メッセージ
あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105
コリント人への手紙第二8:14(人生は公平ではない)
投稿者
tbic
投稿日
2022-07-31 22:19
閲覧数
481
コリント第二8:14「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。」
有名な聖書個所、テサロニケ第一5:16-18のみことば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」これはキリスト教会の中ではスローガンのような御言葉ですが、決してスローガンとして用いられる御言葉ではありません。
この御言葉の力は、「あーしよう!こうしよう!」から出るのではく、「深い根」から出る真理です。上へ上へ伸びて成長する「高さ」は下へ下へ伸びる「根の深さ」が左右します。
雑草の生命力は根の深さにあります。雑草は最悪の状況、最悪の条件でも深く根を下ろします。それが雑草の生命力です。深く根を下ろした信仰は絶対に揺れません。
だからこそ、クリスチャンとして「公平」にこだわったら、絶対に不平不満と恨みを持つようになります。皆さん、人生は公平ではありません。これが常識です。
私たちは顔の形が異なり、背の高さが異なります。生まれた国も異なるわけです。ネパールでは一日中、荷物を担いで山を登って、20ドルをもらいます。私たちは200ドルをもらっても、荷物を担いで山を登る人はほとんどいません。これが人格の差でしょうか?いいえ、国の経済力の差です。本当に不公平です。
アメリカの元大統領のジョンFケネディに、ある記者が聞きました。「ベトナムに派兵された兵士たちの犠牲が増えている。しかし、西ドイツに派兵された兵士たちは家族とともに快適な軍隊の生活をしている。これは不公平だと思わないか?」と。不満の質問でした。その時、ケネディは断固とした態度で答えました。「Life is not fair. 人生は公平ではない。」
皆さん、軍人は「公平」のために生きる存在ではなく、「使命」のために生きる存在です。人生を「公平」の概念で取り扱うと、恨みしか出て来ません。そうすれば、必ず失敗者となります。しかし人生を「使命」の概念で取り扱えば、そこから方向が見え、情熱が出て来ます。
韓国の有名なクリスチャン詩人、ソン・ミョンヒさんは、脳性麻痺を患っている障害者でもありますが、最初は貧しさ、障害、繰り返す引っ越しで、不平不満ばかりを言っていたそうです。
しかしある日、祈りの中で神様の声を聞いたのです。「本当に辛いの?そうしたら、あなたの不平不満のことを書いてみなさい。」それで書いてみました。「私は持っている知識もなく、私は持っている財物もなく、私は他人にある健康もない。」
そして神様は、今度は「公平なる神を書きなさい。」と言われました。それは「できない。」と反発しました。「そうしたら、他人にはない、あなただけ持っていることを書いてみなさい。」と主は語られました。それで書いてみました。
「私は他人が見ていないものを見て、私は他人が聞いていない声を聞き、私は他人がもらっていない愛を受け、私は他人が知らないことを知った。」
そうしたら、もう「公平なる神様」が、心の奥底(内側)から湧いてきたのです。彼女の人生の中に使命が見えてきました。やるべきことが見え始めたのです。彼女の素直な詩を通して、たくさんの人々が主に立ち返りました。皆さん、自分が持っているものに焦点を当てると、感謝が湧いて来るはずです。使命の炎が燃え上がるのです。
日本はますます壁を作っていく「壁だらけの都市」となって行きます。東京の人は東京の人と結婚し、大阪の人は大阪の人と結婚しようとしています。なぜでしょうか?恐れているからです。怖いから壁を作って、自分のものを守ろうとする考え方です。
カインがアベルを殺して追い出されました。恐れのために、彼がやったことは城壁を作り、城を築き上げたのです。自ら閉鎖された都市を造りました。それは恐れから出て来た安住でした。自ら死ぬ道を選んだということです。
皆さん、神様が私たちに他の人より、賜物をもっと与えて下さった理由は何ですか?それはない人々に与え、今日の本文、コリント第二8:14を成就するためです。コリント第二8:14、もう一度読みます。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。」
皆さん、ある者がない者に与え、ある者からない者に流れることが「使命」です。だから、自ら守っている壁を崩し、神から与えられる安全を楽しんで見てください。そして自分にもっとあるものを他人に与え、他人に流すことがクリスチャンの使命です。
神様の夢はゼカリヤ書2:4-5のように、「城壁のない町」です。その町は、神様がいつも「火の柱」で守ってくださる「火の城壁」となります。「エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。わたしが―主のことば―それを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる。」
皆さん、神様に対する信頼がなければ、使命もありません。自分が自分を守る、空しい戦いをしながら、一生を送ってしまう、そんな愚かな人生を止めて下さい。それは、人生を生きることではありません。正しい人生を生きて行って下さい。長くない人生、神の栄光ではない、愚かなことに時間の無駄遣いをしないで、正しく生きようではありませんか。それは「愛」で満たされた人生を生きることです。
私たちの人生には、人生のクラスが変わる瞬間があります。それは、人生の中で一番大切なことが「愛」であることを悟る瞬間です。私たちは愛するとき、一番うまくできます。よく考えてみて下さい。いつ、うまくできましたか?愛するとき、一番うまくできました。親切、笑顔、寛容、忍耐、これらはすべて愛すればできることです。愛すれば難しくありません。愛すれば簡単です。愛すれば一番うまくできます。それを私たちは、すでに経験しています。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、、」(ガラテヤ5:22-23)こういう御霊の実も愛ができれば、残りの実は簡単にできます。だから、御霊の九つの実の一番最初が愛です。
ヨナは祈りの訓練、従順、忍耐などの、すべての訓練を通った預言者でした。しかし、まだ一つ足りなかったのです。それは「愛」がありませんでした。だから、何もない存在でした。
皆さん、神は愛です。しかし、ヨナは愛がありませんでした。だから、神様と一つになれなかったのです。結局、ヨナは神様が愛であることを知り、敵のニネべの人々を赦すべきことも知りました。しかし、それが気に入りませんでした。
ヨナを見ても分かりますが、多くの人々が一番嫌がるのは「他人への恵み」です。他の人々に恵みが臨むのを見て、むしろ怒るのです。自分に臨んだ恵みだけを喜びます。
皆さん、本当に神様の恵みを信じますか?そうしたら、他人に臨んだ恵みも喜び、他人に臨むべき恵みを求めて下さい。本当に他人に臨んだ恵みを喜び、他人に恵みが臨むことを祈ることができるのであれば、その人は真の恵みを知っている人です。
しかし、ヨナは愛がなかったから、恵みも知りませんでした。だから、一生懸命に頑張っても実がなかったのです。愛がなければ、何もありません。
そして、愛が充分注がれる時、働きが可能です。罪人である人間は子どもを正しく育てることはできません。なぜでしょうか?子育ては犠牲と献身が必要だからです。だから、神様が愛を注いでくださいました。それが母性愛です。勝手に生きてきた女性もお母さんになれば、犠牲的になります。神様が母性愛を与えて下さったからです。
働きも同じです。愛がなければ働きができません。パウロに愛が注がれたから、働きができたわけです。ステパノにも愛が注がれたから、赦しと祈りが出て来ました。だから、いつ働くべきでしょうか?愛が注がれるときです。愛を握りしめ、働いてください。そうすれば、働きは簡単です。うまくできます。必ず実を結びます。
この愛は私たちにはありません。だから、愛を求めてください。神様に注がれる愛を求めて下さい。そのとき、真の働きができます。しかし愛がなければ、成長も実も何もありません。
皆さん、皆さんに変化がないんでしょうか?愛がないからです。成長がないんでしょうか?愛がないからです。愛の確信がなければ、私たちは忍耐もできません。「すべてを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)という神のみことばの確信も、愛の確信です。
アメリカで、1940年代に最高のコメディアンはザク・ベニーでした。その当時、ザニー・カソンというコメディアンもいたのですが、彼はザク・ベニーを真似しようとしたのです。しかし、大失敗でした。だからそれを気づき、ザニー・カソンは自分だけの個性を生かして、当時最高のコメディアンとなりました。
また、今度はデイビッド・レターマンというコメディアンがザニー・カソンを真似しようとしたのです。それもやはり失敗して、自分が誰なのかを再発見し、たった一人である自分の個性を生かして、また当時の最高のコメディアンとなったという話があります。
だから、ここで私たちが学ぶべき教えは何でしょうか?もちろん自分の個性も大切ですが、その前に失敗も大切に取り扱わなければならないということです。失敗なしには、自分の個性にも気づくことができないからです。
そうしたら、誰が失敗を、ちゃんと取り扱うことができるのでしょうか?忍耐ができる人です。しかし、この忍耐は愛の確信がなければ、所有できません。だから、愛は最後の最後まで生き残らせる真の力です。この愛こそが、失敗に打ち勝つ真の力です。また、愛は最高の人を生み出します。だから愛のないすべての働きは、空しいことであり、全部無駄です。
愛する皆さん、だからこそ、たった一つの願いは何かと聞かれたら、愛をくださいと求めて下さい。愛を受けるのであれば、すべてを得ることになります。そうしたら、何でもできるし、何でもうまく行きます。だから結局、愛がすべてだということです。
有名な聖書個所、テサロニケ第一5:16-18のみことば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」これはキリスト教会の中ではスローガンのような御言葉ですが、決してスローガンとして用いられる御言葉ではありません。
この御言葉の力は、「あーしよう!こうしよう!」から出るのではく、「深い根」から出る真理です。上へ上へ伸びて成長する「高さ」は下へ下へ伸びる「根の深さ」が左右します。
雑草の生命力は根の深さにあります。雑草は最悪の状況、最悪の条件でも深く根を下ろします。それが雑草の生命力です。深く根を下ろした信仰は絶対に揺れません。
だからこそ、クリスチャンとして「公平」にこだわったら、絶対に不平不満と恨みを持つようになります。皆さん、人生は公平ではありません。これが常識です。
私たちは顔の形が異なり、背の高さが異なります。生まれた国も異なるわけです。ネパールでは一日中、荷物を担いで山を登って、20ドルをもらいます。私たちは200ドルをもらっても、荷物を担いで山を登る人はほとんどいません。これが人格の差でしょうか?いいえ、国の経済力の差です。本当に不公平です。
アメリカの元大統領のジョンFケネディに、ある記者が聞きました。「ベトナムに派兵された兵士たちの犠牲が増えている。しかし、西ドイツに派兵された兵士たちは家族とともに快適な軍隊の生活をしている。これは不公平だと思わないか?」と。不満の質問でした。その時、ケネディは断固とした態度で答えました。「Life is not fair. 人生は公平ではない。」
皆さん、軍人は「公平」のために生きる存在ではなく、「使命」のために生きる存在です。人生を「公平」の概念で取り扱うと、恨みしか出て来ません。そうすれば、必ず失敗者となります。しかし人生を「使命」の概念で取り扱えば、そこから方向が見え、情熱が出て来ます。
韓国の有名なクリスチャン詩人、ソン・ミョンヒさんは、脳性麻痺を患っている障害者でもありますが、最初は貧しさ、障害、繰り返す引っ越しで、不平不満ばかりを言っていたそうです。
しかしある日、祈りの中で神様の声を聞いたのです。「本当に辛いの?そうしたら、あなたの不平不満のことを書いてみなさい。」それで書いてみました。「私は持っている知識もなく、私は持っている財物もなく、私は他人にある健康もない。」
そして神様は、今度は「公平なる神を書きなさい。」と言われました。それは「できない。」と反発しました。「そうしたら、他人にはない、あなただけ持っていることを書いてみなさい。」と主は語られました。それで書いてみました。
「私は他人が見ていないものを見て、私は他人が聞いていない声を聞き、私は他人がもらっていない愛を受け、私は他人が知らないことを知った。」
そうしたら、もう「公平なる神様」が、心の奥底(内側)から湧いてきたのです。彼女の人生の中に使命が見えてきました。やるべきことが見え始めたのです。彼女の素直な詩を通して、たくさんの人々が主に立ち返りました。皆さん、自分が持っているものに焦点を当てると、感謝が湧いて来るはずです。使命の炎が燃え上がるのです。
日本はますます壁を作っていく「壁だらけの都市」となって行きます。東京の人は東京の人と結婚し、大阪の人は大阪の人と結婚しようとしています。なぜでしょうか?恐れているからです。怖いから壁を作って、自分のものを守ろうとする考え方です。
カインがアベルを殺して追い出されました。恐れのために、彼がやったことは城壁を作り、城を築き上げたのです。自ら閉鎖された都市を造りました。それは恐れから出て来た安住でした。自ら死ぬ道を選んだということです。
皆さん、神様が私たちに他の人より、賜物をもっと与えて下さった理由は何ですか?それはない人々に与え、今日の本文、コリント第二8:14を成就するためです。コリント第二8:14、もう一度読みます。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。」
皆さん、ある者がない者に与え、ある者からない者に流れることが「使命」です。だから、自ら守っている壁を崩し、神から与えられる安全を楽しんで見てください。そして自分にもっとあるものを他人に与え、他人に流すことがクリスチャンの使命です。
神様の夢はゼカリヤ書2:4-5のように、「城壁のない町」です。その町は、神様がいつも「火の柱」で守ってくださる「火の城壁」となります。「エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。わたしが―主のことば―それを取り巻く火の城壁となる。わたしがそのただ中で栄光となる。」
皆さん、神様に対する信頼がなければ、使命もありません。自分が自分を守る、空しい戦いをしながら、一生を送ってしまう、そんな愚かな人生を止めて下さい。それは、人生を生きることではありません。正しい人生を生きて行って下さい。長くない人生、神の栄光ではない、愚かなことに時間の無駄遣いをしないで、正しく生きようではありませんか。それは「愛」で満たされた人生を生きることです。
私たちの人生には、人生のクラスが変わる瞬間があります。それは、人生の中で一番大切なことが「愛」であることを悟る瞬間です。私たちは愛するとき、一番うまくできます。よく考えてみて下さい。いつ、うまくできましたか?愛するとき、一番うまくできました。親切、笑顔、寛容、忍耐、これらはすべて愛すればできることです。愛すれば難しくありません。愛すれば簡単です。愛すれば一番うまくできます。それを私たちは、すでに経験しています。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、、」(ガラテヤ5:22-23)こういう御霊の実も愛ができれば、残りの実は簡単にできます。だから、御霊の九つの実の一番最初が愛です。
ヨナは祈りの訓練、従順、忍耐などの、すべての訓練を通った預言者でした。しかし、まだ一つ足りなかったのです。それは「愛」がありませんでした。だから、何もない存在でした。
皆さん、神は愛です。しかし、ヨナは愛がありませんでした。だから、神様と一つになれなかったのです。結局、ヨナは神様が愛であることを知り、敵のニネべの人々を赦すべきことも知りました。しかし、それが気に入りませんでした。
ヨナを見ても分かりますが、多くの人々が一番嫌がるのは「他人への恵み」です。他の人々に恵みが臨むのを見て、むしろ怒るのです。自分に臨んだ恵みだけを喜びます。
皆さん、本当に神様の恵みを信じますか?そうしたら、他人に臨んだ恵みも喜び、他人に臨むべき恵みを求めて下さい。本当に他人に臨んだ恵みを喜び、他人に恵みが臨むことを祈ることができるのであれば、その人は真の恵みを知っている人です。
しかし、ヨナは愛がなかったから、恵みも知りませんでした。だから、一生懸命に頑張っても実がなかったのです。愛がなければ、何もありません。
そして、愛が充分注がれる時、働きが可能です。罪人である人間は子どもを正しく育てることはできません。なぜでしょうか?子育ては犠牲と献身が必要だからです。だから、神様が愛を注いでくださいました。それが母性愛です。勝手に生きてきた女性もお母さんになれば、犠牲的になります。神様が母性愛を与えて下さったからです。
働きも同じです。愛がなければ働きができません。パウロに愛が注がれたから、働きができたわけです。ステパノにも愛が注がれたから、赦しと祈りが出て来ました。だから、いつ働くべきでしょうか?愛が注がれるときです。愛を握りしめ、働いてください。そうすれば、働きは簡単です。うまくできます。必ず実を結びます。
この愛は私たちにはありません。だから、愛を求めてください。神様に注がれる愛を求めて下さい。そのとき、真の働きができます。しかし愛がなければ、成長も実も何もありません。
皆さん、皆さんに変化がないんでしょうか?愛がないからです。成長がないんでしょうか?愛がないからです。愛の確信がなければ、私たちは忍耐もできません。「すべてを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)という神のみことばの確信も、愛の確信です。
アメリカで、1940年代に最高のコメディアンはザク・ベニーでした。その当時、ザニー・カソンというコメディアンもいたのですが、彼はザク・ベニーを真似しようとしたのです。しかし、大失敗でした。だからそれを気づき、ザニー・カソンは自分だけの個性を生かして、当時最高のコメディアンとなりました。
また、今度はデイビッド・レターマンというコメディアンがザニー・カソンを真似しようとしたのです。それもやはり失敗して、自分が誰なのかを再発見し、たった一人である自分の個性を生かして、また当時の最高のコメディアンとなったという話があります。
だから、ここで私たちが学ぶべき教えは何でしょうか?もちろん自分の個性も大切ですが、その前に失敗も大切に取り扱わなければならないということです。失敗なしには、自分の個性にも気づくことができないからです。
そうしたら、誰が失敗を、ちゃんと取り扱うことができるのでしょうか?忍耐ができる人です。しかし、この忍耐は愛の確信がなければ、所有できません。だから、愛は最後の最後まで生き残らせる真の力です。この愛こそが、失敗に打ち勝つ真の力です。また、愛は最高の人を生み出します。だから愛のないすべての働きは、空しいことであり、全部無駄です。
愛する皆さん、だからこそ、たった一つの願いは何かと聞かれたら、愛をくださいと求めて下さい。愛を受けるのであれば、すべてを得ることになります。そうしたら、何でもできるし、何でもうまく行きます。だから結局、愛がすべてだということです。
合計 182
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New サムエル記第二15:1-37、(アブサロムとダビデ)
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マラキ書4:1-3(義の太陽であるイエス様)
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