メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ヘブル人への手紙1:14(御使いの助け)

投稿者
tbic
投稿日
2022-07-10 18:37
閲覧数
258
ヘブル人への手紙1:14「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

皆さん。新型コロナウイルスによって、様々な生活様式を変えなければならないこの頃ですが、そんな中でも、主が新しい領域の扉を開いてくださっています。時々、人生には思わぬ試練や問題が起こります。しかし、クリスチャンにとってそれらは、勝利への序曲となります。パウロは多くの試練に出会った人物です。彼がこんな言葉を語っています。このような心境になれたら、すばらしいと思うのですが、ローマ人への手紙5:2-5、「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ここでパウロは「患難さえも喜ぶ」と語っています。このような心境になれたら、すごいと思います。クリスチャンにとって、様々な患難や問題は、ただでは終わらないということです。ここで述べられているように、患難から忍耐が生じ、忍耐から練られた品性が生まれ、希望が生み出され、やがてその希望は、失望に終わることがない、完全な希望へと結びつきます。この事を信じて困難に対峙しなければいけないのです。

私たちは現在、困難と試練のただ中にあるのですが、そのことを通して少しは品性が変わることを期待しています。世界も今、大きな試練にさらされています。そんな中、世界全体の品性も変わりつつあります。今まで配慮しなかった領域に配慮出来るようになったのではないかと思います。時々、潔癖症などで苦しんでいる方々がおられます。不自由で大変だな、と思います。しかし、彼らの中である人はこう言うのです。「新型コロナによって生じた状況は、全然、自分にとって不自由ではないし、困っていない」と。彼はこのような時代が来ることを想定して、いつもあたりを清潔にし、消毒して生活していたそうです。ソーシャルディスタンスも、お手のものでした。だから全然、普段と同じ生活で困ってはいないと言っているのです。

皆さん、祈りの答えは考えてもみない角度から訪れる時があります。潔癖症のような症状を、「取り去って下さい。」と一般的には祈るのですが、神はその人の症状を取り去るのではなく、世界の基準そのものをその人に合わせる形で、祈りに答えて下さる事もあります。神さまは私たちが考えもしない大きな事をなさいます。

また今の状況は、大きな霊的戦いでもあります。悪魔も私たちの信仰を揺り動かそうと真剣です。今、コロナウイルスと共に、悪魔や悪霊どもは作戦会議を行っているような気がします。この機会に教会を滅ぼしてしまおうとする作戦会議です。現在、日本教会は教勢がダウンしている中、悪魔はコロナを使って一気に崩してしまおうと考えている気がします。悪魔の会議、本当に、こんな会議がなされているのではないかと思われます。このような時にこそ、私たちは試されているのです。しかし神は、弱い私たちのために、援軍を送ってくださるのです。今日はそのことを、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。先ほども読んでいただいた、今日の本文の、ヘブル人への手紙1:14、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

私たちクリスチャンの所には、み使い「天使」とも呼ばれ「天の軍勢」とも呼ばれますが、神の国と地上を上り下りして働く存在が共にいます。この事実に気づくか否かが、信仰生活の勝敗を決めると言っても過言ではありません。

旧約聖書は50回近く、新約聖書になれば150回近く、「み使い」という言葉が使用され、多くの出現があります。しかしプロテスタント教会では、そのことについてあまり語りません。それには歴史的背景があります。なぜなら、カトリック教会がみ使いを、あたかも神かのように礼拝するようになったからです。み使い礼拝は、サタン礼拝となります。なぜなら、礼拝とは神だけに献げるものだからです。神以外を礼拝すれば、そこに悪魔・悪霊どもが来て、人からの礼拝を受けます。それは偶像礼拝の罪となり、サタン礼拝となるわけです。プロテスタント教会は、それを問題にしました。それは正しい態度ですが、反面、私たちを助けるためにせっかく神から派遣された重要なみ使いの存在を意識しなくなってしまったのです。その結果、み使いの助けを感じることも、共に働くこともできなくなってしまったのです。

詩篇の中に有名な御言葉があります。詩篇91:11-13、「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

まことに主は、あなたのために、御使いたちを遣わされる。」と言うのです。「あなたのため」です。単数です。「あなたがた」ではなくて、一人ひとりのためにみ使いが遣わされるのです。

そしてみ使いたちは何をするのかというと、「すべての道であなたを守る」と言うのです。私たちの全ての営みに対して、み使いが派遣され、私たちを守るのです。それに続く記述は、「その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」と告げています。足は石に打ち当たるのが常かと思いますが、この「石に打ち当たる」という意味は次に述べられています。「あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。」ここで述べられている「獅子、コブラ、若獅子、蛇」とは悪魔・悪霊どものことです。ここからも分かるように、霊的戦いは、み使いたちが共に戦う時に勝利するのです。詩篇91篇の約束は私たちにとって重要な約束です。神が私のために、援軍を送って下さるというのですから、ある意味、最高の約束です。

しかし一方では、悪魔と悪霊どもにとっては、最悪のことばです。なぜなら、主を信じる者たちがみ使いと共に働く時、彼らは踏みつぶされてしまうという約束だからです。悪魔はこのみことばを、なんとか曲解させ、このみことばが機能しないように働いているはずです。み使いたちの存在を意識させないようにしているはずです。実際サタンは、このことばをねじ曲げて引用しました。その箇所を聖書に見いだすことができます。悪魔はそれを、イエス様に対して使いました。

イエス様は40日間、荒野でサタンの誘惑を受けたのですが、ある時、イエス様は悪魔によって、都に連れて行かれて、神殿の頂に立たされました。エルサレムには、神殿があり、周りには高い城壁があります。イエス様はそこに立たされました。そこで悪魔は何と言ったのかというと「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」と言いました。自殺行為です。イエス様に無謀なことをやらせようとしたのです。ここで悪魔は詩篇91篇を引用しています。

マタイの福音書4:6、『こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

皆さん、悪魔が詩篇91篇を引用しているのが分かりますか?その時にイエス様は4:7に『イエスは言われた。「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。』と、みことばによって対応されました。これは主を信じる者たちへの警告です。悪魔はこのようにして、御言葉をねじ曲げて引用するからです。「身を投げろ」という自殺行為と「獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじる。」とでは大違いです。悪魔は自分が踏みつけられないように、御言葉の意味を曲解し、人々に無謀な行為を強いてくることを、イエス様の体験を通して、私たちに警告しているのです。

み使いたちは、神が天と地を造られる以前に、すでに創造されていた存在です。ヨブ記38:7、「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」この「神の子たち」とは「み使いたち」のことです。み使いとは、神によって創造された最初の被造物と言っても過言ではありません。そして我々人類に強く関わり、神の目的を地上にもたらす重要な存在です。悪魔は元み使い、元天使ですから、そのことをよく知っています。

皆さん、人とは何のために造られたのかについて、何度もお話をさせていただきました。詩篇8:5の御言葉は同じ箇所が二つの訳で掲げられています。一方は新改訳2003で、もう一つは新改訳2017です。聖書は、原典においては完全な神のことばです。しかし翻訳されると、原文と意味が変わったりしますから、その点には注意が必要です。ここはある意味、その最たる箇所ではないかと思われます。詩篇8:5、「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」と2003では訳されています。しかし同じ箇所を2017では、「あなたは、人をみ使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。」となっています。

どうでしょうか?人は神に次ぐ存在なのか、それとも、み使いより下位の存在なのかで、権威の序列は全く変わります。神で、人で、み使いなのか、もしくは新改訳2017のように、神で、み使いで、人なのかで、権威の序列が全く変わってしまうからです。もしも2017の訳が正しければ、今日の本文のみことば(ヘブル人への手紙1:14 )は成り立たなくなります。なぜなら、み使いは人間より上位の存在ですから、人がみ使いに仕えなければなりません。ということは、どっちが正しいかと言ったら、人は神に次ぐ存在として創造されたのです。原文のヘブライ語では、「神より」、または「み使いより」は、「エロヒーム」という言葉が使われています。これは本来、「」としか訳すことのできない言葉です。

ではどうして、こういうことが起こるのかと言えば、悪魔の策略だと思います。チャールズ・クラフトという有名な聖書学者が「聖書翻訳の中で、最もなげかわしい箇所はこの箇所だ。」と指摘しています。世界の聖書の半数くらいが「神」を「み使い」と訳してしまっていると言われます。これは伝統的な翻訳の影響や、翻訳に使った写本の違いなどによります。正しくは、「人は神よりいくらか劣る存在として造られた存在」なのです。私たちはみ使いを配下において、敵を打ち破り、様々な被造物を管理するのです。

最初に神はみ使いたちを創造し、その後、天と地を創造したのです。その時、み使いたちは創造のみわざを見て、心から喜んだわけです。天と地を創造した後、神はみ使いたちに被造物を割り当て、管理を任せたのがわかります。その証拠に黙示録には、「16:5、水をつかさどるみ使いたち」とか「14:18、火をつかさどるみ使いたち」「7:1、風をつかさどるみ使いたち」というような存在が出てきます。

ある神学者が「神は天使たちに被造物世界に関連する仕事を分担させているように見える。天使たちは被造物世界を守り、その世話をし、神から命じられたことを実行する。水の天使は水脈の責任を担当すると思われる。」と、黙示録16章の記述の注解として説明していました。

初め神が天と地を創造した時、神はみ使いたちに管理を委ねられたわけです。しかしながらその後、大事件が起きます。それは、み使いたちの三分の一が神に謀反を起こして、地にたたき落とされたからです。こうなると神はみ使いたちに、被造物を管理させることは出来ません。その結果、神は何をされたのかというと、み使いたちの上位に人を創造されたのです。今までみ使いたちのボスは神さまだったのが、三分の一が反乱したため、み使いたちを管理する人を創造する必要に迫られたわけです。その結果、アダムとエバが造られて、すべての被造物を委ねられたのです。

けれども人も悪魔の誘惑に騙されて神の怒りに触れて堕落してしまったのです。その結果、み使いたちはかなりのダメージを受けたはずです。み使いたちの三分の二は、創造の初めから現在まで神に仕えている存在です。にも関わらず、ボスである人が罪を犯したゆえに、み使いたちも、み使いたちに委ねられた権限が制限されてしまったのです。しかし私たちがイエス・キリストを信じる時、人のポジションが回復されてみ使いたちの管理人としてみ使いたちの上に君臨できるのです。

今管理人である私たちクリスチャンと、最初に管理を任されたみ使いたちが協力したら、悪しき力は打ち砕かれて、神の国が現れるのです。ということは、悪魔・悪霊どもは、クリスチャンが、み使いの存在に気づくことを最も嫌い、恐れているのです。今日一人ひとりに、神はみ使いを遣わしておられます。み使いたちにはそれぞれ役割があります。神はクリスチャンとみ使いが協力して、働きを進めることを願っておられます。

聖書を読むと、み使いには名前が付いていて、様々な役割があることが分かります。「ミカエル」とか「ガブリエル」という名前が出て来ます。聖書が成立するにあたり、様々な文書が影響を与えました。外典と呼ばれる聖書成立に貢献した書物があります。外典の扱いには注意が必要ですが、その中に「トビト記」という書物があります。それはユダヤ教では外典として、カトリック教会や正教会は続編と使い、プロテスタントでは、聖書からは外しています。その中には、「ラファエル」とか「ウリエル」という名のみ使いが出て来ます。「ラファエル」とは「神の薬」という意味で、その名のごとく、疫病や災害をつかさどり、人間の魂を支配するという存在が出て来ます。

これを百パーセント受け入れることは出来ませんが、私たちの健康に関わったり、自然災害に関わり、今回のコロナにも関わる天の軍勢がいるはずです。私たちは彼らと一緒に戦う必要があります。聖書には「水、風、火をつかさどるみ使い」だけでなく、「光のみ使い」というのも出てきます。光は物質です。光のみ使いという、第二コリント人への手紙の記述は「11:14、変装するみ使い」について述べています。また「ラファエル、薬をつかさどるみ使い」もあるはずです。

皆さん、現在も世界は新型コロナウイルスの脅威にさらされ、痛み苦しんでいます。世界中、数え切れないほどの「子羊たち」の泣き声が「羊飼い」の元に届いていることと思います。皆さんのお祈りで、私たちはここまで守られて来たことを、本当に感謝しています。更に祈りが必要です。天のみ使いが一緒に加わって戦う時、大勝利に結びつくことを覚えたいと思います。

今日の本文、ヘブル人への手紙1:14をもう一度読みましょう。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

今日皆さんの所に、強い天の軍勢が来て一緒に戦っていることを覚えて、主のみ名をあがめたいと思います。最後に一言お祈りします。

ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。あなたの守りの中で、今まで生きることが許されて、心から感謝します。今日は更にすべての兄弟姉妹の所に強い天使たちを遣わしてください。その軍隊によって勝利を勝ち取ることができますように。また、御言葉と聖霊によって、宣言します。私たちの傷んだ体も、イエスさまの完璧な細胞となりますように。そして、イエスさまの完璧な血液となりますように。あなたが共にいてくださいます。あなたの大きな祝福を心から感謝し、主イエスの御名によって、教会全体の祈りとして、み前におささげいたします。アーメン。
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