メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

マタイの福音書6:25-34 (あすのための心配は無用です。)

投稿者
tbic
投稿日
2022-06-26 22:39
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332
マタイの福音書6:25-34「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

私たちの未来のことを、すべて主に委ねることが神のみこころです。

ある日、神様がアブラハムの前に現れ、信じられない命令をくださいました。創世記12:1に、「主はアブラムに仰せられた。あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

神様が急に、アブラハムに現れ「あなたの国と親類、また隣人を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」とおっしゃいました。これを、へブル11:8には、こう書いてあります。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

アブラハムに対する神の計画は何でしょうか?神はこの世界をぐるっと回って、信頼できる一人を選び、彼にすべてを託して「行きなさい」と言われました。彼は地図もなく、何をすべきかも分からないし、誰に会うかも分からず、とにかく行きました。神はアブラハムに「これからわたしを信頼し、わたしの愛(哀れみ)を信じて、わたしが願う人になり、わたしが言ったことばに従って生きなさい。」と。つまり「わたしがあなたと結んだ契約(約束)に、あなたの生涯を投げ出しなさい。わたしが示す地へ行きなさい。」と言われたわけです。

神様は私たちをも同じく、この約束の地に呼ばれました。これはひたすら主の約束を信じ、あすのことは、ただ主により頼んで生きる人生を意味します。だから今日から人生の終わりまで、すべてを主に委ねることです。この使命はアブラハムにだけでなく、彼の子孫である私たちみんなが、受け取るべきものです。アブラハムは彼の人生の生き方によって選ばれました。主はアブラハムを通して、すべての民族にどう生きるべきかを、つまりどういう形で神と共に生きるべきかを、手本として見せてくださったのです。

彼は相当、年をとったときに、この召しを受けました。若者ではありませんでした。彼も、確かに自分と家族、妻、また、これから生まれるはずの子供たちへの計画があったはずです。友達もたくさんいたし、複雑な状況です。しかしただ荷物を包んで、どこへ行くかも知らずに、「ただ出て行きなさい」という声を聞いたのです。とにかく「故郷を離れれば導かれる」と。「わたしを信頼して一日一日を生きなさい。食べ物は提供する。」と主がおっしゃいました。こんな状況の中で聖書は「アブラハムが主を信じた」と。そして「主はそれをアブラハムの義として認めてくださった」と言われます。

今日の本文の25節で、イエス様は「何を食べようか、何を飲もうかと心配してはいけない」と言われます。この御言葉は、あすのための計画を立ててはならないという意味ではありません。必ず主が導くから不安にならないで、安心してほしいという意味です。どんなことがあっても絶対に絶望せず、勝手に予測しないでほしいということです。

しかしサタンはいつも「もし」という言葉を用いて、私たちを苦しめる存在です。「もし収入が悪くなってロンも払えず、仕事もできなくなったらどうする?子供はどうなるのだろう?もし病気になったらどうしよう?お金もないのに。」こんな心配、思い煩いが、不安を作り出します。こういう状況の中で主は言われます。「天の父があなたがたの必要をすべて満たしてくださるのだ。空の鳥、野のゆりも養ってくださる天の父があなたがたも養ってくださるのだ。」だから、「もしだめだったら」ではなく、常に「神は」と言ってほしいのです。今日の本文の30節に「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

私たちは過去のことは、ちゃんと主に委ねられます。過ぎ去った過去の罪と失敗は十字架に降ろし、清められます。つまり「過去のことはすべて忘れなさい」という御言葉は、簡単に受け取ることができます。そして私たちが願う未来の計画を立て、その祝福のために祈ります。しかし、それは私の計画、私の夢です。

皆さん、ちゃんと覚えてください。今私たちは、史上前例のない時を生きています。常識のはずれた出来事、真理が揺れ動き、誘惑が常にあります。そして、この世は常に大きなこと、偉大な成功を求めるべきだと私たちの野望の火に油を注いでいます。こんな悪霊のささやきにだまされて、私たちの子供たちは苦しめられます。だから子供たちは自分が価値のない存在だと思い込んでいます。彼らはストレスを受け、あらゆる精神と関わる薬を飲んでいます。以前とは大きく違って、子供たちもストレスを受けています。今まで見たことのない光景が私たちの周りで見られます。特にお母さん、お父さんたちは自分の子供の未来を全部自分が計画を立てて、何とかしようとしています。こういう成功への野望は更に子供たちを苦しめます。

しかしアブラハムを通して神様は、人間の使命はそんなことではないと言われます。神様は主の民が不義で溢れるこの世の人々のように、ストレスを受けることを願っておられません。私たちが明日のことを恐れ、ストレスを受けるのは、主のみこころではありません。神様は、皆さんの明日に対する心配も、すべてご存知です。ご安心ください。

パウロはピリピ人への手紙で、こう書きました。当時、パウロはローマの牢獄の中にいました。二人の看守が見守る中、くさりで縛られていたのです。当時の歴史家のヨセフスの記録によれば、当時囚人たちは両足が縛られていて、それを看守が監視し続けていたと言います。看守が両側で24時間、交代しながら監視したのです。パウロも同じ状況でした。当時の看守たちは暴虐の人々でした。彼らはいつも囚人たちを見てきたので、パウロも同じ目線で、犯罪者扱いをされたと思います。そんな仕事をやり続ければ、すべての人が犯罪者だと思い込んでしまいます。パウロはそんな悲惨な環境の中で虐待を受けており、それは現実の人々には、すぐダメになる環境です。パウロの働きは、もう終わりです。更にパウロが牧会していたピリピ教会の信徒たちの中で何人かは、パウロを疑っていました。彼が敬虔なクリスチャンであれば、牢屋に入るわけがないと疑っていました。そして、ある人はパウロの祈りの力を疑っていたのです。パウロが牢屋の中にいる間、このような攻撃がたくさんあったと思います。

パウロは活発な人でたくさんの人々に会い、教会を立て、積極的に働いていた人です。しかし、今は牢屋の中です。そこで彼は、自分が育てた若い牧会者たちがリバイバルを起こしていると聞きました。アポロは素晴らしく働きをし、成功を収めていました。テモテとテトスは牢屋から解放され、聖霊の力によって、彼らも素晴らしい働きをしていたのです。しかしパウロは変わらずにそのまま、くさりで縛られていました。パウロはその環境の中で、その状況をどう乗り越えたのでしょうか?皆さん、良い人に悪いことが起きるときがあります。私に悪いことが起きた時、私は静かに泣きながら「主よ。私に間違ったことは何でしょうか?」と祈ったことがあります。その時、聖霊様から「義人にはたくさんの苦難がある」と言われました。その時、私は励まされたのです。この世の人々は、これが分かりません。一日の間すべてを失って、状況が一変するときがあります。もちろん私たちは、こういう話を聞きたくありません。しかし、突然死が訪れ、夫が、或いは妻が、亡くなる場合もあります。予期せぬ変化が起き、すべてが一変するときがあります。

私は夫が亡くなった、ある中年女性の話を聞いたことがあります。夫が心情麻痺で倒れ、毎日24時間看護をし、世話をしていたのです。夫は絶望的になり、落ち込んで死ぬ直前に、こう言ったそうです。「あんたは動けないおれの状態が、どれほど惨めなのか知らないの?もう喜びもないし、運転もできない、何もできないんだ。未来をすべて奪われた。ただ悲しみだけなんだ。」と。その時、彼女はこう言ったそうです。「あなただけじゃないよ。私も幸せと未来を、全部失ってしまったのよ。私はずっと、あなただけ世話をしているんじゃない。あなたは私のことを全然考えてないのよ。」と。その女性は夫を愛していましたが、心の中には、まだまだ苦い根があったのです。苦しみは私たちみんなに訪れます。だから環境に縛られる人がいます。崩れる家庭、お金の問題、たくさんのことが苦しみの原因となります。私は多くの人々からメールを頂いています。悲惨な事件、事故、みんな連続的に苦しみに会います。

そんな人生の中で、パウロは二つの中で一つを選択できました。私たちもそうです。「どうして神様は私に、これらを許したのか。」と悩みながら、絶望することもできます。しかしそうなれば、自分の問題だけに執着し、そこにハマってしまって、周りに苦しみを受けている人々を顧みることができなくなります。そして、「主はなぜ自分の祈りに答えないのか。」と不平不満し、自分に目を留め、落ち込んで、周りの人々に迷惑をかけながら、うつになるケースも、たくさんあります。その時、主の哀れみと奇跡がなければ、そこから抜け出ることは、とても難しいです。だから私たちはなぜこうなったのかではなく、どういうふうにこの状況を乗り越え、どう対処するかが大切です。

パウロは神がこの牢屋を自分に許されたのですが、義人の歩みは神が定めるため、自分はこの牢屋でも伝道しようと、自分の使命を握り締めました。パウロは牢屋の中でも他の人々に証できる行動を取ろうと心に決めました。たとい、くさりで縛られ、苦しみを受けているのですが、福音を伝えようと心から決心しました。彼はその牢屋の中で与えられた働き(使命)がいったい何か、はっきり分からなかったのですが、死ぬにしても生きるにしても、ただキリストの栄光のために行動しようと決心したわけです。パウロは牢屋を、教会に変えたのです。

あすのことは主に委ねなさい」と言うとき、それは何もしないでほしいのではなく「私たちの状況と環境を福音伝道の通路にしなさい」ということです。パウロは苦しみを喜びに変えました。もちろん、「主よ。縛られて嬉しいです。感謝します。」と言ったわけではありません。パウロも人間だから、牢屋の中から救い出されることを切に求めたと思います。こんなパウロの弱さは、私たちにとって励ましになります。だからパウロは、どんな状況の中でも私たちが「どう反応するか」が大切だと言っています。

それはピリピ4:4に「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言ったわけです。彼は主のみこころだから、仕方がないから受け入れようとしたのではなく、積極的に喜んだわけです。そしてピリピ教会に対しても、私たちに対しても「喜びなさい」と繰り返して叫びます。

皆さん、私たちは泣くこともできるし、明日に対する恐れを抱くこともできます。しかし、私たちのすべての人生が、主の御手の中にあることを覚えてください。だから、大きなことをしなくても大丈夫です。ただ未来を主の御手に委ねてください。私たちにとって一番良いものを、主が必ず与えてくださることを、私は確信しています。使徒パウロは「福音のために生きることをもう決めたと、だから自分が受ける苦難を通しても福音が伝えられるから感謝だし、嬉しい。」と言っています。つまり自分が受ける苦難を通して、福音が伝えられるから自分は喜び溢れ、これからずっと喜ぶことができると言っています。

福音はもう確定されています。神様はどんな状況の中でも、福音がどれほど偉大であり、嵐の中でも、獅子の穴からも、私たちを救い出させる全能なる神であることを、福音は明確にしています。だからパウロは決断したと言っています。真実なイエス・キリストの福音をこの世に伝えようと決めました。福音の力によって苦難は乗り越えられると確信したわけです。キリストがパウロを通して伝えられたこの御言葉は、今私たちを通しても、伝えられています。私たちの家族や周りの人々は私たちを通して主を見ています。しかし皆さん、今恐れて神を疑い、なぜ自分なのかと不平不満していないでしょうか?周りの人々は、私たちがクリスチャンであり、大きな苦しみを受けていることをよく知っています。そしてこの世は私たちの反応を見守っています。

皆さん、私たちがどんな苦難を通過していても、私たちの反応がイエス・キリストを表していることを覚えてください。しかしもし、その反応がこの世のものであれば、私たちの証と福音、またこの御言葉は何の意味もありません。苦難に対する反応によって、私たちはイエス・キリストの従順を学びます。

パウロは主の日について、主の御前に立つその日について話しています。ピリピ2:16に、「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

パウロはいつか主の御前に立つ、その日があることを知っていました。私たちもその日が、私たちの目が開かれ、主からの啓示が明らかになるその日があることを知っています。まことの神が誰であって、主がどういう方なのか、真理が明確になる日が、必ずやって来ることを信じます。その日に私たちはキリストの栄光ある姿と天使たち、つまり主の軍勢を見ることができます。そのとき、彼らはいつも私たちを助けようとしたことが、明らかになると思います。その日、天使たちと面と向かって立つと思いますが、そのとき天使たちが神の人々、つまり私たちクリスチャンの周りに陣を敷いている姿と、聖霊の働きが明確に見えると思います。その日、本当に聖霊の働きがいつも私たちを助けたことと、全能なる神の力と偉大さを、私たちはまの当たりにすると思います。

その日パウロは、その方の前で「自分の目がくらんで、人生の中でこれらを見れなかった」と後悔したくなかったと言っています。つまり「自分は主の御前で、思い煩い、心配しながら時間を無駄にしなかったことを喜ぶ。」と、言っているわけです。だからパウロは自分の顔の表情、態度、言葉を通して、イエス・キリストを表しました。だからこそ私たちの、この苦しみの人生も、真実なイエス・キリストのメッセージとなるように、お祈り申し上げます。

愛する天のお父様、真実なこのメッセージが誰よりも自分へのメッセージとなりますように。私たちは明日のことを心配したり、まだ起きていないことを恐れたりする人生です。そんな恐れを私たちの心から取り除いてください。みことばをちゃんと聞いて理解できるように、聖霊様助けてください。主の御民が明日のことを恐れて絶望することは正しくありません。私たちの明日のことを主に委ね、感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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