私たちTBICも、この地域に住んでいる人々を見ながら真の涙が出る時、伝道が始まる。そのためにはまず、謙遜にならなければならない。イエス様にも、人々にも謙遜な心で仕えなければならない。神の御前でまず、この謙遜を学ぼう。高慢は私たちの人生の中で、一番私たちを弱くさせる敵であることを、覚えよう。
(適用)2.いつも主を喜び、賛美すれば、可能性の種が芽生える。
本文に戻って34節、「その期間が終わったとき、私ネブカドネツァルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻ってきた。私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」
神様が造られたこの宇宙は可能性で溢れている。だから感謝し、賛美すれば可能性が成長する。私たちも可能性を見て賛美し、感謝すれば、その人は必ず勝利する。しかしある人は可能性を無視して、チャンスを殺す人がいる。自分に与えられた可能性を無視しないでほしい。
ある先生がこう言った。「この世にはシンデレラがいないのではなく、シンデレラを呼んでくれる王子様がいない。」と言った。イエス様もペテロの可能性を見て、岩だと言われた。イエス様が卑怯なペテロを、そのように呼んでくださったからペテロは岩となった。
私たちも可能性を呼んであげることが大事である。親は子供たちの足りなさを指摘するのではなく、良いことを探し出し、それを励まし、慰め、喜んで祝福しなければならない。ひたすら一つだけでも信じて、喜ぶことがとても大切である。
年をとって行くと、ますます柔和で柔らかく、誰でも抱くことができる余裕が必要である。しかし年取った年配の人々の中では批判的で、鋭い理性と口を持っている人がいる。それはただ、うるさい人である。おばあさん、おじいさんが良いのは、咎があっても失敗しても、それを覆ってくれるし、抱いてくれる。いつも良い面だけを見て喜んでくれる。このようなおじいちゃん、おばあちゃんになってほしい。
(適用)3.結局、ネブカドネツァル王は安息できる王様になった。
本文37節、「今、私ネブカドネツァルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだらせることのできる方である。」
ネブカドネツァル王が安息できた理由は?神の愛を、ヘッセド(Hassed)を信じたからである。ヘッセドの意味は?いつくしみ、愛、 失敗しない愛 (Unfailing Love)である。神は絶対に失敗しないから安心できる。
詩篇23:6、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(Unfailing love will pursue me all the days of my life)
安息というのは混沌、乱れ(chaos)を許すことができる。私たちは、この混沌を許さなければならない。混沌を許すから可能性がある。しかし安息できない人は混沌を許さず、すべてをコントロールしようとする。つまり許さないから健康ではない。例、放蕩息子の物語の中に、すべてを許すお父さんが出る。
申命記5書では十戒の命令が出る。その中心的内容は、唯一の神を信じて「安息しなさい」ということ。
出エジプトした民に、神様は「安息しなさい」と命令する。つまり、もう奴隷ではないことを教える。結局、御民の最高の姿は安息することである。
だからヘッセドを信じることは、状況と環境、条件をすべて乗り越える本当の安息である。
例、アブラムとロトの話が創世記13章に出る。アブラムにとって、状況と環境、条件は問題にならなかった。アブラムがロトに何と言う?創世記13:9、「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」アブラムには余裕がありました。
アブラハムは神のヘッセドの愛を信じたから自由であった。つまり何でも許す心の余裕は、救われたクリスチャンに現れるしるしである。
ローマ8:38、39に、「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」これは失敗しない神の愛 (Unfailing love )を知った人の告白である。
レビ記25章では、安息年とヨベルの年を守るように神の命令と定めが出て来る。
ヨベルの年は何?レビ記25:8、「あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。」そして次の年、11節に、「この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。」
ヨベルの年は安息年の49年目と50年目が重なっている。2年間、何もしないで安息を取らなければならない。その安息が終わり、種を蒔いたとしても、その年は収穫を待たなければならない。だからヨベルの年は3年間、収穫がないことになる。そうしたら、どうやって生きるのか?ただ神様の約束と、神様のヘッセドの愛を信じるだけである。
レビ記25:20、21に、『あなたがたが、「もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは七年目に何を食べればよいのか」と言うなら、わたしは、六年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、三年間のための収穫を生じさせる。』神の約束である。
謙遜に神の恵みを体験すれば、真の安息を取ることができる。これが信仰である。
つまり、私たちの人生の中に混沌、乱れ、挑戦、何でも許して大丈夫。このすべての状況の中でも、神様のヘッセドの愛、失敗しない愛(Unfailing love)だけを信じれば、私たちは絶対に倒れない。
この主の約束を握り締め、生き生きとした命溢れる日々を過ごしたい。
合計 184
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
184 |
ピりピ人への手紙4: 13 (天路歴程)
tbic
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2025.02.02
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ピリピ人への手紙4:6 (何も思い煩うな)
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サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
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ローマ人への手紙8:18-23(今の時のいろいろの苦しみは)
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ルカの福音書10:38-42(必要なことは一つだけです)
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へブル人への手紙4:10(神の安息に入った者)
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マタイの福音書22:35-40(イエス様の誕生、十字架の愛)
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ルカの福音書6:20-21(貧しい人々のクリスマス)
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マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
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