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あなたのみことばは, 私の 足のともしび, 私の 道の 光です.
詩篇 119:105

ピリピ人への手紙2:16-18(むだでない人生) 

投稿者
tbic
投稿日
2022-08-22 18:26
閲覧数
328
ピリピ2:16-18「いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」

私たちは今こういう風に生きていて、人生の歩みをしています。ここに集っている一人一人の人生のことを考えると、それぞれ生き方は違っていると思います。皆さん、人生を歩んでいる中で、果して自分の人生に意味があるのかということを考えたことはありますでしょうか?「人が生きていく人生に、意味はあるのか」という問いは、古くから、あるいは今でも多くの人々が問題にしている問いだと思います。今、このような問いを持っておられない方も、ふと自分の人生を振り返った時に、自分の人生は何なのか、自分が生きていることに果して意味があるのかという問いの前で、悩んでしまうかもしれません。あるいは人生の最後の最後、いわゆる死ぬ瞬間になって、自分が生きてきた生涯は果して意味があったのだろうかというような問いに襲われるかもしれません。

そうしたら、意味ある人生とは何でしょうか?ある人は人生に意味を持つためには、人間が幸せになることだと言っています。自分が幸せになれば、生きる意味がそこから生み出されるということです。ある人は人生に意味を持つためには、人間に価値をもたらすことだと言っています。つまり、人生の中で勝ち組といいますか?人生に成功した者だけが人生の意味を知ることができるということです。だからある人々にとっては、金持ちになることが、人生に意味を見いだすことです。当然その人々は、富や財産を大きくすることによって、人生の成功者になれると考えるのです。またある人々は、富や財産よりも、人生の中で良い働きをして、名前を残すことによって、人生の意味を見いだせると考えます。功績を残すということです。更には自分の家族を幸せにすることができたかどうかで、自分の人生に意味を見いだす人もいます。そして他の人々にどれだけ尽くすことができたかどうかで、自分の人生に意味を持たらす人もいます。このようなことから人生の意味を見いだしていくことは、様々であると言ってもいいと思います。これは一般的には、ある程度やむを得ないことです。

しかしながら少なくとも、私たちクリスチャンにとっては、イエス様のことを信じない人々と比べて、やはり違うということが本当に言えるのでしょうか?でも、私たちにとっても、人生に意味があるのか、ないのかという問いは、常に押し迫ってくる問題だと思います。それにイエス様のことを信じるという信仰を持つことによって、幸せになれるのかという問い掛けは、いつの時代にも問われてきた問題だと思います。つまり「信仰があれば、果して幸せになれるのか」ということです。これは昔からずっと問い続けられてきた問題だと思います。まさに今、私たちに向けられた問いでもあります。皆さんは今、イエス様を信じることによって、幸せですか?あるいはイエス様を信じることによって、人生に意味を見いだしましたか?人生に意味を見いだすこと、つまり私たちクリスチャンの人生は、無駄であるかどうかという質問でもあります。言い換えれば「イエス様を信じることは、無駄ですか?」という質問です。

私はTBIC教会に来て、もう11年が立ちました。日本で伝道者として歩みはじめて、21年が立ったということです。そして先程の問いが、いつも私の頭の中にあります。イエス様を信じることは無駄ではないのか、あるいはここでこのように、イエス様のことを語ることは無駄ではないのかという問いが、いつも私の心の中で沸いてくるのです。この説教を作るために苦労して、時間を使っていることも無駄ではないのかという思いが、時々沸いてくるのです。そんな時、今日示されたこの御言葉を受け止め、安心すると言いますか、恵みをいただいたような気がします。これはイエス様を神様として信じる、いわゆる信仰を持って人生の歩みをしている人にとっては、慰めの御言葉だと思います。あるいは、まだイエス様のことを信じていない人々にとっても、聞いてほしい神の御言葉だと思います。

さて、今日与えられたピリピ人への手紙2:16の後半には、こう記されています。「私は自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」今日の中心の御言葉です。これは、聖書の中に収められている手紙の一節です。この手紙を書いたのは使徒パウロですが、彼は最初からイエス様のことを信じて、それを伝えていったのではなく、むしろ逆でした。イエスという者なんか、絶対に神として信じないとパウロは思っていました。それよりも、イエスを神として信じる人々や教会を許せなかったのです。そのため、イエス様を信じる人々を迫害し、時にはその人々を捕まえて、牢獄に入れました。この手紙を読み進めていくと、パウロの告白にそれを見ることができます。3:6に「その熱心は教会を迫害したほどです」と記されています。このように、自分のことを語っているのです。

それまでパウロは、その当時のユダヤ教を熱心に学んでいて、それが神様を信じていると思っていました。ところが、そのパウロの熱心さが逆に神様から遠いものになっていたのです。パウロが熱心に神様を信じていると思っていた時に、いわゆる人生に意味を見いだしていた時に、神様から一番遠かったのです。まさにその時、イエス様に出会います。それは、パウロがダマスコという町へクリスチャンを迫害するために、出かけていた時でした。その時はすでにイエス様が十字架につけられ、殺されていて、それから3日後に復活され、天に昇られたのです。その復活されたイエス様がパウロに現れ、本当に神様を信じるということがどういうことなのかを、示してくださいました。

そこからパウロは、真のイエス様に出会い、イエス様が神様だと知ることによって、新しく生まれ変わったのです。それまでの人生を一気に変えられました。つまりパウロは、迫害する者から、迫害される者に変わったということです。それで今パウロは捕らえられ、牢獄の中にいます。まさしくこのピリピ人への手紙は、パウロが牢獄の中で書いた手紙です。いつ殺されるか分からない危険な状態の中で書かれた手紙だということです。このような特別な状況の中で書かれてはいますが、私たちがイエス様を信じることに関しては、同じことだと思います。しかも、この手紙はピリピ教会の人々に送っているものですが、時を越えて、今この手紙を読んでいる私たちにも訴え掛けているパウロからのメッセージです。

さてそのパウロが16節で、自分の苦労、つまり自分の人生は無駄ではなかったとはっきり語っています。恐らくピリピ教会の人々が「果して信仰を持つことは無駄ではないのか」という不安を持っていたため、パウロが手紙を書き送ったと思います。更に自分がイエス様を信じ、生きて来たことを振り返ることによって「果して自分の人生に意味があったのか」ということを考えたと思います。パウロはピリピの人々にイエス様の御言葉を伝えることによって、彼らを信仰へと導きました。今ではイエス様の御言葉をいのちの言葉として、しっかりと受け止め、彼らがイエス様の恵みの中で生きつづけていることに、誇りを持っています。だからこそパウロは、自分の働きが無駄ではなかったと確信できたのです。それだけでなく、パウロが伝えたイエス様の御言葉によって、ピリピの人々は救いに導かれ、パウロ自身もこのイエス様の御言葉に命をかけていたから、確信はなおさらのことでした。

では、このイエス様の御言葉、命の言葉とは一体何でしょうか?それは、私たちを生かす命の言葉です。まさしく命の言葉は私たちに良いお知らせを運んで来るものです。それを福音と呼んでいるのです。命の言葉はまさしく、イエス様そのものなのです。それは、イエス様が私たち人間のために、十字架につけられることによって、私たちの神から離れている心、自己中心に生きる罪から救ってくださったということです。

それだけでなく、イエス様は十字架につけられ、死なれた後、その三日後によみがえられ、死を打ち破り、死から勝利してくださいました。そのためにイエス様は私たちにも復活の命を、そしてイエス様と一緒に生きるという永遠の命を与えてくださいました。だから福音とは、イエス様の十字架と復活のことを意味します。だからこそ命の言葉とは、このイエス様の十字架と復活による救いの言葉です。この救いの命の言葉によって、私たちが喜んで活き活きと、生きることができます。この命の言葉をピリピの人々が、しっかりと受け止めているのです。それだけでなく、私たちもこの命の言葉をしっかりと受け止めています。だからこそパウロは、イエス様のことを伝えるために走ってきたことや苦労したことが、無駄ではなかったと言っているわけです。

しかしそれだけでなくパウロは、「キリストの日に誇ることができます」と語っているのです。キリストの日とは、聖書では主の日と呼ばれています。しかも今、日曜日も私たちは主の日(主日)と呼んでいることに気づきます。そのキリストの日とは、復活されたイエス様が天にのぼられた後に、今私たちが住んでいるこの世界に再びおいでになる日だということです。つまりイエス様が再びおいでになって、私たちの救いを完成させてくださる日です。それで私たちが、今ここでこのように主日の礼拝をささげるのは、イエス様の復活をお祝いし、イエス様が再び来られるのを待ち望んでいることを表しています。だからキリストの日とは別の言い方をすれば、この世の生活がはっきりと切り離される日です。日常の生活から離れるということです。だから主の日の礼拝は聖よく、厳粛になるのです。もう一つ私たちにとって、この世の生活がはっきりと切り離される日があります。それは私たちが死ぬ時です。しかし私たちにとって死は、この世の生活が切り離されて人生が終わるということではありません。その時私たちは、神の御前に立たされるのです。だから私たちの死もまた聖よく、厳粛であるということが言えます。

最近は20世紀が終わり、21世紀が始まったことによって、世紀末とか、終末という言葉がしょっちゅう語られています。この世が終わるということです。その終末という言葉を聞けば、環境問題や核兵器による戦争、あるいは地震などの自然災害によって、世界が終わるということを考えるのです。つまり多くの人々が終末と言えば、人類が滅亡する日、世界がめちゃくちゃに破壊される日だと考えています。しかしそれよりも、終末とは今生きている私たちが死ぬことです。この私たちが死ぬことが、私たちにとっての終末であることを、是非覚えてください。だからこそ戦争にせよ、地震にせよ、コロナにせよ、それが終末を感じさせるのは、それによって人間が死ぬからです。しかしただ単に、私たちの人生が終わるということが終末ではありません。神がすべてを支配し、人間の生活を総体的に終わらせるということが、真の終末なのです。私たちは神様によって命が与えられていること、それと同時に神様がその命をお取りになるということが分かって初めて、私たちが終末の意味を受け取ることができるのです。それによって人間は死ぬということも分かってきます。それと共に私たちの死が、厳粛なものであることも分かってくるのです。だからこのことから神様がいない終末のことは考えられません。従って終末とは、私たちの救いを完成させてくださるキリストの日だということです。なぜ、そのように言えるのでしょうか?

もちろん普通の人々も、死が終わりだと思っています。だから人間は死んでしまったら終わりだと思い、生きている内に一生懸命働いて有意義に過ごさなければならないとか、あるいは、どうせ死んだら終わりだから勝手に生きようとも考えてしまいます。しかしイエス様を信じるクリスチャンは死で終わらないことを、もう分かっています。確かに神が命を与え、また命を奪っていきますが(これが第一の死)、その後、永遠の命を神が保証されているのです。

つまり神様と共に生きつづける命を保証して下さっているのです。私たち信じる者には第二の死が関係ありません。だからこそこの世界をお造りになり、人間をつくり、しかもイエス様によって救ってくださった神様を信じなければ、終末もキリストの日も、永遠のいのちもありえないことです。従って人間が神様によって生かされていることが分からないことは、人間が生きている意味も分からないということです。そのためパウロは、終末の日であるキリストの日のことを考え、その日を目指して走りつづけ、無駄でない人生を過ごしていると訴えたのです。しかもそれが誇りになると考えたのです。この誇りとは、心の中で深い喜びを感じることを意味します。

しかしそれはパウロ自身が行って来たことを誇るのではなく、神からいただいた恵みを誇らしく思うということであり、イエス様によって生かされていることを心から喜んでいるということです。だからこそパウロは、たとえ今牢獄の中で、これから殺されるとしても、イエス様と一緒だから喜ぶと叫ぶわけです。

皆さん、イエス様を信じても、苦しみや悲しみ、あるいは悩みはいつも迫って来ます。時には信仰を投げ出したいという気持ちになることもあります。また教会なんか行きたくないし、礼拝はおもしろくないという思いに、とらわれる時もあります。しかし、イエス様と共に歩む人生、イエス様を信じて、生活のすべてをイエス様に委ねて生きる人生は、たとえ自分自身に不利だと思えるようなことが起こったとしても、決して、その人生は無駄には終わりません。なぜでしょうか?イエス様が私たちと共に居てくださり、救いを与え、守ってくださっているからです。一言で言うと、神様が私たちを愛してくださっているからこそ、イエス様を信じて生きることは決して無駄には終わらないということです。たとえお金持ちにはならなくても、自分の名を残せなくても、自分の人生が神様と共に生きて来た、神の恵みに支えられて来た、ということを立ち止まって考える時に、そのように確信できるのであれば、その人生は無駄ではなかったということです。皆さん、もしかしたら、まだイエス様のことを知らない方々、あるいは生きていることが無駄であると思っている方々は、今日の御言葉を、もう一度深く考えていただければ幸いです。

お祈りします。

愛する天のお父様、主の日に私たちを教会へ導いて下さり、愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげ、御言葉によって、新しい約束が与えられたことを、心から感謝いたします。私たちは今人生の歩みを続けていますが、まさしく死へ向かっています。しかし、イエス様は私たちの人生の中で共にいてくださり、恵みを与え続けてくださっています。私たちが、それをしっかりと受け止め、イエス様を神様として信じて生きていくことができますように。また、私たちが死ぬことで終わることなく、永遠の命が与えられていることを信じ、信仰の歩みを続けることができますように。またどのような状態になっても、悲しみや苦しみが迫って来たとしても、イエス様と共に生きる人生は、無駄ではないことを確信させて下さいますように。引き続き、イエス様の十字架と復活による喜びの救いに預かっていくことができますように、一人一人に祝福と恵みを与えてください。そしてまだイエス様のことを救い主と知らない方々に、信仰に生きることが無駄ではないことを、神様と共に生きることが喜びであることを悟らせてくださいますように。今何よりも病の中で苦しみ、また悩みと悲しみの中で苦しんでいる方々の上に、イエス様が共にいてくださり、平安と慰めを与えてくださいますように。この祈りを主イエスの御名によって、御前におささげ致します。アーメン
合計 148
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